逆⇔中国大返し-まとめ- 1日目⇒山崎古戦場~姫路城108km 2日目⇒姫路城~備中高松城92km 秀吉が本能寺の変の黒幕かどうか辿って調べる前は怪しいと…
これまで趣味で旅行してきた全国の「城」と、仕事で携わる「高校」の紹介
Trying to find dreams are more precious! I walk to the horizon and there I find another, It all seems so surprising and then I find that I know.
逆⇔中国大返し-まとめ- 1日目⇒山崎古戦場~姫路城108km 2日目⇒姫路城~備中高松城92km 秀吉が本能寺の変の黒幕かどうか辿って調べる前は怪しいと…
逆⇔中国大返し-その22- 備中高松城 沼城を出発して約30分後、最上稲荷の大鳥居(1972年建立)をくぐり、目的地に到着 同時に200kmの旅路もこれでゴ…
亀山城(沼城)⇒備中高松城 約20km強の距離 車で30分程度、徒歩の場合6h強 備中高松城の方が緯度が高く、もっと北部にあると思っていたが地図で見るとほぼ…
船坂峠⇒沼城(亀山城) 次は宇喜多直家のかつての居城へ 約30kmの道のり 車で30分強、徒歩8時間半強 今更ながら徒歩より約17倍の速さで辿り着ける車って…
姫路⇒岡山 70kmの距離を新幹線でたった20分程度で移動 秀吉たちが生きた時代から考えると言葉にならない 探索2日目はレンタカーでの移動がメイン あいにく岡…
2日目くもり☁️後半いよいよ開始 姫路城 秀吉の中国攻め以前は姫山城といい、黒田官兵衛の居城だった 1577年の秀吉の播磨着陣の際、官兵衛より秀吉に献上…
円教寺
明石⇒ 的形 中国大返しが1日30kmというなら庶民の徒歩レベルでも難しくない が、甲冑や武器を携帯するなら話しは別 で、海運を利用して武具等運んだらしい そ…
兵庫⇒明石 電車では、約20分、徒歩5h強、約20km弱の距離 以前紹介した家康の伊賀越え、光秀の本能寺の変の行軍は1里(4km)単位で進んでいるのに対して、…
栖賢寺 秀吉が亡君の弔い合戦に臨む決意を示すため、尼崎にある栖賢寺で自身の髻を切った逸話が有名 これで大義名分を民衆に知らしめることができた 摂津衆と合流する…
高槻城(富田) ⇒尼崎城 電車の場合、梅田経由で約1時間、30km強 実際には秀吉が野営した富田は茨木城と高槻城のほぼ中間地点で徒歩の場合、淀川を渡河せず約2…
山崎合戦での明智軍の敗因 兵力差がみ挙げられるが後方から柴田勝家らが攻めてくることを警戒して合戦に全兵力集中できなかったことも大きな要因だったようだ 次は山…
【1日目】曇りのち晴れ⛅️山崎合戦古戦場 1582年6月13日、「本能寺の変」を受け、備中高松城の攻防戦から引き返した秀吉と光秀」が激突した古戦場 いったん秀…
本能寺跡⇆亀山城「光秀の本能寺の変」のルートを辿った終わったその日帰宅する新幹線に乗車まで時間があったため、京都市内にある「豊国廟」へ立ち寄ることにした …
「家康の神君伊賀越え」、「光秀の本能寺の変」に続き、「秀吉の中国大返し」を逆ルートを2023年10月7日、8日の2日間に渡って辿ってみました。 電車と車と徒…
機会損失に焦った光秀 このように協力者のうち、村重が謀反を起こした時点で光秀はこのクーデターを諦めるべきだった だが、機会損失に焦ってしまった結果、単独で本能…
黒幕は誰だ 1568年、本圀寺の変において、まず荒木村重と細川幽斎は光秀と同じく将軍足利義昭を守った誼があった 特に村重は摂津、幽斎は、丹後と京都の隣国領主と…
京都クーデター計画」説 では、ここからは、独自の完全なる妄想なのであしからず 当初の考えでは、毛利攻めで信長が進軍している間に京都を「占拠」するつもりだった光…
「本能寺の変」真犯人 諸説も多々あり、事実は今となってはわからない だが、今回本能寺から亀山城を道のりを辿ってみて、個人的な考えではあるが、やはり明智光秀自身…
1日目⇒愛宕山登山 2日目半日⇒ 本能寺の変ルート 辿ってみてまずは光秀に対して率直な感想 ①行動的② 一方で慎重 ③観念的 ④一方で現実的 世間的評価…
それからの光秀 信長を討った後、さらに嫡男信忠も二条城で討ち、14時に終結 城内に兵士が500人居た説もあり、これは二条城近くで起こった本圀寺の変で光秀らが籠…
老ノ坂峠⇒王子神社 およそ2kmのルートを車で約4分(徒歩30分程度) 峠を下っていくと景色は一変 田畑が広がり、京都市内から別次元にやって来たようで国境を…
本能寺跡⇒桂大橋 前置きにずいぶん費やしてしまったが 改めて本能寺跡からスタート およそ6kmのルートを車で16分 京都駅直前で右折し、東海道新幹線を左手に…
本能寺跡 2日目スタート宿泊先から西へ500mほど直進したところにある老人ホームが跡地 外観は当時を偲ぶのような景色が一切なし 『信長最期の地』とはいえ、 …
渡月橋 下山してバスに乗車して嵐山駅へ到着 渡月橋を見学 歴史は古く、836年に架橋したのが始まりで、秦氏にゆかりがあるとかないとか ちなみに鎌倉時代に亀山…
13:50 愛宕神社境内到着 やっと黒門へ 我ながら時間がかかりすぎ 情けない 年齢不詳の光秀(66歳or54歳説あり)は亀岡からのルートで登ったそうだが、ホ…
愛宕神社 本能寺の変直前の5/27、光秀が戦勝祈願した彼の地へ 光秀の拠点・亀山城から北に位置する愛宕山は標高差約850m JR嵯峨嵐山駅⇒清滝行きのバスに…
徳川家康は総距離200kmを2泊3日で越えた 実際にできるのか確かめるべく、伊賀越えしたルート(岡崎→堺)を反対に辿った『逆⇔神君伊賀越え』 以前紹介した通…
家康一行は総距離200kmを2泊3日で越えられたのか この道のりを遡ってみて、調べてみての答えは『できなくはない』だった【理由その1】 200kmのう…
それからの家康 岡崎に帰還した家康一行 すでに伊賀越え中の6月4日、蒲生賢秀、氏郷父子に信長の弔い合戦として光秀を討つ決意の書状を送り、帰還後、翌日5日に家…
奈良、若草山を後にして、同志社大学京田辺キャンパスを通過して3日目、最終日いよいよ開始 ここ尊延寺で京都から大阪の県境を通過してようやくあることに気づいた …
さらに京都へ進み、山口城へ 遍照院-山口城の距離 ⇒約8.6km 通ってみて坂道はあるものの、谷間が続くルートだったので馬でも移動できるかと思った だが、文献…
今度は三重県と滋賀県の県境越え 音羽-小川城の距離 ⇒約12km 地図を見て音羽は伊賀の入口だったことに気づく だとすれば、神君伊賀越えルートにおいて、…
次なる目的地まで車で約10分 家康がいた当時の状況を考えると、この伊賀越えルートが異なっていようが、馬を使っていようが、とにかくこんな山々を家康一行たち全員…
いよいよこれから本番の伊賀越え 家康が船で尾張、三河と渡ったと云われる鈴鹿市の白子港からスタート 途中、コンビニで買った鈴鹿ご当地のわらび餅で腹ごしらえこの…
岡崎を出発し、向かった先は、刈谷城 ここは、於大の方の父、つまり家康の祖父である水野忠政の居城だったところ 縄張り跡を見ると平城ながらなかなかの規模だったと…
岡崎城 まずは神君伊賀越えのゴール地点からスタート この日は朝から暑かったかなり暑かった そういえばこの時期、本来の家康の本拠地は浜松城のはず 岡崎城に…
徳川家康は総距離200kmを2泊3日で越えた 本能寺の変当日 天正10年6月2日に堺から出発 三河に帰還したのは6月4日深夜頃らしい しかも急襲する敵とも…
前回の更新から約3年ぶりの更新。アメブロの機能がすっかり変わって使いこなすのに一苦労です。遠征も久しぶりに夏休みに2泊3日で行ってきました。 これから短い間で…
1504年から1521年 までの永正年間に安威弥四郎によって築かれた云われています。 場所は安威川西岸の丘陵に位置した山城で、縄張りは『大阪府全志』による…
摂津で最も古い城で平安時代末期、1180年前後太田頼基が築いたと云われています。近隣の池田城が1334年前後に築城されていますが太田城はそれより150年前に…
築城時期は定かではありませんが、管領細川高国が西国勢と北摂武士団への備えとして配下の能勢頼則に命じて築城したと云われています。細川高国、能勢頼則が存命時期を…
築城年代は定かではありませんが、菊池十八外城の一つとされ、1350年頃城主は蛇塚定家で蛇塚氏累代の居城と伝えられています。 菊池十八外城とは、肥後国菊池氏の…
築城時期は定かではありませんが1501年と云われています。城主の竹腰摂津守は斎藤氏に仕えていましたが、1556年、斎藤道三がその子義龍と戦った長良川の戦い…
大変遅くなり恐縮ですが明けましておめでとうございます🎍今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。毎年恒例になりつつある、「昨年を振り返る」と26回の大小ある遠…
在りし日の首里城の動画にアップしました。あの鮮やかな朱色の正殿が懐かしいです。世界遺産に登録されているのでまた復興されるに違いないと思いますが、たくさんのハ…
築城時期は諸説ありますが、高桑城の城主である高桑氏が、1221年の承久の乱の際、朝廷側の武将として参戦している記録があることから、鎌倉時代初期の1200年…
かみあかなべじょうと読みます。別名“茜部城”。 築城時期は不明ですが、堀利秀により築城されたと云われています。利秀は斎藤道三に仕えたとあることから1520年…
築城年代は定かではありませんが、稲葉氏の系譜を調べてみたところ、稲葉通高が1379年に城主となり、以後代々に渡って居城としたされます。 岐阜城からの12k…
令和に改元されてはや2ヶ月が経ち、これから何か面白いことやろうかなと今まで廻った城跡を眺めてたら意外とさくらの名所が多いことを発見。そこで「日本さくら名所1…
1469年から1486年の間に美濃守護土岐氏の家臣である和田八郎によって築かれたと云われています。以後、和田氏代々の居城となりました。 場所は、十七条城…
1526年、土岐頼純の命により、川手城を防衛する出城の一つとして斎藤利良によって築かれたとされています。 川手城から西へ約12km程、五六川が近くに流れる場…
One of the most beautiful castle ruins in Japan. №5 Aomori Ne Castle.Ne castle …
築城年代は定かではありませんが「新撰美濃志」という文献によると南北朝時代の1336年から1350年ごろに土岐頼貞の子、船木頼胤によって築かれたとされていま…
One of the most beautiful castle ruins in Japan.№4 Aomori Hirosaki Castle.It is…
View this post on Instagram 北海道 No.3 松前城 #城 #日本100名城 #城跡 #jap…
№1 Hokkaido Nemuro Chaschi trace group
One of the most beautiful castle ruins in Japan.№1 Hokkaido Nemuro Peninsula Ch…
650号から700号にかけて、以下の通り、異なる地域で紹介してきました。①島根-岡山[651~657城]:2015/8月訪城②宮城[658~669城]:201…
前回の府中城に続き、垂井城もかなり不明な点の多い城の1つです。日本城郭体系によると長屋氏屋敷が垂井城の前身を示す一文があるそうで、今須領主長江氏の一族の長…
これまで紹介してきた城の中で最も紹介困難な城の1つですが、不破氏が居城としていたとされ、不破直家により築かれたと考えられます。直家の出自は不明瞭ですが清和源…
1559年、竹中重元によって築かれたと伝えられています。前年まで同地の豪族であった岩手氏が西美濃の勢力を張っていましたが、竹中重元が岩手弾正を攻め、岩手氏は…
別称、竹中氏陣屋。日本城郭大系では岩手城として紹介されており、豊臣秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛の子、重門が1588年に築城したとされます。 半兵衛が生…
築城年代は定かではありませんが、永禄年間の1558年から1570年頃、竹中半兵衛の従兄弟、竹中重利によって築かれたと云われています。叔父の大御堂城主である竹…
1558年から1569年の間に、西美濃三人衆の一人として活躍した稲葉一鉄(良通)によって築城されたと伝えられています。 織田信長に仕え、5万石を領し、大野郡…
築城年代は定かではありませんが、佐々木六角氏の命により1521年から1528年の間に愛智氏の支流である高野瀬隆重によって築かれたと云われています。 宇曽川と…
築城年代は定かではありませんが、1190年あたりの鎌倉時代初期、簗瀬氏によって築かれたとされています。 観音寺城から北東に7kmほど先の愛知川沿いに位置した…
近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城を経て六角氏の本拠となったとされます。 正確な築城年代は定かではありませんが、『太平記』には…
1585年、豊臣秀吉による紀州攻め、四国征伐で副将格で戦陣に入り武勲を立てた甥の秀次によって築かれたのがが始まりです。 安土城の隣地八幡山の南半分山上に位置…
築城については定かではありませんが、「新編武蔵国風土記稿」という文献によると、1521年から1527年頃、後北条氏の小机衆であった猿渡内匠助によって築かれ…
築城については定かではありませんが、「新編武蔵国風土記稿」という文献によると、源義経に仕えた荏田源三広基の居城であった説、また、武蔵七党の1つである綴党(…
小沢城(こさわじょう)と読みます。『愛川町教育委員会説明板』よると室町時代初期に山内上杉氏二従っていた長尾景春の家臣金子掃部助が築城したと云われてます。 た…
小沢古城は1180年から1192年あたりの平安時代末期、相模国北部まで支配していた八王子の横山党一族の領主、小沢氏により館が築かれました。水郷田名「高田橋」…
別称金華山城。林小城(福山城)から大嵩崎集落のある谷を隔てて東側の尾根に築かれた谷戸式城郭を総称して「林城」と呼ばれるそうです。 1459年、府中小笠原…
別称福山城。林大城(金華山城)から大嵩崎集落のある谷を隔てて西側の尾根に築かれた谷戸式城郭を総称して「林城」と呼ばれるそうです。 1459年、府中小笠原…
別称洞城。築城時期は定かではありませんが、稲倉城主赤沢氏が支城として築城した伝承があるため、稲倉城築城時期の1335年に近い時期と思われます。なお、赤沢氏…
築城時期は定かではありませんが保元年間の1156年から1159年の間に岡田冠者源親義によって築かれた説と室町時代に伊深氏が築かれた説があります。 平瀬城から…
別称殿山城。築城時期は定かではありませんが1540年から1553年の間に村上義清の家臣、花村親吉によって築かれたと伝えられています。 長野県安曇野市豊科田…
別称仁場城。築城時期と築城者ともに明らかではありませんが、一説には戦国初期に海野幸元によって築かれたと云われています。光氏は海野氏の一族で海野幸元が光氏を…
築城年代や築城者は明らかではありませんが、平瀬氏によって、小笠原氏の本城である林城が築城された1459年に前後して北方を守る支城として築かれたのではないかと…
別称清水ヶ城。築城年は定かではありませんが、1334年、小笠原貞宗が信濃国守護に就任し、現在の長野県飯田市から松本市に拠点を移した際、同時期に小笠原氏一族…
築城時期、築城者は定かではありませんが、1334年、小笠原貞宗が信濃国守護に就任し、現在の長野県飯田市から松本市に拠点を移す際に築城された説が文献であるよう…
正平年間の1346年から70年の間にこの地の古代豪族で国衙の在庁官人であった犬甘氏により築城されたと云われています。 松本城から北西に約1.5km、奈良井川…
築城年のはじまりについては諸説あり、千葉氏の一族、椎名胤仲が1325年頃に椎津に居して椎津三郎と称して居城した説、応永年間の1394年から1428年の間に三…
現地の案内板によると、鎌倉時代、佐是禅師円阿(佐是四郎祥師説もある)が堀の内に「館」を構えたのが始まりとされています。 ただし、軍事的な城郭へと大改修したの…
1868年に井上正直よって築城されました。正確には城が完成する前に1869年版籍奉還となり、いわば「未完の城」です。 事の始まりは、1868年の明治元年に新…
築城年は定かではありませんが、相模の豪族三浦氏の一族であった和田太郎正治が築いたのがはじまりと云われています。 和田太郎正治について調べてみたところ、人物と…
長崎県 No.91 島原城#日本100名城 #城跡 #castle #城 #japan...
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佐賀県 No.89 佐賀城#日本百名城 #castle #城#Ruine #ruin...
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福岡県 No.86 大野城#城 #castle #日本100名城#Ruine #ru...
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佐賀県 No.87 名護屋城#日本百名城 #castle #城#Ruine #rui...
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福岡県 No.85 福岡城#城跡 #castle #日本100名城 #城 #japan...
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高知県 No.84 高知城#城 #日本100名城 #城跡 #castle #現存12天...
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愛媛県 No.83 宇和島城#城 #日本100名城 #castle #城跡 #現存天守...
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愛媛県 No.82 大洲城#城跡 #城 #日本百名城 #castle#Schloß ...
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愛媛県 No.81 松山城#日本百名城 #castle #城 #お城 #現存天守#B...
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愛媛県 No.79 今治城#城跡 #castle #日本100名城 #城#Burg ...
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香川県 No.78 丸亀城#城跡 #castle #日本100名城 #城 #現存天守 ...
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香川県 No.77 高松城#城 #日本100名城 #castle #城跡 #japan...
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逆⇔中国大返し-まとめ- 1日目⇒山崎古戦場~姫路城108km 2日目⇒姫路城~備中高松城92km 秀吉が本能寺の変の黒幕かどうか辿って調べる前は怪しいと…
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亀山城(沼城)⇒備中高松城 約20km強の距離 車で30分程度、徒歩の場合6h強 備中高松城の方が緯度が高く、もっと北部にあると思っていたが地図で見るとほぼ…
船坂峠⇒沼城(亀山城) 次は宇喜多直家のかつての居城へ 約30kmの道のり 車で30分強、徒歩8時間半強 今更ながら徒歩より約17倍の速さで辿り着ける車って…
姫路⇒岡山 70kmの距離を新幹線でたった20分程度で移動 秀吉たちが生きた時代から考えると言葉にならない 探索2日目はレンタカーでの移動がメイン あいにく岡…
2日目くもり☁️後半いよいよ開始 姫路城 秀吉の中国攻め以前は姫山城といい、黒田官兵衛の居城だった 1577年の秀吉の播磨着陣の際、官兵衛より秀吉に献上…
円教寺
明石⇒ 的形 中国大返しが1日30kmというなら庶民の徒歩レベルでも難しくない が、甲冑や武器を携帯するなら話しは別 で、海運を利用して武具等運んだらしい そ…
兵庫⇒明石 電車では、約20分、徒歩5h強、約20km弱の距離 以前紹介した家康の伊賀越え、光秀の本能寺の変の行軍は1里(4km)単位で進んでいるのに対して、…
栖賢寺 秀吉が亡君の弔い合戦に臨む決意を示すため、尼崎にある栖賢寺で自身の髻を切った逸話が有名 これで大義名分を民衆に知らしめることができた 摂津衆と合流する…
高槻城(富田) ⇒尼崎城 電車の場合、梅田経由で約1時間、30km強 実際には秀吉が野営した富田は茨木城と高槻城のほぼ中間地点で徒歩の場合、淀川を渡河せず約2…
山崎合戦での明智軍の敗因 兵力差がみ挙げられるが後方から柴田勝家らが攻めてくることを警戒して合戦に全兵力集中できなかったことも大きな要因だったようだ 次は山…
【1日目】曇りのち晴れ⛅️山崎合戦古戦場 1582年6月13日、「本能寺の変」を受け、備中高松城の攻防戦から引き返した秀吉と光秀」が激突した古戦場 いったん秀…
本能寺跡⇆亀山城「光秀の本能寺の変」のルートを辿った終わったその日帰宅する新幹線に乗車まで時間があったため、京都市内にある「豊国廟」へ立ち寄ることにした …
「家康の神君伊賀越え」、「光秀の本能寺の変」に続き、「秀吉の中国大返し」を逆ルートを2023年10月7日、8日の2日間に渡って辿ってみました。 電車と車と徒…
機会損失に焦った光秀 このように協力者のうち、村重が謀反を起こした時点で光秀はこのクーデターを諦めるべきだった だが、機会損失に焦ってしまった結果、単独で本能…
黒幕は誰だ 1568年、本圀寺の変において、まず荒木村重と細川幽斎は光秀と同じく将軍足利義昭を守った誼があった 特に村重は摂津、幽斎は、丹後と京都の隣国領主と…
京都クーデター計画」説 では、ここからは、独自の完全なる妄想なのであしからず 当初の考えでは、毛利攻めで信長が進軍している間に京都を「占拠」するつもりだった光…
「本能寺の変」真犯人 諸説も多々あり、事実は今となってはわからない だが、今回本能寺から亀山城を道のりを辿ってみて、個人的な考えではあるが、やはり明智光秀自身…
1日目⇒愛宕山登山 2日目半日⇒ 本能寺の変ルート 辿ってみてまずは光秀に対して率直な感想 ①行動的② 一方で慎重 ③観念的 ④一方で現実的 世間的評価…
機会損失に焦った光秀 このように協力者のうち、村重が謀反を起こした時点で光秀はこのクーデターを諦めるべきだった だが、機会損失に焦ってしまった結果、単独で本能…
黒幕は誰だ 1568年、本圀寺の変において、まず荒木村重と細川幽斎は光秀と同じく将軍足利義昭を守った誼があった 特に村重は摂津、幽斎は、丹後と京都の隣国領主と…
京都クーデター計画」説 では、ここからは、独自の完全なる妄想なのであしからず 当初の考えでは、毛利攻めで信長が進軍している間に京都を「占拠」するつもりだった光…
「本能寺の変」真犯人 諸説も多々あり、事実は今となってはわからない だが、今回本能寺から亀山城を道のりを辿ってみて、個人的な考えではあるが、やはり明智光秀自身…
1日目⇒愛宕山登山 2日目半日⇒ 本能寺の変ルート 辿ってみてまずは光秀に対して率直な感想 ①行動的② 一方で慎重 ③観念的 ④一方で現実的 世間的評価…
それからの光秀 信長を討った後、さらに嫡男信忠も二条城で討ち、14時に終結 城内に兵士が500人居た説もあり、これは二条城近くで起こった本圀寺の変で光秀らが籠…
老ノ坂峠⇒王子神社 およそ2kmのルートを車で約4分(徒歩30分程度) 峠を下っていくと景色は一変 田畑が広がり、京都市内から別次元にやって来たようで国境を…
本能寺跡⇒桂大橋 前置きにずいぶん費やしてしまったが 改めて本能寺跡からスタート およそ6kmのルートを車で16分 京都駅直前で右折し、東海道新幹線を左手に…
本能寺跡 2日目スタート宿泊先から西へ500mほど直進したところにある老人ホームが跡地 外観は当時を偲ぶのような景色が一切なし 『信長最期の地』とはいえ、 …
渡月橋 下山してバスに乗車して嵐山駅へ到着 渡月橋を見学 歴史は古く、836年に架橋したのが始まりで、秦氏にゆかりがあるとかないとか ちなみに鎌倉時代に亀山…
13:50 愛宕神社境内到着 やっと黒門へ 我ながら時間がかかりすぎ 情けない 年齢不詳の光秀(66歳or54歳説あり)は亀岡からのルートで登ったそうだが、ホ…
愛宕神社 本能寺の変直前の5/27、光秀が戦勝祈願した彼の地へ 光秀の拠点・亀山城から北に位置する愛宕山は標高差約850m JR嵯峨嵐山駅⇒清滝行きのバスに…
徳川家康は総距離200kmを2泊3日で越えた 実際にできるのか確かめるべく、伊賀越えしたルート(岡崎→堺)を反対に辿った『逆⇔神君伊賀越え』 以前紹介した通…