藤田が案内してくれた店は、賑やかな商店街から路地に入った奥まった場所にある隠れ家風のダイニングバーだった。大きな店ではない。4人掛けの丸テーブルが3つとカウンターだけ。《SUZAKU》の三分の一程の広さで、スタッフはオーナーシェフとバーテンダーだけという店は、しっとりと落ち着いた大人に似合うバーだった。目立たない場所にあり看板も控え目だが、時間帯や日によっては満席で入れないという人気店だ。3人が...
華恵が店にいる間に、他の客が入ってくる事はなかった。華恵は「暗い話は止めましょう」と言って、自身が信奉する橋本圭介がいかに素晴らしいかを語り続け、最後には「顎が痛くなっちゃったわ」と言って出勤した。それでも客は来ず、岩本の負のオーラが店の周辺に残っているのかもしれないと、店の前の歩道を掃いて清めた。 まるで以前の《ケサランパサラン》に戻ってしまったかのような状況ではあったが、あの頃のような焦燥感...
駅の方へと歩いて行く岩本の後ろ姿が小さく見える。肩を落とした岩本は何度もこちらを振り返って見たが、久木原が見ているとわかっても戻ってくる事はなかった。彼がなぜ無茶な借金をしてしまったのか、何となくわかる気がした。不動産屋に手付金を払わなければオトコに捨てられる、とでも思ったのだろう。若いホストは美形でモテる。それが岩本に焦燥感を抱かせ、焦らせられたのだ。その焦りを煽ってホストは、岩本に金を借りさ...
文字通り華恵に摘み出された岩本は歩道に転がった。それを通り掛った通行人が迷惑そうに避けていく。「リキ!頼む!1万でいいから!」岩本は目の前にいる華恵の足を避け、身体を乗り出して久木原を見た。岩本が金が必要になった理由はわかったが、久木原にはどうしてやる事も出来ない。「俺の方が借りたいよ」そう呟くと華恵が睨んだ。口を挟むなという事のようだ。「貸してくれ!必ず返すから!」「華恵ちゃん」「リキくん、こ...
クシュと小さな音が聞こえたような気がした。岩本が指先で多肉植物の葉を潰した音だ。岩本は久木原の顔を覗き込むようにしながら、「あーあ」と声を上げた。その声は人を小馬鹿にしたような、不遜な口調だ。それにも久木原は堪えた。商品は自分が買い上げれば済む。経理上は損金として扱える。そう考えてグッと心の中で拳を握るに留めた。これが営業中でなければ、岩本をぶちのめしていただろう。「お客さま、商品に傷を付けられ...
南出が会社で作ってきてくれたチラシをカウンターや出入り口に置いておくと、それを持ち帰る人がいる。それはこの店を誰かに教えたいと思っているからだ。チラシは隣の《フローリスト・吉永》にも置かせてもらっているが、その流れで来店する客も増えた。それは、以前はなかった客の流れだ。「インスタグラムを見て来ました」という客も増えて、猪俣が言ったように例の青いつる草シリーズの皿やマグカップは毎日のように問い合わ...
サーバーにゆっくりとコーヒーが落ちていく。少しずつ溜まって、コーヒーの香りが広がっていく。ポタンポタンと茶色い液体が落ち、香ばしい香りで満ちていく穏やかな時間が好きだった。大した知識があるわけでもなく始めたこの店だったが、コーヒーは上手く淹れる事が出来るようになったと思う。 コーヒーの、一滴、一滴が自分の心のようで、久木原は戸惑っていた。
長いこと
内側からドアが開いた。「お前、何してるの?早く入れよ」「・・・ああ、うん」「一緒に中に入ると思っていたのにさ、ボーッとしてるんだもん。って言うか、ここお前んちだった」酒が入っている南出は、ニヤッと笑ってドアを大きく開いた。「そうだよ。自分ちみたいに言うなよ」久木原はムスッとして言ったが、南出は気にも留めていない。まるで自分の家に上げるかのように身を引いてドアを開けている。「あははっ。早く入れよ」...
久木原が厨房から出て来たのに気付いた南出が手を上げた。藤田も同じようにこちらを見ている。藤田は余裕の表情で久木原を見て、南出の向こうから小さく手を上げた。「お疲れ、リキ」「お疲れ」「久木原さん、お疲れさまでした」「お疲れさまです」藤田には堅苦しく挨拶を返し、2人のいるカウンターの上を見た。料理は全て食べ終えている。スパークリングワインのボトルも空だ。藤田は自分のグラスに残ったのを喉を反らせて飲み...
なぜ南出と藤田が一緒にここにいるのだろうか。よくよく考えてみれば何もおかしな事はない。帰宅した南出と藤田が、偶然出会っただけの事だ。そう自分に言い聞かせたが、どうにも落ち着かない。なぜなら、藤田に南出との関係を「友人だ」と言ってしまったから。「久木原さん?」手が止まった久木原に志村が声を掛けた。「はい」「食べましょうよ。冷めちゃいますよ」「あ、はい」昨日の檜山の件があったにもかかわらず南出が《S...
10日間煮込んだというデミグラスソース。トロトロの半熟玉子に包まれたバターライスからはきざみパセリとガーリックがほんのり香る。自慢げに「召し上がれ」と言って久木原の前にオムライスを置いた志村は、目をキラキラと輝かせて賞賛の言葉を待っていた。「うわっ!美味そうだ」見るからに美味そうなオムライスは《ビストロ・325》のメニューではないという。「うん。今日は半熟玉子もSランクの出来です」気合を入れて作...
「やっぱり、拙いよな」藤田に南出の電話番号を聞かれて「本人に確認しないと教えられない」と答えたが、「恋人同士ですか?」と尋ねられて「はい」とは言えなかった。南出にはその気があるようだが、久木原は彼の気持ちを知ったばかり。未だに南出に対する久木原の気持ちは
「あれれ?」愛嬌のある表情をして猪俣は首を傾げながら久木原の顔を覗き込んだ。「えっ?」「久木原さん、大丈夫ですか?」「えっ?」「楽しくなさそうだ」その言葉は、久木原の胸を突いた。「そんな事は、ないですよ・・・楽しい、ですよ」《ケサランパサラン》を立て直す事に必死になっている今、
「あれ?華恵ちゃん?そんな所で何をしてるんだ?」「万年シングルの猪俣ちゃんじゃない!」猪俣の声を聞き振り返った華恵は、立ち上がって大きく腕を広げた。山下が言ったとおりに、猪俣が休憩中に来てくれたのだ。それまで壁を向いてコーヒーを飲んでいた華恵は、猪俣だからいいだろうとばかりに前を向いた。「動物園の檻ですか、ここは?」猪俣はカウンターを指差しながら可笑しそうに聞いた。「ちょっと事情がありまして、その...
午後3時。ウィンドウの向こうにショッキングピンクが見えた。ジャージ姿の華恵が、恨めしそうにこちらを見ている。「華恵ちゃん」山下から出禁を言い渡された華恵は、悔しそうにこちらを見ていた。 店内には若い女性が一人と買い物帰りの主婦が一人。彼女たちが店内にいるから華恵は中に入れないでいるのだ。視線に気付いた久木原と目が合うと、華恵はその場でピョンピョンと飛び跳ねはじめた。「余計に目立つよ、華恵ちゃん」...
隣の吉永が午前中に様子を見に来てくれた。昨日売れた分を確認して補充し、値札を付けている。店内の植物に水をやったり、余計な葉を取り除いたりしながら、もう20分くらい《ケサランパサラン》にいる。彼女がいる時に客が来れば、植物の説明をしてくれるので久木原は助かっていた。《ケサランパサラン》の前から撤去された黄色いチューリップのプランターは、吉永の店と《ケサランパサラン》の真ん中辺りでゆらゆらと咲いてい...
「いつものように」、というのは難しいものだ。そうしようとすればするほど、久木原の態度はギクシャクしてしまうのだ。今の久木原にとって『南出との関係をいつものように』というは至難の業であるが、南出は表情を面に表さない事によってそれをしようとしているようだ。サンドウィッチを頬張りながら濡れた髪をガシガシと拭く南出とは、いまだまともに話しを出来ないでいる。久木原は南出との関係に向き合わなければ、と思って...
ソファーにだらしなく座って、缶ビールを3口ほどで空にしてしまった。南出が部屋に入ってくれるかわからなかったが、彼がここへ来たとしても何をどう話せばいいのか迷う。「俺、どうすんだろ?」《ケサランパサラン》を放り出すのは簡単だ。『閉店します』と貼り紙をすれば良いだけなのだが、協力してくれた人々の顔を思い出せば、それだけはしてはならないと思う。店も大切だが、南出の事も大切だ。「どうしたらいいんだろう?...
岩本尋武は可愛らしい顔立ちをしている。岩本と出会ったのは3年前。岩本が勤務していたバーに久木原が通い始めたのが切欠だった。歳も近かった2人はすぐに打ち解け、一緒に出掛けるようになるのに大した時間は掛からなかった。岩本は無邪気で明るい性格だ。岩本から「なあ?俺と付き合わない?」と微笑まれれば、久木原に否はなかった。 付き合い始めの頃はわからなかったが、その容姿に反して気が短く短慮なのも、当時は
「ちょっと・・・。南出、ちょっと、待ってくれ」「待て」と言われて南出はますます顔を曇らせたが、久木原にはそれしか言えなかった。2人は『友人』としての時間が長かったのだ。急に南出を見る目を『友人』から『恋愛の対象』に切り替えろと言われても、久木原には難しかった。これまで同じ部屋に寝泊りしても彼には『友人』として接していたからムラムラする事もなかったし、酔って同じ布団に寝た事もある。南出の綺麗な寝顔を...
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