日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさ
月曜日は、横浜駅西口に用があり、昼食後は相鉄線に乗って戻るが、途中で寝てしまい、気がつくと相模大野で、結局海老名まで行った。すると、ホームの向こう側に止まっているのは、新宿行きとのこと。「これが相鉄の新線か」と思い初めて乗ってみることにした。新横浜から東横に行くのもあるが、とりあえず、西谷から埼京線に行くのにした。西谷からすぐに地下で、羽沢横浜国大駅で地上に出る。広い貨物駅で、もともとは、新貨物線のために敷設した路線なのだ。そこからまたすぐに地下に潜り、かなり進行した後、鶴見の手前で地上に出て、武蔵小杉に行く。ここからは、昔からあった貨物線で、品川、鶴見をつないでいたので、「品鶴線」(ひんかくせん)と言っていた。それを延長させるのが新貨物線で、1970年代の飛鳥田市政下で、かなり大きな住民の反対運動があり...新貨物線の路線だ
柳沢真一氏が、亡くなられたそうだ、89歳。「柳沢なんて誰れ」と思うだろうが、1950年代末に、俳優、ジャズ歌手で人気者だった。初期のテレビにもよく出ていて、柳家金語楼の劇の『お寅さん』にも出ていた。また、日活の喜劇にもよく出ていて、今村昇平の『西銀座駅前』では、なんと主演である。彼で、特筆すべきは、女優の池内淳子と正式に結婚している。今からみれば、池内の方が上にみえるが、それは逆で、当時では完全に柳沢の方がはるかに格上の俳優だった。ただ、これは短期間で終わったので、いろいろと言われたようだ。その後は、福祉施設の運営に尽力されていたそうで、私は10年前くらいに、その業界の人から、柳沢さんのことを聞いた。また、阿佐ヶ谷のラピュタで、コロナ前だと思うが、休憩中に1か月先の注目作品の予告ナレーションをやっていた。...柳沢真一、死去
一昨日、トリフォーの初期作品が上映されるというので、シネマジャックに行く。アントワーヌ・ドワネルもので、寝てしまった。これを見ようと思ったのは、国際的オムニバス映画『20歳の恋』の一つで、昔新宿日活国際(現、新宿丸井)で見たが、あまり印象になかったのだ。これのポーランド編は、ワイダが、日本編は石原慎太郎が脚本・監督したのだ。話は、小松川女子高校生殺しで、後に大島渚が『絞首刑』として作品化したものだ。この時の女子は、東宝の田村奈己で、男は松竹の石崎二郎だと記憶していた。だが、今はウィキペディアを見ると古谷なんとかになっている。石崎は、映画『東京湾』にも出て、佐分利信の息子なのだが、その後あまり見ない。いずれにしても、あの映画の主役は誰なのだろうか。映画『20歳の恋』の主演は
中田市長で最大の失政は、「横浜開国博Y150」だろうと思う。横浜開国博であり、先日の本のイベントで記者発表したときも、記者がみな間違えて記憶しており、開港博ではなく、開国博なのだ。これを最初に聞いた時、「いつから横浜市は国になったの」と思ったものだ。開国というなら、日本国がやるしかないのだが、横浜市ごときが言うなどとは、実に僭越ではないか。Y150と言えば、巨大蜘蛛しか記憶にないだろう。この期間中に、子供たちとみなとみらいのホテルで夜、食事したことがある。「二人は、こう言っていた。みなとみらいは、毎日がお祭りみたいで、そこでわざわざ祭りをやっても、大して驚かないので、ここでイベントをやるのは無意味じゃないか」なるほどと思ったものだ。「横浜開国博Y150」
今朝の新聞に、川崎に新しいアリーナができる計画が出ていた。Kアリーナと言い、京浜川崎駅近くにある自動車学校の用地に作るものらしい。京浜、JRのすぐ近くの場所で、娯楽・飲食施設は多数あり、ホテル、さらの羽田空港も近いので、全国からの客が来るのにも至便だろう。この自動車学校だが、関東自動車学校と言い、元は横浜の三ッ沢にある自動車学校だと思う。ここの社長は、やり手の方で、鈴木喜一横浜市会議長の支持者の一人でもあった。小柄な方だったが、精力的で面白い発想の人のように見えた。ある日、この方が持ってきたのが、ブラジル横浜領事館開館の案内だった。山下町の産業貿易センターだったと思うが、そこに横浜ブラジル領事館を作ったのだ。そんなものが勝手にできるのかと思うが、当時のことで、ある程度の寄付をすればできたようだ。世の中には...関東自動車学校は
またしても、中田市長時代のこと。横浜市の中央図書館の担当部長をやっているとき、ある日突然、市長室長から電話があった。中田宏市長から「俺の本を全部の図書館に置け」と言われたので、すぐに買ってほしい。横浜市での図書館での本の購入は、担当者たちが年間で出版物を検討して計画的にやっているので、すぐにはできないと言うと、「じゃあ、すぐに寄付するから入れてくれ」とのお答え。「それは、寄付になり、公選法に違反するので、絶対にだめです」結局、自分で各図書館に寄付するのは諦めて、後援会が寄付することにしたそうだ。なんとも困った人だった。「俺の本を置け!」
横浜市会で、議長、副議長が選ばれ、議長が自民党の瀬之間康浩議員に、副議長が公明党の福島直子議員になったそうだ。そして、女性の副議長は、35年前の社会党の広瀬礼子さん以来だとのことだ。広瀬礼子さんは、当時でも数少ない女性議員で、中区の広瀬さんと鶴見区の山口富美子さんだけだった。社会党でも、その二人、自民党はゼロ、公明とでは南区に加藤文子さんという方がおられたが、党内事情で、1期で辞められた。毎年の正月、社会党は各地で「旗開き」という新年会をやっていた。ある年の保土ヶ谷区の会場で、国会、県会、市会の議員が順にあいさつしたが、そこで広瀬礼子さんは、「私は、今年は年女でして・・・」と言うと、大久保英太郎議長は、「36歳か、そんなこと言わなくてもいいのに、・・・」と言った。その後、広瀬さんは副議長になられたのだが、...「私は、年女でして・・・」
先日、上大岡駅に行ったら、障害児教育の学校のバスが来ていて、東洋観光とあった。これは、中田施政下で、それまでの障害児教室の通学のバスを横浜市交通局だけだったのを変えて、民間との入札にした結果の一つだった。当時、担当の石川課長は、「変えて良かった」と言っていた。確かに料金も安くなり、サービスも良くなったらしい。中田市長や日本維新の会がやっていることは、多分その程度のことで、福祉や保健などの施策は、かなり無視していて、それがコロナでの被害にもなったようだ。その辺のことをもっと正確に見てほしいと私は思うものだ。中田市政の本質
画家の野見山暁治氏が亡くなられたが、記事のどこにも作家田中小実昌さんのことについて触れられていない。野見山氏の妹は、田中さんと結婚していたのだ。「今の若い記者は、知らないのだろうなあ」と思う、田中小実昌さんは、もう20年も前に亡くなられているのだから。私は、田中さんが書く、映画についてのエッセイが好きだった。中でも、映画館の水飲み場がなくなるのは、お弁当を食べるのに困ると書いていて笑ってしまったものだ。彼は、当時はまだ多数あった名画座で古い邦画を見るのが好きで、川崎の銀星座というパチンコ屋の2階にあった館にもよくいていた。「この辺は、内藤洋子のファンが多いなあ」と書かれていて、私のことを指しているようで、ドキリとしたものだ。昔、女優の桂木洋子が亡くなった時、朝日新聞には書かれていなかったので、黛敏郎が右翼...もう20年も前なのだ田中小実昌さん、死去
中田宏氏は、その1期目は、まあまあだったが、2期目はお粗末だった。その一つは、私が図書館の担当部長をやっていたとき、当時横浜市の教育長だったH氏から聞いた話である。ある日、H教育長は中田市長に呼ばれて、市長室に行った。すると東京からボリビア大使が来ていて、横浜でスペイン語の学校を作りたいとの話だった。もちろん、賛成だが、外国人学校への援助は、朝鮮人学校の問題があるので、出来ないが、情報交換等をしようとなって終わって大使は帰られた。そのとき、中田宏氏は、聞いた「ところで、ボリビアってカリブ海のどこにあるの?」ボリビアの位置を知らなくても市長はできるだろう。だが、その程度の知識、教養の人間だったのである、中田宏君は。次は、私が自身で体験したことである。金沢区役所で、部長をやっているとき、市長が来られる行事があ...中田宏氏について
飛鳥田一雄元横浜市長の功績は、なにがあったのか考えてみた。横浜で、「6大事業」を始めたなどと、いろいろとあるだろう。だが、最大の功績は、「横浜市は、なにか面白いことをやっているらしいぞ」と知らせて、全国から優秀な人材を集めたことだと私は思う。飛鳥田市長の功績
平岩弓枝氏が亡くなられた。膨大な数の時代劇作品を残されている。その中で、意外な映画の脚本を書かれている。それは、成島東一郎監督の映画『青幻記』である。実に美しく、特に主演の賀来敦子さんの美しさ、武満徹の音楽と成島監督の映像の美しさは最高である。なんでこんな非商業的映画の脚本を書いているのかと思うと、原作の一色次郎さんと若いころからのお知り合いだったからのようだ。ご冥福をお祈りしたい。平岩弓枝氏の傑作映画『青幻記』
1941年の映画で『88年目の太陽』と言うのがあった。これは、今も田浦にある浦賀ドックの話で、戦争で軍艦も商船も仕事で大忙し。これがなぜ88年目の太陽かというのと、ペリーが来航してむりやり開国させられて88年目だというのだ。つまり、88年間の恨みを晴らすのだという、反米映画だった。こういう恨みを晴らす、弔い合戦と言うのは、仇討ちの思想である。だが、ご存じのとおり、戦国時代の仇討ちは、徳川幕府は禁止した。なぜなら、仇討ちを許すと、無限の連鎖になってしまうからで、平和の時代に相応しくないからだ。だが、日本人はつい最近まで、仇討ちが好きだったようで、それは『忠臣蔵』の人気になっているし、ヤクザ映画はほとんど、この仇討ち思想である。この仇討ちと戦争を一緒にしてしまうのは非常に困ったもので、戦争は本質的に「買ったり...嫌いな言葉「弔い合戦」
衛星劇場が、美空ひばりの特集をやっていて、ひばりと小百合の共通点について思った。共通点と言えば、二人とも女性で、女優で歌手だが、もう一つある。それはなにか。それは、二人ともかつて新宿西口にあった精華学園にいたことである。そして、意外なことに美空ひばりは卒業しているが、吉永小百合は中退している。彼女は、もともとは都立駒場高校というレベルの高い高校にいたが映画が忙しくて、中退して精華学園に転校した。ところが、さらに忙しくなり、ついにはそこも中退し、その後大検を経て、高卒の学力を認められて早稲田大学文学部に入った。彼女のおばさんは、日本共産党の議員で、先生だった小笠原貞子さんなのだから、頭のよい家なのだと思う。ちなみに、吉永小百合の父親は、ノン・キャリアだが、東大出で、外務省にいた方である。精華学園は、当時は「...美空ひばりと吉永小百合の共通点は・・・
映画の冒頭に、網走刑務所で映画が上映されていて、『唐獅子牡丹』のどれかで、末広役の高倉健に向かって、弟分の田中邦衛が、「よく似ているなあ」と言う、楽屋落ちから始まる。そこでの喧嘩で、宍戸錠が殺されて、彼の奥さんの生田悦子がやっている建設会社に、高倉、田中、そして南利明の3人が働くことになる。そこにもちろん悪役が現れ、ライバルの建設会社の金子信夫である。その間に、どちらともつかない丹波哲郎が出てきて、いいところで場をさらうようにできている。その他、月亭可朝やタコ八郎らが出てきて、笑いを担当するが、可朝は、ちょうど参議院選挙に落ちた直後らしく、「今度は村長選挙だ」などと言っている。もう一人、女のダンプ運転手として工藤明子が出てくる。工藤は、鶴田浩二とのつながりが強く、高倉の作品に出ているのは珍しいが、東映東京...『新網走番外地・嵐を呼ぶダンプ仁義』
一昨日の朝日新聞の記事で、横浜の町づくりに大きな貢献のあった方として、田村明、北沢猛、池田修の3氏の名があげられていた。私は、直接3氏に接触したことは少ないが、一応あったので、書いておく。田村明さんは、企画局におられ、私は市会事務局の係長だったので、常任委員会等で見るだけだった。そこでは、市会議員にも横浜市職員に対しても、先生が物事を教えているような態度で、「偉いんだなあ」と感じたものだ。北沢君は、都市デザインで有名だが、普通の仕事も結構していて、新横浜の横浜アリーナの設計監修をしたのは彼である。この建設担当は、Kという事務屋の課長だったのだが、市の技術職の悪口を言うだけで何もしなかったので、北沢君が、「みんなそうはいうなよ」と技術職をなだめて設計をやらせたのである。「池田さんって、そんなに横浜の町づくり...本当に3人だけだろうか
今朝の朝日新聞に元東大の吉見俊哉先生の、横浜へのご意見が載っていた。やはり、「実態はご存じないんだなあ」というのが、私の感想で、有名人のみが記述されている。ここで私の感想を述べることはできないが、一つだけ言っておけば、みなとみらい計画も、実は飛鳥田市長の時代は、あまり進捗しなかった。当時、飛鳥田市長は日本社会党であり、現在よりもはるかに自民党と社会党の対立が激しく、中央の省庁も、それを反映して横浜市の計画に協力してくれなかったからだ。その後、飛鳥田一男氏が、成田知己社会党委員長の要請を受けて、日本社会党の委員長になり、市長選挙で元自治省事務次官の細郷道一氏が、市長になった。細郷氏は、民社党と自民党の支持で市長選挙に当選したが、非常に公正な方で、飛鳥田市長時代の「6大事業」等の主要施策を、ほとんど忠実に実行...吉見先生のご指摘
今日は夏至だそうで、英語で言えば、midsummerである。だから、昔は、シェークスピアの「midsummernight'sdream」は、真夏の夜の夢と訳されていた。だが、これは夏至祭のことで、日本の真夏は、7,8月であり、季節が違うので、今は「夏の夜の夢」と訳されている。実は、高校の演劇班(小山台高校は、文化部演劇班といっていた)で、文化祭のとき、これをやって、私も役者ででたのだ。この時は、シュエークスピアの長台詞の描写が嫌いだった。だが、あの長台詞は、実に気持ちの良いもので、聴くのも言うのも、面白いものなのだ。だから、シェークスピアは、そのままやった方が良いというのが私の考えで、変な「工夫」をしない方が良いと思うのだ。今日は夏至で、英語で言えば
川崎の市庁舎が建て替わったそうだ。旧庁舎の内部は、黒澤明の映画『生きる』のモデルになっている。最初に見た時、この区役所と市庁舎は、どこかと思った。東京ではないし、横浜とも違うように思えた。川崎だと知ったのは、世田谷美術館で開かれた『東宝撮影所展』だった。原画にはっきりと、kawasakiとあった。志村喬の渡辺勘治の職場は、川崎市だったのだ。川崎市庁舎は
アストラッド・ジルベルトを下手な歌手だと書いたが、ジャズ的にみれば、彼女はトーチ・シンガーになる。トーチ・シンガーとは、ロマンチックな曲を切々と歌う女性歌手で、片手にハンカチをもって歌うので、松明でトーチ・シンガーと言ったのだ。有名な女性では、ルース・エッティングという人がいて、私もLPを持っている。ただ、この人は美人のトーチ・シンガーだったのだが、実はギャングの情婦だったそうだ。それを描いた映画『情欲の悪魔』もあり、これの主役はドリス・デイで、ぜひ見たいとおもっているのだが、入手できない。だが、その後にも似たような人はいるもので、クロディーヌ・ロンジェなどがそうで、私は好きだったのだが。上手い歌手もいいが、下手な歌手も意外と味がある、というのが私の考えである。トーチシンガーになるだろう
明治大の山田先生の『激動の時代の天皇と皇弟たち』の3回目、「天皇の作戦指導」をzoomで聞いたが、非常に面白かった。中では、結構個々の作戦の細部について、的確な指摘をしている。1942年の珊瑚海海戦についても、これは日米五分五分くらいだったのだが、こういう時は徹底的にやって敵を全滅すべきだった」と言っている。天候と日米両軍艦船が、別々に離れたので、引き分け的になったのだが、次のミッドウェーへの影響とニューギニアの連合国基地ポートモレスビー上陸ができず、逆にニューギニア島を西部から陸路で攻撃することになり、これは餓死と全滅を起こすことになる。「神軍平等兵」の奥崎謙三が戦ったのもニューギニアである。ミッドウェー以後では、非常に顔色が悪くなり、側近は日光行幸を勧めるが、天皇は逆に連合艦隊本部に行きたいと言い、そ...「戦争の止め方、負けかたを知らなかった日本」
キャスリーンとフランク―父と母の話―クリストファー・イシャウッド/著、横山貞子/訳5,390円(税込)イギリスの小説家、クリストファー・イシャウッドの小説が翻訳されたそうだ。イシャウッドって誰と思うかもしれないが、映画、ミュージカルの『キャバレー』の原作を書いた人なのだ。この人の小説は、最初は『嵐の中の青春』として、芝居と映画になり、さらにミュージカルになり、映画にもなっている。ライザ・ミネリの主演作である。これについては、傑作な話があり、、彼女のポスターが映画館の近くに貼ってあり、「このキャバレーには、外人の女の子をいれたのか」とおじさんたちに言われたとのことだ。イシャウッドの著作が翻訳されたそうだ
昨日の会合で、小津安二郎の戦前の映画『非常線の女』について話したので、以前に書いたことを採録する。フィルムセンターの田中絹代特集で、『非常線の女』を見る。共演は、岡譲二、三井弘治(秀夫)、水久保澄子など。1933年、昭和8年のサイレント映画だが、全編がアメリカ的モダニズムなのには、とても驚く。戦後の小津作品にもモダニズムの片鱗はあるが、ここでは完全に小津はアメリカ的な文化、文明に心酔している。まず、話が田中絹代が昼は商事会社のタイピスト、だが夜は町の不良(与太者)のボス岡譲二の情婦という設定が、完全にアメリカのギャング映画である。冒頭のアスファルトを歩く人間の大俯瞰から、タイプライターの横移動へと画面も自由に動き、ローポジションでカメラが動かない戦後の小津とは全く違う。画面のすっきりした構図、田中や岡のフ...『非常線の女』について
今夜は、野毛で開かれた「山下ふ頭に〇〇があったらイイナ」の会に出た。この種の、横浜の街づくりについての、役所内部や市民の会での議論で、つねに疑問に思うのは、「横浜らしさ」についての議論が行われることだ。私が思うには、横浜らしさ、など、年齢、男女、職業、地域など、10人十色どころか、「万人万色」だと思う。そんなものに共通性を見出すなど、およそ無意味としか思えない。もし、考えるならば、十人十色を前提とするしかないと思うのだ。これは『東京流れ者』の渡哲也、山下ふ頭です。「横浜らしさ、とはなにか」
昨日の阪神・オリックス戦は、9回まで2-1でリードしていた阪神の湯浅が、頓宮と杉本にホームランを打たれて負けた。この9回を押さえたのは平野だったが、その前に8回を押さえたのが、ワゲスパック投手で、一昔前なら、「パック」と登録されたところだろう。昔の日本のプロ野球では、長い外人選手名は、大体省略していた。南海のブレイザーは、本当はドン・ブラッシンゲームだが、長いのでブレイザーだった。大洋の内野手でクレスという選手もいたが、この人の本当の名も、クレスニックだったが、日本ではクレスで通した。外人選手の名前には、傑作な話があった。1962年、大毎オリオンズに良い外人選手がいるとの話がきた。だが、名前がマンコビッチだったので、さすがにマンコはやめて、マニーにした。本当の話で、ウキぺデイアにちゃんと書いてある。昔の命名法なら、パックになる
1966年春のことだが、早稲田大学に「ベルリンの壁」とよばれるものがあった。場所は、正門から入って突き当り、21号館、共通講堂とも言われ、特定の学部ではなく、文学部以外のいろんな学部の授業が行われる建物で、そこと屋上から外部の道路に出るところにコンクリートの壁が作られたのだ。それには、原因があり、1965年12月から、早稲田では第二学生会館の使用法と学費の値上げで「学費・学館闘争」が始まっていて、12月中旬には全学封鎖、ストライキになった。この全学ストで、授業はなくなり、ほとんどの授業がレポート提出に代わった。そのために政経学部7年生だった林裕通さんも、無事8年生に進級されたのだそうだ。在学生は、それでよいが、新入生の受験テストがあるので、大学は2月初旬に機動隊を導入して封鎖を解除し、203人の学生を逮捕...ベルリンの壁、イン・ワセダ
衛星劇場で、『新・監督は語る』があり、故石井隆さんだった。この人には、1966年の秋に一度だけ会ったことがある。当時、私は映画を見て語るだけの早稲田大学映画研究会に厭きて、やはり若者は体も動かすべきと考えて劇団演劇研究会に入っていたが、久しぶりに映研の部室にいったのだ。そこは、今は大きく変わっているはずだ、21号館の裏に「演劇長屋」と言われる、学内の3劇団の部室と2つの稽古場があり、その他中南米研究会、探検部等の部室も、本当に長屋のように連なっていた。まるで、松竹映画の人物が住む長屋のような感じだった。その稽古場の裏には、細い路地があり、そこを右に行って突き当りを左に曲がると映画研究会の部室、と言っても、普通の仕舞屋があり、板敷きの上に長机が四角に置いてあるのが、映研の部室だった。行くと、当時3年で部長の...「石井隆監督」
アストラッド・ジルベルトが、死んだそうだ、83歳。ボサノバの女王のように日本では言われていたが、音楽に詳しい人の間では、きわめて評判の良くない女性だった。あの「イパネマの娘」は、本来はジョアン・ジルベルトとスタン・ゲッツのレコードを作るために、録音をしていた休憩の合間に、勝手に歌って録音してしまったものなのだ。それを合成して出した曲が大ヒットしたのだ。それまで、彼女はただの出たがりの素人にすぎなかったのだ。だから、ブラジルでは彼女を歌手として扱ったことはなかった。あの下手な歌は、本当に下手だったのである。ただ、彼女が唯一優越していたのは、英語ができたことで、それでアメリカをはじめ世界で売れたのである。アストラッド・ジルベルト、死去
阪神とオリックスの1回戦を見る。村上と山本の投げ合い。先日のロッテ戦で、才木が佐々木朗樹と投げ合って勝ったので、今度もと見るが、やはり山本由伸はすごかった。到底、点が取れるどころか、まともに出塁できない。その内に、村上は内野守備の乱れから1点取られ、さらに「非力外人」的なグレゴリーにホームランされて2-0で負ける。横浜が勝ったので、ゲーム差は3.5になったが、まだいいだろう。この時期は、勝ったり負けたりで行けばよいのだ。やはり、阪神の優勝は確実だと思われる。山本由伸が、日本一だろう
「情けは他人のためならず」は、最近は、他人に情けをかけることは意味ないので、しない方が良いとされる解釈もあるようだが、もちろん逆で、他人になにかをすることは、めぐり巡って自分に返ってくるという意味だ。これを感じたのは、2001年に脳梗塞で倒れたとき、MRIやCTさらにエコー等に放射線機器で検査をされた時だった。昔、パシフィコ横浜にいたとき、直接の担当ではなかったが、開業以来放射線医学会と機器会は、ずっとパシフィコ横浜を使ってくれていて、「多少とも同学会の振興に寄与したことが、自分が倒れたときに返ってきているのだな」と思ったものだ。そして、今回『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』を出し、多くの人から日本の野外フェステイバルの嚆矢だったとの再評価をいただいた。これは、まさしく自分の趣味で...「情けは他人のためならず」
ユーツーブで、作曲家小倉朗をさがしていたら、テレビの『事件記者・影なき男』に当たった。これは、1958年7月に放送されたもので、作は島田一男、演出は若林一郎である。話は、まず宍戸錠が出てきて、闇ドルを骨董商の笈川武夫から買う。そのドル札は、実は偽物で、金融業者の久米明が、元印刷工に華族の家の地下で作らせたものだった。久米は、その印刷工を拳銃で殺してしまい、新宿の神社に放置させる。そのとき、印刷工のズボンの中にドル札が隠されいたことから、偽ドル作り一味が割り出される。そして、ついに久米ら一味が捕まるという単純な話。だが、ここには後の刑事や記者のドラマの元がある。まず、記者連中が屯し、いろいろと会話しているところ。坪内美詠子の居酒屋とそこの女性と記者たちの恋愛模様。ここでは滝田祐介と川口知子が婚約していた。い...『事件記者・影なき男』
シネマジャックで「永遠の女優」シリーズをやっているので、見に行く。1966年のロジェ・バディム監督の『獲物の分け前』で、主演は当時夫婦だったジェーン・フォンダ。なにを分けてくれるのか、「俺の美女を見ろ」というのか、でもジェーンは美女ではあるまいと思う。原作はエミール・ゾラだそうだが、読んでいないので、どこからが翻案なのか分からず。バディムは、昔々も、フランスの恋愛小説の元祖の『危険な関係』をドイツ占領下のフランスにして映画にしている。要は、特別に自分に描くべきモチーフのない人なのだろうと思う。日本で言えば、井上梅次のような人だろうか。若い妻のジェーン・フォンダを、彼女が持っている巨額の財産を目的に結婚した実業家のミシエル・ピッコリの大学生の息子のピーター・マッケナリーが、当然のごとく若いジェーンと恋仲にな...『獲物の分け前』
幻の蔵出し映画の『背くらべ』を見たら、中新井和夫さんが監督助手だった。この人に会ったこともないが名前は知っていた。横浜市港湾局に情報調査室というのがあり、そこの室長が中新井(なからい)さんという人だった。この人は、もともと市の職員ではなく、山下新日本汽船から来た人だった。当時、山新は、人員整理をしていたらしく、東京にある海外の港湾局の日本代表というのには、ほとんどが元山新の幹部だった。ちなみに、石原裕次郎・慎太郎兄弟の父親の石原潔氏も、山新の幹部だったが、50代で急死した方だった。そして、この中新井さんの息子は、松竹の助監督だという噂だった。「本当かな」と思っていたが、噂は本当だったわけで、彼は結局本編では監督になれず、「木下恵介アワー」のテレビ映画で監督になったようだ。この映画の脚本も、山田太一で、彼も...中新井和夫さんが助監督だった『背くらべ』
名古屋城の復元工事で、エレベーターが5階までないことをめぐって差別発言があったようだ。また、河村市長らの対応にも問題があったらしい。だが、私は、どちらにも組しない。もともと、城の天守閣に、お殿様は登らないものであることを知らないのだろう。たまには登っただろう、だが普段は下の居室にいて政務をとっていたのだ。その証拠に、江戸城天守閣は、明暦の大火で焼け落ち、令和の今日に至るまで作られていない。なぜか、必要がないからである。戦国時代なら、敵の発見、さらに攻撃に向けて天守閣は意義があったろう。だが、戦争がなくなり平和になった江戸中期以後では、天守閣は、城主の権威と金力を示すだけになったからである。だから、明暦の大火の後、幕府の老中たちも、天守閣再建よりも、江戸の町の復興に力を入れたのだ。今回の名古屋城再建では、2...どちらも誤解している名古屋城エレベーター問題
2014年に見た時、次のように書いた。1955年の日活作品で、銀座の芸者置屋の女将轟夕起子の話、監督は吉村公三郎で、脚本は新藤兼人と高橋二三。感じとしては成瀬三喜男の名作『流れる』をもっと通俗的、喜劇的にしたのを想像してもらえればよい。轟には、旦那の国会議員の清水将夫がいるが、外遊から帰国した後、彼から「子供たちが大きくなったので」と手を切られる。でも、彼女には、生活を面倒見ていて、いずれ自分の養子にするつもりの大学生長谷部健がいる。彼は、東工大の学生だが、小説を書いていて、かつての朋輩で今は銀座でバーをやっている日高澄子の妹・北原三枝も、文学少女。長谷部と北原は、「エグジステンシャリズム、サルトル、カミユ」などと会話している。長谷部はいい加減な男で、病気で寝ている時、見舞いに来た日高澄子ともできてしまう...『銀座の女』
先週の木曜日は、佐藤元英先生の「真珠湾への道」の2回目。今回は、主に開戦後の、ワシントンでの開戦通告が遅れて、アメリカに「卑怯なだまし討ち」と言われたことへの、日本での反論のこと。だまし討ちではないと東條首相以下、外務省幹部などが言っていて、むしろ米国の挑発だったという反論だが、本当は米国は、日本の暗号電報を解読してしっていたのだ、と言いたいのだが。それは、国民には言えないので、非常におかしなものになっている。そして、次は、戦後国会で質問されたことに行くのだとのこと。真相は、加瀬俊一らが、陸海軍に協力して、通告を遅らせようとしていたのだが、その真相が解明されていないことになると思う。『真珠湾への道戦中・戦後に語られた真実を見直す」
今、私が住んでいる部屋は、安い賃貸マンションの1室だが、「あそこは、昔は億ションだったのですよ」本当かねと思ってきたが、先日、本当であるらしいことを体験した。それは、鍵がおかしくなり、土曜だったので、管理会社も休みで、仕方なく「鍵の専門会社」に電話して急に来てもらった。すると、「これは今ではもうない、珍しいタイプの扉です。すごく重いですね」と言われた。その道の方たちで、襲撃に備えるものだったのかと思う。思い出したのは、管財係長をやっているときで、根岸湾イ地区の岸壁に台船を長期に放置している業者がいて、横浜でもないので、取り締まっても良いとなった。そこで、管理に厳しいKさんと二人で、高輪の業者の本社のあるマンションに行った。すぐに分かってエレベーターを出て、部屋を当てて、ノックすると空いたので、ドアノブを引...二重扉の部屋
今まで見た映画の中で、一番の回数を見た作品である。封切り時に新宿国際で3本立てで見て分からず、その後蒲田パレス座、大森ヒカリ座等で6回見てやっと筋が分かった映画である。その後も、なんども見ているので、15回くらいは見ていると思うが、やはり面白い。今回新たに見て、やはり画面がグラフィックに構成されていることとショットと筋に飛躍が多いので、分かり肉のだなと思う。全体としては、やはりシュールになっているところがすごい。ただの番線のアクション映画に過ぎなかったのだから。その意味では、日活の社長堀久作がたまたま見て、分からないと言ったのは、ある意味で正しく、分かりにくい映画である。ただ、音楽も含めての画面のリズムは、きわめて快く、快調に進んでいく。主人公の花田五郎の宍戸錠が、「日本のアクション映画史上最高」というの...『殺しの烙印』
朝日新聞の神奈川版に、県立鶴見高校の卒業生として女優の小山明子が記述されていた。彼女は、県鶴を出て、服装学院にいた時、学内のショーにでて、松竹にスカウトされて女優になる。その後は、当時松竹の監督だった大島渚と結婚して映画を共に作るようになる。彼女が大島と一緒に制作した映画で一番良かったのは、ATG作品の『少年』だったと思う。これは、当り屋として、日本全国を縦断した一家を描いたものだが、主人公の少年が非常に良かった。彼らと少年の孤独は、彼ら創造社の日本映画界での孤独を象徴するものだが、多くの人に支持されているという誇りが見えた。また、この作品は大島渚の松竹での技術の蓄積も窺える作品だったと思う。そして、この記事には一切書かれていなかったが、小山明子の叔父は、小山弘健という方で、非共産党マルクス主義者で有名だ...小山明子の叔父は
中国国民党の指導者蒋介石は、1930年代から日々日記を付けていたそうで、それは今はアメリカのフーバー研究所に保存されいる。筆書きの原本はまだ、コピーも複写も禁じられいているようだが、その一部に基づき当時の記録が映像で回想された。まずは、1937年の日中戦争の始まりの盧溝橋事件から。これは、いろんな説があるが、偶発的なもので、本来は双方とも拡大する意思はなかった。ところが、次の第二次上海事変となると、これは事件の国際化を狙った国民党の挑発で、日本軍の物ではなかった。その証言は、戦後に国民党軍幹部のものがある。ただし、これは完全な中国の勝利で、日本は大苦戦したのである。その理由は、ここの映像でも紹介されていたが、中国軍がなんとドイツ軍の指導を受けて、トーチカ戦等の新しい戦術を使ったからだった。第一次世界大戦で...『蔣介石日記』
前に書いたJ議員だが、私はこの人に、大変重要なことを教えられた。それは「酒の飲めない役人は出世しないよ」だった。この方も大企業にいたので、日本社会の集団主義についてよくご存じだったのだろう。当時、私はほとんど酒が飲めなかった。大学時代は、尊敬する先輩の林さんが飲まない方だったので、飲む機会がなかったのだ。劇団の連中が、酒を飲んで大言壮語するのが一番嫌いだった。だから、横浜市役所入った時は、ほとんど飲めなかった。だが、その後普通には飲めるようになった。別にJ先生の教えのように出世しようと思ったのではなく、なにかで鬱屈した時、とりあえずそれを晴らすには、酒が一番と気づいたからだ。J議員の教え
テレビのコマーシャルで、船越栄一郎が、「にしたんクリニック」で悪乗りで刑事役を演じている。笑えるCMだが、舞台は本当の住宅で、セットではないようだ。余計なことだが、このような西洋屋敷に住んでいる方がいるのだろうかと思ってしまう。あのすごい階段など、高齢化したらどうするのだろうか。エレベーターを付けるのだろうか。「本当に住んでいるの」
吉野町の地下鉄の出入り口にあったビルが壊されて、新しい建物ができて、中を除くと棚がずらりとあるので、コンビニだろうと思う。吉野町には、ファミマ、セブンイレブンがあるので、ローソンかなと思うと、共進橋に近いところにあるファミマが移動するようだ。ある日、ここに糊を買いに入るが、文具等はほとんどなかった。毎日出る食料品は補充しているが、その他はほとんど補充していなくて、棚がガラガラになってゆく。要は、新店に移動するために無駄な補充はしていないのだろう。このファミマの移動は、駅近くにセブンイレブンが出来た影響だと思う。吉野町には、産婦人科院があったのだが、数年前に閉鎖され、その後がセブンイレブンになった。産婦人科の後がコンビニというのは、時代を象徴しているようだ。コンビニが移動する
「ブログリーダー」を活用して、大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」さんをフォローしませんか?
日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
夜、確定申告を終える。去年は、3月15日に出したので、今年は非常に早いことになる。今日の午前中に横浜南税務署に出しに行く。確定申告、終了
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。その度胸には、大変に驚いたものだ。正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたの...3月は、31日では終わらないんです・・・
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。『赤いハンカチ』のラストシーン
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。ウィーンについて
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる...『第三の男』のリメイクは
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。それも大映京都の時代劇である。浅野寿々子1957.07.30十七才の抵抗日活...可奈子の幼少時代1958.11.15赤胴鈴之助黒雲谷の雷人大映京都...しのぶ1958.12.21赤胴鈴之助どくろ団退治大映京都...しのぶ1959.11.22薄桜記大映京都市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。桜の映画と言えば
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。美しい花見の映画
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。誕生日に思う
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。同じ動脈乖離だが・・・
まるで、大島渚の映画『青春残酷物語』みたいだと思う。映画では、桑野みゆきは高校生で、川津祐介は大学生だったのだが。この映画では、桑野と川津の方が死んでしまうのだが。川津祐介も、桑野みゆきの姉久我美子の元恋人で医者の渡辺文雄もとっくに死んでいて、監督の大島渚も、撮影の川又昂も、音楽の真鍋理一郎も亡くなられている。その後、結婚して引退した桑野みゆきは、ご健在なのだろうか。MSN.COMSNSで美人局、大学生を転落死させた疑い中学生3人を逮捕・通告SNSで知り合った20代の男性から金を奪おうとし、逃げようとした男性をビル4階から転落させ、死亡させたとして、大阪府警は7日、大阪市中央区の中学2年の少女(14)と堺市北区の中学3年の少年(15)を強盗致死の疑いで逮.....まるで映画『青春残酷物語』みたいだ
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。40年前の「贅沢三昧」
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるよ...『高鳴る心の歌』朝妻一郎
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。大谷の両親は横浜にいた
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。「なかそね、みき君はどうしているかね」秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。佐藤栄作が言った「なかそね、みき君はどうしているかね」
歌手の中曽根美樹が亡くなったそうだが、結構映画にも出ている。また、吉永小百合、浜田光夫の映画『愛と死を見つめて』では、この二人が仲宗根の『川は流れる』を唄っている。この映画では、今テレビの朝ドラの主人公の笠置シズ子が、吉永と病院の同室の患者の叔母さんとして出ている。この頃、笠置は歌手をやめていたのである。仲宗根美樹1963年(キングレコードの広告)映画[編集]うるさい妹たち(1961年大映)東海一の若親分(1961年東映)海猫が飛んで(1962年松竹)しのび逢い(1962年松竹)太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962年大蔵映画)川は流れる(1962年松竹)その結婚異議あり(1963年大映)独立美人隊(1963年松竹)魚河岸の旋風娘(1963年松竹)BACKSTAGE/バックステージ(2001年日活)仲宗根美樹、死去、79歳
昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料
昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在
映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て
女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳
「凡人は凡人に戻る」と言ったのは、元巨人の外野手の高林恒夫である。彼は、立教大学、熊谷組で活躍して、巨人に入った。そこそこ活躍していたが、すぐに国鉄にトレードされて数年後に引退した。その時の言葉である。当時、巨人には、長嶋、王、国鉄には金田などの大選手がいたので、到底自分は無理と思ったのだろう。実に賢明なことで、その後は実家の神保町の東陽堂の店主となった。「凡人は凡人に戻る」高林恒夫
昨日はさすがに少し疲れたので、すぐに寝る。午後も、ぼんやりとビデオを見ていたら、人間の病気の性差の特番だった。これは、20年前に脳梗塞で倒れた時、気づいたことだった。男は左麻痺、女性は右麻痺なのだ。もちろん、男で右麻痺、女で左麻痺はいるが、大体70から80%は、男は左、女は右マヒなのである。それは、食事のとき、男女一緒の部屋で取ったので、すぐに分かったことなのだ。さらに、不思議なのは、脳のくも膜下出血は、圧倒的に女性に多く、それも年齢には関係ないということだった。女性で、20代くらいの患者の方がいて、車いすに赤ん坊の写真を付けているので、なぜかなと思っていた。ある時、夫とみられる男性が見舞いに来たが、やはり非常に若い人だったのであり、くも膜下出血は、女性でも年齢に関係なく起きる病気なのだ。また、男女のホル...性差医療について
内戦が報じられているスーダンだが、ウォーマッド横浜にスーダンのミュージシャンも出たことを思い出した。ヌビア出身で、エジプトの奥地、スーダンともいえるあたりだろう。1994年で、アリ・ハッサーン・クバーンで、苦虫を嚙み潰したようなお爺さんで、かなり渋い声だったが、迫力はあった。苦い顔つきだったのは、胃の病気だったからだそうで、確か数年後の亡くなられたそうだ。ご冥福をお祈りしたい。スーダンのミュージシャンも出た
以前、パシフィコ横浜にいるとき、休日だったと思うが、何かの用で、横浜市役所前にあった会社に行くと、某大企業から来ていたNさんが、さっそうと大型バイクを止めて降り立った。「これはなんですか」と聞くと、「BMWだよ」と言われる。「BMWって、バイクも作っているのですか」「もともとBMWは、4輪よりも、バイクの方が先なんだよ」と言ってどこかにツーリングへと去って行かれたのだ。やあ、カッコいいなあと思った。BMWのオートバイ
昨日は、用があって品川駅の港南口に行ったが、大変な混雑だった。ここは、昔は、本当になにもなく、東京都の食肉市場、東京新聞本社、そして本の少し、新宿西口のような飲食店街があるだけだった。なにしろ、ここに出るには、長くて細い地下道があるだけで、ここの暗い地下道は、多くの映画で使用されたくらいだ。そして、これを抜けて海岸に行くと東京水産大学がある、というだけの地域だった。それが、今や高層ビル街になっていて、そんな昔など何も知らない若者が群れ集っていた。おそらく、山手線の駅で、一番変化した駅の出入り口だと思う。品川駅港南口
プロ野球が好きだが、テレビで見ていて、インタビューに答えると、皆「最高です!」としか言わない。巨人の阿部が言ったのが最初だと思うが、他に言うことがないのか。高校野球で、きちんと教育すべきと思うのは、私だけだろうか。「最高です!」しか知らないのかっ!
今日の新聞に、公明党の議員が、全国で12人も落ちたと出ていて、前代未聞だとある。だが、私が記憶しているところでは、1974年の選挙の時に、旭区で山本議員が、2011年の時に、金沢区で木村議員が落選している。たしかに、公明党は、票割ができる党で、私が今いる南区では、一時だが、公明党議員が2人いたことがある。男性の3期目のE議員と1期のK議員で、次の時から定数が減となるので、K議員を下して、E議員だけにしたのだ。この時、大久保英太郎議長は、Kさんを下した経緯を説明してくれた。Kさんは、実は女性だったので、この人の方が優秀だったが、議員を辞めても主婦に戻ればよいので、このKさんを下してE議員を残したのだそうだ。逆にすると、Eさんの生活の面倒を公明党が見なくてはいけないからだとのこと。さて、二度の公明党議員が落選...横浜市議選挙でも、公明党議員が落ちたことがある
『バナバ・ボート』で有名な歌手のべラフォンテが亡くなったが、音楽評論家の中村とうようさんが、最初にレコードの解説を書いたのが、このべラフォンテのライブアルバムだったそうだ。「神棚に上げておかなくてはいけないんだ」とも言っていた。そして、彼が来日したとき、その司会をしたが、彼は「公演の収益を、日本で民族音楽を研究している団体に寄付したい」というので、東洋音楽学会に行き、寄付した。当時、東洋音楽学会の会長は、『茶っ切り節』の作詞者の町田嘉章さんで、昔からの民謡ではなくて、これは静岡電鉄のCMソングなのである。町田さんは、全国各地を携帯録音機を担いで歩き、民謡を録音したのだそうだ。携帯録音機とは、今の携帯電話機のように小さなものではなく、大変に大きなもので、肩から下げて担いで使ったものである。写真のは、テープレ...ハリー・べラフォンテ死去、96歳
日曜日の劇研同窓会で、長谷部朝子さんに、大島渚の『日本の夜と霧』のことについてお話を聞く。この時は、準備から撮影まで、約1か月くらい、大船に通ったとのこと。そのことは、大島の本にも、「劇研の人から意見を聞いた」と書かれている。この大島らと劇研の間を結んだのは、横堀幸司さんで、彼はその後、松竹の助監督になられた。彼は、大島ではなく「木下恵介、命」なのだが、渋谷実監督の助監督もやったそうだ。いずれお話を聞きたいと思っている。「1か月くらいかかった」そうだ『日本の夜と霧』
今日の神奈川新聞に本とトークイベントのことが掲載される。また、先日、朝日新聞に出た広告についても言われる。「何百万もしたんでしょうね」そんなものではないのだが、意外にも朝日新聞は、読者が多いのだなと思う。いずれにしても、4月29日のパシフィコ横浜でのトークイベントには、多くの方にお見えいただきたい。「残すのが役目」というのは、2011年に中村とうようさん、2014年に田村光男と、ウォーマッド横浜日本委員会顧問・中村と、製作会社・田村光男の二人が亡くなられていて、生きているのは私一人だからである。神奈川新聞に掲載
民藝の女優、奈良岡朋子追悼の特別号が来た。別に大したことではなく、「民藝の仲間の会」に入っているからなのだ。かって、日本の劇団で、一番の後援会を持っていたのは、俳優座だった。ところが、市原悦子さんの夫の塩見哲の暴挙によって、それは俳優座制作センターにされてしまい、実質的に解消したようだ。実にバカバカしいことだが、長年塩見哲に大きな芝居の演出をやらせなかった千田是也への「復讐」だったようだ。だが、その千田の塩見への見方は正しかった。千田の死後、塩見は、市原悦子の主演で、2004年に石川淳原作の『狂風記』を脚本・演出したが、世にもひどい、30年遅れのアングラ劇で、私も唖然としたものだ。以後、市原悦子は、自分の音楽劇以外の演出を塩見にはさせなかったのは、彼女の愛情だろう。実に賢明な判断だったと言えるだろう。対し...奈良岡朋子、死去
昨日の昼は、高田馬場に行き、「早大劇研同窓の集い」に出る。23人で、なんと私が一番下で、最高学年の羽根井明夫さんは、昭和28年入学であり、その次が、元NHKアナウンサーで、副会長にもなられた永井多恵子さん。彼女は、世田谷パブリックシアター館長も辞められて、国際演劇協会の日本代表をされているとのこと。各自の話が披露されるが、「あの公演のとき、誰かがどうして、俺はこうした」と言った話が多く、そもそもその公演を見ていない我々には想像もしようがない。日頃、懐旧談ができないのだろうなあ、皆さんにブログをすることをお勧めしたいと思った。演目は、『蟹工船』『るつぼ』『秩父困民党』『風浪』などと、やや左翼的なものが多いので、「やはり共産党的だったのですか?」とある方に聞くと、即座に「自由舞台のような共産党劇団じゃないんだ...「われわれは、自由舞台のような共産党劇団ではないのだ」
昨日の午後は、中日・阪神で、阪神の村上投手の投球を見る。驚くほど速い球ではないが、非常にコントロールがよく、変化球もよく決まっている。やはり、投手はコントロールだと思った。これで、連敗は2で止まる。村上と才気の二人で、今年の阪神はなんとかなると思える。いよいよ岡田の言う「あれ」になるだろう。村上の投球を見る
先日は、日本史の荒久保先生について書いたが、もう一人好きだったのが、物理の永見先生だった。この方は、元は戦闘機に乗っていたという人で、片肺がなくて、いつも咳き込んでいたが、話は非常に面白かった。得意の分野は、戦争の戦法で、アレキサンダー大王から、ナポレオン、さらにノモンハン戦と古代から近代に至る戦争のやり方の説明と批評なのだ。一番は、日本軍とソ連軍のノモンハンでの空中戦のことで、戦闘機は回転半径小ささと速度で決まるのだそうで、上空でぐるぐると旋回していたら、半径が小さくて速度が速い方が、いつか必ず相手の後ろに入ってしまうもので、ソ連木は、日本軍の97式戦闘機の敵ではなかった。そこで、ソ連は戦法を変え、97式とはあまり戦わず、なるべき上空で待機して、来たら戦うが、すぐに逃げるという「一撃離脱法」を編み出して...小山台高校、永見先生
私が出した「ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェスバル』を読んでくれたある人から、「これは遺書なのではないか・・・」と感じたと言われた。もちろん、まだ死ぬ気はないので、あれは遺書ではない。まあ、若い人への「遺言」の意味は少々あったのではあったが。日本の音楽業界への名刺代わりだと言えばよいだろうか。そんなものである。遺書ではありません
一昨日、国立映画アーカイブで『太陽の墓場』を見ているとき、前の席で口論が二回あった。要は、見ながら眠っていて、いびきが煩いと若い男が、隣の年上の男に言っていて、言われた方も反論していた。だが、私は、一番悪いのは、映画『太陽の墓場』だと思ったのだ。監督の大島渚は、あるBSの番組で、師匠の大庭秀雄監督の言に触れていた。それは、大島の先輩助監督が、監督に昇進するときのことで、大島は「彼は良い監督になるでしょうかね」と聞いたのだ。すると、大庭監督は、こう言った。「そんなことはない。彼は、家に来ても、玄関先の挨拶すらできない男なんだから」そして、大島は、映画作りも、玄関先の挨拶と同じで、まず全体を説明する、そして導入から展開へと導き、ドラマを盛り上げる。こうしたことは、その人間の生き方と同じなのだとのこと。その点で...一昨日の口論
映画『憎いあんちくしょう』の最後、熊本の無医村に、石原裕次郎と浅丘ルリ子が、芦川いづみが持つジープを運んで、そこにいる小池朝雄と2年ぶりに会う。芦川は、テレビ局員長門裕之の手配したヘリコプターで降りてくる。西日本空輸だった。これは、現在のANAになったのかと調べると、合併してはいず、今ではドクターヘリ等の会社として存続しているそうだ。ANAにはなっていないのだ
今日は、「四川料理の日」なのだそうで、四川料理と言えば、一番有名なのは麻婆豆腐だろう。私が、最初に食べたのは、大学2年のときで、有楽町の広告代理店に勤務していた島村さんの会社でアルバイトをしていたときだった。昼休みに、錦江飯店で食べたのが、麻婆豆腐で、一皿に麻婆と御飯が盛られたもので、800円だったと思う。当時としては、非常に高いものだったが、アルバイトの気楽さで食べていたと思う。先輩の手島さんもいたのだが、彼も、もういない。その際には、東宝ツインタワービルで、黒澤明を見かけたこともあった。映画『トラ、トラ、トラ』のシナリオを書いている時期で、まだ意気軒高とした姿で、両脇に男をまるで、家来のように従えて歩いていた。「やあ、背が高いなあ」と思ったものだ。この年の12月末に、黒澤は、20世紀フォックスから監督...最初に食べた麻婆豆腐など
普通、論争的に思われる大島渚だが、意外にも表現は抒情的である。この映画を映画館で見るのは、高校時代に池袋の人生座で見て以来で、20年くらい前にビデオで見て、この1960年の大阪市は、ほとんどアジアだなあと感じた。その彼の抒情性が良く出ているのが、この映画で、その延長線上に『日本春歌考』もある。ここでは、大阪西成地区釜ヶ崎の、若いヤクザたちの「青春」を描いていて、津川雅彦、川津祐介らの組に、佐々木功と友人の中原が入ってきて起こすドラマである。もう一つあるのが、釜ヶ崎の最底辺の連中で、彼らから血を取って、商売しているのが若い娘の炎加代子と元衛生兵の浜村純で、伴淳三郎の土地のバラックに住むバタヤたちで、左朴善、渡辺文雄、永井一郎、藤原釜足、田中邦衛、北林谷栄らで、そこに佐藤慶らが絡んでいるさらに、小沢栄太郎の扮...『太陽の墓場』
どこかの本で読んだが、石原裕次郎は、福永武彦などが好きな文学青年だったらしい。兄・石原慎太郎が、小説家なのだから頷ける話だ。『憎いあンちくしょう』は、私は大好きな映画で、たぶん5回くらい見ている。今回、午前中は何もすることがなかったので見るが、やはり面白く、裕次郎が文学青年的であることがよく分かった。テレビやラジオの人気タレントの裕次郎の北大作と、マネージャー榊田典子の浅丘ルリ子の話である。自分たちを恋人同士と思っている典子は、ある日、大作に聞く、「今日は何の日・・・」「昨日の続きさ」これは、明らかにこの映画が、当時ラジオ関東で人気の番組だった『昨日の続き』をヒントにしていることをあらわしていて、北大作のモデルは、なんと永六輔なのだ。永六輔は、マス・コミの人気者だったが、当時日活の撮影所にもよく出入りして...文学青年としての石原裕次郎『憎いあンちくしょう』