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  • 消息と親教

    No.8,No.9とかなり斬り込まれた生々しさがありますが、消息(として発布の新しい領解文)も親教(ご親教三部作)も、総局の申達によるものであるが、消息には勧学寮のチェックが入るものの親教はチェックが入らないなど、システム的な不具合が問題を大きくしていってしまったように思えるのであります。但し、今回は消息への勧学寮のチェックを巧妙にすり抜けた、というよりも意図的にすり抜けさせたと言えるのでしょう。そのようなわけで、消息の誤謬は「わざと」であるとすれば、今回の法要における親教の誤謬も「わざと」であるとも言えるのかもしれません。時代の流れに迎合した過去の反省を述べながらにも、時代の流れに迎合して教えを変えるという主張を入れ込ませたことであります。勧学寮のチェックが入らなくても矛盾したことが書いてあることぐらい...消息と親教

  • わたしの領解文/一人ひとりの領解文

    領解は、本来、一人ひとりの信心への理解を表すものであり、強制されたり、ましてや唱和させられたりするものではない。その信心への理解もそれぞれで深まることによって、当然に、その領解も変化するものになっていきます。その各々の領解を確認していく場が、勧学による改悔批判、法義示談となるわけです。わたしの領解文を表す(出言)ことで、自分の信心の理解を自分で確認していくと共に、改悔批判、法義示談に積極的に参加して、勧学の導きにて、より信心の理解を深めていくことが望ましいものとなります。また、それが本来の門信徒のあり方であると言えるのでしょう。▼わたしの領解文/一人ひとりの領解文https://note.com/yokayokayo/m/m4c5d9a5e5ed5▼つぶやき領解文https://note.com/yoka...わたしの領解文/一人ひとりの領解文

  • 「三昧耶」の語義から考える蓮如上人「機法一体」説について

    三昧耶薩埵、三昧耶戒と出てくる「三昧耶」とは、元々、東密、台密共に語義は同じように解釈されてあるところであり、その四義(平等・誓願・驚覚・除垢障)における、特に「平等」と「誓願」という意味合いから、蓮如上人が南無阿弥陀佛の「機法一体」説を理論付けた可能性も高くあります。一体という意味での「平等」は、もちろん、如来の観点からの「平等」の義(空性として平等)であり、空性(悟るべき空性のあり方)としては、凡夫も仏も一体という意味でありますから、本来(空性として一体)清浄ということ(本質的に本源から空性)で、その凡夫と仏の一体性(仏凡一体)から「三昧耶」を「信心」として援用したと考えることもできるわけであります。いや、それより、「三昧耶」における「平等」より「誓願」の方を重視した可能性も高くあります。「三昧耶」の...「三昧耶」の語義から考える蓮如上人「機法一体」説について

  • 蓮如上人「機法一体」と密教「最勝三昧王三昧」との関係性について

    密教にも似たような蓮如上人の「機法一体」説を確認することができました。「私の信心と仏の救いは本来一つゆえ」まさに三昧耶薩埵(金剛薩埵)と智薩埵との関係性と同じ構造となると分かりました。当時の民衆に流布した談義本の南無阿弥陀佛の密教思想から、蓮師が機法一体を展開したことからも類似するのは当然ではあるものの、天台密教にせよ、真言密教にせよ、三昧耶薩埵と智薩埵との合一性を明確に説く成就法、本尊瑜伽が日本に招来していたかどうかは明確ではありません。三昧耶薩埵と智薩埵との合一性を明確に説くものは、代表的には「最勝三昧王三昧」となります。もしも、談義本における機法一体の密教思想が、三昧耶薩埵と智薩埵の合一性を解くものとしてあったとするならば、まさに「私の信心と仏の救いは本来一つゆえ」と同じことになるのであります。蓮師...蓮如上人「機法一体」と密教「最勝三昧王三昧」との関係性について

  • 浄土真宗本願寺派 勧学・司教 有志の会 - 記者会見

    記者会見アーカイブを拝聴いたしました。非常によく整理された記者会見で、質疑応答も分かりやすく、良いものであるかと僭越ながらにも存じます。あとは宗会と新しい総局による対応次第となってくることでしょう。浄土真宗本願寺派勧学・司教有志の会-記者会見https://www.youtube.com/watch?v=P5Q3UMmfiJs深川勧学和上が、記者会見でおっしゃられていたように、やはり勧学寮前寮頭の徳永和上がお辞めになられた一番の要因は、本覚思想にあったようですね…有志の会の最後の声明が、ご門主さま宛の安心裁断権行使の請願書とならなかったのは仕方のないことでしたが、改めて五つ全てを見返してみて思うのは、決定的な過失が、やはり、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」というところであり、ここの表現が、ほんの紙一...浄土真宗本願寺派勧学・司教有志の会-記者会見

  • 「令和の惑乱」もこれで幕引きとなるか・・【ニュース速報】石上総長が辞意を表明 浄土真宗本願寺派

    「令和の惑乱」もこれで幕引きとなりますかね・・岡本法治さま、本当にお疲れ様でございました。しかし、親鸞聖人の思想、浄土真宗教学、本願寺派教学、よく学び、色々と知ることができました。あとは、「法義示談」、「改悔批判」に出掛けて、疑問点を解消しに参りたいと存じます。とにかく、龍谷大学・真宗学科学生論文集は本当に良い論文が多くて、学ぶのに最適でございました。ネット公開、有り難かったですね。【ニュース速報】石上総長が辞意を表明浄土真宗本願寺派浄土真宗本願寺派の石上智康総長(86)は21日、総長の職を辞任する考えを総局や宗会関係者に伝えた。理由として、慶讃法要の円成を機縁として人心を一新し、宗門のさらなる活性化に道を開きたいということ、また体調不良により医師の診断に従って当面、安静療養と健康の回復に努めたいことを挙...「令和の惑乱」もこれで幕引きとなるか・・【ニュース速報】石上総長が辞意を表明浄土真宗本願寺派

  • 和平交渉へと向けたプロトコル、イニシアティブを取るチャンスを・・

    せっかく広島で開催されたのに、戦争の共業をまた深めることになってしまうとは…和平交渉へと向けたプロトコル、イニシアティブを取るチャンスだったのに。残念である。・・どういったことが、日本、日本人の「共業」になるのですか、とのことですが、今回のウクライナへの戦費支援、間接的な武器供与、後方支援を認めることは、イラクの時もそうでしたが、殺人を間接的にしている業を抱えることになります。戦費支援、防衛費は、税金からであり、それは私たちが出しているものであるからです。政府にその使い方を容認してしまっているということは、皆、殺人幇助していることになるからであります。そのように抱えた共業は、因縁、因果により、必ず報いがきます。釈迦族の抱えた共業による因果の流れは、釈尊でも三度までしか止めれなかったほどに強烈、強大な力なの...和平交渉へと向けたプロトコル、イニシアティブを取るチャンスを・・

  • 西本願寺・慶讃法要初日を振り返って・・

    昨日の西本願寺・慶讃結願法要を中継で観て、あの格式の中、初日によく敢行できたものだと振り返る。無知というのは怖いものだ、、結局、あれから色々知ると、ご門主さまに渡り、仮に返歌なされたくとも、安心に関わることであるため、総局の申達、勧学寮の諮問を通さないと返せない仕組みであって、無駄なことであった…ましてや、中外日報さんに取り上げてもらっていなければ、ただのおかしい、アホなやつで終わっていた。もちろん、それも仕方がないが、、一休さんとあれこれ気ままにやり取りされた蓮如上人の時代であればと考えると、あまりに窮屈で、自由のないしんどい立場にあられるのだと、気の毒に思う…安心裁断権は、ご門主さまの唯一の権限。しかし、それも実質的には無いようなもの…与奪者指名、任命権はせめて認められるべきなのではないだろうかと思う...西本願寺・慶讃法要初日を振り返って・・

  • 「自然の浄土」について

    昨日、声明を全て読み返していて思ったのだが、そう言えば、「自然の浄土」については結局触れられていなかった、、しかし、「声明」を何度見ても「しょうみょう」と読んでしまうのは、ある意味、仕方のないことではあるだろう…話を戻して、、「自然の浄土」をどう考えるのかは、実は教学的にはかなり重要なのである。拙生は、「一如宝海」と解しているが、そうではなく「現世現成」と考えられている場合もあるからだ。新しい領解文は、本覚思想を謳っていることからも、「現世現成」としてある可能性が極めて高い。救い摂られるのは、確かに現世現成ではあるが、実際に救われるのは、実質的に「一如宝海」である。現世、極楽も、阿弥陀如来の方便法身のはたらく世界にはあるが、あくまで最終的に救われるところは、阿弥陀如来の法性法身、一如宝海における二種法身獲...「自然の浄土」について

  • 【記者会見のお知らせ】「浄土真宗本願寺派 勧学・司教 有志の会」

    記者会見が開かれるようです。【記者会見のお知らせ】本年の御正忌報恩講において、ご門主さまの「ご消息」のなかで「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」が発布されました。しかしながら、総局の「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」の拝読・唱和を強く推進する宗務方針によって、みなさまご存じの通り、これまで愛山護法で生きてこられた僧侶・門信徒のあいだには戸惑いと混乱が広がり、またご本山やご門主さまのお立場を憂慮する声が全国各地からあがり続けています。われわれ「浄土真宗本願寺派勧学・司教有志の会」(代表:深川宣暢)は、その内容の問題と、発表されるまでの経緯の不可解さ、不透明さについて、これまでに声明を発表して指摘をしてまいりました。そして昨日「声明(五)」を発表したことで一つの区切りを迎えました。そこで、このたび京都東急ホ...【記者会見のお知らせ】「浄土真宗本願寺派勧学・司教有志の会」

  • 「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明を全て改めて読み返して

    有志の会の最後の声明が、ご門主さま宛の安心裁断権行使の請願書とならなかったのは仕方のないことでしたが、改めて五つ全てを改めて読み返して思うのは、決定的な過失が、やはり、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」というところであり、ここの表現が、ほんの紙一重で違えば、もしかしたらここまで大問題にはならなかったかもしれません・・前勧学寮頭の徳永氏も、答申とは異なって、消息、領解文として出されてしまったことよりも、この「紙一重のところ」に対してのことから辞任を決意なさったのではないだろうかと思うのであります・・蓮如上人の機法一体、仏凡一体の本覚思想性を明確に否定されておられたからであります。お近くですので、真意をお聴きしに伺えたらとは思うものの、お相手して頂けないでしょうね・・とにかく、本当に紙一重ということです・...「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明を全て改めて読み返して

  • 新しい領解文・改

    Facebookのコメント欄で書いたことからのメモ・・「新しい領解文」が間違っていることは明らかながら、これまでの拙考究から、元の領解文も親鸞聖人の信心、領解とは微妙に違いがあるようにやはり思えます。また、「称名報恩」も、微妙ながらやはり違和感があります。領解文を覚えやすくするなら、もっと簡単なもので、出言もしやすいものとして調え直すのが良いでしょうね・・例えば・・「新しい領解文・改」南無阿弥陀佛本願勅命南無阿弥陀佛称名正業南無阿弥陀佛名号功徳南無阿弥陀佛信心正因これぐらいにて本当に十分かと。もちろん、根拠は、名破満釈・融会合釈から。・・親鸞聖人の思想「阿弥陀如来法性法身・二種回向(教)→阿弥陀如来方便法身のはたらき(行)→信心(信)→二種法身の獲得(証)」「二種回向(因)→方便(縁)→二種法身(果)」行...新しい領解文・改

  • 「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(五)

    第五弾声明が出されました。ご門主さまへの安心裁断権行使の請願にはならずでしたね…明らかに間違っているものを醜態を晒しながらにも総局が頑なに押し付けようとするのには何か、やはり大きな意図があるのでしょう…「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(五)このたびご消息として発布された「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」(以下、「新しい領解文」)の内容について、勧学・司教有志の会はすでに、その「表題(名称)」「第一段落」「第二段落」「第三段落」における主要な問題点を「声明」において指摘してきた。今回の声明では、これまで「新しい領解文」の内容について述べてきた問題点をまとめ、【付記】として「新しい領解文」が発布されるに至った経緯についての問題にも触れておきたい。一はじめに「表題(名称)」については、「声明(...「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(五)

  • 「法義示談」

    「法義示談」があることは知らなかったが、主に与奪経験者によって行われる門信徒、一般向けの安心裁断の一つと言えるのだろうか?教学的には重要な中枢的役割を担うものであると思われるのだが、「新しい領解文」への疑義の中では開催は難しいということなのであろう…あるいは、与奪経験者に引き受けてもらえないからなのか…勧学司教有志の会、ご門主さまへの安心裁断権行使の請願、未だ出される気配はありませんね…法義示談休止についてhttps://www.hongwanji.kyoto/info/001277.html「法義示談」

  • ご門主さんは無謬となるはずの制度がどうしてこうなったのか・・

    結局は、ご門主さんの「ご親教」さえも、総局の関与によるものにならざるを得ないということか…時代に迎合した反省を述べながら、時代に迎合して教義を分かりやすくに変えるとか、矛盾することがご親教の原稿に書かれてあるのも、「新しい領解文」における間違いと共に、根は同じということであろう…あまりにもお粗末すぎる…ご門主さんは無謬となる制度にあるはずが、間違ったことをさせてしまい、恥をかかせたままでは、当然に皆、怒るわけで。このような中でも、ご門主さんの唯一の残されてある権利が、「安心裁断権」ということのようだが、それも、裁断を任せる与奪者(最高位学僧)は、ご門主さんによる指名ではないようだ…実質、権限がほとんど無いに等しい…それもどうかとは思うのだが、、せめて与奪者の指名権もご門主さんに任せないと。今回のことでも、...ご門主さんは無謬となるはずの制度がどうしてこうなったのか・・

  • 真宗学科学生論文集・改悔批判 (平成7年)

    浄土真宗の学びを進めるのに最適なものは、優秀な真宗学科学生さんによる卒業論文集である。何より素直で丁寧であるから、変な癖や、変な偏りもないので、読みやすく理解しやすい。それが無料で読めるのであるのだからお得でもある。今回の「新しい領解文」の問題の件でも、大いに参考にさせて頂いた。しかし、令和4年度のものはまだなのだろうか・・待ち遠しい。。真宗学科学生論文集https://shinshu-gakkai.omiya.ryukoku.ac.jp/yusyuronbun.html真宗教学において、論理学がこれほどまでに精緻に議論されていたとは、誠に新発見で、三業惑乱時にどれほど教学的論争が盛んであったのかが窺える内容である。「浄土真宗金剛錍」を参考とすれば、更に有効な論法を用いて反駁していくのに大いに役立つものと...真宗学科学生論文集・改悔批判(平成7年)

  • 獲信の構造について・1

    ①〜④と各称名については、まだ整理中です。称名①〜④は、微妙なりにも阿弥陀如来の方便法身のはたらきに差異があると考えているわけです。特に、①と➁には大きな違いがあり、①は、衆生に本願を知らしめる役割、②は、本願を得心させる役割があると考えています。③は、本願を納得させる役割、④は、本願の功徳を得心させる役割となるでしょうか。まだ思考中です…親鸞聖人の思想「阿弥陀如来法性法身・二種回向(教)→阿弥陀如来方便法身のはたらき(行)→信心(信)→二種法身の獲得(証)」「二種回向(因)→方便(縁)→二種法身(果)」行信論の要諦は、名破満釈・融会合釈「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ...獲信の構造について・1

  • 「新しい領解文」についてのこと

    勧学・司教有志の会の声明を、総局宛としてではなく、ご門主さま宛としての「安心裁断権のご行使をお願いする請願書」とするのはどうであろうかと「新しい「領解文」を考える会」の方へと書いたのだが、それは「100%無理」だろうとのメッセージを頂いた・・令和5年の改悔批判、御正忌報恩講御満座に引き続いて発布された消息としての「新しい領解文」が、まさか改悔批判としての安心正否の裁断にかけられるわけがないということであろうか・・しかし、改悔批判の与奪経験者3~4名(勧学)[安心を判断できる最高位学僧]が有志の会にあることからも、「新しい領解文」には、安心へと向けた疑義、異安心があるのは明らかながら、その安心裁断ができないとは・・これからの改悔批判も結局はただの形式的な儀式ということになるのだろうか・・そして、その唱和の強...「新しい領解文」についてのこと

  • 戦時教学の反省から「信心の社会性」を考える

    「信心の社会性」も、結局は、戦時教学と同様に、「思想のすり替え」・「思想の並列化の産物」と考えられるのであります。聖なる信心のあり方と俗なる信心のあり方との並列化とも言えるでしょうか。親鸞聖人は、「自信教人信難中転更難大悲弘普化真成報仏恩」(教行信証・信巻)として、「自信教人信、つまり、人に教えることなどは、愚かな自分では当然に難しく、無理であり、自分が人に教えて救うことなどは何もできないが、弥陀の大悲、本願は普くに人を救って下さるものとなる。その弥陀の大悲、本願の「南無阿弥陀仏」を称名することが、仏恩に真に報いることに成るのである。」と示されておいでであります。何よりも愚かな自分のできることなど、所詮は「雑毒の善」でしかないのは当たり前のことであるのだから、人を真実に救うことなども、とてもできる身ではな...戦時教学の反省から「信心の社会性」を考える

  • 蓮如上人が「安心決定鈔」に倣った「御文章」の目的について

    蓮如上人が重視したとされる「安心決定鈔」は、浄土宗の証空(西山上人)を派祖とした西山流における著者不明の談義書の一つとされる「六字名号」を扱ったものであり、昭和初期に至るまで民間で流布していた「六字名号口伝」ものの原点であると言え、民衆にとっては、読みやすく、わかりやすく、伝わりやすいもので、その信仰は広く盛んであったことが窺えるわけです。それは、「六字名号」の有する本覚思想、現世利益、密教的神秘性、神仏習合性が説かれてあり、昭和初期頃までに増補されながら、霊験あらたかな有り難いものとして、民間信仰が厚くあったのだと思われるのであります。蓮如上人が「御文章」を表したのは、まさに、この「安心決定鈔」に倣い、民衆にとって、読みやすく、わかりやすく、伝わりやすいものとして調えることがその目的として、特に「仏凡一...蓮如上人が「安心決定鈔」に倣った「御文章」の目的について

  • 「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(四)・雑修、雑行、雑善の勧めの否定

    後半の雑修、雑行、雑善の部分への言及となりましたね。通仏教、聖道門自力行であれば、まあ、大丈夫かなと、普通になる表現が続く後段ですが、浄土真宗では、凡夫ではどうしようもないほどに致し方もない煩悩、執着、愚心を、何よりも深く深く自覚していくことが大切なことになります。執着を離れることなど、とてもとてもできない凡夫へと向けてこその尊く有り難い弥陀本願であるわけです。「みずから執着の心を離れることができるのであれば、如来の本願建立の理由すらも失われてしまう」ということであります。更に次弾も雑修、雑行、雑善の勧めを少なくとも未信者へ向けて述べたてることには全く意味がないと、厳しくご裁定なさられることでしょう。「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(四)このたびご消息として発布された「新しい領解文(浄土真...「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(四)・雑修、雑行、雑善の勧めの否定

  • 「機法一体」「私の信心と仏の救いは 本来一つゆえ」

    「機法一体」は、「南無・衆生の信心・機」と「阿弥陀仏・阿弥陀如来の救い・法」が一体としてあることを表しているもので、「南無阿弥陀仏」がその一体性として「本来」成立してあることを表そうとしたのが、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」ということかもしれませんとの可能性についてご指摘を頂きました。改めて考えますと、それならば、「煩悩・さとり」とした対比ではなく、「信心・救いは本来一つゆえ」としていれば、決定的な間違いとは言えなくなっていたであろうということになります。「機法一体」からでは、「私の信心と仏の救いは本来一つゆえ」「仏凡一体」からでは、「私の煩悩と仏のさとりは、一つになるゆえ」もしも、そのどちらかであれば、実は大した間違いとは言えないということになります。「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」は、「...「機法一体」「私の信心と仏の救いは本来一つゆえ」

  • 「新しい領解文」への「浄土真宗と戦時教学」からの警鐘

    下記の論文においては、過去の戦時教学の問題点が、冷静に分析されて、同じような事態にまた陥りかねないことが警鐘されており、まさに、この度の「新しい領解文」が同じ過ちを繰り返しつつあることについても考えさせて頂けるような内容ではないかと存じます。「思想の並列化こそが、ともすれば危険な思想に発展しかねない」現代的な思想や価値観を無理に仏教的あるいは真宗的な発想へと変えること、またその逆についても、危険となるのは、大抵、俗に聖を合わせて並列化されていくことになり、それが普遍性を帯びだして、間違った方向へと知らず知らずの間に誘導されてしまいかねないということであります。結論からは、今の「新しい領解文」の問題が、戦時教学と同じ過ちに陥りつつあることを予見させてくれているのではないだろうかと存じます。「戦時教学を過去の...「新しい領解文」への「浄土真宗と戦時教学」からの警鐘

  • 「念仏者の社会性」・「信心の社会性」の根拠について

    「念仏者の社会性」や「信心の社会性」は、「信心正因称名報恩」を通した方程式から導き出されてくるわけですが、もう一つは、「還相」の現世今生での実現の要請も、その有力なものとしてあることが考えられるわけです。もちろん、本来であれば、往生後に一如宝海にて成仏し、法性方便の二身成就によりて「還相」を可とすべきではあるのでしょうが、方便法身ではない、現世愚心そのままの自分が果たして雑善とならない行いを、報恩行として行うことを可とする根拠を「信心」・「安心」のどこに見い出していけることになるのかは、改めて検討しなければならないと考えています。特に、「念仏者の社会性」や「信心の社会性」について、信心獲得していない者であっても、善知識から聴聞して頂いた教えから「自信教人信」としての報恩行を勧めることを可としていくとされる...「念仏者の社会性」・「信心の社会性」の根拠について

  • 蓮如教学から「新しい領解文」を改めて考えるならば・・

    蓮如教学として、特に大前提となる「信心正因報恩称名」の「報恩称名」においては、信心獲得者の報謝行は、称名だけに留まらず、他力の報恩行が、称名以外にも可とされているのが現代の通説であり、それが信心獲得していない一般の念仏者まで含められるのかどうかは、まだ議論の余地があるものの、報恩称名の意図する「自信教人信」の意を汲んで、信心獲得していない者であっても、善知識から聴聞して頂いた教えから「自信教人信」としての報恩行を勧めることは可としていくとされる流れがあり、特に今回は、門主さんの社会的活動をもっと宗門として積極的に展開していかなければならないという意向も強くあるため、それを鑑みれば、後段の雑修、雑行、雑善と捉えられてしまいかねないところは、ややグレーゾーンではあっても、特に宗門として大きく問題視するようなこ...蓮如教学から「新しい領解文」を改めて考えるならば・・

  • 「私の愚心と弥陀の救いの心(あるいは、慈悲の心)が、一つになるゆえ」ならば・・

    しかし、問題は、確かに蓮如上人における「仏凡一体論・機法一体論」は、本覚思想に近似してあるとはいえ、よくよく考えれば誰もが全く違うと分かるものであるにも関わらず、「本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心」が、本来的に、生来的に自分の心にあるかのような誤解を生じさせてしまうような表現となる「本来」を採用してしまったのか・・つまり、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」の「本来」がなければ、まだ、「本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心」と共にある「愚心」の自分について、仏のさとり(救いの心)と私の煩悩が「一つ」になると言えたわけです。要するに、「私の愚心と弥陀の救いの心(あるいは、慈悲の心)が、一つになるゆえ」としていれば、決定的な間違いとは言えなかったわけです。つまり、「本来」さえなければ、教義的にも黙認できる範...「私の愚心と弥陀の救いの心(あるいは、慈悲の心)が、一つになるゆえ」ならば・・

  • 「本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心」と「愚心」とのありよう

    「本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心」は、あくまでも阿弥陀如来の側から、衆生の心にやってきた外来のものであり、衆生の側の心に生来するものではないということになります。もちろん、一体となっているものは、水と火という本来相反するものが、共にあるようなイメージとなります。一体している状態は、確かに衆生の心であるとは言えますが、もともとは愚心の火だけであり、そこに外からやってきた「本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心」が同居している感じとなりますでしょうか。例えると、もともと誕生期の地球には、水はなかったのに、太陽系の遥か彼方から外来してきた大きな氷の彗星が大気圏に突入してきてある状態という感じに似ているのではないかと考えます。大気圏内にあるとなれば、確かに私の心の内にあるとは言えますが、しかし、まだ地表には到達し...「本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心」と「愚心」とのありよう

  • 仏凡一体論・機法一体論における本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心について

    この阿弥陀如来の救いの水が、信巻における本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心であり、火が、煩悩の火がまだ燃え盛ってある凡夫衆生の愚心と解している。この水が、火と交わって、火が消えたところで二身を得れるのが、往生後の一如宝海であると考えるのであります。・・近現代の宗学の基礎も蓮如上人の教学を学ばないと理解はできないと。そこで、蓮如上人の教学といえば最も特徴的なものは、仏凡一体論、機法一体論である。それについてまずは考えてみたい。蓮如上人の仏凡一体論、機法一体論は、近似はしていても確かに本覚思想ではない。何より如来蔵や仏性を扱わない。あくまでも阿弥陀如来の回向、本願、方便法身のはたらきにより与えられるものとなるからだ。例えれば、阿弥陀如来の救いを水とすれば、火のあるところに(こそ)、その水がかけられてくるイメー...仏凡一体論・機法一体論における本願三心、真実清浄の疑蓋無雑の一心について

  • 名破満釈・融会合釈の称名について

    「七高僧の称名」、「親鸞聖人の称名」も加えました。・・親鸞聖人の思想「阿弥陀如来法性法身・二種回向(教)→阿弥陀如来方便法身のはたらき(行)→信心(信)→二種法身の獲得(証)」「二種回向(因)→方便(縁)→二種法身(果)」行信論の要諦は、名破満釈・融会合釈「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。」称名①→本願への志願・疑心称名(正業)②→志願・疑心称名(正業)②→念仏(称名③)→南無阿弥陀佛(名号・称名④)→正念(信心決定・信心獲得)法性法身阿弥陀如来の称名方便法身阿弥陀如来の称名諸仏諸菩薩の称名報身阿弥陀如来...名破満釈・融会合釈の称名について

  • 蓮如上人の「仏凡一体論・機法一体論」と「新しい領解文」

    蓮如上人が、敢えて仏凡一体論、機法一体論を展開された理由は、いくつか考えられるが、一番大きな影響には、既に民衆の間で流行っていた「南無阿弥陀佛」の本覚思想や現世利益、密教思想を説く「談義本」の存在があったのだと思われる。そのような「談義本」は、三代目・覚如上人が本願寺を成立した頃から流行りだしていたと推測されている。親鸞聖人往生後、50年も経たない浄土真宗の勃興期に当たり、教団化へと向けた正統を巡った争いが激化していた頃である。やがて色々な弾圧や苦難を受ける中、教団化を進めていくにあたっては、その流行りに教義を近づけることで、民衆を門信徒として取り込みたいとした意図が働いたのものと推測されるのである。そこで、本覚思想ではないが、近似したものとして仏凡一体論、機法一体論を蓮如上人が著されることになったのだと...蓮如上人の「仏凡一体論・機法一体論」と「新しい領解文」

  • 蓮如教学「仏凡一体論と機法一体論」と民間に流布した談義本について

    そもそも今の本願寺派教学を学ぶには、蓮如教学を前提としなければいけないとのアドバイスを頂きました。もともとの領解文は蓮如上人によるものでもあり、「信心正因・称名報恩」も蓮如上人の思想から成り立ってあるからとのこと・・近現代の宗学の基礎も蓮如上人の教学を学ばないと理解はできないと。そこで、蓮如上人の教学といえば最も特徴的なものは、仏凡一体論、機法一体論である。それについてまずは考えてみたい。蓮如上人の仏凡一体論、機法一体論は、近似はしていても確かに本覚思想ではない。何より如来蔵や仏性を扱わない。あくまでも阿弥陀如来の回向、本願、方便法身のはたらきにより与えられるものとなるからだ。例えれば、阿弥陀如来の救いを水とすれば、火のあるところに(こそ)、その水がかけられてくるイメージである。自分で水を探してもってこよ...蓮如教学「仏凡一体論と機法一体論」と民間に流布した談義本について

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