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  • 無礙智山 大通寺<長浜御坊>(滋賀県長浜市元浜町)

    訪問日令和3年5月28日無礙智山(むげちざん)大通寺琵琶湖汽船の係員に勧められた寺院で竹生島クルーズ後に訪れた台所門(長浜市指定文化財)薬医門形式で、旧長浜城追手門と伝えられる山門(長浜市指定文化財)大型の二重門で33年かけ、天保11年(1840年)に完成山門前の道路の左右には商店が連なっている扁額には山号の「無礙智山」山門の彫刻手水舎佛骨奉安忠魂塔鐘楼本堂<阿弥陀堂>(重要文化財)真宗大谷派の寺院天正年間に織田信長に対抗していた大阪の石山本願寺の支援のため協議を行う寄り合い道場を開いたのが始め慶長7年(1602年)徳川家康より本願寺分立が許され、教如を開基として長浜城跡に創建大広間附玄関(重要文化財)江戸時代中期の宝暦10年(1760年)に当寺の住職・横超院の内室であった彦根藩主・井伊直惟の息女数姫が祖師聖人...無礙智山大通寺<長浜御坊>(滋賀県長浜市元浜町)

  • 都久夫須麻神社<竹生島神社>(滋賀県長浜市早崎町)

    訪問日令和3年5月28日都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)琵琶湖の北端近くに浮かぶ竹生島に位置する「竹生島神社(ちくぶしまじんじゃ)」とも呼ばれている永禄元年の大火後、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として竹生島権現を復興現・宝厳寺の唐門・観音堂・渡り廊下、その渡り廊下と繋がっている現・都久夫須麻神社本殿である本堂が復興された本殿(国宝)宝厳寺の唐門・観音堂・渡り廊下は豊臣秀吉の霊廟である豊国廟から移築し現本殿は伏見城の「日暮御殿」を移築したものである明治時代の廃仏毀釈運動により、宝厳寺を廃寺にして、社名を「都久夫須麻神社」に改めるよう命じられたしかし、日本全国の崇敬者の強い要望によって廃寺を免れ、寺院と神社が並存することとなった明治7年(1874年)に都久夫須麻神社と宝厳寺の境界が決めら...都久夫須麻神社<竹生島神社>(滋賀県長浜市早崎町)

  • 巌金山 宝厳寺 その2(滋賀県長浜市早崎町)

    訪問日令和3年5月28日巌金山宝厳寺その2宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まり行基は、弁才天像を本尊として本堂に安置。翌年には観音堂建立を発案した唐門(国宝)と観音堂(重要文化財)平成25年(2013年)4月から令和2年(2020年)3月にかけて唐門・観音堂・舟廊下の全体修理が行われた「唐門」とは、唐破風をもつ門で、「観音堂」に接続している「唐門」は、豊臣秀吉を祀った京都東山の豊国廟に建っていた「極楽門」を豊臣秀頼の命により片桐且元を普請奉行として移築された豪華絢爛と言われた桃山様式...巌金山宝厳寺その2(滋賀県長浜市早崎町)

  • 巌金山 宝厳寺 その1(滋賀県長浜市早崎町)

    訪問日令和3年5月28日巌金山宝厳寺(ほうごんじ)その1滋賀県長浜市の竹生島にある寺院で船で渡らなければならない一度訪れてみたいと思っていた島である私は長浜航路(3,130円)を利用したが、他に今津航路(2,640円)とびわ湖横断航路(2,880円)がある前日は大雨で私も道の駅の駐車所の車内で一日を過ごしたのだが琵琶湖も強風と高波でこの船も欠航していたと係員から聞いた片道30分の航路だが船内での説明に加え「琵琶湖周航の歌や琵琶湖哀歌」などが流れる竹生島は湖岸から6kmの沖合にある周囲2kmの小島で、国の史跡・名勝に指定されている島の周囲は南東部にある船着き場を除いてほとんどが急な断崖になっている琵琶湖八景「新緑竹生島の沈影」着岸したが何せ初めてなので、出航までの80分間をどう過ごすか想像がつかないとりあえず人の...巌金山宝厳寺その1(滋賀県長浜市早崎町)

  • 元興寺<元興寺極楽坊>(奈良県奈良市中院町)

    訪問日令和3年5月26日元興寺<元興寺極楽坊>興福寺から元興寺までの距離は約500mだが、道に迷い約3km歩いてやっと到着した偶然「元興寺」の看板を目にしたとき疲れと汗が噴き出した東門(重要文化財)元興寺極楽坊の正門として、応永年間に東大寺西南院四脚門を移建元興寺東室南階大房が極楽堂と禅室に大改造され、東向きの中世寺院として改められ後の元興寺極楽律院(南都極楽院)へと変遷してゆく契機となった本堂<極楽坊本堂・極楽堂>(国宝)寄棟造、瓦葺で、東を正面として建つ(東を正面とするのは阿弥陀堂建築の特色)この建物は寄棟造の妻側(屋根の形が台形でなく三角形に見える側)を正面としている元興寺旧伽藍のうち、僧坊と講堂の一部を伝え、中世には元興寺極楽坊、近世には南都極楽院と称された寺域初めて訪れるため周辺を散策する「かえる石(...元興寺<元興寺極楽坊>(奈良県奈良市中院町)

  • 法相宗 大本山 興福寺(奈良県奈良市登大路町)

    訪問日令和3年5月26日法相宗大本山興福寺藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺興福寺には何度か訪れているが、プライベートでは今回が初めてである五重塔(国宝)五重塔は興福寺の創健者藤原不比等の娘、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建されたその後、5度の焼失・再建を経て、現存の塔は、応永33年(1426年)の再建高さは50.1m、現存する日本の木造塔としては東寺五重塔に次いで高い東金堂(国宝)神亀3年(726年)聖武天皇が伯母にあたる元正上皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建した治承4年(1180年)の兵火による焼失応永18年(1411年)に五重塔と共に焼失現在の建物は応永22年(1415年)の再建となる室町時代の建築唐招提寺金堂を参考にした天平様式五重...法相宗大本山興福寺(奈良県奈良市登大路町)

  • 律宗 総本山 唐招提寺(奈良県奈良市五条町)

    訪問日令和3年5月26日律宗総本山唐招提寺薬師寺の隣にあるのが唐招提寺開基は中国・唐出身の僧鑑真である南大門昭和35年(1960)に天平様式で再建された、五間の中央に三扉とする、切妻造り額には寺号の「唐招提寺」扁額は複製で、実物は新宝蔵に収蔵南大門から金堂を見る世界遺産唐招提寺の石碑境内案内図金堂(国宝)唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたもの寄棟造、本瓦葺きで、大棟の左右に鴟尾を飾る正面7間、側面4間(「間」は柱間の数)で、手前の7間×1間を吹き放しとすることがこの建物の特色中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の国宝3体の巨像を安置写真家土門拳氏の「千手観音立像」を撮った写真はあまりにも有名以前は堂内...律宗総本山唐招提寺(奈良県奈良市五条町)

  • 法相宗 大本山 薬師寺(奈良県奈良市西ノ京町)

    訪問日令和3年5月26日法相宗大本山薬師寺旅の途中で薬師寺東塔の完成していることを知り、写真を撮りたいと思った駐車場に着いて驚いたのは広い駐車場に私の車のみ*白鳳伽藍南門(重要文化財)室町時代の永正9年(1512年)建立。境内南正面にある小規模な四脚門拝観料が値上がりしている。お得なセット料金でも1600円に六根清浄と刻まれた手水鉢「平木大明神社」「弁財天社」「若宮社」中門昭和59年(1984年)再建仁王像金堂天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願昭和51年(1976年)の再建再建にあたっては、「鉄は持って数百年程度、木材(ヒノキ)は千年持つ。鉄を使うとその部分から腐食する」と主張する宮大工で文化財保存技術者の西岡常一「台風や地震、火災からの文化財保護の観点からも鉄筋コン...法相宗大本山薬師寺(奈良県奈良市西ノ京町)

  • 磯長山 叡福寺(大阪府南河内郡太子町太子)

    訪問日令和3年5月25日磯長山叡福寺昨年秋に初めて訪れ、「聖徳太子御廟」に感動した駐車場に着くなり檀家だというご家族から声をかけられ歓迎された(嬉)「南大門」天正2年(1574年)の兵火で焼かれ、慶長年間に再建腐朽のため昭和33年(1958年)に再々建築された扁額「聖徳廟」は(内閣総理大臣)岸信介筆金剛力士像由緒手水舎多宝塔(重要文化財)承応元年(1652年)の再建本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置4本の柱には四天王の像が描かれている「宝蔵」土・日・祝日に開館金堂(大阪府指定文化財)享保17年(1732年)に再建本尊は高さ90mの如意輪観音の坐像聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいている額には山号の「磯長山」聖霊殿<太子堂>(重要文化財)太子堂とも呼ばれ...磯長山叡福寺(大阪府南河内郡太子町太子)

  • 檜尾山 観心寺(大阪府河内長野市寺元)

    訪問日令和3年5月25日檜尾山観心寺雨続きの天気だったがこの日は久し振りの青空で気持ちも晴れる数年前初めて訪れた時に係の人の対応が良かった観心寺のことを思い出した山門<大門>(大阪府指定文化財)万治2年(1659年)再建山門中央に箱が置かれていて入山料300円を入れる緩やかな石段が金堂へと続く「後村上天皇御旧跡(旧惣持院跡)」観心寺境内は国の史跡槙本院中門(大阪府指定文化財)寛永21年(1644年)再建楠木正成学問所地蔵尊鎮守堂拝殿(大阪府指定文化財)拝殿を背に訶梨帝母天堂を眺める訶梨帝母天堂<鎮守堂>(重要文化財)天文18年(1549年)再建金堂(国宝)文武天皇の大宝元年(701年)役小角によって開かれ、初め雲心寺とよばれていたその後、大同三年(808年)に弘法大師空海が当寺を訪ねた時、境内に北斗七星を勧請弘...檜尾山観心寺(大阪府河内長野市寺元)

  • 日根神社(大阪府泉佐野市日根野)

    訪問日令和3年5月25日日根神社国宝の多宝塔のある慈眼院の隣にある神社慈眼院は日根神社の神宮寺鳥居由緒を調べると驚くことに、紀元前663年4月9日神武天皇が東征の途次で戦勝を祈願後にこの地を「日根野」と名付け「日根神社」が祀られるとある手水舎神門天武天皇2年(673年)には境内に隣接して神宮寺の無辺光院(現・慈眼院)が建立されている鳥居が見えたので立ち寄った神社だが歴史的背景には驚く神門の正面に見えるのは拝殿拝殿太陽の出る根の意から日根と云い、日の神と根の神をお祀りした野原から日根の野、日根野と呼ばれるようになった公式サイトを見ると、冬至の日の出の写真がある由緒の如く、日を背に受けるようにして本殿の真上から太陽が昇る天正年間(1573年-1593年)に兵火によって焼失天正13年(1585年)には羽柴秀吉により社...日根神社(大阪府泉佐野市日根野)

  • 大悲山 願成就寺 慈眼院(大阪府泉佐野市日根野)

    訪問日令和3年5月25日大悲山願成就寺慈眼院前日の夕方、道の駅「いずみ山愛の里」で休憩していると、大学時代の朋友が訪ねてくれたというハプニングがあった心も天気も快晴の朝を迎え、この旅で行きたいと思っていた場所に向かった多宝塔(国宝)ここには私が旅の目的の一つにしている国宝の多宝塔がある事前予約が必要だと云うことを朝に知り、電話で連絡をとったこの塔で、6つある国宝の多宝塔をすべて回った事になる昨年秋、この近くを通った時に寄ろうとも思ったが、目的が達成されると旅への意欲が低下するため止めていた境内の建物は苔に包まれていて、歩く場所が限定されてしまうおまけに強い日差しに逆光という悪条件でカメラも悲鳴をあげていた文永8年(1271年)建立高さ約10mで、屋外にある木造多宝塔で国宝・重要文化財に指定されているものの中では...大悲山願成就寺慈眼院(大阪府泉佐野市日根野)

  • 高野山<奥の院>その5(最終回)(和歌山県伊都郡高野町高野山)

    訪問日令和3年5月24日高野山<奥の院>(最終回)金剛三昧院から駐車場に戻ると雨が降ってきた残るは奥の院だけになったが、奥之院入り口の一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2kmにわたる参道が続く30分ほど待つと小降りになってきたので、中間地点となる「中の橋」近くの駐車場に移動し出発した日産自動車慰霊碑中世以降、高野聖による勧進や納骨の勧めにより参道沿いには約20万基を超すともいわれている石塔(供養塔、墓碑、歌碑など)が立ち並ぶ近年では、大手企業による物故者従業員慰霊碑なども立っている芭蕉句碑加賀前田家二代利長墓歴史上でも前田利長は好きな人物の一人だ安芸浅野家墓所松平秀康及び同母霊屋(重要文化財)松平秀康は徳川家康の次男で越前松平家初代当主右側が松平秀康を祀る霊屋慶長12年(1607年)建立左側が松平秀康の母を祀...高野山<奥の院>その5(最終回)(和歌山県伊都郡高野町高野山)

  • 高野山真言宗別格本山 金剛三昧院(和歌山県伊都郡高野町高野山425)

    訪問日令和3年5月24日高野山真言宗別格本山金剛三昧院高野山を訪れた目的の一つが金剛三昧院の多宝塔雨が落ちてこなければいいなと願いながら向かう山門(鐘楼門)文政年間(1818年-1831年)の建立梵鐘(重要文化財)は承元4年(1210年)の作正面奥に本堂が見える扁額には「毘張尊」この地を守護する天狗の名前建暦元年(1211年)北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建承久元年(1219年)源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰された多宝塔(国宝)北条政子により貞応2年(1223年)に建立檜皮葺、高さ14.9m源頼朝によって建立された石山寺多宝塔に次いで日本で2番目に古い多宝塔塔内には、仏師快慶作と伝えられる五智如来坐像(重文)を安置経蔵(重要文化財)北条政...高野山真言宗別格本山金剛三昧院(和歌山県伊都郡高野町高野山425)

  • 高野山 <金剛峯寺②>その4(和歌山県伊都郡高野町高野山)

    訪問日令和3年5月24日高野山<金剛峯寺②>東西54m南北63mの書院造建築拝観順路は矢印で示されていて分かりやすい最初の部屋には「金剛峯寺」の額と襖絵奥の院霊木「高野杉」金剛峯寺については拝観券の裏面に簡単な説明書きがある程度詳細を知るには、このような案内板に頼るしかない横には何やら豪華な部屋がある大広間重要な法事・儀式が行われる間斎藤等屋作による群鶴図の襖絵(撮影禁止)がある梅の間高野開創三鈷杵狩野探幽作と伝わる梅月流水の襖絵(撮影禁止)がある柳の間山本深斉の四季の柳の襖絵がある文禄4年(1595年)に豊臣秀次が自刃したことから「秀次自刃の間」ともよばれている撮影禁止であるが雰囲気だけでも「輿(こし)」高野山には連綿と伝えられる法会儀式があり、輿による行列によって始まるものがある入定された承和2年(835年...高野山<金剛峯寺②>その4(和歌山県伊都郡高野町高野山)

  • 高野山 <金剛峯寺①>その3(和歌山県伊都郡高野町高野山)

    訪問日令和3年5月24日高野山金剛峰寺空海は高野山を開創した際、一山を指して「金剛峯寺」と名付けた寺名は『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』という経典由来するといわれている明治期以降は1つの寺院の名称になっている今日では、高野山真言宗管長が座主(住職)として居住する本坊寺院を指すことが多い正門(和歌山県指定文化財)文禄2年(1593年)再建降雨のため正門前の駐車場で待機し様子を見ていると、僧侶が正門前を通過する際に一礼していく豊臣政権時代の唯一の遺構で、かつて正門を利用できたのは皇族と高野山の重職の僧だけ一般僧は右方にある小さなくぐり戸を使用した「手水舎」正門の正面に本堂(主殿)が見えるかご塀昭和天皇皇后両陛下行幸啓記念植樹の「高野槇」経蔵(和歌山県指定文化財)延宝7年(1679年)に、釈迦三尊とともに寄進された火災発...高野山<金剛峯寺①>その3(和歌山県伊都郡高野町高野山)

  • 高野山 <壇上伽藍②>その2(和歌山県伊都郡高野町高野山)

    訪問日令和3年5月24日高野山<壇上伽藍②>根本大塔金堂とともに壇上伽藍の中核となる堂塔で、高野山のシンボルになっている空海は高野山開創にあたり、真言密教の根本道場として、この大塔を建立した落慶は空海入定後の貞観18年(876年)頃根本大塔は空海が唐から伝えた日本最古の多宝塔といわれる落雷などで5度も焼失し、その都度再建されてきた現在のものは昭和12年(1937年)に再建されたもの高さ48.5m、幅30m鉄筋コンクリート造り堂内では、本尊の胎蔵界大日如来、その周囲を金剛界の四仏がとり囲んでいる塔内の16本の柱には「16菩薩」、四隅の壁には密教を伝えた「八祖像」が描かれ……堂内そのものが立体曼荼羅となっている大塔の鐘空海が発願し、第二世・真然の代に完成した1日5回、山内に時刻を知らせている焼失して3度ほど改鋳され...高野山<壇上伽藍②>その2(和歌山県伊都郡高野町高野山)

  • 高野山 <大門・壇上伽藍①>その1(和歌山県伊都郡高野町高野山)

    訪問日令和3年5月24日世界遺産高野山<大門>2013年秋に一度訪れ「金剛峯寺・奥の院・金剛三昧院」を回ったことがある自宅に戻り調べてみると、重要な部分が抜け落ちていることに気付いた年齢的に急がねばならないと思い、昨年秋に周辺で3~4日待機していたが雨続きで断念した今年は梅雨が早く旅を始めてから毎日のように雨が降っている午前中は降水確率が低いという天気予報を確認し、早朝に道の駅「柿の郷くどやま」を出発した大門(重要文化財)車の運転は好きだが、高野山への道は坂とカーブの連続で油断できず疲れてしまうそれが理由ではないが、大門を通り過ぎてしまった(写真は帰り際に撮ったもの)「大門の扁額」山号「高野山」が一文字ずつ扁額として掲げられている山号自体は弘仁7年(816年)に空海が嵯峨天皇から下賜されたもの扁額は空海の筆跡で...高野山<大門・壇上伽藍①>その1(和歌山県伊都郡高野町高野山)

  • 仏頭山 上宮皇院 菩提寺<橘寺>(奈良県高市郡明日香村大字橘)

    訪問日令和3年5月23日仏頭山上宮皇院菩提寺<別称:橘寺>前年秋、明日香村の古墳と飛鳥時代石造物巡りをした歩き疲れて目の前に橘寺があるのに入浴施設を選んでしまい悔いていた無料駐車場のある西門から入る「手水舎」「親鸞聖人像」「東門」東門が当寺院の正門となる「鐘楼」「往生院」受付で往生院の天井画は撮影できるので是非にと言われた場所橘寺は2度目の参拝になるが、往生院の記憶がない明日香人気なのか参拝者が絶えない院内では皆天井画に見入っている全国各地から寄せられた260点の献画豪華絢爛の天井画を見逃すなの案内通りである柔軟性に欠く老人の首にはかなり負荷がかかる周囲の目がなければ畳に寝ころんで撮りたかった院内の様子(新聞記事によると)左奥の聖徳太子像が里帰りしたようだ橘の寺の長屋に我が率(ゐ)寝(ね)し童女放髪(うなゐはな...仏頭山上宮皇院菩提寺<橘寺>(奈良県高市郡明日香村大字橘)

  • 豊山 神楽院 長谷寺 その2(奈良県桜井市初瀬)

    訪問日令和3年5月23日豊山神楽院長谷寺その2鐘楼(重要文化財)仁王門から本堂まで399段の登廊を上がってきた上登廊を登切ったところに建っているので、離れて見なければ鐘楼と気付かない慶安3年(1650)再建、入母屋造(桁行1間・梁間1間)梵鐘に文亀元年(1501)の銘刻梵鐘は山の高所にあることから「尾上鐘」と称す木津の野慈という男が観音の霊験によって出世して梵鐘を寄進したことから「未来鐘」ともいう「三社権現(瀧蔵三社)」「愛染堂」愛染明王像とそれを撮っている私本堂(国宝)本尊を安置する「正堂、相の間、礼堂」から成る巨大な建築で、前面は「懸造」になっている本堂は奈良時代の創建後、天文5年(1536年)までに計7回焼失している7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天文7年(1538年)に再興(現存・8代目)「相の間」か...豊山神楽院長谷寺その2(奈良県桜井市初瀬)

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