「リキ」しょぼくれた様子で2人を見上げた男は、情けない声で久木原を呼んだ。「ヒロム」「リキ」南出の車に寄り掛かってしゃがみ込んでいた男は岩本尋武だった。しょぼくれた顔でこちらを見た岩本には先日のような威勢の良さはなく、うち捨てられた子犬のような様子でこちらを見ている。岩本が気弱な様子を見せる事は珍しく、久木原は何か大変な事に巻き込まれでもしたのかと心配そうに「どうした?」と聞いた。だが、隣にいた南...
「ご馳走さまでした」と挨拶する南出に、檜山は「エレベーターまで送ってよ」と言った。檜山が要注意人物扱いされている事など知らない南出は、奢ってもらったという負い目があるから気軽に「いいですよ」と返事をした。檜山を見送ろうと南出が立ち上がったのを見た橋本が、すぐにインカムで指示を飛ばした。「ベニ、一緒に行っておいで」『はーい』ホールにいたベニちゃんが呼び戻されて、話しをながら店を出て行く2人の後ろか...
南出の作ったカレーを、「一口」と言いながら軽く飯椀一杯分くらいの白飯にかけて食べた。満腹というわけではないが八分目になった腹を擦りながら、久木原は《SUZAKU》の裏口のインターフォンを鳴らした。「久木原です」「はーい!」と明るい声がしてドアが開く。可愛らしい顔をしたベニちゃんが微笑みながらドアを開けた。「お疲れさまでーす!」「今日もお世話になります」「待ってました~!」『待っていた』と言われて...
ピッと音がして、裏口のオートロックが解除された。合鍵を持っていてパスワードを知っているのは南出だけだ。しばらくすると裏手と店の間のドアをノックする音がして、南出がヒョコッと顔を出した。「ただいま」「おかえり。早かったな?」カウンターに座っている藤田に気付いた南出は、カウンターに座っている藤田に遠慮したのか小声で「チラシの件だけど」と言った。「南出、こっち来いよ」「いいのか?」「ああ。お客さまは誰...
「今すれ違った人、カッコいいですね」藤田佳哉は背負っていたリュックを下ろしてカウンターに座った。すでに去った猪俣が気になるのか、椅子に座ってからもウィンドウの方を振り返って見ている。「久木原さんもカッコいいし、ここってイケメンしか入れないんですか?」少し垂れ目の藤田は、久木原とは初めて会ったとは思えないくらいフランクな感じで話し掛けてきた。自分を含めて『イケメン』と言われて、嬉しくないはずがない。...
「どうしたら良いでしょうか?」『S-five』の常務・山下が出した条件と《ケサランパサラン》の状況を話すと、猪俣雄平は腕を組んだ。「一ヶ月ですか」「そうなんです。それで・・・サンドウィッチとフレンチトースト用のパンを焼いてくれる人が、帰りにここに寄ってくれる事になってまして」《ビストロ・325》のシェフ・猪俣雄平は、浅黒い肌にクッキリとした顔立ちの青年だ。オープンキッチンで豪快に調理している姿は、男の...
華恵が一人でしゃべり続けてコーヒーを飲み終えた頃、チャリンとドアベルが鳴り山下が男性を一人伴ってやって来た。「山下さん!昨日はありがとうございました!」「いいえ」山下は昨日とは打って変わってスーツを着ている。昨日のジャージ姿でも十分美しかった彼だが、オーダーメイドと思われる上質なスーツを着ると余計に品が増して優雅に見える。後ろから付いて来た男性は控え目な様子で山下とは付かず離れずの距離を保ってい...
女性たちにコーヒーを出し、平井の到着を待つ間に橋本が戻ってきた。橋本は客がいるのに気が付くとそっと中に入って来たが、女性たちが橋本の容姿に興味を持たないはずがない。突然の超美形の登場に、たった4人しかいない店内がざわついた。「遅くなった」真っ直ぐにカウンター席に着いた橋本は、久木原に小声で話し掛けた。「いいえ」橋本は客がいるのを見て笑顔だ。「良かったじゃないか、お客さん」「ええ。シリーズ物の他の...
「和田さんの紹介の人、まだ来ないんだって?」「ええ」「どうなってるんだろうな?何か事情があるのかもしれないね」「そうですね」橋本はサンドウィッチを頬張り頷いた。「うん。美味くなってる」「ありがとうございます」先日のサンドウィッチを食べた時の橋本の反応とは明らかに違っていた。あの時は一口二口しか食べてくれなかったサンドウィッチが、皿から綺麗になくなろうとしている。それを見た久木原は胸が熱くなる。「さ...
シャッターを開け、滝山に描いてもらった黒板看板を置けば、昨日とは全く違う景色が見えてきた。整備された街路樹の緑が《ケサランパサラン》の一部であるのは、滝山の計算の内だ。星望学園の品の良い中学生、高校生の通学風景でさえもが、その一部であるのは間違いない。 降り続いていた雨は、陽が昇り始める頃には止んでいた。出勤する南出を送り出した時に気が付いたのだが、岩本の服を入れていた紙袋は半分が残されていた。...
「リキ、バカが移るぞ」振り返ると、南出が上半身裸でシーツを下半身に巻き付けた格好で微笑みながら立っていた。「南出、お前・・・」「南出!やっぱりお前ら、そういう関係だったのか!」「そういう関係って・・・」岩本の言い方はまるで、恋人の浮気現場を目撃した時のようだった。久木原は南出の格好に焦ったが、南出は全く動じなかった。「お察しのとおりですけど?だからって、君が文句を言う立場にはないとわかっているよな...
その夜は昼間の疲れもあって、目を瞑ると同時に眠気が訪れた。ベッドを南出に譲り久木原はソファーに横になったが、日付が変わる頃には2人とも夢の中だ。だが、ピンポンピンポンと激しく鳴らされるインターフォンの音に久木原たちは叩き起こされる事になった。「おわっ!」飛び起きた瞬間、岩本の顔が浮かんだ。岩本はいつもこうなのだ。岩本は出て行く時に服を持ち出すのだが、ついでのように洗濯して干していく事もあるし、汚...
山下に習ったフレンチトーストとサンドウィッチの試作品が、久木原と南出の夕食になった。積み上げられたサンドウィッチの味は格段に上がっていたが、同じ物ばかりではさすがに飽きてしまう。フレンチトーストの飾り付けは山下も一緒に考えてくれて、吉永の提案でミントの鉢植えを育てる事になった。黄色いチューリップはいつの間にか吉永の手で撤去され、代わりにミントの鉢植えが置かれている。「悪いな。本来なら寿司とか焼肉...
街が夕闇に包まれる頃、漸く滝山たちの作業は終わった。南出に綱本が加わり、作業は更に捗ったようだ。久木原が山下からサンドウィッチとフレンチトーストの作り方を習っている間に、4人はトイレとその手前の手洗い場の壁を漆喰で塗り終えた。DIYが流行っているおかげで、職人に頼まずとも缶を開ければ簡単に漆喰が塗れるという。それを使って滝山、華恵、南出、綱本の4人で手分けして壁を塗り、手洗い器の前に棚を取り付け...
忙しい平井は、「一週間後に様子を見に来ますね」と言って先に帰った。「最初の一週間は雑貨も販売していると認知されれば良い、くらいの気持ちで気軽にやりなさい」と言われたが、久木原にはそこまでの余裕はない。切羽詰っているのだと訴えたいような気持ちだったが、平井は「大丈夫よ」と久木原の肩を叩いた。雑貨や多肉植物は委託販売で、久木原が買い取るのは植物を入れた容器の代金だけだが、その代金も平井はかなりの値引...
久木原は、昨夜の南出との会話を思い返していた。缶ビール1本くらいで記憶が飛ぶほど、酒に弱いわけではない。『しばらくの間、俺がここに住もうか?』と南出が言い出し、自分はそれに賛同した。岩本が荷物を取りに来た時に、悔しがる姿を見てみたかったのだ。だが南出は、「一緒に住む」と宣言している。「変な感じ」首を捻ったが、ここで「違う」と騒ぐのは良くないと思った。南出とは作業が終わってからゆっくりと話せばいい...
《フローリスト・吉永》から吉永実里が加わり、平井と滝山と3人で多肉植物とエアープランツを入れる容器を選び始めた。容器とセットで販売するので、その組み合わせの良し悪しが売り上げを大きく左右するのだという。こうなったら久木原には全く出番がないわけだが、時々「久木原くん、どうかしら?」と聞かれる。その度に久木原には「良いと思います」しか言えなかった。だが、それで決定にはならず平井と吉永はああでもないこ...
弁当を食べ終えた久木原は、唯一橋本に褒められたコーヒーを淹れた。久木原がコーヒーを淹れているのを見て、滝山は「ネルなんですね」と懐かしそうに言った。高校時代にここでアルバイトをして『S-five』社長・滝山信吾と知り合ったという彼は、カウンターの中にいる久木原を見て鮮やかに微笑んだ。『S-five』やこの店を管理する『滝山不動産』の社長の滝山信吾とは面識はないが、噂によればかなりの美男子だという。そんな...
「ブログリーダー」を活用して、日高千湖さんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。