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大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」 https://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさ

大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」
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2014/09/26

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  • 『華麗なる一族』

    前にテレビでは見たはずだが、山本薩夫監督版は初めて見たが、実に面白い。関西の万表財閥の当主大介の佐分利信の、ある種強欲ぶりがすごく、まさにこういうのを骨太の人間と言うのだろう。そして、息子鉄平の仲代達矢との確執がすごい。その根源は、鉄平が、大介の子ではなく、もしかしたら祖父と母の月丘夢路との間の子ではないかとの疑問からくるというのがすごい。まるで志賀直哉の『暗夜行路』の主人公の疑問のようだが、明治、大正時代の日本の家にはあったことなのだろうかとあらためて思う。月丘は、貧乏華族のお姫様で、鼓や刺繡をするだけで、家事の一切、息子や娘の婚姻、それはすべて閨閥作りの政略結婚なのだが、秘書で、実は大介の愛人でもある京マチ子が取り仕切っている。この妻妾同衾というのを日本のメジャーの映画会社で描いたのは、きわめて珍しい...『華麗なる一族』

  • 金子勝彦さん死去

    元東京12チャンネルのアナウンサーだった金子勝彦さんが亡くなられたそうだ。彼と一緒に仕事をすることはなかったが、金子さんが放送していた『ダイヤモンド・サッカー』で大学時代アルバイトをしていたことがある。それは、チームの得点を入れる仕事で、日曜日の朝、放送のときに映画で録画された試合の得点シーンで、スタジオの機械を使って得点を入れるとても楽な仕事だった。試合は、イギリスの一部リーグの試合で、一時間30分のものを45分くらいに編集した画面に、金子さんと岡野俊一郎さんの解説が付いたビデオできていて、それを日曜日の朝に流すのだった。今のように、サッカーの大人気の時代ではなく、まだマイナースポーツの時代だった。東京12チャンネルというのは、元は駐留軍が使っていたチャンネルの12が返還されるというので、できたテレビ局...金子勝彦さん死去

  • 久しぶりの図書館批判

    ときどき出てくる図書館批判で、実にバカバカしい。昔、テレビで大相撲が中継されるとき、観客が減るという意見があったが、テレビ中継で大相撲は大人気になった。プロ野球のテレビ中継も同じだろうと思う。町の書店が減り、本の販売数も減っているのは、言うまでもなくネット、スマフォの性であることは明らかで、図書館は関係ない。この自民党の動きは、町の本屋さんという中小企業対策だろうが、無意味な動きだ。私も本は、ネットで買ってしまうものだが。NEWS.YAHOO.CO.JP図書館での「過剰購入」、ルール作り検討へ急減する書店の支援策(朝日新聞デジタル)-Yahoo!ニュース図書館がベストセラーを過剰に購入しないように、ルール作りを――。国がそんな検討の場を今秋にも設ける。急減している書店の支援策として、自民党の議員連盟が出し...久しぶりの図書館批判

  • 昭和天皇は、なぜ対米国戦を選んだのか

    木曜日は、佐藤先生の講座で、『真珠湾攻撃への道』を聞き、そこでは日本代表の野村吉三郎のヒアリングもあった。それによれば、昭和天皇以下の近衛文麿などにも、三国同盟と日米友好は両立するとの楽観的な見通しがあった。だが、最後に「ハル・ノート」が出て、特に中国からの撤兵を求められたとき、完全にデット・エンドになってしまったわけだ。このとき、昭和天皇も、中国からの撤兵などできるはずもないとして、戦争に突入した。この前に、近衛内閣がつぶれ、東條英樹を首相にすることを木戸幸一から言われたときの、天皇の言葉が極めて興味深い。「虎穴にいらずんば虎児をえずだね」だが、これは何を意味するのだろうか。普通に考えれば、陸軍という脅威があり、彼らから逃れるのは、その長を首相にすれば、御前会議の戦争への決定を変えられると思ったのだろう...昭和天皇は、なぜ対米国戦を選んだのか

  • 金沢の花火大会だった

    午後、電車に乗っていると、浴衣姿の女性がいるので、「ああ今日は金沢の花火大会だな」と思う。金沢区役所に4年間いたが、毎年企業からの寄付集めに金沢区内をまわった。花火というのは、大変に金の掛かるもので、本来の打ち上げ費用の他、警備とごみ処理で大変なのだ。昔は、横浜では、7月20日の商工会議所主催の大会の他、8月1日の神奈川新聞の大会、そして8月末の金沢区の大会と三つがあり、その他港北区のものまであった時代もある。だが、景気の後退で、商工会議所のはかなり困難になり、横浜市役所が多大な補助をしたが、結局駄目になった。特に問題だったのは、ゴミの問題で、最後には25メートルプールのような大きなゴミ捨て場を山下公園近くに置いたりしたが、翌日の市内は、ゴミであふれていた。そうして、7月20日はなくなり、今は8月1日の、...金沢の花火大会だった

  • 『宮本武蔵・巌流島の決闘』

    冒頭に、2部、3部の回想が流れるが、武蔵は呟く、「われ、事において後悔せず!」これは、数々の決闘において、勝つことが第一で、武士道など関係ないとのことだろう。特に、武蔵のような孤剣の場合、ともかく一人で戦うのだが、ともかく生き抜くことが重大で、そうでなければ死んでしまうのだから。武士道も、江戸時代が平安になった中期以後に作られたものであり、戦国から江戸初期では、なによりも生き抜くことが重要だったのである。ここでは、佐々木小次郎との決闘に行く前に、武蔵が江戸の近郊の農地で、盗賊に対して村人を助ける挿話があるが、「これは黒澤明の『七人の侍』の影響だなあ」と思う。それは、伊藤大輔でも同じで、映画『地獄花』では、草原を騎馬の大群が疾駆するシーンがあり、これも黒澤の影響だと思う。内田吐夢、伊藤大輔の二大巨匠ですら、...『宮本武蔵・巌流島の決闘』

  • 永遠の女学生 桂木洋子

    ユーチューブで、「日本の美人女優」を見ていたら、桂木洋子があった。清純派女優もいろいろいるが、なかでも女学生の感じが一番なのが、彼女だろう。松竹で、横浜駅のシューマイ娘役の映画もあったが、女学生が最高だろうと思う。2007年に亡くなっている。彼女の最後の方の作品に、蔵原監督の『野獣のように見えて・ガラスのジョニー』では、人身売買の男・アイ・ジョージの情婦役で出ているが、これが晩年の最高作だと思う。永遠の女学生桂木洋子

  • スキヤキミーツ・ザ・ワールドも始まるはず

    今日は、8月最終週で、富山県南砺市のスキヤキミーツ・ザ・ワールドも始まるはず。そして、このスキヤキと同時に1991年8月に日本で最初の野外音楽フェステイバルとして始まったのは、「ウォーマッド横浜91」だった。今年の夏も、いろいろなフェステイバルが開催されたが、その始まりは、32年前のウォーマッド横浜91だったことは、横浜に住み、企画し、参加した者として、ここに書いておきたい。スキヤキミーツ・ザ・ワールドも始まるはず

  • 渡辺保さんが、俳優の鳴海四郎さんを見たのは『昭和演劇大全集』にある

    鳴海四郎氏が、文学座の俳優で、慶応高校の教師だったことを書いたが、その出典を調べると、渡辺保さんと高泉淳子の『昭和演劇大全集』の225ページにあった。これは、田中千禾夫の『マリアの首』を話した時の冒頭に出てくる。渡辺さんが見たのは、田中の戦前の名作『おふくろ』で、このとき鳴海氏は、息子を演じたそうで、1951年のことなので、慶応高校が横浜市日吉に移転したからのことになる。『おふくろ』は、戦前に田中が岸田國士の下にいた時に書いたリアリズム劇で、4人しか出てこないので、高校などのアマチュア演劇でも良く上演された演目だった。だが、戦後田中は、劇の作風を一変させて、名作『マリアの首』を1959年に劇団新人会の公演用に書く。これは、私の考えでは、『マリアの首』は、戦後日本演劇史に残る最高の名作だと思う。この劇がすご...渡辺保さんが、俳優の鳴海四郎さんを見たのは『昭和演劇大全集』にある

  • 『旅する映写機』

    冒頭に、廃館になった渋谷の映画館で、映写機を外す方の作業が出てくる。日本に、もう映写機を製造している会社はないので、古い映写機も、次に使う館のために映写機をはずして遠い館に持って行くのだ。そして、地方にある様々な映画館と映写機の状況が紹介される。尾道、秋田、福島等だが、一番の辺境は高知県高田の映画館・大心館。ここでは、流し込みという1台の映写機で、卷の異なるフィルムをつないで上映していく方法が紹介される。今の館主は、父親から教えられた方法で、普通は2台の映写機で交合に上映するのだが、1台でする非常に珍しい方法とのことで、映画以外は、農業やウナギ取りなどで生計を立てているようだ。福島の本宮町も紹介されて、ここは「本宮方式」として大きく取り上げられた地域だが、現在は1館だけの本宮劇場での上映会が紹介される。そ...『旅する映写機』

  • 慶応高校の鳴海四郎先生

    英米文学の翻訳で有名な鳴海四郎先生は、1950年代は、慶応高校の英語の先生だったそうだ。同時に劇団文学座の俳優でもあり、実際に劇に出ていたそうだ。ある日、高校生の渡辺保さんは、鳴海先生の授業の時、「先生、昨日の芝居、見ましたよ」というと、非常に嫌な顔をされたそうだ。その後、教師も俳優も辞めて、翻訳一本になったようだ。また、今やシエークスピア翻訳の第一人者である小田島雄志先生も、都立八潮高校で英語を教えていたようだ。ただ、中学の同級生の子に聞くと、少々むずかしくて生徒には不評だったようだ。当時は、結構世の中が緩やかだったと思う。教師が俳優もやるなど、大阪府、大阪市では許されないことだと思う。慶応高校の鳴海四郎先生

  • 慶応高校は、どこから出場したのか

    高校野球全国大会で、慶応が仙台育英に勝ち、明後日の決勝戦に出ることになった。なんでも105年ぶりとのことだが、その時、慶応はどこに地域の代表として出たのだろうか。それは、東京代表だったのだ。当時は、慶応高校(普通部)は、東京の三田にあったのである。その後、1949年に横浜の日吉台が米軍から返還されたので、ここに高校と共に大学の1,2年の校舎も作られたのだ。この日吉台は、言うまでもなく戦時中は、日本帝国海軍の連合艦隊司令部がおかれていた。なぜ、こんなつまらないことを私が知っているかと言えば、1963年に都立小山台高校に入った時、教師が、「わが校は勉学だけではない、1948年には高校野球東京都予選では決勝まで行き、慶応高校に負けて甲子園に行けなかったように文武両道だ」とえばっていたからだ。都立日比谷高校への無...慶応高校は、どこから出場したのか

  • ペンテコステ大会

    パシフィコ横浜にいたときには、いろんな大会、集会があり、見に行ったことがあった。中で、興味深かったのは、国立大ホールでのキリスト教の伝道集会コンサートだった。小坂忠、本多路津子らが出たが、大ヒット曲『異邦人』の久保田早紀は、久米小百合として出たが、ピアノは久米大作だったと思う。久米大作は、俳優久米明の息子で、新国立劇場の『ブッダ』の音楽は非常に良かった。だが、一番記憶に残っているのは、会場に行く階段の踊り場で、絨毯に横たわっている少年に名にかを言いかけている夫婦らしい男女だった。おそらく、その子はなにかの障害を負っていて、両親は、それに対して祈っていると思えた。『新約聖書』のキリストも、病気平癒など、かなり怪しいことをやっているが、宗教への勧誘の一つは、病気であるが、その例を見たときだった。ペンテコステ大会

  • ケイヒンの荒業 本牧ふ頭基部

    鳥浜の埋め立て地をめぐるケイヒンのもろもろについて書いたので、他のことも書いておく。ケイヒンで一番有名なのは、東京港のふ頭公団のライナーバースを作る時、ケイヒンはオプション契約をしていたのに、途中で勝手に降りた事件である。ここでは、多額の違約金を東京都に取られた。それをある人から聞いたとき、私は、東京都港湾局は偉いなと思ったものだ。その点、横浜は地元企業でもあるので、すべてをドライにはできなかったようだ。さて、もう一つ横浜港でも、ケイヒン絡みの案件があった。それは、本牧Aふ頭基部の、当時は住友倉庫が持っていた1000平米くらいの土地だが、ここも実は1950年代からケイヒンが所有していたのだ。その先というか、そこには前歴があり、戦前に心丸ハッチボードという岐阜県から出てきた会社が、船の甲板を合板で作る技術を...ケイヒンの荒業本牧ふ頭基部

  • 「出世と恋愛」

    一昨日の斎藤美奈子さんによれば、「出世と恋愛」は、近代の所産、個人の営為なのだそうだ。たしかに、日本でも近代以前の封建社会では、身分は一応固定されていたので、その身分の中での上昇はあっても、身分を越えての上昇はないのが建前だった。また、結婚も男女の恋愛の結果ではなく、ある程度の階層では、結婚は家と家の間で行われるもので、さらには、一生の内、男女が必ず結婚するようになったのは、江戸時代後期のことだったそうだ。これも、やはり農民にとって不可欠の土地、田んぼや畑を次男、三男に持たせることはできなかったからだと言われている。そして、明治維新となり、身分解放となり、近代社会は、一応個人は自由に生きられるとされたので、職業の選択も自由になり、成功も失敗も個々人の責任とされるようになった。ここにきて、出世と恋愛は、その...「出世と恋愛」

  • 15年毎に出る悲恋のベストセラー

    昨日の斎藤美奈子さんの『出世と恋愛』で面白かったことに一つに、1960年代以降の日本では、大体15年おきに、悲恋のベストセラーが出ることことだ。1964『愛と死を見つめて』大島みちこ・河野実1970『ある愛の詩』エリック・シーガル1987『ノルウエーの森』村上春樹2001『世界の中心で、愛をさけぶ』片山恭一2014『君の膵臓を食べたい』住野よるそれは、結局、15年くらいたつと、次の若者層が出てくるからなのだろう。そして、これは全部「難病もの」である。西河克己によれば、メロドラマは、戦争や革命などの大事件がないと成立しないもので、現在では難病しか悲劇の原因にならないのだろうと思った。15年毎に出る悲恋のベストセラー

  • 京浜ふ頭について

    京浜ふ頭とは、1980年代まで、磯子区鳥浜町で、ケイヒンが運営していた民間ふ頭である。ケイヒンは、港湾関係者間では有名なので書いて良いと思うが、社長の大津氏は、在日だった。大津氏は、戦後、横浜港で倉庫、港湾輸送事業を始め、東証1部上場企業にまでされた方である。ただ、在日ゆえか、横浜港の関係団体の役員に一つもなっておられない。そこで、二つの新しい事業に進出されたが、その一つが、ふ頭業で、根岸湾ハ地区埋立の売却の際に応募して、鳥浜に土地を取得して、子会社の京浜ふ頭を作った。もう一つは、海運業で、香港の船会社のエヴェレットを買収した。ふ頭業は、どうだっかは知らないが、エヴァレットの買収は失敗で、約100億円の赤字になったそうで。そこで、このふ頭を横浜市に売却することになり、1983年の秋、当時管財係長だった私が...京浜ふ頭について

  • 『出世と恋愛 近代文学に見む男と女』 斎藤美奈子

    斎藤美奈子さんとは、昔ある雑誌で同じ書き手だった。『HOLIC』という雑誌で、かなり過激な内容を狙っていたが、1年間は持たなかったと思う。中で、斎藤さんは、一番光る書き手だったが、その後有名になったのは、さすがと思った。ここでは、明治以降の近代文学の中での主人公たる男たちが、さんざ批判されている。最初は、夏目漱石の『三四郎』で、地方から出てきて帝大にい三四郎は、女の心が分からない男とされている。森鴎外の『青年』も同様で、野暮天とされる。大正時代の武者小路実篤の『友情』に至っては、ほとんどストーカーとされる。また、ベストセラーの『金色夜叉』と『野菊の墓』については、熱海と伊香保に、それぞれの有名場面の銅像が立っていることも紹介された。熱海の銅像は見たこともあるが、伊香保に、民子と政夫の銅像があることは初めて...『出世と恋愛近代文学に見む男と女』斎藤美奈子

  • 花壇があった

    昨日は、横浜で用があったので、手前の桜木町で食事した。桜木町のゴールデンセンターに入るのは、5年ぶりくらいだと思う。地下1階は、がら空きの状態で、コンビニのみ繫盛。「こんな状態で平気なのかね、三菱地所は」と思うが、大企業なので、税務対策上は赤字分部も意義があるのかと思う。地下2階に降りると、飲み屋街で、ここは私と同年代の年寄りたちで大繁盛。午後から用があったので、飲むわけにいかず、普通に食事できるところを探すと、「花壇」があった。ここは、地下2階の入り口にある喫茶店で、昔劇団をやっている頃は、下川博、山本亮とここでよく話したものだ。この二人は、もういなくて当時の劇団で健在なのは、大高正大と妻の純子さんくらいだ。花壇は、大してかわってないが、セルフサービスになっていた。時代のなせる技だろうか。花壇があった

  • 国家総動員法と映画界

    先日、NHKで、国家総動員法による徴用について放映していた。それは、主に軍需工場に徴用された人のことだった。だが、これとは、別に日本の映画会社に徴用された人たちもいる。三好十郎や田中千禾夫らである。言うまでもなく、三好十郎は、左翼活動をしていたので逮捕され、以後はあまり目立った劇作が出来なくなったいた。また、田中千禾夫は、長崎の御殿医の家柄で、きわめて裕福だったので、大学を出てからも特に就職せずにいた。こうした連中にも、国家総動員法は、戦争体制への参加を求めたので、彼らは、東宝の前身であるPCLに入って脚本を書くことになる。皮肉にも、戦時体制は、「完全雇用」を実現してしまうものなのだ。三好は、シラーの戯曲を基にして、映画『戦国野盗伝』のシナリオを書く。この滝澤英輔監督のサード助監督だったのは、黒澤明で、彼...国家総動員法と映画界

  • 「戦争は、いつごろからはじまったのか」

    8月15日は、日本が連合国のポツダム宣言を受け入れて、敗北した日である。この日の前後には、日本の戦争特集がテレビで放映され、新聞にも特集記事が出る。だが、いったい戦争は、いつごろから始まったのだろうか。結論から言えば、約1万年前の、中東地域で農業と牧畜が始まってからであり、ホモ・サピエンスの50万年以上の歴史のなかでは、ほんの一時のことである。日本で言えば、縄文時代には戦争がなかったが、吉野ケ里遺跡にみられるように、弥生時代になると戦争が起きてくる。吉野ケ里遺跡では、他者の侵略を防ぐために、大規模な環濠を巡らしているのがその証拠である。以前、川崎市民ミュージアムの「牛山純一テレビ・ドキュメンタリー」上映で、長年にアジア・太平洋を取材された市岡康子氏の話がとても興味深かった。パプア・ニューギニアでは1990...「戦争は、いつごろからはじまったのか」

  • 大阪万博をどうするか

    大阪万博の評判が悪いようだ。もう、開催前に2年を切ったのに、海外からの出展希望計画が確定せず、これでは工事が間に合わないと言われている。私は、国際的博覧会の意義そのものに、疑問を持っている。かつて、19世紀末から20世紀初頭にパリやロンドンで開催された万博では、インドネシアのガムランが出て、それはドビッシーに影響した。また、アフリカの美術が、ピカソの絵にヒントを与えたのも良く知られたことだ。今は、そうした珍奇な文化芸術で、世界に知られていないものがあるだろうか。ない。あるとすれば、すぐにネットで伝播されてしまうに違いない。そして、大阪万博会場の夢洲の地盤の悪さが問題となっていて、地盤改良か強化するのに膨大な金が係るので、外国も出展を躊躇しているのだろうと思う。さて、そこで大阪万博は、どうしたら良いのか。私...大阪万博をどうするか

  • 映画『裸体』を見て、最初に感じたのは、

    先日、国立映画アーカイブで、成澤昌成監督の『裸体』を見て最初に感じたのは、増村保造の映画から「増村調の台詞」を抜いたら、この成澤作品になるな、とのことだった。増村保造の作品群、緑魔子(『大悪党』)、渥美マリ(『でんきクラゲ』『しびれくらげ』)、大谷直子(『やくざ絶唱』)、関根恵子(『遊び』)らの映画から、いつもの、あの「増村調の台詞」を除けば、成澤昌成の映画『裸体』になると思えた。それは、両者とも溝口健二の大きな影響を受けているからである。成澤昌成は、もともと溝口健二と個人的な関係があったので、松竹京都の助監督になっても、溝口の言わば内弟子的でもあったので、晩年の脚本に付き合っている。溝口の遺作『赤線地帯』では、成澤は東京・吉原でのロケハンにも付き合ったそうで、溝口の影響は多大である。また、増村は、溝口に...映画『裸体』を見て、最初に感じたのは、

  • 『裸体』での中山千夏

    映画『裸体』の最後の方に、タバコやの娘として女優の中山千夏が出てきて、彼女は自分の本の中で、これを回想している。松竹大船だが、まず予定に時間に彼女は現れなかった。こんなことはよくあり、すぐに助監督が控室に呼びに行き、やっと現れたが、非常に華奢な感じだったそうだ。たしかに、ここで彼女は「私の胸は大きい」と誇っているが、そんなに大きいようには見えない。今日の巨乳女優に比べたら、ほとんど貧乳である。ところが、彼女は、吸うと指定されていた煙草が「いつものと違う」と言い、買いに行かせて時間がかかった。当時、スタジオ内や付近に煙草は売っていなかったからだ。そして、始まったが、今度は千夏がだめにしてしまう。それは、千夏は、編み物をしながら嵯峨と対話するとなっていたが、当時千夏は「裏網み」が出来ず、手が止まっていたからだ...『裸体』での中山千夏

  • 『かげろう絵図』

    12代将軍家慶の御代だが、実権は家斉が大御所として握っている江戸城内で起きる事件。筋の運びがのろくて、どうなるのと思うが、結局、最後の決末はよく分からない。ナレーターは、贔屓の石黒達也で、映画の筋書きは別として、悪役オンパレードは楽しい。須賀不二夫、山路義人らは松竹から、志摩靖彦などは新劇からで、一番の悪は、滝沢修である。山本富士子が、大奥の女中と富本節の師匠の姉妹の二役。市川雷蔵は、なにをしているのか不明な町の遊び人のよう。滝澤は、自分の娘木暮美千代と家斉との間の子、つまり孫を将軍の跡目にしようとして、さまざまな陰謀をめぐらせ、最後は、家斉から「お墨付き」を得ることに成功するが、城内は混乱していたで終わり。実は、この映画は、10年くらい前に、黄金町のシネマジャックで見たことがあり、その時も、面白いのが「...『かげろう絵図』

  • 内風呂は、いつごろから普及したのか

    昨日、映画『裸体』を見ていて感じたのは、嵯峨三智子はもとより、娼婦らしい桜むつ子らも、内風呂がなく、町の銭湯に来ていることだった。この映画の1962年当時、それなりに金があったはずの彼女たちも、家に風呂があるような住居に住んでいなかったのだ。それは、私が、やはり風俗映画の最高の一つとして好きな、池内淳子主演の傑作『花影』でも、銀座のバーに勤めている、女給の彼女も、その赤坂のアパートには風呂がなく、町の銭湯に行くところから映画が始まっていた。これは、1961年の川島雄三監督作品だが、これも男性遍歴の映画である。日本の都市で、風呂がきちんとついているような集合住宅が普及したのは、やはり経済の高度成長がかなり進行してからのことなのだろうかと思った。内風呂は、いつごろから普及したのか

  • 『裸体』

    「今回の逝ける映画人」特集で、一番見たかった作品。原作は、永井荷風で、彼の短編集を再編集して、嵯峨三智子の一つの女の話にしている。脚本・監督は、成澤昌成で、実に面白い。こういうのが本当の大人の映画である。要は、自分の体の魅力に目覚めて、男から男へと遍歴する女の話で、シナリオ作成上はやってはいけないとされる「団子の串刺し」だが、挿話が面白いので、まったく飽きない。さらに、主演の嵯峨三智子は、いろいろと問題のあった女優だが、ここではおそらくは成澤の丁寧な演技指導だろう、その場毎に台詞の調子なども変えていて、本当は芝居のできる女であることが分かる。彼女は、船橋の漁師町の銭湯の娘で、父の菅井一郎は三助から、母親の浦辺粂子は女中上がりで、金貸しで、銭湯の持ち主の三井弘次に顎で使われている。そんな暮らしにうんざりして...『裸体』

  • 『中井精也の「てつ旅」が富山だった』

    土曜日の朝は、いい番組がないなあと思いつつ、「てつ旅」を見ると、富山なので見てしまう。万葉線をやっていて、ここは富山ではなく高岡だと思うと終点に行く。ここは大橋があるところだが、渡船もあるという。元は、越の潟という内海があったのだが、大型船をふ頭に停泊させるために、洲を切ってしまったので、ここが終点になったのだそうだ。それ以前は、中州を路面電車が富山へと進んでいたのだそうだ。港湾の重要性がどれほどかは部外者の私には分からないが、中州を行く電車の方が絵になって良いなあと勝手なことを思ってしまった。中井のは、テレビの写真の番組では一番好きだ。彼が無邪気で、楽しんでいることが分かり、まったく偉そうにしていないことだ。旅番組では、これと六角精児の「呑み鉄」が良いと思っている。ただ、この中井の番組で残念なのは、変な...『中井精也の「てつ旅」が富山だった』

  • ある女性のこと

  • 『昭和天皇・ご進講メモ』

    宮内庁御用掛だった松田道一の、ご進講メモが発見されたことが放送された。その一部は、先日も放送されたが、今回は全体の分析とセミ・ドラマ化だった。ドラマとしてみれば、一番に面白かったのは、1945年6月14日、松田が天皇に、連合軍のドイツ占領支配の方針を説明した箇所で、天皇は嘔吐してしまう。それだけ、日本人は、ドイツの強さを信じていたのだと思う。確かにドイツの科学や産業の技術が進んでいたことは事実である。以前に日本映画学会で聞いたが、戦前の日本のニュース映画の音声の中では、ドイツのニュース映画の爆撃や銃声の音声をコピーして、日本のニュース映画に使用したものがあるというのだ。実際に、ニュース映画会社で録音を担当された方へのインタビューで明らかにされた。ドイツの音声の方が鋭くて迫力があったからというのだ。米国への...『昭和天皇・ご進講メモ』

  • 『ヤシ酒飲み』から15年

    来年、また横浜で「アフリカ開発会議」が行われるようだが、2008年の時は、金沢区と中区で高校生ミュージカル『ヤシ酒飲み』を企画・実行した。これは、当時の担当課長から「中田市長から、アフリカと言えば、野口英世で、野口と言えば金沢なのに金沢区はなにかしないのか」と言われたので、「指田さん、なにか考えてください」と電話があった。そこで、長浜ホールの庭にヤシの木があったのを思い出した。アフリカ、ナイジェリアのエイモス・ツツオーラの幻想小説『ヤシ酒飲み』を基に、大学時代の劇団の友人下川博に原案を、脚本と演出を同じく仲間の田村光男にやってもらった。この時の、音楽、演技指導等は、田村が「愛地球博」で地球市民村をやったとき、手伝ってくれた人たちで、こちらでも、みなほとんど手弁当で、喜んで参加してくれた。このように、作る側...『ヤシ酒飲み』から15年

  • 『映画監督・山本薩夫』

    1993年に、山本の没後10年を記念して作られた作品、脚本・監督は片桐直樹。この人は、大島渚の創造社でも助監督をやっていたが、元は独立プロなのか。山本は、1910年に鹿児島で生まれたので、黒澤明とまったく同年である。父は、国の官僚で営林関係で、松山にいたとき、山本は、兄を通して、松山の伊藤大輔、伊丹万作、中村草田男らの芸術青年らの知遇を得て、早稲田大学では、演劇と同時に左翼活動で弾圧も受ける。そして、画家の重松鶴之助の自殺に衝撃を受けて、伊藤を通じて映画界に入る。松竹だったが、監督成瀬己喜男に付いて、PCLに入り、1937年の『母の曲』のヒットで、高い評価を受けた。1943年、33歳で招集されて中国に行く。このように、同じ1910年生まれなのに、黒澤明が一切の徴兵を受けていないのは、大変におかしなことなの...『映画監督・山本薩夫』

  • 『高原に列車が走つた』

    たぶん、日本映画史上最後の組合運動賛美映画になるかもしれない貴重な作品で、1984年。左幸子監督、主演の1976年の『遠い一本の道』が最後だと思っていたが、今のところは日本史上最後の組合賛美映画だろう。東映セントラルフィルムと「高原映画を作る会」で、長野県の教員等の組合。軽井沢の高校に臨時として赴任してきた音楽教師・美保純は、「これで教師なの」という天衣無縫な女性である。ところが、国鉄の列車が「午後は本数が少なくて、生徒たちは無駄に時間を過ごすので、増発をせよ」という教師の組合の運動に参加し、実現させる話で、実話とのこと。その原因となる事件は、ある女生徒がサラリーマンと「交際」して反対方向の列車に行くのを目撃したこと。「こんな事させてはいけない」と思うのだ。日本の学園ドラマは、『坊ちゃん』か『青い山脈』な...『高原に列車が走つた』

  • BSは、地上波に遅れる

    先日、市内某所で飲んでいると、テレビで横浜・阪神戦を放映していた。テレビが2台あり、一つは地元のTVKだが、もう1台はBS・TBSだった。両方を見ていると、BSの方が遅くて、地上波に0.5秒くらい遅れる。BSは、電波が衛星を往復するので、遅れるのだろうか、実に不思議。さらに、不思議なのは、これでなんで時刻が合うのだろうか。また、BS放送というのは、日本だけで、それをやったのは、小沢一郎だと聞いたことがあるが、それも本当だろうか。双方の映像を見ていると、完全に同じで、そこに違う解説とCMを入れているように見えた。スタッフと機材を合理化しているのだろうか。テレビ局もたいへんなんだなあ、と思う。BSは、地上波に遅れる

  • 「形か、心か」

    舞台や映画の役者の演技で、有名な言い方は、「形か、心か」である。日本の舞踊、歌舞伎などでは、演技は「形」で、演者の「こころ」はどうでも良い。そのように見えればよく、その時に演者がどのような心的状態であるかは、問題にされない。泣きの演技だが、外から見て「泣いている」ようにみえればよく、本当は本人は別の感情でも全く問題にされない。要は、踊りのようなもので、演技は次第に段取りになってしまうのだ。映画で言えば、マキノ雅弘、伊藤大輔、井上梅次、俳優で言えば、鶴田浩二、京マチ子など、日本舞踊の経験のある人は、大体が段取り芝居で、それで完全に見えるのだからすごい。対して、西欧の演劇の影響下で始まった新劇では、なによりも心持ちが重要で、心ができれば外面の動きや表情は、自然と内面を表現するものになる、と考える。かの有名な、...「形か、心か」

  • 視察に愛人を連れて行った議長

    参議院議員の松川某が、フランスに視察に行き、そこに次女を連れていたことが問題となっている。横浜市会では、かつて他都市への行政視察に、ご自分の愛人を連れていった議員がいたと言われていた。もう亡くなられているので、書いてよいと思うが、横浜市会議長を8年間もやった津村峰男氏である。時代が違うと言えばそれまでだが、相当にひどい話である。松川某も、テレビでしか見たことがないが、あまり愉快な印象を受けなかった女性である。視察に愛人を連れて行った議長

  • 銀座服部の歌舞伎映画と「形か心か」

    昨日の夜は、国立映画アーカイブから戻ると、久しぶりに大高正大から電話があり、役者の演技の「形」と「心」について、さらにスタニスラフスキー・システムについて、2時間も話してしまう。その中で、彼から、以前、銀座の服部時計店内で、歌舞伎の映画を公開していたのを見たというのだ。映像は、戦前の中村吉右衛門等のものだったようで、多分松竹が撮ったもので、服部が予算を出したものだろう。私は、初めて聞いたことで驚いたが、本当にあったのでしょうか。ご存じの方は、教えてください。銀座服部の歌舞伎映画と「形か心か」

  • 「そして、誰もいなくなった 1960年代後半以降の黒澤明」

    以前、大映の監督だった田中徳三が言っていた。黒澤明が『羅生門』を大映京都で撮ったとき、撮影が間に合わなくて、アフ・レコを助監督の加藤泰ではなくて、俳優の志村喬に任せたことがあり、ここから加藤と黒澤が喧嘩になったと言っていた。このことは、二つのことを意味しいていた。一つは、大映という外部の撮影所の性もあったが、黒澤といえども定められた期間内で制作を進行させていたことである。もう一つは、志村喬を大変に信頼していたことだ。だが、この二つは、1960年代の東宝では、次第になくなっていたようだ。映画『隠し砦の三悪人』では、天気の性もあったが、予定の期間に映画はできず、製作の藤本真澄は、以後黒澤映画はまっぴらごめんになってしまう。菊島隆三が脚本と制作を担当した『用心棒』と『椿三十郎』は、大ヒットし、次の『天国と地獄』...「そして、誰もいなくなった1960年代後半以降の黒澤明」

  • 『血槍富士』から『続・戦車闘争』へ

    朝、録画してある内田吐夢監督の『血槍富士』を見てから、シネマジャックに行き、『続・戦車闘争』を見る。『血槍富士』は、1953年に中国から帰国した内田の最初の映画である。このスタッフ・キャストを見ると、企画・マキノ満男、監督・内田吐夢、撮影・吉田貞次、主演片岡千恵蔵、宿の女中・赤城春恵と、東映が、戦前の日活、マキノ映画とマキノトーキー、そして満州映画協会の残党の会社だったことが分かる1本である。内容は、時代劇の道中もので、戦前に井上金太郎が作った作品を基にしている。江戸に、家宝の茶碗を持って行く侍の島田照夫、槍持ちの片岡千恵蔵、さらに従者の加東大介で、さまざまな人間が交錯する。なんと言っても、最後に主人と従者を殺された槍持ちの千恵蔵が、藩の侍と戦って勝つ件の迫力はすごい。ただ、全体を貫く武士、侍の社会の非人...『血槍富士』から『続・戦車闘争』へ

  • 「カリマス」ってなんだ

    以前、私が勤務した横浜市会事務局は、今から考えれば大変にオープンな職場だった。市会議員に会うという人が多くいることから、日々、市会棟には、さまざまな人が入ってきていた。中には、議員控室のみならず、1階の事務室に来る人も多かった。物売りの人も多く、印鑑や印刷物の注文、飲み物売り、昼休みには生命保険の外交の女性など、毎日いろんな方が来た。今は、ほとんどが禁止されていて、それでもなぜかヤクルトだけは出入り知ると聞いていたが、現在はどうだろうか。こうした商売人とは別に、来て「演説」をする人も色々といた。中に、「カリマス」とよばれるおじさんがいた。演説の中身は、当時の飛鳥田市長の施策のことで、概ね賛成のようだが、個々に反対もあるようで、その詳細を演説されるのだ。そして、ときどき「カリマス・・・」が挿入されるのである...「カリマス」ってなんだ

  • 『座頭市・海を渡る』

    あまりに暑いので、家で映画を見る。予告編はよく見たが、テレビでは見たことがない。見ていて気付いたのが、馬喰頭の山形勲らが、お吉(安田道代)がいい女であることが、盲目でどうして分かるのか、など差別語がやたらに出てくるからだろう。さらに、庄屋の三島雅夫に至っては、「病にはあんまが一番良い」などといつものニコニコ顔で言うのだから、うれしくなってしまう。私は、この善人風で、実は一番の悪人という俳優が大好きなのだ。冒頭で、四国に渡る船の中で、田中邦衛が仕方話をして、船が大揺れして、その際にスリが商人の財布をする。そのスリが居直ると、座頭市が、悪事が二度とできないように右手首から先を切ってしまい、手が天井から繋がった金具を握っている。こういう新たな殺陣の手は、勝新の周囲の人間が工夫して考えたのだと思える。だから、勝新...『座頭市・海を渡る』

  • 「カラー以後の黒澤映画はつまらない」

    「カラー以後の黒澤映画はつまらない」と言ったのは、私ではない。なべおさみである。ユーチューブの彼のチャンネルを見ていたら、そう言っていた。あるゴルフのとき、なべは、黒澤明自身に聞かれて、そう言ったそうだが、これは正しい。なぜか。カラー以後は、内容がなくなって、色のついた華麗な画面しかなかったからだ。もともと、『天国と地獄』以後は、黒澤明に描くべき内容はなくなっていた。海外から、いろいろと映画化の話は来たが、すべてうまく行かなかった。そして、やっと外国から映画の話が来て、成功したのがソ連というのは、象徴的である。黒澤明は、もともとは共産党のシンパだったからである。ソ連とは、心情的にも親和性があったからだと思える。撮影は大変だったようだが、ともかく映画『デウス・ウザーラ』はできたのだ。その点、フォックスとやっ...「カラー以後の黒澤映画はつまらない」

  • 『反逆の報酬』

    1973年2月、横浜東宝で、この『反逆の報酬』と『赤い鳥逃げた』の2本立てを見たが、馬車道の大ホールはガラガラだった。この2本は、沢田幸弘、藤田敏八と言うまでもなく元日活の監督で、さらにこの時期、東宝では、旧大映の監督の三隅研二や池広一夫などの監督作品も多く、雑誌『映画評論』は、「まさに新東宝」だと言っていた。こうした東宝の混乱は、『日本沈没』の大ヒットまで続くのである。ベトナムの戦場でカメラを構えている戦場カメラマンの渡哲也は、死んでゆく黒人への友人チコ・ローランドから、東京のマンションの鍵を渡される。チコは、この時期の日活によく出ていたが、この辺が最後だと思う。横田基地から日本に入国した渡は、そのマンションに行き、部屋を鍵で開けると美女の鰐淵晴子がいて、彼女に鍵を渡して、彼が死んだことを告げると、その...『反逆の報酬』

  • 「日本はなぜ開戦に踏み切ったのか」

    静岡県立大森山優先生の講演を朝カルで聞く。内容は、少し多すぎて、資料の割には、結論は薄い。構成は、戦前の日本の意思決定システムの問題点が中心で、「国策統合システム」が統一されていない点が最大の問題だった。よく言われる、政治は内閣、軍事は統帥に分かれていたのが最大の問題で、両方を見られるのは、天皇ただ一人。実際に、1942年5月のミッドウェー海戦の敗戦すら、天皇と海軍しか知らず、陸軍も東條英樹首相も知らなかったというのだからひどい。この辺は、1941年12月7日の真珠湾攻撃の敗北を「調査委員会」を作って議論したアメリカとの根本的な差である。結局、どのようにして米国への戦争になったかは、残念ながらよく分からなかった。ただ、このでも出てきたが、東條内閣のとき、賀屋蔵相、東郷外相らは、反対だったが、他の大臣はもう...「日本はなぜ開戦に踏み切ったのか」

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