「けど、ベッドはまだ別々にしておいた方がいいですよね」 つい浮き立ちそうになる気持ちを抑えつけるべく、長谷川は努めて冷静な声音を出した。「定期的な換気を施行して、共用部分は適宜アルコール消毒して、タオル類も別々に分けて使って、在宅時にも基本的にはマスク着用、適切な距離を保ちつつ接する。・・・こんな感じですか」「まあな」 向井も淡々と頷いた。そして同じく淡々と、こう続けた。「でも、神経質になってたら...
政府が打ち出した大規模な景気回復策が、懸念や批判の声を振り切ってスタートしたその日。送られてきた写真に、長谷川は目を疑った。 ――明日、ホテルを引き払う。病院にも寄るんで、そっちに帰れるのは昼前くらいになるかな。ってことでまた宜しく。「例の政策の一環だよ、ってのは冗談だけど」 その日から三連休だったので、長谷川は超特急で回診を済ませて帰宅し、待ち受けていた。そして向井は、本当に戻って来た。昨日もお...
いいえ結構です、と言えたら格好がついたのに。 そんなこと、・・・絶対、されたい。「ほんとですか?」 現に長谷川はすがるような声音でこう言ってしまい、向井にまた笑われて、その笑顔に見とれていたせいで、大事なことを聞き忘れた。 次はいつ帰ってこられそうですか、と。 七月に入ってもやはり状況は好転しなかった。二日続けて国内の一日の感染者数は百人単位で増加を続け、WHOからは事態悪化の警告が発せられた。 実務...
その言葉通り、翌日の土曜に向井は本当に帰ってきた。コンビニのビニール袋をひとつ、ぶら下げただけの身軽さで。 そうして、日曜も長谷川とともに過ごし、月曜には再びホテルに戻っていった。 その二日間の、甘くて濃密な時間。思い出すだけで、長谷川の身体は芯から熱くなる。 まずは浴室に連れ込まれ、全開にしたシャワーの下で抱き合った。 界面活性剤を使用した洗浄後なら、多少濃厚接触しても問題ないだろ。これが向井...
向井の声。ベッドで耳にする時よりももっと隠微に響くのは、溜まっていたからだろうか。それともこのシチュエーションのせい? いずれにしても、もっと欲しくてたまらない。もっと深く、耳孔を通して身体の芯まで、跡をつくほど激しく蹂躙して欲しい。 はあはあと肩で息をつきながら、長谷川は震える手を伸ばして携帯を取った。床の上に置き、間近に顔を寄せて、再び腰を高く立てる。『ヒクヒクしながら、どんどん呑み込んでく...
熱を上げていく向井の声に合わせて、長谷川は夢中で手を動かした。 更に感じる体位を求めて、中心を扱く手はそのまま、もう片方の手でハーフパンツを下着ごと引き下ろして片足を抜く。改めて両膝をつくと前屈みになり、ローテーブルの上の携帯に耳を寄せていく。 「あぁゥんっ、せん、せいもっ、」『ああ、俺もこすってる。おまえのと重ねて握りこんでる――判るか』「んっ、んくっ、ん、先生、」『・・・長谷川っ、』「あぁあっ・・・...
そもそもその部位は向井にいいだけ開発されていて、向井がその気になったら長谷川はそこだけでイかされてしまうほどなのだ。 かなりの間、多忙のあまり自慰さえしていなかったこともあって、長谷川の中心はすっかり猛ってしまっていた。 そこへ、『・・・イッたか?』 こんなことを愉しそうに問われて、耳朶がカッと燃えた。「まだ、ですよっ! 先生に直接されたのならともかくっ、」 自分では当然且つ正しすぎる反論だと思っ...
「んっ、・・・ん、」 舌を前後させ、架空の指をしゃぶる。知らず、喉を反らしていた。はっ、と呼気が鼻に抜ける。幻のバニラの味が、口腔内に広がっていく。『ん、先生、・・・もっと』 もっとください、とねだった声は、喉に絡んで切なく掠れた。無意識に左手が動いて、人差し指で半開きの唇をなぞる。これは自分の指なのだと判っていても、舌を這わさずにいられない。『先刻より甘いな。・・・うん、もっと、な』 湿った声とともに、...
その瞬間。 長谷川の中で、何かが堰を切った。先生、と、すがりつくようにして呼んでしまう。「先生、・・・向井先生」『うん』 深い、向井の声音。目に見えない腕に抱きしめられるのを、長谷川は確かに感じた。 だが足りない。その証拠に、言葉が勝手に溢れ出る。「逢いたいです。先生のこと触って、・・・先生にも触って欲しっ、」 自分が何を言っているのか判らない。どうしたらいいのかも。胸が熱い。喉も、耳朶も目頭も。身体...
送信後すぐに、向井から着信があった。 こっちからかけるつもりでいたのに、と長谷川は舌打ちした、つもりが、口元は呆気なくも緩んでしまっている。 せめて声音だけでも引き締めようと、長谷川はソファからラグへと滑り降りた。姿勢を正して軽く息を吸い込み、通話ボタンを押す。「・・・先生、お疲れ様です」『お疲れ。どうした? 何かあったか』 電話の向こうから、向井の声が流れ込んでくる。無意識にまぶたを閉じていた。...
せき立てられるような気持ちを懸命に抑えながら、長谷川は帰宅後のルーチン作業を忠実に辿った。 まず不織布のマスクを外し、これはビニール袋に入れてゴミ箱へ。次いで下着以外の着衣を全て脱ぎ、洗濯用の紙袋に入れる。洗濯の利便性の問題からスーツはもうずっと着用していない。だから今日も、袋の中で積み重なったのはワイシャツとチノパン、そして靴下だ。 その後、手洗い及び帰宅後に触った部分の洗浄。それが済んだらシ...
「要するに、そろそろ向井先生を補充しなきゃってことだね」 こんな言葉で見事にまとめてくれた年若いパートナーを、店長は愛おしそうに見下ろした。 だなんて、本当はろくに見てもいなかった。惣菜のパックが入ったビニール袋を持ち直しながら、長谷川は片手で財布を取り出した。「じゃあこれ、今日のお代です。いつもご馳走様です」「はいはい、毎度どうも」「向井先生に電話してね!」 それぞれの言葉で見送ってくれた二人に...
「ヒナタくん」 長谷川が苦笑したまま、店の入り口に備え付けられたボトルをプッシュして両手をアルコール消毒していると、奥から店長が出てきた。手には、惣菜パックが入ったビニール袋を提げている。「そういうこと言わないの。長谷川センセイが余計に寂しがっちゃうだろ」「・・・嫌だな、そんな」 カウンター越しに袋を受け取りつつ、長谷川は軽く会釈する。改めて微笑し、殊更に何でもないような口調で言ってみる。「寂しいな...
時は過ぎ、六月に入った。 先月下旬に緊急事態宣言が全国で解除されたが、それを嘲笑うかのように感染者数は増加していた。自治体独自のアラートが宣言され、その六日後、世界の新規感染者が二十四時間カウントで最多の十三万六千人を記録した。 向井と離れて暮らし始めて一ヶ月半が経とうとしていた。しかし状況は相変わらず、先が見通せない。 確かに、一時期に比べればましになってはきた。だが、根本的には何も解決してい...
それから向井は、本当に毎日、写真を送ってきてくれた。 送信時間はまちまちで、早朝のこともあれば昼日中のことも、そして深夜のこともあった。 それを長谷川は全て、携帯のフォルダに保存した。それだけでは不安だったので、SDカードにバックアップもとった。 記念すべきファーストショットは、今寝起きしているとおぼしき部屋の内装だ。 ベッドとライティングデスクでほぼいっぱい、エコノミーシングルといったところか。...
『写真?』 返ってきた声音は戸惑いが露わで、少しだけ溜飲が下がった。そうです、と、つい得意げな声で答えてしまう。「自撮りなんて贅沢は言いません。文章も無くていいです。たとえば空とか、昼ごはんとか、本当に何でも、その時先生の目に映ったもので。何か共有していたいんです。でないと僕は――」 折れてしまう、と長谷川が吐露する、その一瞬前に。 向井は、語尾に笑みを含ませ、こう言った。『判った、送るよ。その代わ...
久々! ひっさびさに、拍手御礼SS更新できましたー! いやあ良かった。画像だけっていうのもアリかなとは思うんですけど(何しろSSだと何回も拍手ボタンをクリックしなきゃいけないから)、やっぱり小説ブログとしては小説で御礼したいですもんね。 ただいま更新中の本編が、なんといいますか、現実と地続きすぎて、作者的には気が引けておりまして。 かといって、拍手SSでいきなりそこからかけ離れた世界観の話を展開するの...
でもそれは、と長谷川は、なおも駄々をこねずにいられない。 無意識に、空いた方の手を握りしめていた。てのひらに爪を食い込ませ、それでようやく、波打ちそうになる声を押さえ込む。「それは僕だって同じ条件じゃないですか。どっちかが部屋を出なきゃならないなら、僕が出ます」『出てどこに泊まる? おまえの病院は、職員用に宿泊場所を用意してくれてるのか?』 冷静に問い返され、ぐっと詰まった。それ、は、「・・・うち...
電話はなかなかつながらなかった。 電話して欲しいというメッセージを留守電に残し、だが向こうからかかってきた時には長谷川が出られず、そうした行き違いを幾度か経て、数時間経ってからようやく話をすることができた。 人目を避けて非常階段へと移動しつつ、長谷川は電話ごしに噛みついた。どういうことなんですか、と。『だから、メールした通りだよ。『もう一品』にも顔出して、当面メシは一人分でいいって言っといた。俺...
あの頃は、明日どうなるかも判らなかった。 半年経った今でも、その感覚に変わりはない。むしろ、更に厳しくなったとさえいえるかもしれない。社会経済活動との両立を迫られる分だけ。 本当に、と長谷川は嘆息せずにいられない。 開業の計画を練っていたのがたかだか数ヶ月前のことだなんて、信じられない。 こんなことになるなんて、あの時は、想像もしなかった。 過去の歴史の中で繰り返された、感染症との闘い。新たなそ...
「あれは勿論、目下最大の脅威だ」 蔓延している新型感染症について向井が言及するのを聞いたのは、まだコートが手放せなかった頃。後にも先にも、この時一度だけだ。「指定病院かどうかとか、じきにそんなことに拘っていられなくなる。全ての病院、全ての医者が携わる覚悟と準備をしなきゃならない。総診なら尚更だ。それは判ってるし、実際そうしてる。でもな」 その時期には既に、長谷川とは帰宅も在宅時間も合わなくなってい...
坂を転がり落ちるように、状況は悪くなっていった。 確立された治療法がないということは、対症療法でその場をしのぎながら既存の薬剤で少しでも有効なものを探るしかないということになる。 言うまでもなく、ベストなのは起因ウイルスをターゲットにした抗ウイルス薬とワクチンとが開発されることだ。だが勿論、悠長にそれを待っていられる状況ではない。 その間にも物資と設備は払底し、外来は混乱し、病床コントロールは困...
今年の正月のことを、長谷川はもう幾度思い返したか判らない。 一人で実家に出向いた元旦。同行しようかと言った向井のことは、強引にその実家へと送り出して。 実家ではずっと焦燥感に駆られていた。早く向井のもとへと戻りたくて仕方なくて、そんな自分を抑えたり宥めたりするだけでぐったりと疲れた。 長谷川の携帯が振動したのは、地元の駅舎が見えてきた時だ。 発信者は、そうであって欲しいと願ったまさにその人で、そ...
どうもこんにちはー! と、わざとらしく元気に登場してみたり(失笑)あのその、なんと申し上げてよいやら。とにもかくにも、まずはこの一言を。生きてます。元気です。いやーもう、自分用のパソコンを触るのすら久しぶりというていたらくでございまして。自ブログを開いてみたのも春以来←コルア!そしたらFC2の管理画面はレイアウトががらっと変わってるわ、ブログのテンプレートは一部おかしくなってるわ。いやはや、たまげまし...
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