里山の石神端書291板碑(いわき市四倉町薬王の薬王寺)里山の石神端書292亀趺(いわき市四倉町薬王の薬王寺)里山の石神端書293重文・文殊菩薩(いわき市四倉町薬王の薬王寺)里山の石神端書294種字・胎蔵界大日(いわき市四倉町宮下の柳生院)里山の石神端書295庚申塔(いわき市四倉町山田の稲荷神社)里山の石神端書296薬師板碑(いわき市四倉町小湊の円満寺)里山の石神端書297伽藍場(いわき市四倉町小湊の伽藍場)里山の石神端書福島県いわき市四倉町の仁井田川沿
佐久市志賀上宿・笠原進三郎首塚佐久市の東、山が始まるところの志賀は、戦国時代に武田信玄に抵抗した笠原氏の山城があった所。志賀中宿の外れの田んぼのなかに笠原新三郎の首塚と呼ばれている五輪塔が立っています。信玄にとって佐久は北信濃や上州へ通じる要所。どうしても必要な土地でした。そこに立ちはだかったのが笠原清繁(進三郎1515~1547)。清繁は佐久を攻略する信玄に最後まで抵抗した城主でした。その山城の登山口に清繁の二基の石碑が造立されています。一つは登山口の雲興寺の墓地先にあるもので、覆い屋に入っていますが、銘は読めません。その先にもうある一つは昭和38年の墓碑で「志賀笠原城主依田新三郎吉重/天文十六年八月十一日戦死/城源院隆基雲興大禅定門之碑」とあります。笠原新三朗首塚は雲興寺の少し先の田んぼに中です。石を...里山の石神端書208笠原新三朗首塚(長野県佐久市志賀)
佐久市志賀中宿・志賀城跡の祠内仏佐久市の東、山が始まるところの志賀は、戦国時代に武田に抵抗した笠原氏の山城があった所です。岸壁を利用した山城にいま残るのは一基の石祠だけ。その中に納められている石造物は5年前に調べましたが全体像はわかりませんでした。今回は正体を確かめるためでしたが、確認できたのは前回と同じ頭にかぶる冠だけでした。石祠型墓石も同じですが、内部に納められた神仏は屋根を外して入れるようになっていて、正面の小さな窓からのぞいても正体がつかめないことがほとんどです。昔は屋根を取り外す力があり、祠内仏を取り出して確認したこともありました。今その力はありません。志賀城跡山麓の諏訪宮近くの墓地で石祠型墓石を見ました(地図の青丸)。これは群馬から長野山梨に見られる江戸時代初期の墓石です。屋根に鬼面がついてい...里山の石神端書207祠内仏(長野県佐久市志賀)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県狭山市堀兼の掘兼神社堀兼の井庚申塔・寛文9年(1669)庚申塔・延宝5年(1677)庚申塔・安永10年(1781)子大権現小御嶽神社昭和の石仏写真館(139)狭山・堀兼神社
佐久市志賀中宿・法禅寺の寒念仏塔佐久市の東、山が始まるところの志賀は、戦国時代に武田に抵抗した笠原氏の山城があった所です。その中志賀に建つのが法禅寺。参道に寒念仏塔が立っていました。頭に阿弥陀如来の種字キリークに続いて「寒念仏塔」、左右に「明和三歳(1766)/極月日」とあります。極月は12月の異称で、この寒い季節の小寒から節分までの30日間行うのが寒念仏で、厳しい時期に行うことによって大きな功徳を得られるという考えから、江戸時代には庶民の間でも流行し、寒念仏塔が造立されました。佐久地方は、時宗を開いた一編が踊り念仏を始めたところであり、寒の坊(このブログ長野県小海町小海で案内)と呼ばれている石仏がある土地柄です。下の写真は小海の寒の坊。寒念仏と寒の坊については、岡村知彦氏の「寒の坊」(注)から簡単に案内...里山の石神端書204寒念仏塔(長野県佐久市志賀)
佐久市志賀・大閼伽流山の小倉観音堂佐久市の東、山が始まるところの集落・志賀は、戦国時代に武田に抵抗した笠原氏の山城があった所です。山が始まるところの北に閼伽流山、南に大閼伽流山があり、どちらも山中に観音堂が建って石仏群で知られています。閼伽流山の石仏はこのブログの石仏85閼伽流山で案内しました。今回は南の大閼伽流山の小倉観音堂の石仏です。小倉観音堂の本尊は馬頭観音です。石仏は聖観音が主ですが、三面六臂で憤怒馬口印の本格的な馬頭観音二基突出して秀作です。造立年は江戸時代後期の天明から文政期(1782~1830)が目につきました。造立者は個人あるいは二人で、近隣の村人が奉納したようです。石仏の一つに「法禅寺」銘がありました。法禅寺は小倉観音堂山麓にある寺です。石仏のなかに船形光背に上部に真言らしい種字を刻んだ...里山の石神端書203種字真言(長野県佐久市志賀)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県狭山市、入間市はらや地蔵(狭山市中神)高倉寺(入間市高倉)高倉寺の結界石中野原稲荷神社(入間市上小谷田)氷川神社(入間市小谷田)昭和の石仏写真館(138)狭山、入間の寺社
青木村田沢温泉・薬師堂の子抱地蔵青木村田沢・子檀嶺神社の屋根の鬼面青木村田沢・朝光堂の石幢青木村田沢・木立地蔵堂の子抱地蔵青木村田沢・子檀嶺神社の中社築北村修那羅峠・安宮神社の修那羅の石仏①築北村修那羅峠・安宮神社の修那羅の石仏②里山の石神端書長野県青木村田沢、修那羅峠
筑北村の修那羅の石仏修那羅の石仏と呼ばれた安宮神社の石仏群。この石仏奉納を指導したのが修那羅大天武(1795~1872)で、越後頚城郡大鹿村の望月留次郎(後に幸次郎)でした。その後、役師・讃狗・胎順坊・天狗仙人・修那羅天狗などと名乗り、安宮神社に居住して霊験を発揮しました。修那羅大天武となったのは死後のことのようです。修那羅の石造物の数、金子万平氏の『修那羅の石神仏』(昭和55年)では743基、今回安宮神社でいただいたパンフレットには808基となっていて、奉納は今も続いているようです。前回に続いて修那羅の石仏をいくつか案内します。名称は金子万平氏の『修那羅の石神仏』(昭和55年)に合わせてあります。ささやき大明神十王立山坊銭謹金神地蔵神像絵馬子育観音鬼裸神(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書204修那羅の石仏②(長野県築北村)
筑北村の修那羅の石仏久々に修那羅の石仏で知られた安宮神社を訪ねると、境内に大きなバイクが停まっていました。居合わせたライダーに尋ねると、最近のことだがこの神社はオートバイ神社として知られているとのこと。思うに、石仏ブームが去った今、オートバイは新しい参拝者を取り込むためのアイディアなのでしょう。境内には、素焼きの神仏を奉納する「長寿の宮」も建っていました。これも同じ趣旨と思われます。新型コロナ以降評判になったアマビエなる疫病封じの神も、最近では話題にならないようです。昔から流行り神は一過性のものでしたが、それは今も変わりません。修那羅の石仏をいくつか案内します。名称は金子万平氏の『修那羅の石神仏』(昭和55年)に合わせてあります。神像鬼修那羅大天武対神大日如来獄門の首猫鬼神像金神里山の石神端書203修那羅の石仏①(長野県築北村)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都新宿区天龍寺(新宿)天龍寺の六地蔵花園神社(三光町)花園神社の獅子鬼王神社(西大久保)金龍神社(西大久保)の狛犬円照寺(北新宿)の六地蔵観音寺(高田馬場)の如意輪観音観音寺の猿昭和の石仏写真館(137)新宿の寺社
青木村田沢・子檀嶺神社の中社温泉のある小さな村・青木村。子檀嶺神社は里社・中社・奥社の三社からなっています。田沢温泉近く子檀嶺神社の里社があり、奥社は立木集落の奥にそびえる子檀嶺山の山頂です。登山口の立木集落には四脚鳥居があります。集落を抜けて山に入る所にまた四脚鳥居があって中社の境内に入ります。境内に石造物は少なく、少し離れた国道の工事中に掘り出されて境内に運ばれてきたという「文化六年/巳初冬」銘石燈籠が立っていました。神社には里社・中社・奥社の三つの神社からなるところがあります。山の神は春に里におりて作神となり、秋に山の帰るという考えから、山の上の奥社と山麓の里社が建つのはわかります。しかし中社の役目がよくわかりません。本院・中院・宝光院の三院からなる戸隠山などは、平安時代後期に別当が「当山は三院であ...里山の石神端書202中社(長野県築北村)
青木村田沢・木立地蔵堂の子抱地蔵温泉のある小さな村・青木村。集落奥の高台に地蔵堂があり、その境内の覆い屋内に子抱地蔵がありました。抱いた子供を見下ろす表情が素晴らしい地蔵です。同じ田沢の薬師堂には笑顔の子抱地蔵がありましたが、こちらは慈悲に満ちた地蔵です。腕のある石工の作のようですが、地蔵の側にある案内には「村指定文化財/明治3年、石工は高遠の著名な人」としかありません。台座に「立谷組中」銘があります。子抱地蔵の台座を見ると、地蔵の下に敷茄子と蓮華座になっていますが、これは逆になっているようです。仏・菩薩が座る上の蓮華(受花)座と下の反花座をつなぐのが敷茄子で、石仏では丸型の敷茄子がよく見られます。仏書によると、敷茄子の茄子は食べるナスではなく、茶入れと説明されています。茄子にしてもナスにしても、これをつ...里山の石神端書201子抱地蔵(長野県青木村)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都新宿区東大久保昭和の石仏写真館(136)新宿・永福寺の石仏
野菜の日除けネット、ゴムひもとフックで取り付けができるようにしました。ネットは昨年買ったものでしたが、体調不良で未完成だったものです。これで水やりも一日1回で済みそうです。いまキュウリとミニトマトが収穫中。久々にキュウリを植えましたが、キュウリの成長を見ると元気がでます。*食道がんによる体調不良から間もなく1年です。ステージ4の治療は昨年10月から化学療法(FOLFOX)+治験薬(レンバチノブ)で始まりました。しかし半年後に副作用による肺炎で中止。この5月から1週間入院の化学療法(FP療法)でしたが、腎臓機能の低下で2週間の入院に末に中止。6月末から化学療法(FOLFOX)が始まりました。これは初めに経験している抗がん剤で、通院治療で46時間の自宅点滴になります。以前に発症した副作用の肺炎の薬と、腎臓を活...屋上菜園2023-07闘病日記16
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里山の石神端書291板碑(いわき市四倉町薬王の薬王寺)里山の石神端書292亀趺(いわき市四倉町薬王の薬王寺)里山の石神端書293重文・文殊菩薩(いわき市四倉町薬王の薬王寺)里山の石神端書294種字・胎蔵界大日(いわき市四倉町宮下の柳生院)里山の石神端書295庚申塔(いわき市四倉町山田の稲荷神社)里山の石神端書296薬師板碑(いわき市四倉町小湊の円満寺)里山の石神端書297伽藍場(いわき市四倉町小湊の伽藍場)里山の石神端書福島県いわき市四倉町の仁井田川沿
久々に屋上に上がってみたら、タマネギに花が咲いていました。これでは半年かけて成長したタマネギの栄養がすいとられてしまうのですぐに摘みましたが、菜園をまかせたカミさんはそういういうことに気付かなかったようです。*食道がんステージ4の抗がん剤治療は4月で終了しました。終わってみて、今回の抗がん剤治療は何だったのかと考えるに、わかってはいましたが完治しない延命治療、緩和治療であったことに改めて気づきました。そして抗がん剤治療によって2年近く命がのびたのは間違いないと思っています。反面抗がん剤の副作用はひどく、肺炎・腎臓障害・糖尿病なども併発し、脱毛・口内炎・鼻血・手足のしびれ・背中の筋肉痛・かゆみ・便秘などに悩まされました。このような状況でも、月1回は日帰りや一泊で里山山麓の石仏調べにも出かけ、ブログにアップ。...屋上菜園2024-06闘病日誌29
いわき市四倉小湊のがらんば(伽藍場)いわき市の北西部、仁井田川沿いの寺社を訪ねました。四倉小湊の川岸建つ御堂が〝がらんば〟。がらんばはこの御堂を管理する老女に教えていただいた名称。老女が言うがらんばを伽藍場の字をあてての話ですが、伽藍場は僧が住んだところのです。東北地方の南部では火葬場や墓地を〝らんば〟と呼ぶところがありました。私の田舎の福島県田村市でもらんばと呼んでいました。老女の話で、昔がらんばは馬の死体を埋めた場所で林になっていたそうです。そこを老女の叔母が整備してお堂を建て、散らばっていた馬頭観音もまとめたそうです。そのほとんどは馬頭の文字塔で、中には大正の年号があり多くは近代になってからの造立と思われます。お堂の本尊は平成になって盗難にあい、現在は石造地蔵菩薩が鎮座。これを老女はがらんば地蔵と呼...里山の石神端書297伽藍場(福島県いわき市四倉)
いわき市四倉小湊・円満寺の薬師板碑いわき市の北西部、仁井田川沿いの円満寺を訪ねました。その入口のお堂に薬師板碑が本尊として祀られていました。いわきは薬師を本尊とする寺が多く、とくに赤井・波立・八茎の三薬師が知られています。いわきと薬師の歴史は古く、天平六年(734)この地に疫病が流行した折、大和の僧源観が大和医王寺の薬師を赤井嶽岳に安置したのが始まりで、大同元年(806)年に大和の僧徳一がこの地に薬師を本尊とする寺院を建立して薬師信仰がひろまったとされています(注)。それで円満寺の薬師板碑ですが、寺の入り口に建つ小さな御堂に祀られています。祭壇に本尊として祀られているのは薬師の板碑。この土地に多い自然石の頭に二条線を入れた板碑で、中央に薬師に種字バイを入れ、その下に薬師や日光月光銘があります。お堂がいつの...里山の石神端書296薬師板碑(福島県いわき市四倉)
いわき市四倉山田の稲荷神社の庚申塔いわき市の北西部、仁井田川沿いの寺社を訪ね、稲荷神社の境内に「庚申」と刻された二基の庚申塔に出合ました。稲荷神社は山の中で、参道入口に「鎮守稲荷神社」銘の石碑が立ち、山道をしばらく辿った先に稲荷神社が建っていました。境内の素朴な庚申塔は二基とも「万延元年(1860)」銘。いわき地方の庚申塔はほとんど見ていませんので傾向はわかりませんが、青面金剛は少なく文字塔が多い印象でした。いわき市の北隣り双葉郡では庚申塔123基のうち青面金剛などの像様のあるものは9基と佐藤俊一氏の『村の野仏たち』(注1)に報告されています。このなかで青面金剛のある庚申塔で古いのは宝暦十三年(1763)、文字塔では元禄四年(1651)が最古ですから、庚申塔の造立は関東地方より100年遅い時期になります。...里山の石神端書295庚申塔(福島県いわき市四倉)
福島県いわき市四倉宮下の柳生院いわき市の北西部、仁井田川沿いの柳生院寺社を訪ねました。柳生院は真言宗で本尊は大日如来。その入口に石段脇に種字の胎蔵界大日如来石塔がありました。石塔は湯殿山供養塔です。この種字大日は東北地方ではよく見られる自然石の石塔で、上部に胎蔵界大日如来、その下に「湯殿山」を刻した豪快なものです。湯殿山は出羽三山の奥の院で、ぉ湯が湧き出す岩を御神体大日如来としています。「文化四年(1804)」造立。種字は密教で仏菩・菩薩などを表す梵字。梵字は梵語(サンスクリット)の字体で、インドで発達した文字とされています。また密教では真理を表す呪文としての梵語の真言があります。種字や梵語の元になるのが悉曇(母音と子音の組み合わせ)。児玉義隆氏は「現在、梵字悉曇の文字が活用されているのは、日本のみといっ...里山の石神端書294種字・胎蔵界大日(福島県いわき市四倉)
東京板橋の歌姫・やないみつこ6月9日(日)やないみつこのシャンソンライブ
伊藤介二・昭和の石仏写真館終了このブログは、日本石仏協会の元副会長・伊藤介二氏からお預かりした、ご本人が撮影した石仏写真アルバム約100冊から、抜粋して紹介してきたものです。これまで173回、約三分の二余り紹介してきました。しかし私の命も風前の灯となりました今、最後まで紹介できなのは残念でありますが、このあたりで終わりとさせていただきます。長い間ご声援いただいた皆様に、こころより御礼申し上げます。昭和の石仏写真館・終了
【入院】(写真は案内写真の一コマです。出版は夏頃の予定)再校の途中、病院の血液検査の結果が悪すぎて、緊急入院することになってしまいました。幸いなことにパソコンと再校印刷物は持ってきていたので、早々に病室で再校作業に入りました。しかし体力・気力もなくなりはかどりません。昨年の入院時は一日中原稿作りのためベッドに横たわることはなかったのですが、今回はダメです。それに再校に必要な資料は家にあるので作業は進みません。それでも家ですませていた再校済みは、病院のコンビニでレターパックを買って編集者に返送しました。それにしても編集者の眼はするどいもので、初校を反映した再校にはことこまかな指摘が山ほどあって、時間のほとんどがその確認に費やされました。5月末、やっと退院しました。これからの仕事は再校を済ませ、不鮮明な写真の...『東国里山奥山の石神・石仏風土記』③
入院している間に、タマネギとニンニクはカミさんが掘り出しと思っていましたが、そのままでした。いつ掘るのか、その後の夏野菜は何を植えるのか。菜園はカミさんにバトンタッチしたのでおまかせです。*高血糖、高温、高血圧・白血球の低下などで、5月の入院は15日にも及びました。その間、血糖値に対するインスリンの注射、さらに雑菌の感染などもわかって、胸に仕込んだ抗がん剤注入のポート摘出手術、抗生物質の投与とすっかりベッドの人になってしまいました。それから残念なことに、退院してもインスリンを打ちながらの生活になったこと。さらにMRI検査の結果がんが背骨にも転移している可能性もあることもわかり、神経がやられるのはこまるので、これは放射線治療で対応することにしました。使う抗がん剤もなくなって余命が限られてきた今、新たな治療の...屋上菜園2024-06闘病日記28
福島県いわき市四倉町薬王・薬王寺の重要文化財文殊菩薩いわき市の北西部、仁井田川沿いの薬王寺を訪ねました。薬王寺の板碑や亀趺はすでに紹介しましたので、今回は木彫の文殊菩薩です。参道石段脇に「国宝文殊尊/昭和三十一年/参道構築記念」」銘の石碑がありました。この寺にある文殊菩薩は重要文化財ですが、かつては国宝だったのでしょうか。文殊菩薩は本堂裏の収蔵庫にあり、運慶作と伝わる国の重要文化財です。拝観を申し出ると、住職が開錠し案内していただきました。堂内や仏像に写真もOK、ネットへのアップもOK。住職がいうには皆さんに宣伝してもらった方がいいとのこと。堂内には他にも釈迦涅槃図や絹本色弥勒菩薩などもあります。ぜひ訪ねてみてください。(地図は国土地理院ホームページより里山の石神端書293重文・文殊菩薩(福島県いわき市四倉)
福島県いわき市四倉町薬王・薬王寺の亀趺(きふ)いわき市の北西部、仁井田川沿いの寺社を訪ねました。最初に訪ねた薬王寺の境内に亀趺(きふ)がありました。亀趺は亀の形をした石碑の台座。石碑を造立するにあたり〝鶴は千年亀は万年〟のことわざにあるように、長寿の亀にあやかって石碑が末永く立ち続けることを願いました。亀趺は古くから中国で造立されていたもので、この国では江戸時代に大名など大型の墓石の台座としたのが始まりとされています。薬王寺の亀趺は笠塔を支えています。笠塔正面には「重罪一時/消滅生免/災殃死生」の宝筐印陀羅尼経が刻されていますから、これは宝筐印塔です。亀の顔はしっかり造られていますが、甲羅の部分は別の台座を重ねてあって端折られたもので亀趺としては見劣りがします。その顔には、耳と牙があります。実際の亀に耳は...里山の石神端書292亀趺(福島県いわき市四倉)
福島県いわき市四倉町薬王・薬王寺の板碑いわき市の北西部、仁井田川沿いの寺社を訪ねました。最初に訪ねた薬王寺は、大同年間(806~10)に徳一(とくいつ)によって創建されたというこの地方の名刹。徳一は法相宗の僧で、常陸から磐城そして会津に寺院を建立し仏教文化を広めたことで知られています。薬王寺には板碑が多く集められていました。参道に並ぶ板碑は関東に見られる緑泥石の薄いものではなく、自然石を利用したこの地方独特の形。寺の案内によると、板碑は参道をはじめ石段や境内に45基あるそうです。どれも頭に二条線、その下に大きな種字を刻した板碑で豪快です。いわき市の案内によると、この形の板碑はいわき市でも薬王寺を中心とした地域にだけに造立されたもので、年紀があるものは弘安八年(1285)から永和四年(1378)年の百年間だ...里山の石神端書291板碑(福島県いわき市四倉)
里山の石神端書284閻魔王、地蔵(行方市石橋)里山の石神端書285月待塔(行方市石橋)里山の石神端書286鳩(行方市根古屋)里山の石神端書287石祠型墓(行方市根古屋)里山の石神端書288日本武尊(行方市岡)里山の石神端書289道祖神(行方市雁通川)里山の石神端書290生祠(行方市荒宿)里山の石神端書茨城県行方市雁通川流域
行方市荒宿・嬪野神社の生祠行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出す雁通川周辺を訪ねました。嬪(よめ)野神社は山の上。神社を囲むようにいくつかの石祠がありました。そのなかで石祠の扉や柱に「殿様武運長久」銘が入るものが三基。もう一基は柱が欠けているが同じ銘があったとすると、「殿様武運長久」銘の石祠四基が神社を囲んでいることになります。石祠の形はいろいろで、「正徳元年(1711)」「享保十一年(1726)」銘もありますから、四基は個々に造立されたようです。ところで殿様とは誰のことでしょうか。江戸時代に行方を治めたのは麻生藩。藩主新庄氏は外様大名ながら、幕末まで代々麻生藩主を務めた一万石の家柄でした。推測ですが、嬪野神社の石祠にある殿様はこの新庄氏を指しているのではないでし...里山の石神端書290生祠(茨城県行方市雁通川)
行方市雁通川一帯の道祖神行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。この地域でときどき目にするのが駒型の道祖神。石塔正面に「道祖神」銘があるだけの簡素なもので、高さは40センチ前後。石橋で会った老人は「どうろくじん」と呼んでいまいた。見た道祖神は5カ所。そのうち3カ所は神社境内やその参道で、路傍は1カ所だけでした。造立は刻された紀年銘から明治以降のようです。道祖神の役目の一つとして外からの疫病などを塞ぐことですから、集落外れの路傍に置かれるのが普通です。したがって神社に置かれているのは路傍から移動した道祖神にもみえてきます。その点は確認できませんでした。次にその道祖神を写真で紹介しておきます。(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書289道祖神(茨城県行方市雁通川)
庭木で大きくなった木を伐りました。いずれカミさんが剪定をするので、まだ余力があるうちに丈のある大きな木を切ることにし、家庭用のチェンソーをネット購入準備しました。しかし使ってみると、チェンを反対に取り付けたり、チェンのゆるみがでたりで苦労したものの、目的は達成しました。剪定は業者にまかせれば済む話ですが、年金生活者であり猫の額ほどの庭で、自分で思うように手入れをしてきた庭です。皆同じ高さにしてメリハリがなく、寂しいかぎりではありますが、これでカミさんに引き継げます。*4月末抗がん剤治療前に行う血液検査の結果、血糖値248の数値がでました。これまではいつも130ぐらいでしたから担当医師に指摘され、いろいろ尋ねられました。思い当たるのは、ここ数日体重減少を回復させるため、3食ご飯を食べるようにしたこと、胃をス...屋上菜園2024-05闘病日記27
行方市岡の福寿寺行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。行方を古いといったのは、古くそれも日本神話に通じる伝承が各地に残る街という意味で、ここに案内する行方市岡の寿福寺にある日本武尊もその一つです。その伝承は奈良時代に編纂された『常陸の国風土記』に基づくもので、日本武尊が常陸の国まで来ていたことに由来するものです。それによると日本武尊が相鹿の丘前に留まられたとき、大和から大橘比賣命が訪ねてきてお会いになったと記されています。この大橘比賣命、『日本書紀』では日本武尊とともに相模から上総に渡るとき、荒れ波を静めるために海に身を投じで亡くなっています。それは別として、二人の銘刻した石碑が雷神社に立っていました。石碑には「日本武尊/大橘比賣命/史蹟相...里山の石神端書288日本武尊(茨城県行方市岡)
ふくしま浜街道・桜プロジェクト3月下旬に「ふくしま浜街道・桜プロジェクト実行委員会」より、オーナー基金制度終了の知らせがきました。このプロジェクトは東日本大震災の翌年、被災から桜の成長と共に復興してゆく浜通りを子どもたちに残し、花咲く桜並木とともに迎えたい、この震災を忘れないための浜通りのシンボルにしたいという想いから立ち上げたものでした。目標は2万本で、国道6号線の樹木がほぼ完了したことにより、今年4月30日で解散するとのこと。目標達成お祝い申し上げます。そしてお疲れ様でした。私がこのプロジェクトに参加したきっかけは、1歳の孫の死でした。何もしてやれなかった孫のために何か残してあげたいというときにこのプロジェクトに出会ったのでした。申し込むとオーナー会員証が届き、後日桜の番号と植えた住所が届きました。数...八千代新川千本桜24-05
行方市根小屋・龍翔寺の石祠型墓石行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。龍翔寺は真言宗の寺で、中世に寺の上にあった山城の城主・相賀氏の菩提寺として創建されたと、寺の案内にありました。寺の墓地の無縁墓の一角にあるのが石祠型墓石。行方市でこの墓石に出会ったのは驚きでした。石祠型墓石は私がそう呼んでいるもので、石殿・石室などとも呼ばれています。形は屋根と室部からなり、室部に五輪や石像を修めるように造られた墓石です。これが造立されたのは群馬・長野・山梨が中心で、埼玉・栃木・新潟・山形・神奈川・静岡・愛知の一部でも見ています。造立された時期は戦国期から江戸時代初期。室部に納められた石像は古いものでは群馬に見られる御堂とした大型のものに薬師や観音、後に墓...里山の石神端書287石祠型墓(茨城県行方市根古屋)
鴨川市平塚・大山不動と良弁鴨川市西部の大山不動。山頂奥に「開山良弁大僧正旧跡」銘の石碑が立っていました。背面に「文化十四年丁丑(1817)六月二十七/當山三十八主法印文春代/両峰請度旭峯栄充建之」銘もあります。良弁(689~773)は奈良時代の僧で東大寺の初代別当です。享和三年(1803)の栄充校訂の「大山寺縁起」には、良弁が相州大山に登って当方を眺めると、紫雲が棚引いている所があったので出向いてみると鴨川だった。ここに石尊権現を勧請し、不動明王を祀って雨乞いの霊地としたと記されています(注)。石尊権現は相州大山(雨降山)の雨乞いの神です。栄充は縁起だけでは物足りず、「開山良弁大僧正旧跡」も造立して大山寺が良弁ゆかりの寺としたようです。大山山頂には高蔵神社、その近くに「浅間神社」石祠と「富士登山二拾度」の...里山の石神端書197大山不動・良弁(千葉県鴨川市)
鴨川市平塚・大山不動の龍頭鴨川市西部の大山不動。入口に龍が口から水を落としていました。大きな迫力がある龍頭です。開いた口は鰐にようで、大きな目と大きな前足は恐竜のようです。水の勢いが貧弱ですが、それを引いても素晴らしい龍頭です。水道の水の出口を蛇口といいますが、明治期にこの国に水道が設置されたときはライオンの口から水が出たそうです。西洋ではライオンが水の神で水道の出口、それを輸入して設置したためだそうです。これが後に東洋の水の神である龍にあやかって蛇口になりました。そういえば、イギリスで見た教会建築の雨どいの先には、ライオンやガーゴイルという怪獣がついていたのを思い出しました。所変われば神も変わる、ですね。境内には木の葉衣まで彫られた役行者、本堂内には木彫の十王と、丸まると太ったらしくない奪衣婆が鎮座して...里山の石神端書196大山不動・龍頭(千葉県鴨川市)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都新宿区上落合昭和の石仏写真館(134)七福神(新宿・最勝寺)
入院している間にニンニクは葉が枯れてしまい、カミさんに掘ってもらいました。昨年よりは大きな玉に成長していて、ちょっと満足です。*昨日8日退院しました。抗がん剤の副作用である腎臓機能の低下が改善されての退院です。入院して15日目になっていました。新たな抗ガン剤点滴が5日間、その後の治療は腎臓機能を促すための生理食塩液の点滴だけでした。この間口内炎にも悩まされ、食事も満足にできない日々が続きました。地獄に落ちた者が食べ物を口に入れると火となる、まさにこの状態です。これの治療はうがい薬だけ、なんとも歯がゆい15日でした。ここまでの経験から分かったことは、抗がん剤の点滴は毒をもって毒を制するようなもので、目的のがんをやっつけるかわりに、健康な臓器も攻撃します。これに負けると副作用が発症するわけです。体を舞台にがん...屋上菜園2023-06闘病日記15
鴨川市佐野・路傍の庚申塔の鬼鴨川市西部の大山山麓。佐野集落の路傍に庚申塔や一石六地蔵などが並んでいました。庚申塔の主尊は青面金剛で、よく見ると下の方に鬼らしきものが二匹います。風化がひどく見にくいのですが角があり、一匹は金棒を持っていますから間違いなく鬼です。青面金剛には四夜叉という眷属がいますが、鬼はこの夜叉のようです。金棒を持て余しているような鬼です。青面金剛の姿は『陀羅尼集経』第九「大青面金剛呪法」に説かれていて、四夜叉については「右辺に二薬叉を作る。一は赤、一は黄、刀を執り索を執。左辺に二薬叉を作る。一は白、一は黒、矟を執り、叉を執る」(注)とあ、金棒は出てきません。庚申の絵図でも金棒を持つ夜叉は見ていません。もっとも青面金剛を含め、説かれた通りに造られる石造物はなく、特に眷属などの姿は石工の裁量...里山の石神端書195庚申塔の鬼(千葉県鴨川市)
鴨川市奈良林・原集落路傍の光明真言塔鴨川市西部の大山山麓。原集落の道端に石仏が並んでいました。光明真言塔、ブロック積の覆い屋の中は子抱地蔵か、そして一石六地蔵などのです。光明真言塔は大日如来に一切の罪障を除いて極楽往生などを願う真言。房総ではよく見かけます。中央に種字ア、その上下左右にビ・ラ・ウン・ケンの胎蔵界大日真言。これらを囲む24の種字が光明真言。光明真言は中世の板碑にも見られるので、死者の減罪・追善に使われたいたことが指摘されています。近世には念仏や題目と同じように集団で極楽往生を願って光明真言を唱え、その数を設定して結願したときに供養塔を造立したようです。ブロック積内の石仏をよく見ると組んだ膝の上に子供を乗せています。子抱地蔵のようです。一石六地蔵は三体ずつ二段に並ぶもので、これも房総で見られる...里山の石神端書194光明真言塔(千葉県鴨川市)
鴨川市奈良林・奈良集落三嶋寺の胎蔵界大日如来真言鴨川市西部の大山山麓。奈良林の三嶋神社と並んで建つ三嶋寺の境内に種字「胎蔵界大日真言」銘の石塔が立っていました。いろいろな願い、結願が込められた胎蔵界大日真言塔です。正面に種字で「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」、側面に「光明真言一億万遍供養塔/弘法大師第一千年遠忌/天保五年(1834)」銘があります。「アビラウンケン」は胎蔵界大日如来の五字真言で、真言密教では重要な真言です。これが民間では様々な災難除け、蛇・虫の毒除け、傷病治しのときの呪文・呪いとして唱えられてきました。「光明真言一億万遍」は大日如来に一切の罪障を除いて極楽往生などを願う真言、呪文。これを大勢で唱えた数が一億万回に達したのを区切りとしての造立です。弘法大師は祥承和二年(835)に亡くなっています。...里山の石神端書193胎蔵界大日如来真言(千葉県鴨川市)
5月25日から入院することになり、慌てました。屋上ではタマネギ・ニンニク・ジャガイモが収穫を待っていて、取り敢えず24日にジャガイモだけ掘りました。小粒ながらまずまずの出来です。タマネギ・ニンニクは束ねて干す作業がありますから、退院してからです。昨日カミさんからキュウリの写真が届きました。夏野菜の初収穫です。*経過が良かった食道がんの抗がん剤治療でしたが、副作用の肺炎を起こして抗がん剤を中断している間に状況が一転しました。CT検査でわかったのですが、縮小したはずの転移先肝臓やリンパのがんが復活してきたのです。肺炎も治っていません。これを踏まえて担当医の判断は、中断していたこれまでの抗がん剤と治験は中止、代わりに肺炎に影響の少ない抗がん剤治療を始めるとのことでした。それは120時間連続の抗がん剤点滴で、8日...屋上菜園2023-06闘病日記14
那須町芦野・堂の下観音堂の十九夜塔那須町芦野・路傍の小便小僧那須町芦野・最勝院の十六羅漢那須町芦野・三光寺の歓喜天(聖天)と大根那須町芦野・揚源寺の奉納剣那須町芦野・温泉神社の逆立ち狛犬里山の石神端書栃木県那須町芦野
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区田園調布密蔵院本堂密蔵院庚申堂青面金剛案内庚申塔案内庚申塔寛文3年(1663)延宝元年(1673)宝永6年(1709)正徳3年(1713)昭和の石仏写真館(132)大田区の寺社⑳田園調布
那須町芦野・温泉神社の逆立ち狛犬芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。街は外れの温泉神社に逆立ちした狛犬がいました。かつては寺社屋内に守護として置かれた狛犬は、近世になるとどの神社の境内に造立されるようになりました。また形の決まりも少なく、像容は石工の腕の見せどころでしから、よく見られる玉乗りや子持ちなどはじめ地方独特の型も生まれて、膨大な数の狛犬が造られました。これを分類した先人、出版物も出ました。手元にある橋本万平氏の『狛犬を探して』(注)では、近世の狛犬を江戸・浪花・出雲・尾道・伊部・丹後・肥前など地方別に分類した狛犬が取り上げられています。像容分類の中の一つが逆立ち狛犬で、金沢地方に多いそうです。それで温泉神社の狛犬は、身体を45度に上げた見事な逆立ち狛犬です。逆立ちの角度はいろいろありますが、...里山の石神端書192逆立ち狛犬(栃木県那須町)
那須町芦野・揚源寺の奉納剣芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。揚源寺は修験の寺で檀家はありません。山門脇に平成二十八年年造立の素朴な地蔵菩薩が立っていました。本堂脇の小さな沢の奥、アスナロウの巨木の根本に沢山の剣が納められています。どのような信仰があっての奉納かはわかりません。剣の下にある自然石には線刻の不動明王が刻まれていました。剣の奉納はこの不動明王に祈願するため、不動の持物である剣を奉納したのでしょう。寺社の奉納物には絵馬・太刀・鳥居・柄杓・しゃもじ……数えたきりがないぐらいですが、長野県の修那羅山のように石造物を納めるところもあります。これまで見てきた奉納物で、数が多く美しいと感じたのは千葉県下総町の道祖神石祠=下の写真上=、宮城県角田市の羅漢=写真中=、群馬県片品村の陶器狐=写真下=です。(...里山の石神端書191奉納剣(栃木県那須町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区鵜の木光明寺光明寺61世順譽上人光明寺の閻魔王増明院庚申塚庚申塚の庚申塔庚申塚の庚申塔昭和の石仏写真館(132)大田区の寺社⑲鵜の木
那須町芦野・三光寺の歓喜天(聖天)と大根芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。三光寺の境内に「日本三所歓喜天参詣道/大正九年」銘の石碑が立っています。寺の案内には、弘法大師が彫った三体の歓喜天の一躰が応永年間(1342~44)にこの地に迎えられたとあります。聖天の別名もある歓喜天は夫婦和合・子宝の仏で、その姿は人身象頭二天抱擁。身体は人で、頭は像の二天が抱き合う姿です。歓喜天のシンボルは交差する大根。境内には交差した大根が主な場所に見られ、それを彫った石もありました。歓喜天の大根について、経典には「象頭人身、右手に鉞を持ち、左手は蘿蔔根を執る」とあります。蘿蔔(すずしろ)根は大根。これが歓喜天の象徴となって、歓喜天を祀る寺に大根を奉納するようになり、なかでも二股大根を選ぶのは夫婦和合を意味しています。(...里山の石神端書190歓喜天と大根(栃木県那須町)
那須町芦野・最勝院の十六羅漢芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。最勝院の山門に仁王、入った左手に十六羅漢が並んでいました。いずれも新しい石仏です。最近新しい仁王を見かけますが、最勝院の仁王は表情や手先の細部、全体のバランス、どれも非の打ちどころなにほど完成されています。アンバランスなところが石仏の魅力だった視点からすると、まぶしいぐらいです。十六羅漢も同じですが、手足の細工が大雑把です。境内に味のある六地蔵が並んでいました。(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書189十六羅漢(栃木県那須町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区下丸子頓兵衛地蔵頓兵衛地蔵頓部地蔵案内頓兵衛地蔵天祖神社長福寺蓮光院蓮光院案内六所神社昭和の石仏写真館(131)大田区の寺社⑱下丸子
那須町芦野・路傍の小便小僧芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。街に入る路傍に石造物が並び、そのなかに小便小僧が立っていました。古びていて昔からこの地に立っていたような姿です。しかし小便小僧はベルギーのブリュッセルが本家のはず。おかしいので、通りかかった親父さんに尋ねると、自分が置いたものでもらってきた物だそうです。さらに横に並ぶ如意輪観音は山奥の集落からもたってきた石仏だと。この場所の石造物は親父の個人的趣味で集め置かれたようで、こうなると一緒に並ぶ聖観音や「馬頭観音」銘石塔も怪しくなってきました。これまでも山間の集落で、道路拡張工事などで集められた石仏を沢山見てきましたが、あくまでも集落で信仰された石仏であることが基本と考えていました。ごく稀に個人的な石造物もありましたが、それはいずれもこの石像はお...里山の石神端書189小便小僧(栃木県那須町)
那須町芦野・堂の下観音堂の十九夜塔芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。宿場の南にある堂の下観音は山肌の岸壁を利用した観音堂です。本尊は如意輪観音。かつて岸壁に磨崖仏があったそうですが、今は岩が崩壊してありません。そこにどのような仏が彫られていたかも不明です。お堂の参道に子安輪観音が座していました。「十九夜供養/寛政八年丙辰天(1796)/十月十九日」銘があり、十九夜塔です。栃木県は十九夜塔の多いところで、古い資料ですが『下野の野仏』(注)には、県内の十九夜塔1599基と報告されています。庚申塔は1334基で、二十三夜塔が602基です。十九夜塔を造立したのは十九夜講中で、女性のみの講中。同書には「安産祈願等女性固有の信仰で、十九夜念仏を唱和する」とあり、那須町の十九夜念仏和讃を紹介しています。そのなかに...里山の石神端書187十九夜塔(栃木県那須町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区多摩川遍照院遍照院供養塔案内遍照院・念仏供養塔遍照院・庚申供養塔遍照院・廻国供養塔遍照院・庚申供養塔安方神社諏訪神社東福寺東福寺・馬頭観音昭和の石仏写真館(130)大田区の寺社⑰多摩川
南部町本郷の若宮・山王社の丸石南部町本郷の原間・三差路の道祖神南部町本坊の原間・法眼寺の日蓮大菩薩南部町本郷の沢・妙善寺の題目塔南部町本郷の峰・七面社里山の石神端書・山梨県南部町本郷