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2014/11/03

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  • 「都督歴」と「年代歴」

    ところで、「三善為康」は『二中歴』を書く際に当然かなり古い資料を参照したと思われますが、この「都督歴」について言うと、この「藤原元名」付近で一旦まとめられた資料があり、そこまでの分を「省略」し、その以降の未整理の分について自ら書き継いだと言う事ではないでしょうか。この『二中歴』は「百科事典」のようなものと言われ「有識故実」について書かれているとされますが、今で言う「現代用語事典」的あるいは「広辞苑」的なものではなかったかと考えられ、それらと同様にその時点における最新の知識が随時追加されていたのではないかと思われます。「故・中村氏」はまた『…二中歴は八十二の「歴」により構成され、各歴毎に原記(書き継ぎではない)と推定される記事に年代の異同があり、八十二歴全体が一挙に編集されたものではなく、各歴により成立年代...「都督歴」と「年代歴」

  • 「年代歴」の冒頭の「年始」について

    『二中歴』の「年代歴」の冒頭には「年始五百六十九年内、三十九年無号不記支干、其間結縄刻木、以成政」とあります。それに続いて「継体五年元丁酉」から始まり、「大化六年乙未」に終る年譜が記されています。ここで「無号」といっているのは「年号」のことと思われますが、「年始」の「年」は「年号」ではありません。つまり、「年始」を「年号が始まった年」と解釈するのは正しくないわけです。(論理上も成立しません)これは、ある時点から「年」を数え始めた、ということであり、その最初の三十九年間は「年号」はなく「干支」もなかった、ただ「結縄刻木」していただけだった、というわけです。(この事から「結縄」あるいは「刻木」のいずれかが「暦」の役割をしていたことが窺えます。)そして、その後に「継体元丁酉」から始まる「年代歴」が接続されるわけ...「年代歴」の冒頭の「年始」について

  • 「都督」「太宰」と「倭国」

    以下に「都督歴」に対応する「大宰府」に派遣されていた人物たちの記録を書出します。藤原元名大宰大弐天徳二年条参議従四位上藤元名七十四仁和元年生。/三木従三位清経三男。延木五二十七兵庫助。十四年正七従五下(陽成院御給)。十七年九月玄蕃頭。廿一年八十一能登守。延長五正十二備後守。三月廿六日従五上(治国)。承平二正廿七伊與守。同六八十五大和守。同七正七正五下。天慶四正九従四下。同五三廿九美乃権守。同十二一丹波守。天暦六正八従四上。同十一日民部大輔。同七正廿九山城守。同八三十四大宰大弐。天徳二閏七廿八三木(大弐如元)。天徳三年条参議従四位上藤元名七十五月日去大弐。藤國風記録なし小野好古大宰大弐天徳四年条参議正四位下野好古七十七左大弁。弾正大弼。正月廿四日兼備中守。四月廿三日任大宰大弐。止弁弼等藤佐忠記録なし橘好古大...「都督」「太宰」と「倭国」

  • 「舞遊始」とは

    引き続き『二中歴』の「年代歴」について年次移動を想定して考察します。「教倒」の項に書かれた「教倒五元辛亥舞遊始」という記事についても、これを通常「五三一年~五三五年」と理解するより六十年遡上した年次である「四七一年」と見る方が妥当ではないかと思われることを以下に示します。この「教倒」年間は年次移動を想定すると「四七一年~四七五年」のこととなり、この「年次」はすでに見たように「斉」と「興」が共に亡くなり「武」が跡を継いだとされる時期に相当します。「武」が「四七八年」に提出した上表文では「奄喪父兄」と書かれ、「父」(斉)と「兄」(興)の両者を「同時」に失ったように書かれていますが、実際には「四六二年」の「興」の遣使の時点では「斉」は死去しているとされ、また「興」自身も彼は「将軍号」を授号されていますから、当然...「舞遊始」とは

  • 『継体紀』に書かれている「継体天皇」の死去した年次について

    前稿までの推論は『二中歴』の記事について「干支一巡」の移動を考慮することが必要であることを示すものですが、さらに他の例で検討してみます。たとえば『継体紀』に書かれている「継体天皇」の死去した年次についての混乱も『二中歴』と同様「六十年」ずれているという可能性を示唆します。『継体紀』には以下のように書かれています。「(継体)廿五年歳次辛亥(五三一年)崩者。取百濟本記爲文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅營乞。是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子皇子倶崩薨。由此而。辛亥之歳當廿五年矣。後勘校者知之也。」つまり、『百濟本記』には「日本天皇及太子皇子倶崩薨」という記事があり、こちらのほうを信用して『書紀』もこれにならったというわけです。しかし、近畿王権の国内伝承にはこの時点でそのような「王の一家の主要な人物...『継体紀』に書かれている「継体天皇」の死去した年次について

  • 「万葉仮名」の成立

    「百済」から「五世紀初め」に仏法が入ってきて以来、倭国内ではその支持を徐々に広げていた(と思われる)仏教は、「武」の時代になり、「武」ないしはその後継者である「磐井」により積極的に受容されるようになった結果、その「教典」を自分たちだけではなく、一般民衆に理解させようとすることとなったものと推察されます。そこで「仏典」を「日本語」に「訳す」必要が出て来たものであり、「日本語」を表記するのに必要な「文字」を生み出すことになったものです。つまり、「普通の人」でも「日本語」を書いたり読んだりできるようにするために「文字」(「仮名」)が発明されたと考えられるのです。逆に言うと「王権」の上層部などでは「漢文」で事が足りていたという可能性が考えられるでしょう。必要な文章は「漢文」として書けばよいと言うわけです。(このこ...「万葉仮名」の成立

  • 「年代歴」の真の年次

    既に考察したように仏教の伝来が常識とは違って「五世紀の初め」である可能性が高いことが明らかとなったわけですが、そう考えると以下の『二中歴』の記事(年代歴)の内容に疑義が生じます。それは推定される仏教の伝来時期との「食い違い」です。『明要十一元辛酉「文書始出来結縄刻木止了」』この「明要」の元年干支である「辛酉」は通常は「五四一年」とされているわけですが、この記事を信憑すると仏教伝来から「結縄刻木」が止められ「文書始出来」まで「一二〇年」ほどかかったこととなります。これは時間がかかり過ぎではないでしょうか。『隋書俀国伝』を見ても「百済」からの「仏法伝来」と「文字習得」の間には深い関係があるかのように書かれており、(「…無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。…」)この表記からは「仏教伝来」から「...「年代歴」の真の年次

  • 『百済』からの仏教伝来の真の年次

    前回までと同様再投稿となります。『書紀』による仏教伝来記事は以下の通りです。「欽明十三年(五三八年)冬十月。百濟聖明王更名聖王。遣西部姫氏達率怒■斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷。別表讃流通禮拜功徳云。是法於諸法中最爲殊勝。難解難入。周公。孔子尚不能知。此法能生無量無邊福徳果報。乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶。逐所須用。盡依情。此妙法寶亦復然。祈願依情無所乏。且夫遠自天竺。爰■三韓。依教奉持。無不尊敬。由是百濟王臣明謹遣陪臣怒■斯致契。奉傳帝國。流通畿内。果佛所記我法東流。是日。天皇聞已歡喜踊躍。詔使者云。朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。然朕不自决。乃歴問群臣曰。西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。可禮以不。蘇我大臣稻目宿禰奏曰。西蕃諸國一皆禮之。豐秋日本豈獨背也。物部大連尾輿。中臣連鎌子同奏曰...『百済』からの仏教伝来の真の年次

  • 『百済僧』『觀勤』の上表

    以下も前回までと同様以前の投稿の再提出です。以下は古賀達也氏の研究(※)に依拠します。仏教の伝来に関係したこととして、『書紀』の『推古紀』の中に興味深い記事があります。「(推古)卅二年(六二四年)夏四月丙午朔戊申。三有一僧。執斧毆祖父。時天皇聞之。召大臣詔之曰。夫出家者頓歸三寶具懐戒法。何無懺忌輙犯惡逆。今朕聞。有僧以毆祖父。故悉聚諸寺僧尼以推問之。若事實者重罪之。於是集諸僧尼而推之。則惡逆僧及諸尼並將罪。於是百濟觀勤僧表上以言。『夫佛法自西國至于漢經三百歳。乃傳之至於百濟國。而僅一百年矣。然我王聞日本天皇之賢哲。而貢上佛像及内典未滿百歳。』故當今時。以僧尼未習法律。輙犯惡逆。是以諸僧尼惶懼以不知所如。仰願其除悪逆者以外僧尼。悉赦而勿罪。是大功徳也。天皇乃聽之。」この記事の解釈の代表的なものは「大系」の注...『百済僧』『觀勤』の上表

  • 「結縄刻木」について

    前回と同様以前の投稿の再提出となります。『二中歴』の「年代歴」の冒頭部分に「結縄刻木」というものが出てきます。「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」これについては以前「縄の結び目のバリエーションで意志を伝え合い、年数は木に刻み目をつけて数を表す」というものと理解していましたが、その後検討した結果、これは「逆」であり、「縄の結び目で数を表し、木に文様を刻みつけて意志をを伝え合う」ものというように理解を変更します。「結縄」により「数字」を表すのは世界の各地で見られた習慣であり、ある意味普遍的なものでした。また「数字」を表すことができれば「日付」の表記には有効であるのは確かです。また「刻木」は「漢籍」を探ると以下のように中国の周辺の諸国(いわゆる夷蛮の国)において「メッセージ」(指示や伝達な...「結縄刻木」について

  • 「常識」としての「仏教伝来」

    以下は以前すでに投稿したものですが、改めて記して仏教の伝来についての常識を疑ってみます。仏教の伝来については「高句麗」は「前秦」から四世紀前半に伝わったとされ(『三国史記』による)、また「百済」には四世紀後半に「東晋」から伝わったとされます。『三国史紀』によればそれは「三八四年」の記事とされています。「沈流王元年」(三八四年)「九月胡僧摩羅難自晉至王迎之致宮内禮敬焉佛法始於此。」(『三国史記』百済本紀)しかし、「倭国」(と「新羅」)には六世紀になってやっと伝わったものと従来考えられています。この時間差は何を意味するのでしょうか。「倭国」への仏教の伝来については従来二つの代表的な説があるようです。「五五二年」説と「五三八年」説です。「五五二年」説の根拠は『書紀』に「欽明天皇十三年」とあるところからです。「欽...「常識」としての「仏教伝来」

  • 「唐軍の捕虜」という意味

    前回から続きます。「斉明」の詔からは新羅を攻めるという予定であったと思われます。紓拯(六六〇年)六年「冬十月。…詔曰。乞師請救聞之古昔。扶危繼絶。著自恒典。百濟國窮來歸我。以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存拯救。遠來表啓。志有難奪可分命將軍百道倶前。雲會雷動。倶集沙喙翦其鯨鯢。紓彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。」ここに出てくる「沙喙」という地名は新羅の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地と考えられていることを踏まえると、この時の派遣される軍は新羅を直接叩くという予定であったと思われます。そのことはこの「詔」とは別の記事においても同様のことが書かれていることで裏付けられます。同年是歳条「是年。欲爲百濟將伐新羅。乃勅駿河國。造船。…」ここでもやはり百済を救うために新羅を「伐」とされ...「唐軍の捕虜」という意味

  • 「大伴部博麻」達の捕囚について

    以下は「大伴部博麻」の捕囚についての現時点での認識です。『書紀』には「持統四年(六九〇年)九月条として「三十年間」「唐」軍の捕虜になっていた「軍丁筑紫国上陽羊郡大伴部博麻」が「新羅」からの使節に随行して帰還した記事があります。咩「(持統)四年(六九〇)九月丁酉。大唐學問僧智宗。義徳。淨願。軍丁筑紫國上陽咩郡大伴部博麻。從新羅送使大奈末金高訓等。還至筑紫。」そしてその「直後」にその「大伴部博麻」を顕彰する記事があり、その内容は、彼が「百済を救う役」で捕虜になった際に、同じく捕虜になっていた「筑紫君薩夜麻等」を解放するために、自分の身を売って金に代え旅費とした、というものであり、「持統」の詔ではこの行為を「激賞」しています。「(持統)四年(六九〇)冬十月乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫...「大伴部博麻」達の捕囚について

  • 【古田武彦記念古代史セミナー2024】での講演の件

    本年11月9―10日の日程で開催予定の標記【古田武彦記念古代史セミナー】で当方が講演をすることとなりました。現在そこでお話する内容を詰めていますが、正直ちっともまとまりません。5月17日までに講演タイトルと概要を提出することとなっているのですが、現時点ではいずれも悩んでいる最中です。与えられたテーマが七世紀の倭国の外交というものであり、日本国と倭国の存在状況について述べよというわけですが、当ブログをお読みの方はわかっていらっしゃると思いますが、そのあたりの論をあまり手掛けていないのが現状です。そのため急ごしらえで(!)論を練っているというわけですが、この時代の列島の状況はかなり混沌としており、そのせいか海外資料もそこそこ混乱しているなど信頼できる依拠資料にも事欠く有様です。そういうこともあってあまり深く考...【古田武彦記念古代史セミナー2024】での講演の件

  • 「改新の詔」と「部民」と「奴婢」

    「改新の詔」に先立って「東国国司詔」が出されています。「大化元年(六四五年)八月丙申朔庚子条」「拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。其薗池水陸之利。」この「詔」では「万民」は全て公民(国家所有)という前提(大義名分)が謳われていると思われ、それは諸豪族に対する「牽制」の意義が強いと思われます。それが顕著に表れるのが「土地兼併禁止詔」と云われる「大化元年九月」の「詔」です。「大化元年(六四五年)九月丙寅朔甲申条」「遣使者於諸國。録民元數。仍詔曰。自古以降。毎天皇時。置標代民。垂名於後。其臣連等。伴造。國造各置己民。恣情駈使。又株國縣山海林野池田。以爲己財。爭戰不已。或者■并數萬頃田。或者全無容針少地。及進調賦時。其臣連。伴造...「改新の詔」と「部民」と「奴婢」

  • 標準語と札幌

    以前何かで見たんですけど(すでに古いことなのでソースがわからない)。全国都道府県で「あなたの県の県庁所在地の言葉と東京の言葉とどちらが標準語に近いですか」という設問に対して、ある1か所を除いて全て「東京の言葉の方が標準語に近い」と答えたとのことで、その例外の1か所というのが「北海道」だったそうです。つまり北海道の人は「東京の言葉よりも札幌の言葉の方が標準語に近い」と考えていることとなります。この結果を以前知ったときは「北海道の人にとって札幌の持つ意味が他の県の人がその県の県庁所在地に対する感情と全く違うんだな」と思っただけでしたが、その後考えてみるとそれだけではないことに気が付きました。それは「標準語」の必要性が高かったのは北海道で特別であったということに気が付いたからです。ご存じのように北海道は国策で開...標準語と札幌

  • 「薬獵(藥狩り)」について

    今日は「5月5日」「こどもの日」ですが、もともとは「端午の節句」であり、「薬獵(薬狩り)」の日でした。それにちなんで以前書いたものを再度投稿します。「聖武天皇」の皇后である「光明皇后」は「東大寺」に「四箇院」(「施薬院」「療病院」「悲田院」「敬田院」)を作り、貧しい人や病気の方達を献身的に介護したことが伝承として残っています。例えば『元亨釈書』によると「千人」の人の「垢」を取ることを祈願して、湯屋を建てそこで自ら多くの人たちの「垢こすり」をしたとされ、「全身」が「炎症」を起こし、あちこちが「膿んでいる」ような病気の方については、その傷口の「膿」を口で吸い取ったという逸話まであります。これほどの「献身」が、単に「光明皇后」という一人の女性の「思いつき」でできるものでしょうか。つまり、彼女には「啓発」されるよ...「薬獵(藥狩り)」について

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