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大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」 https://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさ

大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」
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2014/09/26

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  • 新貨物線の路線だ

    月曜日は、横浜駅西口に用があり、昼食後は相鉄線に乗って戻るが、途中で寝てしまい、気がつくと相模大野で、結局海老名まで行った。すると、ホームの向こう側に止まっているのは、新宿行きとのこと。「これが相鉄の新線か」と思い初めて乗ってみることにした。新横浜から東横に行くのもあるが、とりあえず、西谷から埼京線に行くのにした。西谷からすぐに地下で、羽沢横浜国大駅で地上に出る。広い貨物駅で、もともとは、新貨物線のために敷設した路線なのだ。そこからまたすぐに地下に潜り、かなり進行した後、鶴見の手前で地上に出て、武蔵小杉に行く。ここからは、昔からあった貨物線で、品川、鶴見をつないでいたので、「品鶴線」(ひんかくせん)と言っていた。それを延長させるのが新貨物線で、1970年代の飛鳥田市政下で、かなり大きな住民の反対運動があり...新貨物線の路線だ

  • 柳沢真一、死去

    柳沢真一氏が、亡くなられたそうだ、89歳。「柳沢なんて誰れ」と思うだろうが、1950年代末に、俳優、ジャズ歌手で人気者だった。初期のテレビにもよく出ていて、柳家金語楼の劇の『お寅さん』にも出ていた。また、日活の喜劇にもよく出ていて、今村昇平の『西銀座駅前』では、なんと主演である。彼で、特筆すべきは、女優の池内淳子と正式に結婚している。今からみれば、池内の方が上にみえるが、それは逆で、当時では完全に柳沢の方がはるかに格上の俳優だった。ただ、これは短期間で終わったので、いろいろと言われたようだ。その後は、福祉施設の運営に尽力されていたそうで、私は10年前くらいに、その業界の人から、柳沢さんのことを聞いた。また、阿佐ヶ谷のラピュタで、コロナ前だと思うが、休憩中に1か月先の注目作品の予告ナレーションをやっていた。...柳沢真一、死去

  • 映画『20歳の恋』の主演は

    一昨日、トリフォーの初期作品が上映されるというので、シネマジャックに行く。アントワーヌ・ドワネルもので、寝てしまった。これを見ようと思ったのは、国際的オムニバス映画『20歳の恋』の一つで、昔新宿日活国際(現、新宿丸井)で見たが、あまり印象になかったのだ。これのポーランド編は、ワイダが、日本編は石原慎太郎が脚本・監督したのだ。話は、小松川女子高校生殺しで、後に大島渚が『絞首刑』として作品化したものだ。この時の女子は、東宝の田村奈己で、男は松竹の石崎二郎だと記憶していた。だが、今はウィキペディアを見ると古谷なんとかになっている。石崎は、映画『東京湾』にも出て、佐分利信の息子なのだが、その後あまり見ない。いずれにしても、あの映画の主役は誰なのだろうか。映画『20歳の恋』の主演は

  • 「横浜開国博Y150」

    中田市長で最大の失政は、「横浜開国博Y150」だろうと思う。横浜開国博であり、先日の本のイベントで記者発表したときも、記者がみな間違えて記憶しており、開港博ではなく、開国博なのだ。これを最初に聞いた時、「いつから横浜市は国になったの」と思ったものだ。開国というなら、日本国がやるしかないのだが、横浜市ごときが言うなどとは、実に僭越ではないか。Y150と言えば、巨大蜘蛛しか記憶にないだろう。この期間中に、子供たちとみなとみらいのホテルで夜、食事したことがある。「二人は、こう言っていた。みなとみらいは、毎日がお祭りみたいで、そこでわざわざ祭りをやっても、大して驚かないので、ここでイベントをやるのは無意味じゃないか」なるほどと思ったものだ。「横浜開国博Y150」

  • 関東自動車学校は

    今朝の新聞に、川崎に新しいアリーナができる計画が出ていた。Kアリーナと言い、京浜川崎駅近くにある自動車学校の用地に作るものらしい。京浜、JRのすぐ近くの場所で、娯楽・飲食施設は多数あり、ホテル、さらの羽田空港も近いので、全国からの客が来るのにも至便だろう。この自動車学校だが、関東自動車学校と言い、元は横浜の三ッ沢にある自動車学校だと思う。ここの社長は、やり手の方で、鈴木喜一横浜市会議長の支持者の一人でもあった。小柄な方だったが、精力的で面白い発想の人のように見えた。ある日、この方が持ってきたのが、ブラジル横浜領事館開館の案内だった。山下町の産業貿易センターだったと思うが、そこに横浜ブラジル領事館を作ったのだ。そんなものが勝手にできるのかと思うが、当時のことで、ある程度の寄付をすればできたようだ。世の中には...関東自動車学校は

  • 「俺の本を置け!」

    またしても、中田市長時代のこと。横浜市の中央図書館の担当部長をやっているとき、ある日突然、市長室長から電話があった。中田宏市長から「俺の本を全部の図書館に置け」と言われたので、すぐに買ってほしい。横浜市での図書館での本の購入は、担当者たちが年間で出版物を検討して計画的にやっているので、すぐにはできないと言うと、「じゃあ、すぐに寄付するから入れてくれ」とのお答え。「それは、寄付になり、公選法に違反するので、絶対にだめです」結局、自分で各図書館に寄付するのは諦めて、後援会が寄付することにしたそうだ。なんとも困った人だった。「俺の本を置け!」

  • 「私は、年女でして・・・」

    横浜市会で、議長、副議長が選ばれ、議長が自民党の瀬之間康浩議員に、副議長が公明党の福島直子議員になったそうだ。そして、女性の副議長は、35年前の社会党の広瀬礼子さん以来だとのことだ。広瀬礼子さんは、当時でも数少ない女性議員で、中区の広瀬さんと鶴見区の山口富美子さんだけだった。社会党でも、その二人、自民党はゼロ、公明とでは南区に加藤文子さんという方がおられたが、党内事情で、1期で辞められた。毎年の正月、社会党は各地で「旗開き」という新年会をやっていた。ある年の保土ヶ谷区の会場で、国会、県会、市会の議員が順にあいさつしたが、そこで広瀬礼子さんは、「私は、今年は年女でして・・・」と言うと、大久保英太郎議長は、「36歳か、そんなこと言わなくてもいいのに、・・・」と言った。その後、広瀬さんは副議長になられたのだが、...「私は、年女でして・・・」

  • 中田市政の本質

    先日、上大岡駅に行ったら、障害児教育の学校のバスが来ていて、東洋観光とあった。これは、中田施政下で、それまでの障害児教室の通学のバスを横浜市交通局だけだったのを変えて、民間との入札にした結果の一つだった。当時、担当の石川課長は、「変えて良かった」と言っていた。確かに料金も安くなり、サービスも良くなったらしい。中田市長や日本維新の会がやっていることは、多分その程度のことで、福祉や保健などの施策は、かなり無視していて、それがコロナでの被害にもなったようだ。その辺のことをもっと正確に見てほしいと私は思うものだ。中田市政の本質

  • もう20年も前なのだ 田中小実昌さん、死去

    画家の野見山暁治氏が亡くなられたが、記事のどこにも作家田中小実昌さんのことについて触れられていない。野見山氏の妹は、田中さんと結婚していたのだ。「今の若い記者は、知らないのだろうなあ」と思う、田中小実昌さんは、もう20年も前に亡くなられているのだから。私は、田中さんが書く、映画についてのエッセイが好きだった。中でも、映画館の水飲み場がなくなるのは、お弁当を食べるのに困ると書いていて笑ってしまったものだ。彼は、当時はまだ多数あった名画座で古い邦画を見るのが好きで、川崎の銀星座というパチンコ屋の2階にあった館にもよくいていた。「この辺は、内藤洋子のファンが多いなあ」と書かれていて、私のことを指しているようで、ドキリとしたものだ。昔、女優の桂木洋子が亡くなった時、朝日新聞には書かれていなかったので、黛敏郎が右翼...もう20年も前なのだ田中小実昌さん、死去

  • 中田宏氏について

    中田宏氏は、その1期目は、まあまあだったが、2期目はお粗末だった。その一つは、私が図書館の担当部長をやっていたとき、当時横浜市の教育長だったH氏から聞いた話である。ある日、H教育長は中田市長に呼ばれて、市長室に行った。すると東京からボリビア大使が来ていて、横浜でスペイン語の学校を作りたいとの話だった。もちろん、賛成だが、外国人学校への援助は、朝鮮人学校の問題があるので、出来ないが、情報交換等をしようとなって終わって大使は帰られた。そのとき、中田宏氏は、聞いた「ところで、ボリビアってカリブ海のどこにあるの?」ボリビアの位置を知らなくても市長はできるだろう。だが、その程度の知識、教養の人間だったのである、中田宏君は。次は、私が自身で体験したことである。金沢区役所で、部長をやっているとき、市長が来られる行事があ...中田宏氏について

  • 飛鳥田市長の功績

    飛鳥田一雄元横浜市長の功績は、なにがあったのか考えてみた。横浜で、「6大事業」を始めたなどと、いろいろとあるだろう。だが、最大の功績は、「横浜市は、なにか面白いことをやっているらしいぞ」と知らせて、全国から優秀な人材を集めたことだと私は思う。飛鳥田市長の功績

  • 平岩弓枝氏の傑作映画『青幻記』

    平岩弓枝氏が亡くなられた。膨大な数の時代劇作品を残されている。その中で、意外な映画の脚本を書かれている。それは、成島東一郎監督の映画『青幻記』である。実に美しく、特に主演の賀来敦子さんの美しさ、武満徹の音楽と成島監督の映像の美しさは最高である。なんでこんな非商業的映画の脚本を書いているのかと思うと、原作の一色次郎さんと若いころからのお知り合いだったからのようだ。ご冥福をお祈りしたい。平岩弓枝氏の傑作映画『青幻記』

  • 嫌いな言葉「弔い合戦」

    1941年の映画で『88年目の太陽』と言うのがあった。これは、今も田浦にある浦賀ドックの話で、戦争で軍艦も商船も仕事で大忙し。これがなぜ88年目の太陽かというのと、ペリーが来航してむりやり開国させられて88年目だというのだ。つまり、88年間の恨みを晴らすのだという、反米映画だった。こういう恨みを晴らす、弔い合戦と言うのは、仇討ちの思想である。だが、ご存じのとおり、戦国時代の仇討ちは、徳川幕府は禁止した。なぜなら、仇討ちを許すと、無限の連鎖になってしまうからで、平和の時代に相応しくないからだ。だが、日本人はつい最近まで、仇討ちが好きだったようで、それは『忠臣蔵』の人気になっているし、ヤクザ映画はほとんど、この仇討ち思想である。この仇討ちと戦争を一緒にしてしまうのは非常に困ったもので、戦争は本質的に「買ったり...嫌いな言葉「弔い合戦」

  • 美空ひばりと吉永小百合の共通点は・・・

    衛星劇場が、美空ひばりの特集をやっていて、ひばりと小百合の共通点について思った。共通点と言えば、二人とも女性で、女優で歌手だが、もう一つある。それはなにか。それは、二人ともかつて新宿西口にあった精華学園にいたことである。そして、意外なことに美空ひばりは卒業しているが、吉永小百合は中退している。彼女は、もともとは都立駒場高校というレベルの高い高校にいたが映画が忙しくて、中退して精華学園に転校した。ところが、さらに忙しくなり、ついにはそこも中退し、その後大検を経て、高卒の学力を認められて早稲田大学文学部に入った。彼女のおばさんは、日本共産党の議員で、先生だった小笠原貞子さんなのだから、頭のよい家なのだと思う。ちなみに、吉永小百合の父親は、ノン・キャリアだが、東大出で、外務省にいた方である。精華学園は、当時は「...美空ひばりと吉永小百合の共通点は・・・

  • 『新網走番外地・嵐を呼ぶダンプ仁義』

    映画の冒頭に、網走刑務所で映画が上映されていて、『唐獅子牡丹』のどれかで、末広役の高倉健に向かって、弟分の田中邦衛が、「よく似ているなあ」と言う、楽屋落ちから始まる。そこでの喧嘩で、宍戸錠が殺されて、彼の奥さんの生田悦子がやっている建設会社に、高倉、田中、そして南利明の3人が働くことになる。そこにもちろん悪役が現れ、ライバルの建設会社の金子信夫である。その間に、どちらともつかない丹波哲郎が出てきて、いいところで場をさらうようにできている。その他、月亭可朝やタコ八郎らが出てきて、笑いを担当するが、可朝は、ちょうど参議院選挙に落ちた直後らしく、「今度は村長選挙だ」などと言っている。もう一人、女のダンプ運転手として工藤明子が出てくる。工藤は、鶴田浩二とのつながりが強く、高倉の作品に出ているのは珍しいが、東映東京...『新網走番外地・嵐を呼ぶダンプ仁義』

  • 本当に3人だけだろうか

    一昨日の朝日新聞の記事で、横浜の町づくりに大きな貢献のあった方として、田村明、北沢猛、池田修の3氏の名があげられていた。私は、直接3氏に接触したことは少ないが、一応あったので、書いておく。田村明さんは、企画局におられ、私は市会事務局の係長だったので、常任委員会等で見るだけだった。そこでは、市会議員にも横浜市職員に対しても、先生が物事を教えているような態度で、「偉いんだなあ」と感じたものだ。北沢君は、都市デザインで有名だが、普通の仕事も結構していて、新横浜の横浜アリーナの設計監修をしたのは彼である。この建設担当は、Kという事務屋の課長だったのだが、市の技術職の悪口を言うだけで何もしなかったので、北沢君が、「みんなそうはいうなよ」と技術職をなだめて設計をやらせたのである。「池田さんって、そんなに横浜の町づくり...本当に3人だけだろうか

  • 吉見先生のご指摘

    今朝の朝日新聞に元東大の吉見俊哉先生の、横浜へのご意見が載っていた。やはり、「実態はご存じないんだなあ」というのが、私の感想で、有名人のみが記述されている。ここで私の感想を述べることはできないが、一つだけ言っておけば、みなとみらい計画も、実は飛鳥田市長の時代は、あまり進捗しなかった。当時、飛鳥田市長は日本社会党であり、現在よりもはるかに自民党と社会党の対立が激しく、中央の省庁も、それを反映して横浜市の計画に協力してくれなかったからだ。その後、飛鳥田一男氏が、成田知己社会党委員長の要請を受けて、日本社会党の委員長になり、市長選挙で元自治省事務次官の細郷道一氏が、市長になった。細郷氏は、民社党と自民党の支持で市長選挙に当選したが、非常に公正な方で、飛鳥田市長時代の「6大事業」等の主要施策を、ほとんど忠実に実行...吉見先生のご指摘

  • 今日は夏至で、英語で言えば

    今日は夏至だそうで、英語で言えば、midsummerである。だから、昔は、シェークスピアの「midsummernight'sdream」は、真夏の夜の夢と訳されていた。だが、これは夏至祭のことで、日本の真夏は、7,8月であり、季節が違うので、今は「夏の夜の夢」と訳されている。実は、高校の演劇班(小山台高校は、文化部演劇班といっていた)で、文化祭のとき、これをやって、私も役者ででたのだ。この時は、シュエークスピアの長台詞の描写が嫌いだった。だが、あの長台詞は、実に気持ちの良いもので、聴くのも言うのも、面白いものなのだ。だから、シェークスピアは、そのままやった方が良いというのが私の考えで、変な「工夫」をしない方が良いと思うのだ。今日は夏至で、英語で言えば

  • 川崎市庁舎は

    川崎の市庁舎が建て替わったそうだ。旧庁舎の内部は、黒澤明の映画『生きる』のモデルになっている。最初に見た時、この区役所と市庁舎は、どこかと思った。東京ではないし、横浜とも違うように思えた。川崎だと知ったのは、世田谷美術館で開かれた『東宝撮影所展』だった。原画にはっきりと、kawasakiとあった。志村喬の渡辺勘治の職場は、川崎市だったのだ。川崎市庁舎は

  • トーチシンガーになるだろう

    アストラッド・ジルベルトを下手な歌手だと書いたが、ジャズ的にみれば、彼女はトーチ・シンガーになる。トーチ・シンガーとは、ロマンチックな曲を切々と歌う女性歌手で、片手にハンカチをもって歌うので、松明でトーチ・シンガーと言ったのだ。有名な女性では、ルース・エッティングという人がいて、私もLPを持っている。ただ、この人は美人のトーチ・シンガーだったのだが、実はギャングの情婦だったそうだ。それを描いた映画『情欲の悪魔』もあり、これの主役はドリス・デイで、ぜひ見たいとおもっているのだが、入手できない。だが、その後にも似たような人はいるもので、クロディーヌ・ロンジェなどがそうで、私は好きだったのだが。上手い歌手もいいが、下手な歌手も意外と味がある、というのが私の考えである。トーチシンガーになるだろう

  • 「戦争の止め方、負けかたを知らなかった日本」

    明治大の山田先生の『激動の時代の天皇と皇弟たち』の3回目、「天皇の作戦指導」をzoomで聞いたが、非常に面白かった。中では、結構個々の作戦の細部について、的確な指摘をしている。1942年の珊瑚海海戦についても、これは日米五分五分くらいだったのだが、こういう時は徹底的にやって敵を全滅すべきだった」と言っている。天候と日米両軍艦船が、別々に離れたので、引き分け的になったのだが、次のミッドウェーへの影響とニューギニアの連合国基地ポートモレスビー上陸ができず、逆にニューギニア島を西部から陸路で攻撃することになり、これは餓死と全滅を起こすことになる。「神軍平等兵」の奥崎謙三が戦ったのもニューギニアである。ミッドウェー以後では、非常に顔色が悪くなり、側近は日光行幸を勧めるが、天皇は逆に連合艦隊本部に行きたいと言い、そ...「戦争の止め方、負けかたを知らなかった日本」

  • イシャウッドの著作が翻訳されたそうだ

    キャスリーンとフランク―父と母の話―クリストファー・イシャウッド/著、横山貞子/訳5,390円(税込)イギリスの小説家、クリストファー・イシャウッドの小説が翻訳されたそうだ。イシャウッドって誰と思うかもしれないが、映画、ミュージカルの『キャバレー』の原作を書いた人なのだ。この人の小説は、最初は『嵐の中の青春』として、芝居と映画になり、さらにミュージカルになり、映画にもなっている。ライザ・ミネリの主演作である。これについては、傑作な話があり、、彼女のポスターが映画館の近くに貼ってあり、「このキャバレーには、外人の女の子をいれたのか」とおじさんたちに言われたとのことだ。イシャウッドの著作が翻訳されたそうだ

  • 『非常線の女』について

    昨日の会合で、小津安二郎の戦前の映画『非常線の女』について話したので、以前に書いたことを採録する。フィルムセンターの田中絹代特集で、『非常線の女』を見る。共演は、岡譲二、三井弘治(秀夫)、水久保澄子など。1933年、昭和8年のサイレント映画だが、全編がアメリカ的モダニズムなのには、とても驚く。戦後の小津作品にもモダニズムの片鱗はあるが、ここでは完全に小津はアメリカ的な文化、文明に心酔している。まず、話が田中絹代が昼は商事会社のタイピスト、だが夜は町の不良(与太者)のボス岡譲二の情婦という設定が、完全にアメリカのギャング映画である。冒頭のアスファルトを歩く人間の大俯瞰から、タイプライターの横移動へと画面も自由に動き、ローポジションでカメラが動かない戦後の小津とは全く違う。画面のすっきりした構図、田中や岡のフ...『非常線の女』について

  • 「横浜らしさ、とはなにか」

    今夜は、野毛で開かれた「山下ふ頭に〇〇があったらイイナ」の会に出た。この種の、横浜の街づくりについての、役所内部や市民の会での議論で、つねに疑問に思うのは、「横浜らしさ」についての議論が行われることだ。私が思うには、横浜らしさ、など、年齢、男女、職業、地域など、10人十色どころか、「万人万色」だと思う。そんなものに共通性を見出すなど、およそ無意味としか思えない。もし、考えるならば、十人十色を前提とするしかないと思うのだ。これは『東京流れ者』の渡哲也、山下ふ頭です。「横浜らしさ、とはなにか」

  • 昔の命名法なら、パックになる

    昨日の阪神・オリックス戦は、9回まで2-1でリードしていた阪神の湯浅が、頓宮と杉本にホームランを打たれて負けた。この9回を押さえたのは平野だったが、その前に8回を押さえたのが、ワゲスパック投手で、一昔前なら、「パック」と登録されたところだろう。昔の日本のプロ野球では、長い外人選手名は、大体省略していた。南海のブレイザーは、本当はドン・ブラッシンゲームだが、長いのでブレイザーだった。大洋の内野手でクレスという選手もいたが、この人の本当の名も、クレスニックだったが、日本ではクレスで通した。外人選手の名前には、傑作な話があった。1962年、大毎オリオンズに良い外人選手がいるとの話がきた。だが、名前がマンコビッチだったので、さすがにマンコはやめて、マニーにした。本当の話で、ウキぺデイアにちゃんと書いてある。昔の命名法なら、パックになる

  • ベルリンの壁、イン・ワセダ

    1966年春のことだが、早稲田大学に「ベルリンの壁」とよばれるものがあった。場所は、正門から入って突き当り、21号館、共通講堂とも言われ、特定の学部ではなく、文学部以外のいろんな学部の授業が行われる建物で、そこと屋上から外部の道路に出るところにコンクリートの壁が作られたのだ。それには、原因があり、1965年12月から、早稲田では第二学生会館の使用法と学費の値上げで「学費・学館闘争」が始まっていて、12月中旬には全学封鎖、ストライキになった。この全学ストで、授業はなくなり、ほとんどの授業がレポート提出に代わった。そのために政経学部7年生だった林裕通さんも、無事8年生に進級されたのだそうだ。在学生は、それでよいが、新入生の受験テストがあるので、大学は2月初旬に機動隊を導入して封鎖を解除し、203人の学生を逮捕...ベルリンの壁、イン・ワセダ

  • 「石井隆監督」

    衛星劇場で、『新・監督は語る』があり、故石井隆さんだった。この人には、1966年の秋に一度だけ会ったことがある。当時、私は映画を見て語るだけの早稲田大学映画研究会に厭きて、やはり若者は体も動かすべきと考えて劇団演劇研究会に入っていたが、久しぶりに映研の部室にいったのだ。そこは、今は大きく変わっているはずだ、21号館の裏に「演劇長屋」と言われる、学内の3劇団の部室と2つの稽古場があり、その他中南米研究会、探検部等の部室も、本当に長屋のように連なっていた。まるで、松竹映画の人物が住む長屋のような感じだった。その稽古場の裏には、細い路地があり、そこを右に行って突き当りを左に曲がると映画研究会の部室、と言っても、普通の仕舞屋があり、板敷きの上に長机が四角に置いてあるのが、映研の部室だった。行くと、当時3年で部長の...「石井隆監督」

  • アストラッド・ジルベルト、死去

    アストラッド・ジルベルトが、死んだそうだ、83歳。ボサノバの女王のように日本では言われていたが、音楽に詳しい人の間では、きわめて評判の良くない女性だった。あの「イパネマの娘」は、本来はジョアン・ジルベルトとスタン・ゲッツのレコードを作るために、録音をしていた休憩の合間に、勝手に歌って録音してしまったものなのだ。それを合成して出した曲が大ヒットしたのだ。それまで、彼女はただの出たがりの素人にすぎなかったのだ。だから、ブラジルでは彼女を歌手として扱ったことはなかった。あの下手な歌は、本当に下手だったのである。ただ、彼女が唯一優越していたのは、英語ができたことで、それでアメリカをはじめ世界で売れたのである。アストラッド・ジルベルト、死去

  • 山本由伸が、日本一だろう

    阪神とオリックスの1回戦を見る。村上と山本の投げ合い。先日のロッテ戦で、才木が佐々木朗樹と投げ合って勝ったので、今度もと見るが、やはり山本由伸はすごかった。到底、点が取れるどころか、まともに出塁できない。その内に、村上は内野守備の乱れから1点取られ、さらに「非力外人」的なグレゴリーにホームランされて2-0で負ける。横浜が勝ったので、ゲーム差は3.5になったが、まだいいだろう。この時期は、勝ったり負けたりで行けばよいのだ。やはり、阪神の優勝は確実だと思われる。山本由伸が、日本一だろう

  • 「情けは他人のためならず」

    「情けは他人のためならず」は、最近は、他人に情けをかけることは意味ないので、しない方が良いとされる解釈もあるようだが、もちろん逆で、他人になにかをすることは、めぐり巡って自分に返ってくるという意味だ。これを感じたのは、2001年に脳梗塞で倒れたとき、MRIやCTさらにエコー等に放射線機器で検査をされた時だった。昔、パシフィコ横浜にいたとき、直接の担当ではなかったが、開業以来放射線医学会と機器会は、ずっとパシフィコ横浜を使ってくれていて、「多少とも同学会の振興に寄与したことが、自分が倒れたときに返ってきているのだな」と思ったものだ。そして、今回『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』を出し、多くの人から日本の野外フェステイバルの嚆矢だったとの再評価をいただいた。これは、まさしく自分の趣味で...「情けは他人のためならず」

  • 『事件記者・影なき男』

    ユーツーブで、作曲家小倉朗をさがしていたら、テレビの『事件記者・影なき男』に当たった。これは、1958年7月に放送されたもので、作は島田一男、演出は若林一郎である。話は、まず宍戸錠が出てきて、闇ドルを骨董商の笈川武夫から買う。そのドル札は、実は偽物で、金融業者の久米明が、元印刷工に華族の家の地下で作らせたものだった。久米は、その印刷工を拳銃で殺してしまい、新宿の神社に放置させる。そのとき、印刷工のズボンの中にドル札が隠されいたことから、偽ドル作り一味が割り出される。そして、ついに久米ら一味が捕まるという単純な話。だが、ここには後の刑事や記者のドラマの元がある。まず、記者連中が屯し、いろいろと会話しているところ。坪内美詠子の居酒屋とそこの女性と記者たちの恋愛模様。ここでは滝田祐介と川口知子が婚約していた。い...『事件記者・影なき男』

  • 『獲物の分け前』

    シネマジャックで「永遠の女優」シリーズをやっているので、見に行く。1966年のロジェ・バディム監督の『獲物の分け前』で、主演は当時夫婦だったジェーン・フォンダ。なにを分けてくれるのか、「俺の美女を見ろ」というのか、でもジェーンは美女ではあるまいと思う。原作はエミール・ゾラだそうだが、読んでいないので、どこからが翻案なのか分からず。バディムは、昔々も、フランスの恋愛小説の元祖の『危険な関係』をドイツ占領下のフランスにして映画にしている。要は、特別に自分に描くべきモチーフのない人なのだろうと思う。日本で言えば、井上梅次のような人だろうか。若い妻のジェーン・フォンダを、彼女が持っている巨額の財産を目的に結婚した実業家のミシエル・ピッコリの大学生の息子のピーター・マッケナリーが、当然のごとく若いジェーンと恋仲にな...『獲物の分け前』

  • 中新井和夫さんが助監督だった 『背くらべ』

    幻の蔵出し映画の『背くらべ』を見たら、中新井和夫さんが監督助手だった。この人に会ったこともないが名前は知っていた。横浜市港湾局に情報調査室というのがあり、そこの室長が中新井(なからい)さんという人だった。この人は、もともと市の職員ではなく、山下新日本汽船から来た人だった。当時、山新は、人員整理をしていたらしく、東京にある海外の港湾局の日本代表というのには、ほとんどが元山新の幹部だった。ちなみに、石原裕次郎・慎太郎兄弟の父親の石原潔氏も、山新の幹部だったが、50代で急死した方だった。そして、この中新井さんの息子は、松竹の助監督だという噂だった。「本当かな」と思っていたが、噂は本当だったわけで、彼は結局本編では監督になれず、「木下恵介アワー」のテレビ映画で監督になったようだ。この映画の脚本も、山田太一で、彼も...中新井和夫さんが助監督だった『背くらべ』

  • どちらも誤解している 名古屋城エレベーター問題

    名古屋城の復元工事で、エレベーターが5階までないことをめぐって差別発言があったようだ。また、河村市長らの対応にも問題があったらしい。だが、私は、どちらにも組しない。もともと、城の天守閣に、お殿様は登らないものであることを知らないのだろう。たまには登っただろう、だが普段は下の居室にいて政務をとっていたのだ。その証拠に、江戸城天守閣は、明暦の大火で焼け落ち、令和の今日に至るまで作られていない。なぜか、必要がないからである。戦国時代なら、敵の発見、さらに攻撃に向けて天守閣は意義があったろう。だが、戦争がなくなり平和になった江戸中期以後では、天守閣は、城主の権威と金力を示すだけになったからである。だから、明暦の大火の後、幕府の老中たちも、天守閣再建よりも、江戸の町の復興に力を入れたのだ。今回の名古屋城再建では、2...どちらも誤解している名古屋城エレベーター問題

  • 『銀座の女』

    2014年に見た時、次のように書いた。1955年の日活作品で、銀座の芸者置屋の女将轟夕起子の話、監督は吉村公三郎で、脚本は新藤兼人と高橋二三。感じとしては成瀬三喜男の名作『流れる』をもっと通俗的、喜劇的にしたのを想像してもらえればよい。轟には、旦那の国会議員の清水将夫がいるが、外遊から帰国した後、彼から「子供たちが大きくなったので」と手を切られる。でも、彼女には、生活を面倒見ていて、いずれ自分の養子にするつもりの大学生長谷部健がいる。彼は、東工大の学生だが、小説を書いていて、かつての朋輩で今は銀座でバーをやっている日高澄子の妹・北原三枝も、文学少女。長谷部と北原は、「エグジステンシャリズム、サルトル、カミユ」などと会話している。長谷部はいい加減な男で、病気で寝ている時、見舞いに来た日高澄子ともできてしまう...『銀座の女』

  • 『真珠湾への道 戦中・戦後に語られた真実を見直す」

    先週の木曜日は、佐藤元英先生の「真珠湾への道」の2回目。今回は、主に開戦後の、ワシントンでの開戦通告が遅れて、アメリカに「卑怯なだまし討ち」と言われたことへの、日本での反論のこと。だまし討ちではないと東條首相以下、外務省幹部などが言っていて、むしろ米国の挑発だったという反論だが、本当は米国は、日本の暗号電報を解読してしっていたのだ、と言いたいのだが。それは、国民には言えないので、非常におかしなものになっている。そして、次は、戦後国会で質問されたことに行くのだとのこと。真相は、加瀬俊一らが、陸海軍に協力して、通告を遅らせようとしていたのだが、その真相が解明されていないことになると思う。『真珠湾への道戦中・戦後に語られた真実を見直す」

  • 二重扉の部屋

    今、私が住んでいる部屋は、安い賃貸マンションの1室だが、「あそこは、昔は億ションだったのですよ」本当かねと思ってきたが、先日、本当であるらしいことを体験した。それは、鍵がおかしくなり、土曜だったので、管理会社も休みで、仕方なく「鍵の専門会社」に電話して急に来てもらった。すると、「これは今ではもうない、珍しいタイプの扉です。すごく重いですね」と言われた。その道の方たちで、襲撃に備えるものだったのかと思う。思い出したのは、管財係長をやっているときで、根岸湾イ地区の岸壁に台船を長期に放置している業者がいて、横浜でもないので、取り締まっても良いとなった。そこで、管理に厳しいKさんと二人で、高輪の業者の本社のあるマンションに行った。すぐに分かってエレベーターを出て、部屋を当てて、ノックすると空いたので、ドアノブを引...二重扉の部屋

  • 『殺しの烙印』

    今まで見た映画の中で、一番の回数を見た作品である。封切り時に新宿国際で3本立てで見て分からず、その後蒲田パレス座、大森ヒカリ座等で6回見てやっと筋が分かった映画である。その後も、なんども見ているので、15回くらいは見ていると思うが、やはり面白い。今回新たに見て、やはり画面がグラフィックに構成されていることとショットと筋に飛躍が多いので、分かり肉のだなと思う。全体としては、やはりシュールになっているところがすごい。ただの番線のアクション映画に過ぎなかったのだから。その意味では、日活の社長堀久作がたまたま見て、分からないと言ったのは、ある意味で正しく、分かりにくい映画である。ただ、音楽も含めての画面のリズムは、きわめて快く、快調に進んでいく。主人公の花田五郎の宍戸錠が、「日本のアクション映画史上最高」というの...『殺しの烙印』

  • 小山明子の叔父は

    朝日新聞の神奈川版に、県立鶴見高校の卒業生として女優の小山明子が記述されていた。彼女は、県鶴を出て、服装学院にいた時、学内のショーにでて、松竹にスカウトされて女優になる。その後は、当時松竹の監督だった大島渚と結婚して映画を共に作るようになる。彼女が大島と一緒に制作した映画で一番良かったのは、ATG作品の『少年』だったと思う。これは、当り屋として、日本全国を縦断した一家を描いたものだが、主人公の少年が非常に良かった。彼らと少年の孤独は、彼ら創造社の日本映画界での孤独を象徴するものだが、多くの人に支持されているという誇りが見えた。また、この作品は大島渚の松竹での技術の蓄積も窺える作品だったと思う。そして、この記事には一切書かれていなかったが、小山明子の叔父は、小山弘健という方で、非共産党マルクス主義者で有名だ...小山明子の叔父は

  • 『蔣介石日記』

    中国国民党の指導者蒋介石は、1930年代から日々日記を付けていたそうで、それは今はアメリカのフーバー研究所に保存されいる。筆書きの原本はまだ、コピーも複写も禁じられいているようだが、その一部に基づき当時の記録が映像で回想された。まずは、1937年の日中戦争の始まりの盧溝橋事件から。これは、いろんな説があるが、偶発的なもので、本来は双方とも拡大する意思はなかった。ところが、次の第二次上海事変となると、これは事件の国際化を狙った国民党の挑発で、日本軍の物ではなかった。その証言は、戦後に国民党軍幹部のものがある。ただし、これは完全な中国の勝利で、日本は大苦戦したのである。その理由は、ここの映像でも紹介されていたが、中国軍がなんとドイツ軍の指導を受けて、トーチカ戦等の新しい戦術を使ったからだった。第一次世界大戦で...『蔣介石日記』

  • J議員の教え

    前に書いたJ議員だが、私はこの人に、大変重要なことを教えられた。それは「酒の飲めない役人は出世しないよ」だった。この方も大企業にいたので、日本社会の集団主義についてよくご存じだったのだろう。当時、私はほとんど酒が飲めなかった。大学時代は、尊敬する先輩の林さんが飲まない方だったので、飲む機会がなかったのだ。劇団の連中が、酒を飲んで大言壮語するのが一番嫌いだった。だから、横浜市役所入った時は、ほとんど飲めなかった。だが、その後普通には飲めるようになった。別にJ先生の教えのように出世しようと思ったのではなく、なにかで鬱屈した時、とりあえずそれを晴らすには、酒が一番と気づいたからだ。J議員の教え

  • 「本当に住んでいるの」

    テレビのコマーシャルで、船越栄一郎が、「にしたんクリニック」で悪乗りで刑事役を演じている。笑えるCMだが、舞台は本当の住宅で、セットではないようだ。余計なことだが、このような西洋屋敷に住んでいる方がいるのだろうかと思ってしまう。あのすごい階段など、高齢化したらどうするのだろうか。エレベーターを付けるのだろうか。「本当に住んでいるの」

  • コンビニが移動する

    吉野町の地下鉄の出入り口にあったビルが壊されて、新しい建物ができて、中を除くと棚がずらりとあるので、コンビニだろうと思う。吉野町には、ファミマ、セブンイレブンがあるので、ローソンかなと思うと、共進橋に近いところにあるファミマが移動するようだ。ある日、ここに糊を買いに入るが、文具等はほとんどなかった。毎日出る食料品は補充しているが、その他はほとんど補充していなくて、棚がガラガラになってゆく。要は、新店に移動するために無駄な補充はしていないのだろう。このファミマの移動は、駅近くにセブンイレブンが出来た影響だと思う。吉野町には、産婦人科院があったのだが、数年前に閉鎖され、その後がセブンイレブンになった。産婦人科の後がコンビニというのは、時代を象徴しているようだ。コンビニが移動する

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