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荒川三歩 https://blog.goo.ne.jp/arakawa3po

写真付きでチャリンコ散策結果を報告します。 めったに遠出しないので、殆ど近隣下町の出来事がテーマです。

荒川三歩
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2014/09/30

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  • 讃岐うどん/松製麺所

    玉川町に美味しいうどん屋ができているので食べに行こうと妹と従妹が言います。結構流行っています。昨年食べた波止浜の店の支店です。本店も混んでいましたので味の想像はつきます。他の地元の店とは趣が異なります。お洒落です。若者に好かれますね。おお、混んでいます。若者が多いです。ひょっとしたら今日は休日か?あ、仕事をしている従妹が居るんだら、土曜日か!仕事をしない一人暮らしに曜日の必要性はありません。美味しかったです。っていうか、四国のうどんは何処で食べても美味しいです。慌てて食い付くのでいつも食レポを忘れます。美味しかったので雰囲気だけでも紹介しました。讃岐うどん/松製麺所

  • 改めて見てみた今治銀座裏

    今治銀座商店街が賑やかだった頃にはあまり気にならなかったけど、ちょっと気になっていた店舗裏です。商店街と並行して川が流れています。今は綺麗な水の流れです。小学校で習った「今治のくらし」では、「タオルの街『今治』の中央部の川は、染料で赤や緑に染まってとても綺麗」と教わりました。実際は染料が混じり合って紫から黒い川でした。中学生になって、美術の時間に「絵具が混じると『黒』に近づいていく。光は『白』になっていく」と習いました。なるほど、と認識した川です。ベニスの街角みたいです。所々に私設の橋が架かっています。公設の橋まで行かなくても川の反対側に行けます。橋は直接家と家が結ばれています。これが各所に有ります。両家は親戚なんだろうか?そして、川に下りる石段も有ります。もうお気付きだと思います。殆どの家が川に張り出し...改めて見てみた今治銀座裏

  • 今治銀座の今

    今治銀座の東端です。アーケードの中に江戸時代の名残を留める石柱です。さて、今治銀座を行きます。前回より明るくなりました。閉店した店舗が取り払われて、太陽光が差し込んだせいです。寂しい風景ですね。営業している店舗がまた少なくなっています。この店は、数年前から「閉店セール」を行っていました。まだ営業しているじゃないか⁈との感想です。おやおや、いつもの看板が店内に有りました。どっこい、生きています。今治市の中心部でした。人が居ないとポストや電話ボックスが寂しいです。学生の頃から有ったシャッターアートが変わらず素敵です。閉店した場所を地上げして集合住宅が増えています。こうなるとアーケードが邪魔です。本屋「マス屋」でした。今は教育図書を売っているんですね。お金は無いけど暇はたっぷりあった高校生が沢山立ち読みしていま...今治銀座の今

  • 今治新町商店街

    かつて港に着いた人達は、港の前の商店街に流れて行きました。その「新町商店街」の今の姿です。一番手前のお土産屋です。今も商店らしい店ですが、往時を偲ぶよすがはありません。他の店の多くは閉店しました。港に一番近い喫茶店でした。港の前にバス停があって、早朝に港に着くと、ここでモーニングサービスを食べながら、始発のバスの運行を待ったものです。ずいぶん賑わった店でした。商店街を歩きます・・・。昔から界隈は、蒲鉾屋と魚屋が多いです。この店なんか何度も何度も表彰された店でした。今も経営しているだけ立派です。今は人より幟が目立ちます。サッカーを町おこしにしよと元全日本監督が頑張って居ます。道続きの「今治銀座」へ足を進めます。ここも寂しいです。今治新町商店街

  • 今治港

    今治港湾事務所です。数年前に竣工した船の形の建物です。確か「ハーバリー」と呼んでいたと思います。ハーバーと今治の合成語です。桟橋へ行きます。港の向こうに大島が煙ります。「しまなみ海道」ができる前は、島嶼部を繋ぐ連絡船の出入りで賑わった港でした。しまなみ海道とバーバリーができて、昔の面影が全く無くなりました。今は寂れた港でしかありません。おっ⁉︎偶々フェリーがやって来ました。こちらに向かって来ます。着桟します。先ほど何処からか自転車で現れたシルバー世代の人が綱どりを行います。「せきぜん」の文字が見えます。確か「レモンの島・岩城島」からの船です。かの島は「しまなみ海道」が繋がっていません。こうやって、昔ながらの交通機関で、買い物等にやって来ます。殆どの島は車で「しまなみ海道」を走ってやって来ます。行き先はここ...今治港

  • 蛇池の土手を壊していた。

    あれっ!蛇池に水が有りません。この池は昔から水を枯らしてはいけないとの伝説があります。どうしたんだろう?罰当たりな!土手が新しいです。唐突ですが、あの山が、竜神が越えていった山です。土手を調べてみます。その前に、ここは竜神伝説の地で、池の奥は湿地帯で小さな観光地であり、遍路路でもあります。従って、昔からあそこにトイレが在りました。田舎の「便所」です。汚なかったです。ところが、ドアを開けたら便座の蓋が自動で上がりました!我が家より凄い!凄く綺麗になっています!外国人の歩き遍路が多いそうです。さて、余談はそこそこに、土手へ行きます。空っからの池です。こんな事をしたら池ません。龍神の祟りがあります。ショベルカーが動いています。土手がここで切られています。バチが当たるぞお前ら!池の向こうは「医王山」です。西暦66...蛇池の土手を壊していた。

  • 「いなか屋台 うどん村」商い中

    今年というか今週2度目の訪問です。先日暑い中を自転車でやって来たら臨時休業でした。今日は営業中です。民家の庭に屋台を建てて、テーブルを置いて、週5日やっています。「先日休んだな!」って言ったら、「すみません田植えの準備で・・・」と答えます。年に1度の訪問です。それでも覚えていてくれます。地元の人間と違って、ちょっと標準語っぽいので、覚えやすかったのだと思います。こうして7〜8年の付き合いになります。いつものとおり「冷やしうどん『中』」を注文して、おでんを取ります。昨年より20円と30円(すじ肉)の値上げをしていました。しょうがないです。何でも上がっているもの。夫婦二人でやっている店です。「孫兵衞作」に在ります。何とか孫兵衞さんが開拓した村です。ちょっと時間が早いので客はまだ私だけです。いつも流行っています...「いなか屋台うどん村」商い中

  • 焼き豚玉子飯「重松飯店」再訪

    昨年の訪問で確認していました。目印のガスタンクです。あそこですが、行列どころか人が居ません。やっちゃたみたいですね。定休日です。田舎の一人暮らしで仕事をしていなかったら、曜日に頓着しません。新聞も無いし・・・そうか、今日月曜か!でも人が居ないので、ゆっくり好きなアングルで撮れます。隣は散髪屋でしたか。こんな指示です。元々は普通の町中華だったのが、賄い飯が商品としてヒットして、今治市のソウルフードになったらしいですね。また来年来ます。曜日を確かめて。昨年の記事はこちら。焼き豚玉子飯「重松飯店」再訪

  • 「大黒湯」再訪

    既報の記事「今治ラヂウム温泉」で、次回の帰省時にも見に来ると書きました。実はこの「大黒湯」を今年も見に来たのです。ラヂウム温泉の近くです。前回は気がつきませんでした。存在を知らなかったら、すれ違ったことも知らないで過ぎて行きます。人生の出逢いもそんなものでしょう。縁と呼ばれる現象です。さて、昨年と変わらない風情です。玄関前を掃除しているので、今も現役の銭湯のようです。2階が住居です。昨年も玉ねぎを干していました。こんな景色さえも変わっていません。眺めます。玄関も変わりません。昨年同様、営業時間は午後1時半です。周辺は漁師町です。夜明けの出漁も行います。そんな需要があるんだと思います。ずっと下を向いたままです。掃除に熱中しています。私に気付いたら声を掛けてみようと思っています。仕事中の人に、こちらから声掛け...「大黒湯」再訪

  • 今治ラヂウム温泉

    今治市の街で遭遇しました。「大正モダン」を思わせる建物です。正面から眺めます。左側に、「ゆ」と「ホテル」の文字が見えます。玄関です。営業しているんだろうか?玄関の柱です。「国登録有形文化財今治ラヂウム温泉本館」と書いています。同様に英語でも記載しています。そしてそして、「建築1919年国登録2016年11月」とも書いています。第一次世界大戦終了の年の建築です。冒頭「大正モダン」と感じた印象そのものです。登録したのが2016年11月なので、最近のことです。その下にも、古い建物で時々見かける形式で「登録有形文化財この建築物は貴重な国民的財産です」とも有ります。凄いね今治!でも営業しているんだろうか?左手にホテルの玄関が有ります。3階がフロントのようです。宿泊者「レンタサイクル乗り捨て施設」とも書いています。「...今治ラヂウム温泉

  • 国分城の変遷と唐子山

    桜井平野の真ん中に独立した山が在ります。多くの数と多くの種類の古墳が在ることから、古くから人々がよって立つ山だったのでしょう。あそこに城を造ったのは豊臣秀吉の家臣「福島正則」です。麓に「お屋敷」の地名と堀の遺構が残っています。国分寺の隣に「春日神社」が在ります。由緒書きの末尾に、「唐子山の福島神社を合祀した」との記述が有ります。ここに福島神社が合祀されています。福島正則が国分城に造った神社です。ここから四国八十八ヶ所五十九番札所である国分寺の屋根が見えます。そして、山道の方向に国分山(現在の唐子山)が在ります。さて、「脇屋義助の墓」の真裏です。「国分城城主小川土佐守祐忠夫妻尊霊」の墓石が有ります。この人物をよく知らないのですが、福島正則の後に国分城に入った人物です。彼は関ヶ原の戦いで西軍に付きました。「家...国分城の変遷と唐子山

  • 吉野朝忠臣 従三位 脇屋義助公廟

    国分寺のすぐ傍です。でも、ここでお遍路さんに逢ったことはありません。せっかくの歩き遍路なのに、ここを素通りしたら勿体ないと思います。石段を上ります。上がった所に拝殿が在ります。右手に説明書が有ります。(説明板表示内容)「脇屋義助公廟堂の由来延元元年(1336)五月、楠正成、新田義貞らの連合軍を摂津の国湊川に打ち破った足利軍は、戦勝の余勢をかって、京都に攻め入った。同年六月、京都の東寺に入った尊氏は、持明院党の公明天皇を皇位につけて政権の合法化をはかり、後醍醐天皇を洛中の花山院に幽閉して、北朝中心の体制をかためた。そこで、天皇は密かに花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。ここに尊氏が樹立した京都の北朝(公明天皇)と吉野の南朝(後醍醐天皇)両皇統...吉野朝忠臣従三位脇屋義助公廟

  • 国分寺と国分寺塔跡

    国分尼寺跡行ったので国分寺へ行きます。四国八十八ヶ所五十九番札所です。日本遺産「四国遍路」59番札所です。小学校1年生の遠足の場所です。小学校が国分尼寺跡なので、学校は歴史を学ばそうと、ここ国分寺を人生最初の遠足の場所に選んだのかも知れません。でも、そんな学校の思惑なんか全然感じまていませんでした。ここには「握手修行大師」が有ります。新しいものです。案内板に書いてあるとおり、お大師様は忙しいらしいです。忙しくない私が手を握って願い事を言うのはおこがましいです。本堂です。さて、ここに「脇屋義助廟」への案内を兼ねた石碑が有ります。「是ヨリ二丁」です。すぐそこです。ここから見る世田山・笠松山が梅雨空に煙っています。彼はあそこで戦闘を指揮する予定でした。桜井の浜に到着後1週間くらいで、ここ国分寺で病死しています。...国分寺と国分寺塔跡

  • 伊予国分尼寺跡

    伊予桜井駅から見た白い看板です。石丸忠兵衛の石碑のすぐ傍です。界隈は歴史の宝庫です。探索の為の道が設けられています。こんもり盛り上がった土地に柿の木が有って、そこに説明板が立っています。遠くからよく見えます。天平13(西暦741)年の遥かな大昔、聖武天皇が全国に国分寺と国分尼寺跡の建設を命じました。国分尼寺跡です。石で囲われている場所です。建物の基礎石です。大きな敷地を持っていました。背後の山から桜井小学校の敷地まで、広大な地所です。右に小さく見える山は「唐子山」で、あの先に「国分寺」が在ります。国分寺と国分尼寺とはこんな位置関係です。現場をちょっと離れます。周辺は何処も遍路道です。遍路道石碑の前の石柱に、「史跡伊予国分尼寺」の文字が見えます。石柱からちょっと行くと、「法華寺」です。国分尼寺を現在に引き継...伊予国分尼寺跡

  • 「石丸忠兵衛」の墓と石碑

    伊予桜井駅の裏にやって来ました。駅舎を覗く場所です。あの木が茂った場所が石丸忠兵衛の墓があった場所です。中に入れません。入っても何も有りません。数年前に確認済みです。以前は隣の田圃の畦道を通って一周できたのですが、ご覧のとおりイノシシ避けの柵が設置されています。反対(駅)側も草が茂って行けません。この後、既出の部落総代から聞いた話によると、もうずっと昔に移転したそうです。跡地だけが保存されています。墓所を背後に山の麓を見ます。あそこに白く石碑が見えます。みかん畠の中です。これが石丸忠兵衛の石碑です。前回の訪問時にはもっと沢山のみかんの木が有りました。切ったのでしょうか?もう畠の雰囲気はありません。野原の風情です。「開拓新田石丸忠兵衛寛永」の文字がかろうじて読めます。部落総代が言います。「石丸忠兵衛が桜井を...「石丸忠兵衛」の墓と石碑

  • 東京都知事選挙ポスターが異常!

    前回(2020年)報告した東京都知事選挙ポスターの記事にアクセスが多いです。今回も皆さんが注目している選挙です。ただし、その注目対象は掲示板です。今回はそれ以上の騒ぎになっています。N国党によって立候補者掲示板がジャクされている事がニュースになっています。各所で注意して見ていましたが、全ての掲示板がそうなっている訳ではありません。そんな中、これが近くの公園に有りました。TVニュース等で見たのとは掲示内容が違います。色々な種類のポスターがあるようです。女性のヌードも有るとか?このポスターは赤ちゃんが怒っています。「わたしたちの未来をどうしてくれるのか!!」と。内容は真っ当な、選挙のたびに選挙管理事務所が苦心している「投票促進」です。でもね、批判を避ける為に作ったポスターのように思えます。こうやって、硬軟織り...東京都知事選挙ポスターが異常!

  • 伊予桜井駅

    田舎には不釣り合いの広い道路です。左右に日通や西濃運輸のトラックが横付けされていました。中学生の頃の話です。貨物の中継店や商店や精米所や床屋が在りました。漆器製造・販売の在る浜桜井地区に対する流通の中心地だった、郷桜井です。昔は沢山の自転車預り店が在りましたが、モータリゼーションによって自家用車が増えると駅を利用する人が減りました。今はこの1軒だけです。突き当りは「JR伊予桜井駅」です。多くの高校生は駅前に路駐しています。違法ではなく、駐輪場になっています。駐輪しているのは、地元今治東高の、ここから電車で帰った生徒たちか、地元以外の高校に行っている、これから電車を降りて自宅に帰る地元の生徒です。「綱敷天満宮」最寄り駅です。予讃線の終着駅だった時期もあります。国分寺・国分尼寺等も在って、国府の中でも「府中」...伊予桜井駅

  • これぞ四国らしいうどん店の風景

    甥っ子が「四国一美味い!」と言うので食べに来ました。チェーン店です。よく意味が分かりません?要は安いって意味なんでしょうね?実際美味しかったです。お遍路さんも食べていました。珍しい風景ではありませんが、向こうにも女性連れが居ました。こちらにも二人連れが!こんなに沢山のお遍路さんがうどんを食べている景色は初めて見ます。お遍路さんの間で、美味い店の情報の共有化が行われているのでしょうか?これぞ四国らしいうどん店の風景です。これぞ四国らしいうどん店の風景

  • 桜井「歴史散策まち歩き」看板

    綱敷天満宮の西参道です。ここに志々満保育園が在ります。私はここの卒園生です。勿論何もかも変わって面影は残っていません。ここに新しく「歴史散策まち歩き」看板が出来ました。今回の帰省で訪ねた場所の多くが紹介されています。やっと町をアピールする気になったようです。今治市は「移住したい町ナンバーワン」らしいです。そんなこともあって、この看板を設置したのでしょうね。先日の地元ニュースで、昨年度の移住人口は1800人強らしいですが、私の周囲にそんな気配はありません。老幼なじみに訊くと、どうやら人が移住しているのは、平成の大合併で今治市になった島しょ部が中心だとか。旧今治市は人が流出しています。桜井「歴史散策まち歩き」看板

  • 椀船の港

    「衣干岩」のすぐ傍です。椀船の港です。ここから九州や中国・近畿に出かけて行きました。古い防波堤です。満潮時には水没します。丁度干潮に近いです。ここが「椀船の港」です。以前は堤防に下りられました。上流です。1本の大きな木が有ります。夏には蝉が煩くしますが、平素は静かな場所です。木陰を落とします。石碑です。句があります。漆器椀を満載して、行商人も載せて、帰りは各地の名産を積んで、椀船が往来した港です。昭和の中頃までは賑やかでした。もう昔の話になりました。椀船の港

  • 衣干岩

    お台場を過ぎて、保養所跡も過ぎて、「椀船の港」近くに来ました。すぐ先が河口です。松の茂みが有ります。史跡「衣干岩」です。説明板です。こんな謂れの岩です。サイクリングロードになっています。歴史の道です。近くに菅原道真公を祀った「綱敷天満宮」が在って、「志々満保育園」が在ります。卒園生の私は物心ついた頃からこの岩の存在を知っていましたが、「菅原道真公」ゆかりの岩とは知らないで登っていました。ぐるりと回って眺めます。大きな松が枯れています。大人になって見ると低い岩ですが、数年前に登ってみたら、上で立つと結構高いです。今日は、止めました。由緒ある岩ですもの。衣干岩

  • 桜井お台場跡

    東京の「お台場」が有名ですが、当時日本の沿岸に多くの台場が設けられたのではないでしょうか?そんな名残りです。少し高くなっていて、台場の名残りを留めています。江戸末期の遺跡がこんな風に残っています。子供の頃、周辺は海水浴場で賑わっていました。保養所が朽ちています。こんな施設と料理屋が界隈に沢山ありました。太平を謳歌していた江戸末期にあわただしく台場が造られて、昭和のレジャーブームが到来して、やがて誰も海水浴をしなくなりました。時代の変遷を感じます。桜井お台場跡

  • 桜井漁港の昼下がり

    あれっ⁉防波堤には行けなくなっていました。残念です。岸を散策します。昼下がりの漁港は誰も居ません。無人の作業小屋です。漁船が繋がれています。舫い綱です。防波堤の向こうには兵市島です。梅雨の晴れ間の、昼下がりの漁港です。網の修理の途中です。昼寝の時間でしょうか?岸を歩きます。子供の頃から変わらぬ風景です。新しい桟橋が出来ていました。昨年は無かったものです。タコ釣り船です。古老が、梅雨ダコは旨い、と言っていました。今がシーズンですね。陸にもタコつぼです。漁船の向こうの兵市島を眺めます。故郷の海岸の何処からでも見える島です。作業小屋です。魚をさばく台でしょうか?今も漁民の営みは変わりません。廃屋が目立ちます。後継者も漁獲量も減っています。農家と同様、離職が進んでいます。桜井漁港の昼下がり

  • 漆器の町を行く。

    桜井は漆器で栄えた町です。往時程の勢いは有りませんが、今でも漆器製造・販売の家が在ります。数年前から売りに出されていた民家です。売れたようですね。今治市はここ数年間、「移住したい町ナンバーワン」らしいです。酒屋の蔵です。漆器職人が多く居ました。需要があったのだと思います。立派な蔵です。今は廃業しています。左右の大きな家が、今でも漆器の家です。「小谷屋」は椀船を所有して、九州や中国・近畿に漆器を販売していました。「椀船」とは、お椀型の船ではありません。漆器のお椀のことです。お椀を積んで商売していました。今でも漆器蔵を持っています。向かい側は同級生の生家です。昼なお暗い大きな家だったのを覚えています。彼女の弟が家を継いで、今ではその子供の代になって、漆器の製造・販売を商っている様子です。漆器蔵です。商売が順調...漆器の町を行く。

  • 綱敷天満宮絵馬堂

    綱敷天満宮には大きな絵馬堂があります。私が保育園生の時から在る絵馬堂です。いつものように絵馬を見ようと見上げました。・・・有りません。絵馬が・・・?ぐるりと見回しても、何にも有りません??後日報告する(たぶん)「石丸忠兵衛」の墓と石碑を訪ねた際に出逢った、綱敷天満宮氏子の某部落総代の青年が教えてくれました。全く偶然の出逢いです。「絵馬が古なって、落ちそうになっとったんよ。危ないけん絵馬を下ろしての、氏子の代表が集まって相談したんよ(有名な天満宮なので多くの氏子を持っています)。そりゃ全部古い歴史のある絵ばいよ。最初はの、どこか文化施設に寄贈しょうや言うて問い合わせたらの、『絵が不鮮明じゃけん修復してからじゃないと預かれん』言うんよ。補修の費用を調べてビックリよ、ムリムリ。下ろしたまま放っとけんけん、『誰か...綱敷天満宮絵馬堂

  • 綱敷天満宮

    北参道を行きます。中央部から見る東参道です。桜井は漆器の製造販売が盛んでした。その販売の過程から「月賦販売」が興ったと、小学生の頃習いました。「月賦販売発祥の地」碑です。拝殿です。菅原道真公が太宰府遠流の途中、嵐に遭ってここの海岸に流れ着きました。救出した漁師たちですが、敷物がありません。漁で使う綱を丸く巻いて座布団としました。その謂れから「綱敷天満宮」と言います。拝殿の正面が南参道です。鳥居の先は「椀船の港」に通じます。広大な境内は瀬戸内海国立公園の松林です。菅原道真公ゆかりの天満宮です。公にちなんだ銅造の牛や、鷽や筆塚の石彫が有ります。とても大きいものです。前述のとおり、当所は漆器の町です。石彫の大きさは豊かな町だったと思わせます。綱敷天満宮

  • 漁師町を行くと、

    漁師町の路地に「四国のみち」があります。サイクリングロードです。サイクリングロードから漁師町の路地に入ります。だんだん住民が減っています。そんな路地を行きます。海が近いです。路地に戻ります。子供の頃に多くの友人と遊んだ路地です。銭湯跡が在りました。「梅田湯」だっと思います。従兄弟と入浴した銭湯です。こう見えて、営業中の理髪店です。左に曲がります。大きな鳥居に出逢いました。綱敷天満宮北参道です。漁師町を行くと、

  • 屯田川河口から

    帰省すると必ずここに来ます。屯田川河口です。この川が町の境です。左(北)が富田で、右側(南)が桜井です。ちょうど良い具合に干潮です。いつものように桜井側から砂州が露出した砂浜に降ります。南側を眺めます。海の向こうに四国山脈が望めます。その下には、新居浜の工場地帯です。靴で行ける所まで行きます。足元を潮が洗います。沖には「比企島」や「魚島」等々の、瀬戸の島々です。上流です。川底が露出しています。こんなに潮が引きます。北側の砂は細かいです。背後は「しなまみ」街道を形作る島々です。振り向けば私の足跡です。目を上げれば故郷の山河です。「霊仙山」です。長曾我部元親の四国統一事業で滅ぼされた城がありました。北側には「日本食研」の工場です。目を南に向けます。赤灯台の先に「唐子山」、右の山塊が「世田山」、背後に「石鎚山」...屯田川河口から

  • 「猿飛佐助」の作者「山田阿鉄」の墓

    やって来ました「観音禅寺」です。今治北高の隣に在ります。三門を入ったら正面にこれが有ります。。左右から眺めます。その隣にも像が有ります。こちら「こぼすなさま」です。ひょうきんな顔です。猿飛佐助像の左側です。こちらは「當り童子」です。こちらも同じくひょうきんな顔です。裏を見ました。猿飛佐助像も含めて同じ作者です。顔と雰囲気がよく似ています。さて、肝心の「山田阿鉄」の墓を探します。広大な墓地でした。やっと探し当てた墓です。石崖を背景に立っていました。「山田阿鉄」の文字は無いけど、スマホで検索したので間違いありません。帰り際にもう一度見ます。誰かに似ていませんか?奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」の作者が作ったそうです。「猿飛佐助」の作者「山田阿鉄」の墓

  • 猿飛佐助の像

    私も含めて、先輩の方々は皆さん知っていると思います。「猿飛佐助」の像です。設置場所はJR今治駅の東口の前です。説明碑が有ります。「猿飛佐助と山田阿鉄明治・大正時代、空前のブームとなった大衆娯楽小説『立川文庫』の原作者は、今治市出身の山田一族である。そして、その執筆の中心として活躍したのが、山田阿鉄である。立川文庫は明治44年から約13年間に196巻出版されたが、どれも人々の心をとらえ、爆発的な売れ行きであった。中でも、大正3年に発売された第40巻『忍者名人猿飛佐助』は大ベストセラーとなった。ここに、忍者といえば猿飛佐助といわれるほどのスーパースターが誕生したのである。その猿飛佐助は、真田十勇士とともに映画やドラマ、漫画などに次々と登場し、後世の文壇にも多大な影響を及ぼしている。日本全国、猿飛佐助を知らない...猿飛佐助の像

  • 世田山・笠松山の在る故郷の風景

    田圃に水が張られました。降水量が少ない地域なので、田植えをするのは梅雨に入ってからです。その前にこうして水を張って、漏れがないか確認するのです。水鏡が「世田山・笠松山」を映します。左が世田山で右が笠松山の連山で独立峰です。太平記に登場する「世田山合戦」の舞台です。楠木正成、新田義貞らの有力武将を失った南朝方がここから反撃に転じる作戦も敗戦し、北朝方の勝利が確定しました。室町幕府の誕生です。田植え翌日です。苗を植えた状態を確認しています。機械植えなので田圃の端は時々植え漏れがあります。隙間に苗を手で植えます。田植え後の田圃に初夏の風が渡ります。水鏡の山塊が消されます。鎌倉時代から、今も変わらぬ山容です。世田山・笠松山の在る故郷の風景

  • 柔らかいうどん/かねと食堂

    私のブログの読者から、今治に「柔らかいうどん」があると聞いていました。帰省したら絶対行こうと決めていました。腰の強いうどんが多い四国です。さて、立派な外観です。この外観を見て、高校生の頃にここで食べたのを思い出しました。創業は明治25年頃だそうです。私が高校生のころから古い店でした。入り口は2つ有ります。こちら裏口です。広小路から今治銀座へ行く道です。利便性を考えて作った入り口だと思います。明かりが灯って「営業中」の札です。この景色好いです。こちらが広小路に面した表口です。まだ11時半前ですが、けっこう客が入って行きます。店頭のサンプルを見ます。この景色も好いです。肉うどんが有名と聞きました。かつ丼もオムライスもカレーライスも鍋焼きうどんも何でもあります。そして、全て安いです!暖簾を潜ります。入った瞬間、...柔らかいうどん/かねと食堂

  • 「伊予水軍」で昼食

    「大浜」で食べられなかった私たち兄妹です。すぐ近くの「伊予水軍」に行きました。雨の中、しまなみ海道が煙ります。大島も煙っています。そして、雨の中で客が並んでいます。待つ間退屈です。この料亭の歴史は古く、地元民だけでなく多くの人が知っています。社用族も接待で使います。バスでも行けるんですね。昔はここにも「石風呂」が在ったようです。高浜虚子の句が有ります。「春潮や倭寇の子孫汝と我」こちらは、、、読めませんが、「倭寇」の文字が見えます。海賊の血統がこの店の誇りでしょうか?結局40分くらい待ちました。客に地元の議員も居て賑わっていました。人が多くて喧しくて落ち着きません。やっぱり来年は「大浜」にします。「伊予水軍」で昼食

  • お昼は「大浜」へ、

    妹2人と久しぶりに会って、昼食に行きます。昨年行って気に入った磯料理「大浜」です。目の前が大浜漁港です。この景色も好きです。しまなみ海道が煙ります。梅雨入りした故郷です。大島も煙ります。入ろうとしたら予約で満席とのこと。来年は予約しようと思いました。強く反省!お昼は「大浜」へ、

  • 石風呂の保養所跡

    石風呂の保養所跡の一つです。砂浜の木陰に、手作りの遊具が有ります。多くの子供が遊んだと思います。遊ぶ子供の姿が声が、大人の癒しになったと思います。予備のタイヤでしょうか?軒下にも有ります。大楠です。ここの歴史を眺めて来ました。何も語らず立っています。子供の声が聞こえるようです。取り残された時代の景色です。切通しを戻ります。タイムマシンの出入り口のようです。さて、現世に戻りましょう。石風呂の保養所跡

  • 桜井石風呂再訪

    今年もやって来ました。初夏の木漏れ日が射す切通しの入り口です。すぐに目的地です。由緒下記はとても読み辛いです。石風呂とは、現在のサウナ風呂であること、古くは京の公家も訪れたこと等が記されています。切通しの山の上には展望所が在ります。何にも変わらない景色です。でも、もう数年前に閉鎖されたままです。この景色も変わりません。すぐそこが海です。サウナで火照った体を冷ます海です。言わば石風呂の「プライベートビーチ」です。白砂青松のビーチです。瀬戸内海国立公園の海です。この海を見る為に造られた展望所です。今年はもう上がりません。だって、何にも変わらない景色だもの。ここは保養所でした。長期療養の人も居ました。農閑期の骨休めの場でもありました。その施設が朽ちて残っています。海に出ます。企業の施設も在りました。石風呂を振り...桜井石風呂再訪

  • 相続土地国庫帰属制度

    アンパンマン列車が走ります。線路脇の耕作放棄地です。帰省したら1番にやって来る場所です。耕作はしなくても、隣近所の迷惑にならないよう草刈をしています。今回の帰省前に、シルバーさんに頼んで草刈りを終えています。1年前、この土地を「相続土地国庫帰属」として申請していました。昨年4月に施行された法律です。境界を明らかにして、国に10年分の管理費用相当額を支払って、国に差し上げる?(お返しする?)制度です。その費用は20万円と想定されています。お金を添えて国に帰属させることは、ご先祖様が「子孫の為に寸土でも残してやりたい」と遺してくれたことを思うと複雑な思いですが、この土地は何処にも出入りする道が在りません。周囲の土地のあぜ道または、田圃を通って出入りするしかありません。機械を入れる事もできません。隣の田圃が田植...相続土地国庫帰属制度

  • JAの苗床風景

    帰省したら見たい景色が沢山あります。ここもその一つです。JAの苗育場です。かつて各農家が自分で苗を作っていたのを止めて、いつ頃からかJAがここで作って販売するようになりました。その方が効率が良いです。今は誰も自分で作っていません。小さな長方形の集まりは、苗が入った一つ一つの箱です。そのまま田植え機に設置する大きさです。農家は買って帰って自分の機械に設置するだけで済みます。その集大成がこの景色になります。パッチワークのような美しさです。現代の農村の風景です。一部、手前の場所の苗の販売が始まっています。田植えが近いです。苗育場の向こうは「霊仙山」です。あそこに城がありましたが、長曾我部元親の四国統一のよって破壊されました。今は展望所となっています。4と9の付く日はお姫様の霊が現れるとの伝説があって、山の中腹の...JAの苗床風景

  • JR松山駅が変りつつある。

    JR松山駅です。私が乗る列車が停車しています。いつもの「アンパンマン列車」ではありません。カラーリングが変りました!精悍な感じです。「いしづち・しおかぜ」の、従来の特急車両です。同じ特急にアンパンマン列車も使われていたので、アンパンマンは今でも走っていると思います。「瀬戸大橋線3億人」と書いています。これですね!瀬戸大橋を通って岡山と宇和島を結ぶ線です。それが乗客3億人を突破したようです。・・・当初計画より早かったのか?遅かったのか?そして、隣りにあったこれ!以前、予土線の黄色いトロッコ列車に乗りました。楽しかったです。そして、新たなトロッコ列車の登場のようです。「藍よしのがわトロッコ」です!今度は藍色のトロッコです!土讃線だろうか?乗ってみたいです・・・。ふと、列車の上を見ました。あそこに新しいホームが...JR松山駅が変りつつある。

  • 四国松山に到着

    今治の街です。四国5番目の人口の都市だそうです。下方に「来島」が見えます。潮流の早い場所で、三流ある村上水軍の「来島村上」の本拠地です。その斜め左上は、代表的な造船所です。あちこちに在る造船所の最大級のものです。造船とタオルの生産が日本一の街です。石油コンビナートも見えます。「鹿島」です。晩年の渥美清さんの隠棲の場所でした。この辺から松山市になります。昔は「北条市」だったのが、「平成の大合併」で松山市に吸収されました。繊維産業が盛んな町でした。昨夏の甲子園野球大会に出場した「聖カタリナ高校」はこの町に在ります。以前は女子高でした。時代の変遷を感じます。松山の中心部が見えて来ました。「興居島」です。ブランド蜜柑の産地です。日照時間が長いので甘い蜜柑ができます。蜜柑栽培が盛んな多島海です。山頂まで蜜柑畑です。...四国松山に到着

  • 羽田空港を離陸して故郷へ

    羽田空港が混雑しています。既に出発時間を超過しています。やっと滑走路へ向かいます。東京湾です。雲の上に出ました。雲間からかろうじて見えた富士山です。知多半島です。ブーメラン状の角の外側辺りが家内の生家が在った場所です。左に中部国際空港も見えます。やがて大阪の街です。淡路島です。左下に明石大橋も見えます。小豆島です。多島海の瀬戸内海国立公園です。瀬戸内海大橋です。大橋の先には「讃岐富士」も見えます。写真中央は「四阪島」だと思います。住友鉱山の銅の精錬所が在りました。1度だけ今治からの連絡船で行ったことがあります。今はもう、とっくの昔に無人島です。四国山脈に雲が掛かっています。奥の島が「平市島」と「子兵市島」です。故郷の海岸からよく見える島です。小学校高学年の時まで人が住んで居ました。手前は、長いのが「比岐島...羽田空港を離陸して故郷へ

  • 回向院歴史エリア

    爽やかな5月です。ここは処刑された人の墓地です。他所にも墓が在るので、ここは首を供養しているのではないでしょうか?自ら腕を切り落としたやくざ者です。演劇などに取り上げられました。鼠小僧です。高橋お伝です。女性最後の断首刑者です。2.26事件の首謀者・磯部浅一と妻・登美子の墓です。前回訪問時には無かった墓です。カールゴッチです。「プロセスの神様」と言われていました。どうしてここに居るのか、、不思議です。なんて書いているのか分かりません。大きな墓所が有ります。橋本左内です。彼は安政の大獄で処刑されました。そして吉田松陰です。さすがは「歴史エリア」と言うだけのことがあります。多くの歴史上の人物が葬られています。回向院歴史エリア

  • 本妙寺/永代供養塔と当世墓事情

    永代供養塔へやって来ました。墓地は日陰が有りません。暑い日です。多くの墓にお参りしました。ここで終わりにしたいです。帰り道に見た当世墓事情です。こちらにも。あちらにも。背後にもいっぱい有ります。「寺務所までお願いします當山」永代供養塔を依頼していなくて、法事をしなくなった墓だと思います。樹木葬や海上散骨が行われる時代です。これらは墓仕舞いの対象なんでしょうね・・・。本妙寺/永代供養塔と当世墓事情

  • 本妙寺/千葉周作・遠山金四郎・天野宗歩の墓

    本妙寺の墓地をお参りしています。先に「千葉周作」の墓にお参りします。「千葉周作」の墓です。彼は江戸末期の剣豪で、「北辰一刀流」の流祖です。「赤胴鈴之助」のモデルになった人物だそうです。その剣技は、坂本龍馬をはじめ幕末に活躍した多くの志士に受け継がれました。この一角が千葉家の墓所です。供物は「五穀の甘酒」に「鬼ごろし」に「鬼ころし」です。酒好きだったのでしょうか?「遠山金四郎」の墓へ参ります。「名奉行」と書かれています。江戸時代に町奉行を務めました。「天保の改革」で庶民の暮らしを守るために活躍し、絶大な人気を誇ったと言われている実在の人物です。官位は従五位下左衛門尉です。晩年は、現在の「墨田区菊川3丁目」に住んだそうです。その住居はかつて「長谷川平蔵」が住んで居たそうです。コンビニ傍に説明板が有ります。自然...本妙寺/千葉周作・遠山金四郎・天野宗歩の墓

  • 本妙寺/明暦の大火供養塔と有名人の墓

    久しぶりにやって来ました。「徳栄山本妙寺」です。真夏日の陽気です。ここには「遠山金四郎影元」の墓が有ります。沢山の有名人のお参り所があります。先ず「明暦の大火供養塔」へ参ります。明暦の大火は1657年3月2日〜4日で江戸の大半を焼いた大火災です。江戸の3大火災と呼ばれていますが、その延焼面積及び死者共に江戸時代最大の火事です。天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷や市街地の大半を焼失しました。死者数は3万人~10万人と言われています。「振袖火事」とも言われています。3人の娘が袖を通し、3人の娘が死んだ因縁の着物を焼却しようとしたら強風に舞い上げられ、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。と伝わっています(諸説あり)。「明暦3年」の文字が見えます。続いて「森山多吉郎」の墓へ参ります。実は私、彼を知りません。ああ、そう...本妙寺/明暦の大火供養塔と有名人の墓

  • 小塚原回向院

    新聞記事に惹かれて散策しています。小塚原回向院です。徳川幕府の墓所です。入り口に地蔵尊があります。子供の頃「吉展ちゃん誘拐事件」がありました。ここが菩提寺です。新聞記事にあった「解体新書」に係わる説明板・記念碑です。さて、歴史エリアへ行きます。小塚原回向院

  • 小塚原回向院・延命寺

    新聞記事に惹かれて散策しています。先ずは首切り地蔵から。回向院の隣です。首切り地蔵です。高架上を日比谷線の電車が走っています。上京した当初、首切り地蔵がここに有り、ここが処刑場跡だと知らずに、あの電車で毎日通っていました。家と会社の往復生活だったので、東京に引っ越して来て、自転車で散策を始めてからやっと知ったのです。ショックでした。処刑場も、無知な自分も。いつも静かにここに佇んで居ます。東日本大震災で倒れかけて、檀家を初めとした寄付で修理した記録です。題目塔です。元禄11年(1698)2月15日に京都三条の商人、八幡屋谷口氏と法春比丘尼により造立された題目塔。17世紀後半、法華信者の谷口氏が全国の街道筋等に、一切衆生の救済のため造立した題目塔のひとつであり、品川の仕置場等、100基以上が確認されている。1...小塚原回向院・延命寺

  • 泪橋交差点

    新聞記事に惹かれて散策しています。山谷は労働者の街です。そこには安宿が沢山あります。そして、私にとって山谷は、岡林信康が歌う「山谷ブルース」と「あしたのジョー」です。泪橋には川も橋の在りません。従って、掘っ立て小屋の「丹下団平ボクシングジム」も在りません。目の前で、男が警察官に食って掛かっています。派出所に連れていかれるな。矢吹丈が喧嘩して連れられて行った交番が在ります。初めて行った日の山谷の記事はこちら。泪橋交差点

  • 泪橋ホール

    新聞記事に誘われて散策しています。この存在はショクでした。大通りにあるのに、いつも通っている場所なのに、今まで気付きませんでした。興味がなければこんなにサイケな看板でも目に入りません。眺め倒しました。強烈な印象が残りました。また見に来ると思います。泪橋ホール

  • 大塚でチンドン屋

    初夏の光溢れる大塚駅前です。なんと、チンドン屋が居ました。賑々しく人を呼び込みます。チラシを貰いました。既に廃れた商売が、最近復活しているようですね。大塚でチンドン屋

  • 千束で「龍泉 冨久の湯」に出逢った。

    千束を走っていたら、「龍泉冨久の湯」に出逢いました。千束の龍泉ときたら、「樋口一葉」が暮らした街です。道路を渡ります。ビルに有る銭湯です。暖簾が涼しげです。まだ「準備中」の札が掛かっています。夏祭りがあるようです。「千束神社」の祭りだと思います。銭湯の規模を見ます。大きな銭湯です。陽射しの中で、自販機で水分を取りながら、開店を待つ老人が居ます。振り返って眺めます。思った以上に大きいです。裏に回ります。こんな牛乳屋が在りました。千束界隈は、まだ古い家に出逢えます。戻りつつ銭湯を眺めます。湯船の窓が有って、あそこは銭湯と一体のアパートでしょうか?「冨久の湯」の前の路地に入りました。料亭が在りました。黒塗りのハイヤーが停まっていました。斜め前はもんじゃ焼き屋です。下町の風景です。千束といえば、路地を抜けるとそこ...千束で「龍泉冨久の湯」に出逢った。

  • 「レストラン・アブルボア」で、

    アフリカをイメージしたレストランです。庭を見ながらカキフライ定食を食べています。いつもお米が美味しいです。農学部に在るレストランだからでしょうか?例によって食レポを忘れて、食べるのに夢中になっています。時々風に乗って、雪のように白い綿毛が降って来ます。幻想的です。写って無いけど・・・。食事を終えて外に出ました。これです。あの大きな木です。雪虫みたいに飛んでいます。写って無いけど・・・。何の木だろう?「レストラン・アブルボア」で、

  • 梅雨入り前の「レストラン・アブルボア」

    東京大学農学部キャンパスに在ります。この雰囲気が好いです。この時期にまだ有りました。カキフライ定食にしました。今日の一番人気です。多くの人が注文していました。「向ヶ丘ファカルティハウス」内にあるレストランです。いつものように庭に下ります。レストランの照明が好いです。蔦の壁が好いです。あの扉の向こうにドアフォンがあって、押せば扉を開けて貰えます。今日も6人連れが入って来ました。さあ、カキフライ定食を食べに行きましょう。梅雨入り前の「レストラン・アブルボア」

  • 新しい休憩所かな?ハチ公と

    東京大学農学部キャンパスです。ブルーシートが巡らされていて、立ち入り禁止の赤いコーンが置かれています。何だろう?椅子が置かれています。新しい休憩所でしょうか?ハチ公と上野博士像の奥です。木漏れ日の中から光のキャンパスを振り返ります。緑が鮮やかな東京大学農学部キャンパスです。新しい休憩所かな?ハチ公と

  • 初夏の三四郎池畔を歩く。

    初夏の木漏れ陽で薄暗くなった池畔を歩きます。木漏れ陽を踏みます。三四郎池を覗きます。殆どいつも濁っています。排水路が無い窪地の池です。影絵のようです。緑が濃いです。緑の隙間から見上げる空は初夏の色です。青紅葉が瑞々しく浮かびます。ちょっと振り返ります。木漏れ陽の遊歩道です。視界が開けます。もうすぐ梅雨が来ます。初夏の三四郎池畔を歩く。

  • 初夏の三四郎池へ行く。

    緑に覆われたような、東京大学三四郎池入り口です。何処かへ連れ去られそうな空間です。人が居ました!学生でしょうか?丁度昼休みです。水が少ないです。橋に向かいます。木漏れ陽の橋です。三四郎池です。緑を映します。初夏の風情です。初夏の三四郎池へ行く。

  • 東京大学の青銀杏並木

    青銀杏が今伸び盛りです。東京大学の銀杏並木です。木陰が涼しげです。工学部前の大銀杏へ向かいます。青々と繁っています。工学部前から振り返ります。黒々と影を落とします。木陰です。銀杏並木に戻って、正門方向を眺めます。安田講堂方面です。日陰が恋しい時刻です。東京大学の青銀杏並木

  • 「江戸川区東小松川小学校」改築中

    沢山の人が忙しく働いていました。「江戸川区東小松川小学校」です。もうすぐ完成のようです。東京23区でも過疎化で小学校が閉鎖されています。この界隈は人が増えているのでしょうか?隣に新しい共同住宅でしょうか?いや違います。この形状は、たぶんこの工事で働く人たちの臨時の住居だと推察します。こんなに多くの人が住み込んで働いています。他にも、通いの職人やトラックとかも居るでしょう。大工事です。隣に「東小松川小学校」が在りました。この古くなった校舎を建て替えるようです。新しい校舎が建っているあちらが今の校庭で、完成後は、こちらと背後のプレハブ建物の場所が校庭になるんでしょうね。珍しい光景です。何かの理由で途中から登校する生徒のようです。今ではこうしてインターホンで呼び出して開けて貰うんですね。私の通った小中高大学校の...「江戸川区東小松川小学校」改築中

  • ハト屋パン

    時々「下町人情キラキラ橘商店街」を通ります。「ハト屋パン」が廃業した後、現在の店主が引き継ぎました。当初は土日だけの営業でした。他の仕事をしながらの営業でした。当初から変わらない看板です。好いです。パンを買っています。コッペパンが有名でした。タレントが下町散策の番組で度々訪れていました。経営者が代わった当初、1度だけコッペパンを買いました。新しい経営者は、そのレピシを十分に引き継いでいないと言っていました。でも美味しかったです。「じゃあどうして、1度しか買わないのか」って?私、ここ10年くらいパン食を止めています。1度だけ、応援したくて買いました。下町商店街に復活した名物店です。頑張って欲しいです。ハト屋パン

  • 京成立石駅周辺再開発状況

    ずいぶん景色が変わりました。「呑んべ横丁」が在った場所です。(こんな景色でした)茶色のマンションが工事フェンスに覆われて、手前の「呑んべ横丁」が無くなりました。高架化工事が進んでいます。その下では線路が敷かれて、仮設のホームが造られています。東側です。仮設の線路ができました。一時的にここを通して、右の線路の上に、高架化工事を推進するようです。高架の柱の向こうには現在の駅舎が見えます。駅前の商店街の交差点です。工事フェンスの一部が透明になりました。覗きます。・・・何にも在りません。こうなったら、ここに何が在ったか分かりません。さっきの交差点を成していた、もう一つの商店街です。ここも覗けます。この界隈は、娼館跡の呑み屋街でした。いつの間にか、猥雑な建物が消滅しました。再開発って凄いですね。リセットボタンみたい...京成立石駅周辺再開発状況

  • 久しぶりの「クローバー商店街」と金次郎像

    久しぶりにやって来ました。堀切駅ホームの土手下の商店街です。「堀切菖蒲まつり」のバナーが出ていました。「クローバー商店街」です。人通りが少ないです。商店街の東端です。街灯は菖蒲の絵です。灯が点されています。有名な「堀切菖蒲園」最寄りの商店街です。菖蒲に賭ける意気込みが伝わります。あれっ⁈ここです。無い⁈ここに有りました。長い間ここに置かれていた、歩きスマホを奨励しているようだと手首を落とされた二宮金次郎像です。なんて可哀想なことをするんだと、何度か記事にしました。抗議があって撤去したのでしょうか?で、金次郎は何処へ行ったの?まさか、鋳潰したんじゃ無いよね!久しぶりの「クローバー商店街」と金次郎像

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