「瀬尾って、実刑かな?執行猶予がつくのかな?」商店街のパン屋さんで買ってきたフルーツサンドは、季節の果物と生クリームがタップリ入っていて人気の商品だ。午前中に買いに行かなければ売切れてしまう。パクッと噛み付くと横から生クリームが飛び出てくる。落ちる寸前のそのクリームを指で受け止めた僕は、恭悟の質問に罪悪感を覚えた。「わからないけど・・・」2度目の襲撃の時に、恭悟と警備員さんが受けた暴行は表沙汰には...
夏。高卒認定試験に合格し、僕はやっと「受験生」になれた。信吾さんに勧められた商店街の個人塾に、週に2回のペースで通った。自分よりも年下の小学生や中学生、生意気な高校生と並んで勉強するのも、案外楽しかった。塾長はこれまでに、何人もの生徒の受験を手伝い認定試験に合格させた実績があって、細やかで親切な指導だった。実績の通り苦手科目の対策もきちんとしていて、わかり易い。23時までは自習スペースが空いてい...
夕食の後片付けを終えてから、恭悟と一緒にお屋敷を出た。旦那さまと奥さまは「またお夕飯を食べにいらっしゃい」と、恭悟に言ってくださった。洋子さんも「楽しみにしていますからね」と、笑顔で見送ってくれた。 夜道を歩いて恭悟のマンションまで。距離は短いがデートみたいだと、ドキドキしながら僕は恭悟の隣を歩く。「良い方たちだな」「そうなんだ。大好きな方々だよ」「文樹を大切に思ってくださってる」「うん」縁もゆ...
恭悟は2週間入院し、退院した。 普通に生活するにはまだ不自由で、床に落ちた物を拾ったりは出来ない。身の回りの世話をするという名目で、僕が毎日マンションに通う事になった。マンションの家賃はこれまでどおり飯坂さんが払ってくれるらしい。慰謝料だ、と言われたそうだ。恭悟が卒業して仕事に就き、自分で部屋代を払えるようになるまで。さすがに僕も、旦那さまに「家賃を支援してやって欲しい」とは言えず、そこは已む無...
今回の一件で、気の毒だったのは信吾さんだった。翌朝、出勤前にお屋敷にやって来たのは義道会長と信吾さんのお二人。旦那さまは昨夜、河野の親父さんがここへ来た事や話し合いが行われた事などをざっと説明なさった。もちろん、河野組の関係者が関わっているというのは一言もおっしゃらない。旦那さまは瀬尾さんを連れて来た信吾さんには優しく、「気にするな」とおっしゃったが義道会長は容赦なかった。「きちんと調査をしたと...
瀬尾さんが滝山家の家庭教師になったのは「故意ではない」、と親父さんは言った。瀬尾さんの派遣先が強盗に入られている、と気付いたのは家庭教師派遣センターの社長だったそうだ。もし、この社長が気が付いた時に警察に通報していれば、ここまで被害は広がらなかったかもしれない。だが、派遣センターとしては「認識していなかった」とするしかないだろう、というのが旦那さまと親父さんの見解だ。社長は"ただの偶然"と判断して...
玄関の横の応接室に案内すると、津枝さんは部屋を見回して落ち着かない様子で座った。持ってきたタオルを渡すとネクタイを引き抜き、襟元を緩めてタオルでガシガシと首を拭きはじめる。「どうぞ」とアイスコーヒーとお菓子をテーブルに置くと、津枝さんはやっと調子が戻ったようだ。「武村もここに住んでるのか?」「はい」「すっげえ家だな!時代劇に出てきそうだ!」津枝さんは興奮気味に庭を指差した。残念ながら、滝山家の庭...
水曜日の夕方のニュースにも、夜のニュースにも瀬尾さんの名前はなかった。それどころか「盗品オークション」という言葉もない。 水曜日は平穏に終わり、翌木曜日。早朝、僕はいつものように旦那さまと一緒に庭に居た。朝日を浴びながらラジオ体操だ。耳慣れた音楽に合わせて体操するのは僕と旦那さまの日課。江戸時代から大切にされてきた日本庭園は、夏に向かってその様を変えようとしていた。ふんだんな緑に囲まれて、朝日を...
敬ちゃんと僕とは違う。敬ちゃんはどこででも特別で、常に大切にされる存在だった。《SWAN》でも『T』は特別だったんだ。 トゥルルルッと何度か呼び出し音が鳴って、『文ちゃん!』と僕に呼び掛ける敬ちゃんの声が軽やかに耳に届いた。「敬ちゃん、今、話せる?」『うん、大丈夫だよ』「若は?」若がいると話しが出来ないわけではないけれど、僕としても遠慮してしまう。敬ちゃんは気にしなくてもいいよ、と言ってくれるが...
僕は予定よりも30分ほど遅れて片岡病院に到着した。タクシーの中で「大丈夫か?」と、恭悟からのメッセージを受け取るくらい。恭悟は「また迷子か?」とメッセージを送ってきた。僕だって少しは電車にも慣れてきたんだけど、恭悟は基本的に"僕=迷子"と思っているらしい。最近の乗り換え案内アプリは優秀なんだぞ?「ごめんね!遅くなっちゃった」「柴田に捉まったんじゃ、仕方がないさ。あいつ、しつこいからな」「うん。粘り...
翌日は午後から片岡病院に行く。着替えや日用品と学校の教科書を持ってきて欲しい、と頼まれていたので恭悟の部屋に寄った。 管理会社から鍵を借り中に入ると、家具は前より少なめだがきちんと片付いている。でも、玄関のサンダルが揃えられていなくて左右バラバラに乱れ、スニーカーは片一方がひっくり返っていた。飯坂さんに頼まれて慌てて出て行ったからだ。リビングのテーブルの上には教科書や文具が置かれている。タンスか...
時刻は3時前。「大川、ヤツらの車はまだ見えないか?」と、槌屋補佐が急かすのは何度目だろうか。「飯坂、まだ追い付かないのか?」「車はまだ見えませんが、もうちょいスピード上げれば2分くらいで見えてくるはずですよ」目標を見失ってはいない。ヤツらが勝川だけでなく三村とも繋がっているとなれば、確実に今夜仕留めなければならない。「大川、追い付け」「大川、スピードはこのままだ!槌屋補佐、これ以上スピードを上げ...
瀬尾君和を乗せたタクシーは、プレハブ倉庫の前で停まった。住宅街の一角にあるプレハブ倉庫の駐車場には、軽ワゴン車が1台停まっていた。駐車スペースはあと1台分。深夜の住宅街は人気がない。瀬尾が鍵を開けて倉庫の中に入ったのを確認して、俺たちは倉庫の前を通り過ぎた。傍で監視したいところだが、ここで停車すれば怪しまれる。大川は角を曲がってすぐ停車した。 瀬尾を降ろしたタクシーが去って行く。「飯坂さん、あそ...
準備万端整えて待っていると、ほとんどの場合は取り越し苦労に終わるものだ。だが、たまには「準備しておいて良かった」と、自分の第六感に感謝したくなる事もある。 河野組組長・河野政重からこの一件を任された俺は、勝川の周辺や瀬尾君和の監視を続けつつ、盗品オークションの情報を集めていた。山元という男によれば、次回のオークションには海外からの客も多く参加するという。次回のオークションは規模も大きく、勝川は顧...
義道会長を交えた食事は、本当に気まずかった。料理は美味しいんだけど、その美味さを凌駕するくらいの義道会長の威圧感。僕はすっかりそれに飲まれてしまい、ひたすら義道会長とは目が合わないように苦心していた。 別に睨まれているわけではない。いや、むしろ義道会長はいつもよりも愛想良く、旦那さまや奥さまに笑みを絶やさない。紳士然とした態度で夕食を終えたのだった。旦那さま方にとっては「息子」だから義道会長の威...
お屋敷に戻ったのは夕方だった。通いの伊戸さんと入れ替わるようにエプロンを頭から被った。夕飯の準備は終わっていて、僕の仕事は茶碗蒸しの蓋をするくらいのものだった。 国府田さんと2人で雨戸を閉め、家の周囲を見て回った時に裏門から外に出てみた。アスファルトにも、塀にも、血の痕はない。裏門の横に立っていた警備員さんと国府田さんは、ほんの数日間だったけれどコーヒーやおやつを差し入れして、会話を交わしていた...
勝川はいくつかの半グレ集団を纏め、面倒を見ている。そのグループに美術品を盗ませ、盗品オークションを開いて荒稼ぎしているのだ。 オークション会場と開催日時がわかれば、情報屋を使って警察に情報を流せばいい。若も俺もそう考えていた。彼らが滝山家を二度も狙うとは、誰も考えていなかったからな。 "瀬尾君和"という学生は半グレ集団に属していた。一流大学に在籍している彼が何の為に犯罪に手を染めているのかはわから...
もうすぐお正月。街灯には愛嬌のある七福神の飾り。お正月らしい優雅な琴の音色がスピーカーから聞こえてくるが、寒さが和らぐわけではない。忙しく行き交う人々の手にはお正月用品。買い物客でごった返す商店街の真ん中で、僕はリーちゃんへの愛を叫ぶ。「いらっしゃいませ~!年越し蕎麦はいかがですか~!」寒いっ。年末に寒波が来るなんて聞いてない。ベンチコートの下にはダウンのロングベスト、セーターの下には吸湿発熱素...
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