chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
私を知る https://blog.goo.ne.jp/suiku2013

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。

自覚とは「私」に意識を向け、一切のことは「私」の考えであることを自覚していくことです。

suiku2013
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2013/06/27

arrow_drop_down
  • ツイート記事(20240905~)

    ◇ツイート記事(20240905~)◇<9月5日>◇今回の米騒動の関連今回の米騒動は、裏で誰かが仕掛けたものだと考えています。奴らがどこまで意図しているかはわかりませんが、今回の件はインフレと食糧危機の切っ掛けになるのではないかと考えています。インフレは間違いないのではないかと考えています。政府はカネを刷りまくり、市場に垂れ流しつづけてきてますから、インフレは必然であり、切っ掛けがあれば直ぐに起こります。インフレが起きても、垂れ流したカネを吸い上げるのも無理ですし、金利を上げるのも無理ですから、どうしようもありません。食料危機については、いずれ奴らが何か仕掛けてくるのではないかと考えています。来年あたりか。来年あたり国内が混乱するかもしれませんが、経済や人民統治が崩壊するのは、巨大地震でもない限り、日本が...ツイート記事(20240905~)

  • 龍樹は縁起を誤解している

    ◇龍樹は縁起を誤解している◇この記事は、昨日の記事の補足です。龍樹が縁起を間違って解釈しているので、そこを指摘しておこうと思い、書くことにしました。この縁起の解釈を間違っているのは、龍樹だけでなく、ひょっとすると釈迦もそうなのかもしれないと考えています(しかし、私にはそこまで調べる程、興味がありません)。私とは意識であり、世界そのものなのです。その意識の展開を微細に見ると、映画フィルムのコマのように断続的に分かれており、その最小単位のコマがパッ、パッ、パッと連鎖的に連なり展開することで、意識の展開が起こっていることがわかります。その意識の展開の最小単位のコマのことを、私は識と呼んでいます。識と識の間の間隔は、私の体感で言いますと、短くて1000分の1秒から長くて10分の1秒程度です。なお、識の展開は、意識...龍樹は縁起を誤解している

  • 龍樹は空を悟っていない

    ◇龍樹は空を悟っていない◇龍樹の悟りはどういうものなのかと、ネットで中論を拾い読みをした結果、彼が悟っていない、少なくとも空を悟っていないことがわかりましたので、ここに書いてしまうことにしました。もちろん、こんなことをぶっきらぼうに書くと、いろいろご意見やご批判はあるだろうと思います。どのようなご批判もお受けしますので、遠慮なくコメント欄等にどうぞです。彼は、釈迦が説いた縁起に基づいて、一切無自性であることを論証し、さらに一切空であることを論証しています。しかし、これでは論証になってないのです。なぜなら、縁起、無自性、空、無我の概念は、ほぼ同義といいますか、同列のものですから、論点を空から縁起にすり替えただけなのです。本当に空について論証するのなら、論理展開の出発点になっている縁起についてまず論証しておく...龍樹は空を悟っていない

  • アドヴァイタの悟りについて

    ◇アドヴァイタの悟りについて◇今回は、アドヴァイタ(非二元)の悟りについて書いてみようと思います。いつものように、肯定するのではなく、ここが違うよという批判記事なのですが、興味のある方はお読みください。アドヴァイタの悟りは、二つの悟り階層があります。一つ目の階層は、真我を悟る階層です。真我とは、ただ観ている意識である観照意識で、気づきの意識と言ってもいいです。観照意識は、良い悪い等の二元的な囚われが落ち、思考や感情が減ってくると、雲が晴れるようにして意識の表層部に現れてきます。この観照意識に気づく、あるいはそれを捉えることで、真我の悟りとなります。二つ目の階層は、梵我一如を悟る階層です。我とは、私という個を構成する原理などという捉え方もあるようですが、簡単に言うと、私という自我であり、主体のことです。梵と...アドヴァイタの悟りについて

  • 事実を悟ると言うのなら

    ◇事実を悟ると言うのなら◇今日も、禅者の言うたわごとを叩きます。彼らは、事実を悟るという言い方をします。その悟りは誤っているのですが、どういうものかと解説しますと。何も意図しなくとも(あるいは、元から意志や意図というものは無かったのだけど)、目は見えるし、耳は聞こえるし、手は動くし、ことは起こっていく、というところに気づくことなのです。百歩譲って、確かに悟りの行程においてそのような感覚というか、錯覚が起こるポイントがいくつかあるんです。その一つは、主客の統合体験が起こる「見るものは見られるもの」を体験するポイントの付近です。しかし、彼らの言う事実を悟るというポイントは、悟りの行程の本筋から外れているのです。どのように外れているのかと言うと、悟りの重点が物質的な現象に偏ってしまっていて、私というより重要な要...事実を悟ると言うのなら

  • 知の限界点と無我、非有非無、無根

    ◇知の限界点と無我、非有非無、無根◇悟りの道中の後半で、おそらく必ず通過するポイントがあります。それが無我を悟るポイントなんです。但し、ここで言う無我とは、私が無いという意味ではなく、一切に実体が無いという意味です。実は、この無我という概念には、同義な別の意味があります。それが、非有非無、無根です。非有非無とは、一切は有るとも無いとも言えないという意味です。無根とは、一切に根拠は無いという意味です。これらの無我、非有非無、無根は、わかるということ、知るということの限界を表すものとも言えます。認識の正しさの原点ということもできます。つまり、無我、非有非無、無根に沿った考えは合っている、正しい考えであり、そうでない考えは間違っている考えでなのです。◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章を...知の限界点と無我、非有非無、無根

  • 悟りの迷い道と無我

    ◇悟りの迷い道と無我◇悟りの行程には、いくつかの袋小路のような迷い道があります。その代表的なものが、私は無いという罠のような誤解によるものです。明け渡しや禅の頓悟など、悟りの行程をそれなりの幅で一気に進むと、急激な意識変化や自我感覚の急激な希薄化が生じ、私という自我があたかも無くなったかのような錯覚が起こります。そうすると、自我が無くなった、あるいは元から自我は無い等の誤った認識に陥りやすくなります。そして、自身の自我が落ちた、悟ったと誤解してしまいます。私という自我は、実体が無いということはハッキリしていますが、それが有るのか無いのかは断定不可能なのです。自我に限らず、目の前の物質や頭の中に浮かんでくる考えも含めて、一切のことがらについて、有る無しは断定不可能なのです。ですから、私が有ると言うのも間違い...悟りの迷い道と無我

  • 解脱者の入滅と他者との関連

    ◇解脱者の入滅と他者との関連◇今回の話題に関連して、大分以前に、ある思索(1)、(2)という記事を書きました。つい先日、その記事を読んで頂いていることがわかりまして、改めて自分も読んでみました。当時に比べて私の中でいろいろ整理が進み、わからないなりにスッキリとした部分がありますので、今回それを記事にしてみようと思いました。まず初めに、今回の話の前提の部分について書きます。実は本質的なところで、解脱や入滅ということがどういうことなのかは、誰にもわからないのです。例えば、釈迦は解脱したと言われていますが、本当に彼が解脱していたのかは誰にもわからないのです。そして、仮に彼が解脱していたとして、その死に伴って釈迦という存在がどうなったのかも誰にもわからないのです。私自身についても、自分自身が本当に解脱しているのか...解脱者の入滅と他者との関連

  • なぜ私を捉えることが大切なのか

    ◇なぜ私を捉えることが大切なのか◇なぜ私を捉えることが大切なのかについて、改めて書いてみようと思います。私とは、実体は無く、有るのか無いのかもハッキリしない、どんなに追及してもよくわからないものです。しかし、最も身近な存在であり、逃れられないものです。そのようによくわからない、やっかいな私ですが、この私が生きていく上で、また悟りの道を歩んでいく際にも、中心的な要素になっています。私を捉えるとは、私に意識を向け、私を実感しながら生きることです。私を捉えることで、生きて行く上でも、悟る上でも、軸がしっかりとします。そうすると、自ずと世界の中心に私がしっかりと立つようになります。それに伴い、主体性を持って人生を生きるようになります。さらには、自分が最も大切している本心に向き合うようになります。そして、本心に取り...なぜ私を捉えることが大切なのか

  • 仏教に欠けているもの(2)

    ◇仏教に欠けているもの(2)◇先日の記事の続きです。最初に核心部分を書きますと、仏教に欠けているもう一つのものとは本心です。私たちにとって最も大切なことは、悟ることではなく、生きることなのです。まずは生きることへの取り組みがあり、悟りはその取り組みに含まれる一要素に過ぎません。そして、生きる上で最も大切なのが本心なのです。本心とは、自分自身にとって最も大切なもの、あるいは大切にしたいものです。誰しも皆、この本心を持って生まれてきます。しかし、仏教はこの本心に関する着眼が欠落しているのです。本心には大きく分けて二つの要素が含まれています。一つ目の要素は、こう生きたい等、生き方に関するものです。この要素は、生まれてから死ぬまで余り変化ません。二つ目の要素は、人生でやりたいことに関するものです。この要素は、人生...仏教に欠けているもの(2)

  • 仏教に欠けているもの

    ◇仏教に欠けているもの◇これまでは、このような直接的な言及は控えてきたのですが、考えが変わりまして、ダメなものはダメと言っていくことにしました。仏教に欠けているものとは、解脱です。(ご意見やご批判等はお受けしますので、コメント欄等ご遠慮なく。)今となっては釈迦が解脱していたのかどうかもわからないのですが、現代に伝わる仏教の系統に、解脱が見受けられないため、始祖である釈迦は本当に解脱していたのかと疑いたくなります。ハッキリ書いてしまうと、大乗の系統は龍樹も含めて、解脱者は一人もいないのではないかと見ています。南伝の系統も、どうなんでしょう、解脱者がいるのかどうか、大いに疑問だと見ています。アーチャン・チャーはひょっとすると解脱しているのかもと思ったりもしていますが、やっぱり違うのかなぁと見ています。その理由...仏教に欠けているもの

  • 「禅系覚者の認識が止む」について

    ◇「禅系覚者の認識が止む」について◇今日もまた、禅の悟りに対する批判記事を書きます。彼らは、悟りは状態ではないなどと知ったようなことを言います。悟りは状態ではないというは、確かにそうで合っています。しかし、どこで習ったか知りませんが、彼らがそれを言うのは余りに滑稽なのです。彼らは、自らの悟りを表して認識が止むなどということをよく言います。認識が止むとは、それはまさに状態を表しているのですが、彼らは自らの言説の矛盾に気づきません。少し違った概念ですが、「無認識」というのも状態を表すものです。さらに違った概念ですが、「自我が落ちる」も状態を表すものです。悟りはそのような手法では表現できないのです。悟りは悟りで表現するしかないのです。つまりは、何を悟ったかということです。では、「認識が無い」や「私が無い」は状態...「禅系覚者の認識が止む」について

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、suiku2013さんをフォローしませんか?

ハンドル名
suiku2013さん
ブログタイトル
私を知る
フォロー
私を知る

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用