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2014/11/03

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  • 「薩夜麻」と「天智」

    『天智紀』の「天智三年」(六六四年)には「熊津都督府」から「使者」として「郭務悰」等が来倭したことが記されています。「「天智三年」(六六四年)夏五月戊申朔甲子百濟鎮將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物冬十月乙亥朔宣發遣郭務悰等敕是日中臣内臣遣沙門智祥賜物於郭務悰。戊寅饗賜郭務悰等」この時の来倭記事とおぼしきものが『善隣国宝記』に引用する『海外国記』に出ています。『善隣国宝記』は京都相国寺の僧侶「瑞渓周鳳」によって室町時代(15世紀の終わりごろ)書かれたもので、歴代の王権の外交に関する史料を時系列で並べたものです。「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有...「薩夜麻」と「天智」

  • 薩夜麻と大海人

    「薩夜麻」と「大海人」の関係について考察しています。「壬申の乱」についても、その分析により主要勢力は「西海道」にあったと考えられ、たとえば『書紀』によれば「高市皇子」が参戦していますが、彼は「宗像の君」の孫であり、「宗像氏」の全面的バックアップがあったと考えられるものです。他にも「大分の君」などの西海道勢力が中心であったと考えられますから、「筑紫の君」である「薩夜麻」がこれに参加していないはずがないと思われます。(当然「阿曇」勢力も加わったとみるべきでしょう)彼らの一族は「百済を救う役」でも軍に編成されており、その意味でそもそも「薩夜麻」の軍であったという可能性があります。また「壬申の乱」の際には「唐」関係者、と言うより「唐軍」が関与しているとする考えもありますが、そうであれば「郭務悰」達と共に帰国したと...薩夜麻と大海人

  • 『書紀』で「倭」について「読み」が指定されていないのはなぜか

    『書紀』を見ると、天皇の称号として「根子」というものが現れます。この「根子」という称号についての理解として最も適当なのは「支配者」「統治者」ではないでしょうか。その意味で「最高権力者」だけが名乗れるというものではなかったと思われます。実際『書紀』によれば「山背根子」「難波根子」と称される人物が出てきます。かれらはあくまでも「山背」「難波」という小領域の権力者であり、また統治者であったと思われ、その意味から類推すると「倭根子」とは「倭」の地域の権力者であることとなるでしょう。『書紀』では以下のように「日本」は「やまと」と読むようにという指定がありますが(神武紀)、(これは「新日本王権」のイデオロギーによるものと思われるわけですが)、「倭」についてはそのような指示が文中にありません。「…於是陰陽始遘合爲夫婦。...『書紀』で「倭」について「読み」が指定されていないのはなぜか

  • 「薩夜麻」の帰国と「大海人」の動向(一)

    『書紀』によれば「六七一年」になって「捕囚」の身となっていた「薩夜麻」が帰国します。すでに述べたように「薩夜麻」は「筑紫日本国王朝」の「王」であり、「筑紫君」である彼の直接統治領域に軍を徴発して「高麗」に救援軍を率いて遠征していたものであり、その戦いの中で捕われていたものです。彼がそのような「権威」と「力」を身に着けていたとすると、彼の帰国は政治的、軍事的変動を列島内にもたらしたことは疑えません。特に「天智」率いる「難波日本国朝廷」にとって「激震」をもたらしたのは間違いないと思われます。『書紀』では「天智十年十一月」に「薩夜麻帰国」の記事があります。天智十年(六七〇年)十一月甲午朔癸卯。對馬國司遣使於筑紫太宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩夜麻。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務悰等六百人...「薩夜麻」の帰国と「大海人」の動向(一)

  • 「日本」は「やまと」になったが、その前の「日本」は「ひのもと」である。

    『日本書紀』(あるいは『日本紀』)はその史書名に「日本」という名称(国号)がついているのが注目されます。これら『日本書紀』『日本紀』とも「歴代」の「中国」の史書の例に漏れず「前史」として書かれたものと思料されます。「中国」の歴代の史書は全て「受命」による「王朝」の交替と共に、前王朝についての「歴史」を「前史」として書いています。『漢書』は「後漢」に書かれ、『三國志(魏志)』は「晋(西晋)」の時代に書かれ、『隋書』は「初唐」に書かれているわけです。そうであれば、『日本紀』が書かれるに至った理由も、「新王朝」成立という事情に関係していると考えられ、「前史」として書かれたものと推察できることとなります。その場合「前王朝」であるところの「日本国」と、新王朝であるところ「日本国」が存在していたこととなり、共に「日本...「日本」は「やまと」になったが、その前の「日本」は「ひのもと」である。

  • 高麗への援軍と「薩夜麻」の捕囚

    確かに「倭国」が「高麗」に援軍を送っていたことは『書紀』からも明らかです。(六六一年)七年七月丁巳崩。皇太子素服稱制。是月。蘇將軍與突厥王子契■加力等。水陸二路至于高麗城下。皇太子遷居于長津宮。稍聽水表之軍政。八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。…是歳。播磨國司岸田臣麿等獻寶劔言。於狹夜郡人禾田穴内獲焉。又『日本救高麗軍將等』。泊于百濟加巴利濱而燃火焉。灰變爲孔有細響。如鳴鏑。或曰。高麗。百濟終亡之徴乎。ここには「日本救高麗軍將」と書かれており、「高麗」に援軍を派遣していることは明らかです。「大系」の注でも「日本が高句麗にも救援軍を分遣しようとしたことは、海外資料には見えないが、下文元年・二年の関係記...高麗への援軍と「薩夜麻」の捕囚

  • 「百済を救う役」と筑紫王権(一)

    「唐」は「麗済同盟」に対抗するため「新羅」との間に「唐羅同盟」を結び、「百済」や「高句麗」の動きに神経をとがらせていました。そして「六五九年正月」になると新羅王「金春秋」から「麗済同盟」による攻撃を受けた連絡があり、唐は「程名振」「蘇定方」らを遣わして「高句麗」を攻撃させたものです。この時点で「倭国」が「高句麗」や「百済」と結託しているという疑いが「唐」側にあり、「倭国」からの使者が「質」にとられる事態となったものと思われるわけです。つまり唐は高句麗を攻める前提で百済をまず攻めたものであり、主たる目的は高句麗であったものです。このように朝鮮半島では「唐」と連係した「新羅」の勢力が非常に強くなり、「六六〇年」には「唐」「新羅」連合軍により実質的に「百済」という国は滅んでしまいます。「百済」の遺臣から救援要請...「百済を救う役」と筑紫王権(一)

  • 「伊吉博徳」の遣唐使と日本国の関係

    『斉明紀』に見られる「伊吉博徳」が参加した遣唐使は「六五九年の七月」に「難波」を出発し「九月」の終わりには「餘姚縣(会稽郡)」に到着しています。そこから首都「長安」に向かったものの、「皇帝」(高宗)が「洛陽」に行幸していたため、その後を追い彼等も「洛陽」に向かい「十月二十九日」に到着し、「翌三十日」に皇帝に謁見しています。(これらの日付は既に指摘したように一日の錯誤があります)(以下関係部分の『伊吉博徳書』の抜粋)「秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以...「伊吉博徳」の遣唐使と日本国の関係

  • 「伊吉博徳」達の遣唐使と日本国

    『新唐書』によれば「唐」の三代皇帝「高宗」は倭国からの遣唐使(六五三年)に対して「璽書」(璽を捺印した書状)を下して、「新羅」を救援するようにと指示しています。「永徽初其王孝德即位改元曰白雉獻虎魄大如斗碼碯若五升器時新羅爲高麗百濟所暴高宗賜璽書令出兵援新羅未幾孝德死…」倭国年号「白雉」の改元は六五二年とされていますから、その翌年の遣使が改元を伝えるものであったとして不自然ではありません。ただし『唐会要』では「六五五年」のことととされており食い違いがありますが、より原初的なものは『新唐書』の方の記述と思われます。(『倭国王』としての「孝徳」が即位してすぐと考えると『書紀』と整合するのは「六五三年」の方でもあるため)この時代柵封された諸国にとり「唐」の皇帝という存在は「絶対」であり、その「唐」皇帝からの「璽書...「伊吉博徳」達の遣唐使と日本国

  • 「日本」という国号の変更時期の推定

    「倭国」はそれまでの「宗主国」と「附庸国」という一種封建体制的なものから「倭国王」による「直接統治」体制を築こうとしたように思えます。それを「難波朝廷」という副都から「東方諸国」をその直接統治体制に組み込もうという政治的手法を実行しようとしたものと考えられます。それを示すように「改新の詔」と前後して「東国国司詔」が出されますが、その中では「今始めて萬國を治める(修める)」という表現がされています。これはそれ以前には「萬国」を「統治範囲には入れていなかった」ということを意味視しているように見える文言です。「…隨天神之所奉寄方今始將修萬國…」つまり、これはそれまでなかった「中央集権国家」というものを樹立したという宣言と考えるべきでしょう。このときに「日本」という国号へ変更したものと考えます。さらに、現地での裁...「日本」という国号の変更時期の推定

  • 「日本」という国号の変更時期の推定

    「倭国」はそれまでの「宗主国」と「附庸国」という一種封建体制的なものから「倭国王」による「直接統治」体制を築こうとしたように思えます。それを「難波朝廷」という副都から「東方諸国」をその直接統治体制に組み込もうという政治的手法を実行しようとしたものと考えられます。それを示すように「改新の詔」と前後して「東国国司詔」が出されますが、その中では「今始めて萬國を治める(修める)」という表現がされています。これはそれ以前には「萬国」を「統治範囲には入れていなかった」ということを意味視しているように見える文言です。「…隨天神之所奉寄方今始將修萬國…」つまり、これはそれまでなかった「中央集権国家」というものを樹立したという宣言と考えるべきでしょう。このときに「日本」という国号へ変更したものと考えます。さらに、現地での裁...「日本」という国号の変更時期の推定

  • 「倭国」からの遣唐使と「日本国」からの遣唐使

    日本国からの使者の前年にも使者が送られたことが『書紀』にあります。「發遣大唐大使小山上吉士長丹・副使小乙上吉士駒〈駒更名絲〉・學問僧道嚴・道通・道光・惠施・覺勝・弁正・惠照・僧忍・知聡・道昭・定惠〈定惠内大臣之長子也〉・安達〈安達中臣渠毎連之子〉・道觀〈道觀春日粟田臣百濟之子〉・學生巨?臣藥〈藥豐足臣之子〉・氷連老人〈老人眞玉之子。或本以學問僧知辨・義德・學生坂合部連磐積而増焉〉并一百二十一人倶乘一舩。以室原首御田爲送使。又大使大山下高田首根麻呂〈更名八掬脛〉・副使小乙上掃守連小麻呂・學問僧道福・義向并一百二十人倶乘一舩。以土師連八手爲送使。」「白雉四年(六五三)五月壬戌条」「遣大唐押使大錦上高向史玄理〈或本云夏五月遣大唐押使大華下高向玄理〉・大使小錦下河邊臣麻呂・副使大山下藥師惠日・判官大乙上書直麻呂・...「倭国」からの遣唐使と「日本国」からの遣唐使

  • 『旧唐書』日本国伝に対する「白雉五年記事」

    先日八王子大学セミナーハウスで行われた古代史セミナーに行ってきました。私が行った講演は意を尽くさないうちに時間切れとなってしまい、ちょっと不本意なものではありましたが、重要だと思えるポイントは指摘しておきました。今回のテーマが「七世紀の倭国の外交」というものでしたが、私が選んだ講演テーマは「倭国から日本国への転換の詳細」というもので、七世紀の倭国の外交が日本国誕生と密接に関係していると考えたからです。特に今回強調したのは「日本国」と「倭国」の関係でした。それで『旧唐書』の「日本国」記事に注目したものです。『旧唐書』では「倭国」記事と連続して「日本国」記事が書かれています。「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年...『旧唐書』日本国伝に対する「白雉五年記事」

  • 古代史セミナーのこと

    古代史セミナーが近づいてきました。11月9日、10日。私の担当は10日の午前のトップバッターのようです。当方はそのまとめでまだ悩んでいるところです。新たな発見があり、それをどう今まで考えたことと整合させていくのか、問題の焦点はそこです。講演で発表後このブログでも詳細を述べたいと思います。では。古代史セミナーのこと

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