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私を知る https://blog.goo.ne.jp/suiku2013

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。

自覚とは「私」に意識を向け、一切のことは「私」の考えであることを自覚していくことです。

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2013/06/27

  • ツイート記事(20240605~)

    ◇ツイート記事(20240605~)◇<6月5日>◇多重人格と憑依の関連多重人格と憑依には関連があるケースが多いのではないかと考えています。精神分裂も憑依との関連があるケースがあるのではないかと考えています。遺伝的な脳を中心とした身体特性、生後の精神活動、憑依、これらの要素が関連しているのではないかと考えています。興味はあるのですが、積極的にさらに調べたり、掘り下げる程の興味はなく、そのままにしています。もし詳しい方がおられたら、教えていただけると嬉しいです。札幌ススキの事件に関する報道を見ていて、思い出しました。ちなみに、以前にも言及しましたが、チャネリング現象も、精神分裂や、憑依等と関連があると考えています。<6月12日>◇集団カルマ?人には世界的な規模で集団性のカルマのようなものがあるのかもしれない...ツイート記事(20240605~)

  • たったひとりの主人公

    ◇たったひとりの主人公◇みんな誰しも、たったひとりの主人公なのです。あなたは、あなたが生きている世界の常に中心にあり、あなたの人生の主人公なのです。あなたが、どんなに人と自分を比べて自分を否定しようと、自分のことを世界の片隅に追いやろうと、主人公という立ち位置からは逃れられないのです。あなたという人生を生きている人は、あなたしかいないのです。どんなに酷い状況になろうと、常に主人公であり、ヒーローなのです。そうなのです。あなたの人生において、あなたは常にヒーローなのです。そのことをわかっていただきたいと思うのです。◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。◇有料のスカイ...たったひとりの主人公

  • 無難な人生なんて

    ◇無難な人生なんて◇多くの方は、無難に行くように道を選択します。人付き合いもそうですし、進路や仕事を選ぶときもそうだし、恋人や結婚相手についてもそうです。悟りを求めるときもそうです。無難に行こうとする余り、自分を制限してしまい、萎縮してしまいます。あたかも、無難に行くことが人生の第一の目的であるかのような有様です。人生の終わりに、それで果たして納得できるのでしょうか。私は、人は皆、やりたいことがあって生まれて来ているのだと考えています。多くの方は、無難さを求める余り、自分のやりたいことが疎かになっているのではないかと考えています。何が問題なのかと言うと、どのように生きるのかを決めるときの優先順位がおかしくなっているのです。まず第一に自分のやりたいことがあって、それに取り組むことが大事であり、無難かどうかは...無難な人生なんて

  • ツイート記事(20240507~)

    ◇ツイート記事(20240507~)◇<5月7日>◇世界の異変はまだまだ先かここ最近の悟り、精神世界について気になっていたことについて一通り記事を書いてしまったのと、春になり農業が忙しくなっているのもあり、このブログ記事の更新が減っています。スピ界隈では、相変わらずこの4月頃から来年にかけて大きな異変が起こると言っているようです。この連休中にも何か起こるのではないかという言われていました。そもそも、未来のことはそう簡単にはわかりません。どのような存在であっても、そうです。神々だって決してわからない。そういうものです。個人的には、大きな異変はやっぱりいずれ起こるのだろうとは考えていますが、未だ数年くらいは先だろうと考えています。社会の様子は、世界的に歪みの蓄積、民衆の幼稚化、混乱が進行していますが、おそらく...ツイート記事(20240507~)

  • 無常の誤りについて

    ◇無常の誤りについて◇今朝のツイート記事に書いたものを単独の記事として書いてみようと思います。無常、無我について(特に無常について)、これまで何となく違和感を感じたままほったらかしにしていたのですが、その違和感の内容がハッキリしたので記事にしておきます。まず最初に、無常、無我の意味の確認から。無常とは、一切のことがらは常に変化するものであるという意味です。無我とは、一切のことがらに実体が無い、あるいは絶対が無いという意味です。無常とは何を言っているのかというと、ことがらの本質的な性質について常に変化するものだと言っている訳です。これに対し、無我には、ことがらの実体の有無に関する意味合いだけでなく、ことがらに対して何らかの言及を行う際のその言及そのものに対する意味合いも含まれている訳です。つまり、無我の矛先...無常の誤りについて

  • ツイート記事(20240403~)

    ◇ツイート記事(20240403~)◇<4月3日>◇地球防衛軍ここのところ、本業の農業を頑張っていて頭がそっちに行っているせいもあり、ネタがひと段落していることもあり、ブログの更新が休み勝ちになっています。春が来る前にやっておきたかった作業が全然終わっておらず、焦っています^^;今から12年くらい前、明け渡し体験があって4、5カ月した頃、私は毎日、地球にエネルギーを送っていました。本当にエネルギーが送れていたのかどうかはかなり怪しいですwでも当時は真剣にやっていました。まずは自分が住んでいた神奈川から始めて、次に日本列島全体にエネルギーを送り、次に地球全体にエネルギーを送っていました。このワークは3、4カ月くらいやっていたように思います。最後の頃は、宇宙全体に向けてエネルギーを送ることもやっていました。そ...ツイート記事(20240403~)

  • ツイート記事(20240301~)

    ◇ツイート記事(20240301~)◇<3月1日>◇悟りに関する他者批判私は、悟りに関して他者を批判します。どうしてそうなるのか、自分でもよくわからない部分があるのですが、やっています。多くのことは放っておけるのに、なぜかそこは放っておけずに、批判してしまう。あるいは、意識的にそれは違うよと指摘しています。悟りに関して間違った情報が多く(と言うか、残念なことに大半の情報が間違っているし、釈迦が喋ったとされる経典類も改変や作り物が多く、非常にやっかいです)、それがとってもイヤなのです。なぜそこまでイヤな気になるのか。ひょっとしたら、過去世でその誤った情報に翻弄され、悔しい思いをしたことが何度もあったのかもしれないと思っています。ともあれ、この批判はまだまだ続けるつもりです!(^O^)<3月3日>◇悟りと日常...ツイート記事(20240301~)

  • 問答の限界と悟り

    ◇問答の限界と悟り◇今回は、悟りと問答について書いてみます。禅系の一部で、悟り修行に公案や問答が使われるようです。悟りに問を使うことのメカニズムは、それはそれで非常にシンプルでハッキリしているのです。結果はおそよ二種類あるようです。どちらもポイントは問への集中です。一つ目は、問への集中により、意識の囚われにより構成された外層部分が崩壊し、急激な自我感覚の希薄化が起こるのです。このとき、自我が喪失した等の錯覚が生じやすいです。二つ目は、問へのさらなる集中により、意識の囚われにより構成された外層部分の崩壊がさらに進み、主客に対する錯覚が剥がれ落ち、それらの統合体験が起こるのです。この体験をわかりやすく言うと、自分の意識あるいは存在が問そのものになるという体験です。このときも、自我が喪失した等の錯覚が生じやすい...問答の限界と悟り

  • なぜ自由意志を否定できないのか

    ◇なぜ自由意志を否定できないのか◇今回は、自由意志についてちょっと違った切り口で書いてみたいと思います。自由意志が無いと仰る方は、本当にそれで納得できているのでしょうか。納得できるはずはないのですが。なぜなら、その考えは間違っているからです。自我が無いというのも同じで、間違っています。正しくは、自我も自由意志も実体が無いのであって、有る無しについてはどちらとも言えないのです。これは私が繰り返し書いていることですが、今回の趣旨ではありません。以下が本題です。自由に意志が無いと言う方は、以下の問についてぜひ考えていただきたいのです。「自由意志が無いのなら、どうして人は後悔をするのか」◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。◇自覚の要領をひとつに...なぜ自由意志を否定できないのか

  • 正しさの追求の果て

    ◇正しさの追求の果て◇今回は、正誤、正しいことと間違ったことについて書いてみたいと思います。正誤は、善悪等の二元の概念と混同されがちですが、それらのとは本質的に異なるものです。善悪等の二元の概念は囚われであり、本来そのような区別はありません。これに対し、正誤はそれなりにしっかりとあるのです。「それなりにしっかりと」などという中途半端な言い方をするのは、本当は厳然としてあると言いたいところだけど、敢えて避けたというところです。面倒なので、最初から結論を書くような形になりますが、ご容赦ください。何が正しいのかについて、論理的に徹底的に追及していくと、必ず到達する結論があるのです。それは、「一切に根拠が無い」あるいは、「一切に絶対は無い」なのです。ここが正しさの原点であり、源なのです。これに沿ったものは正しく、...正しさの追求の果て

  • 自我の手放しという誤り

    ◇自我の手放しという誤り◇今回は自我の手放しについて書いてみます。自我を手放しは悟り界隈でよく言わることですが、間違いです。そもそも、自我を手放すことなんて不可能であり、あり得ないのです。究極的には、この世界そのものがあなという自我なのですから。自我、私、個の意識など、なんと言っても同じです。すべて私であり、手放す対象となり得るものではありません。自分は自我を手放しと言っている人が時々おられますが、それは本人の誤解であり、認識不足です。世界があり、その世界が見えている、感じられているのに、私が無いなんてことはあり得ないのです。起こってくる現象と、それを観ている、感じている観照とは、不可分であり一体なのです。悟りの行程は、囚われ(執着)を手放していく行程です。囚われの手放しを少しずつ進めていく行程を漸悟とい...自我の手放しという誤り

  • 虚無を超えて生きる

    ◇虚無を超えて生きる◇今日は、久しぶりに虚無について、思うことを書いてみたいと思います。まずは私自身のことから。私は小学校に入る頃には、社会常識や道徳等も人が決めたことであり、本来はどうでもいいことだということがそれなりにわかっていて、すべてに意味が無いこともなんとなくわかっていました。そして、生きることの面倒くささ、特に社会と関わっていくことの煩わしさを強く感じていました。余談ですが、おそらく前世で小悟か大悟を既にやっていたのだろうと思います。で、何が言いたいのかと言うと、そりゃあ、そんな人間なら虚無感を感じしてしまうのは仕方ないよなぁ、と改めて思ったのです。そこには、この世界に生まれてしまったこと、もっと言えば自分という存在が生じてしまったことへのやり場の無い怒りもあるよなぁ、と思ったのです。それもこ...虚無を超えて生きる

  • 二元的志向の矛盾と本心

    ◇二元的志向の矛盾と本心◇一切のことがらには、プラス面とマイナス面が必ずあります。これは決して避けられないのです。例えば、平等について。実際に自分で考えてみて頂きたいのですが、平等なんてものは幻想であり、皆平等なんてことはあり得ないし、不可能なのです。平等にしようとすると、必ずその裏側で不平等が増大します。平和もそうです。平和になるようにしようとすると、必ずその裏側で過度な抑圧が増大し、結果として平和から遠ざかってしまいます。権利や自由もそうで、それらを守ろうとすると、その裏側で義務や規制が必ず増大し、結果としてそれらを抑制することになってしまいます。愛だってそうです。個々の人もそうです。良い人も悪い人も、皆プラス面、マイナス面があります。^このように言うと、何をどう選択したらいいのかわからなくなってしま...二元的志向の矛盾と本心

  • 空を批判する

    ◇空を批判する◇仏教で使われる概念に、空というものがあります。今日は、その空を批判します。空は、日常的な概念について説明するためにわざわざ導入された概念ですが、この空という概念を持ち込むというやり方がそのものが既に筋が悪いのです。そもそものところ、一切のことがらは説明をすることが不可能なのです。よりわかりやすく言うと、一切のことがらは説明を尽くすことができないのです。ですから、空という概念を持ち込んだところで説明できないという状況には変わりないのです。むしろ、いたずらに概念を増やすことで余計ややこしくなってしまうだけです。わざわざ空なんて概念を持ち込まなくても、日常的な概念を使って同程度の説明は十分にできるのです。むしろ、空を持ち込まない方が、ややこしくならずに、よりわかりやすくすっきりとした説明ができま...空を批判する

  • ツイート記事(20240203~)

    ◇ツイート記事(20240203~)◇<2月3日>◇輪廻、運命最近、この周辺のことについて少し理解が進んでいます。積極的に追及している訳ではないのですが、なぜか理解が進んでいきます。例えば、この世、あの世、過去未来を含めた世界観には、階層がありそうであること。輪廻にも階層がありそうであること。運命と呼ばれるものもありそうであり、極一部の例外の除いて皆、大筋はその運命に沿って生き、死んでいっているようであること。表面的な生き方をしていては、流されるようにして運命通りの展開になってしまうのであろうこと。意識的に生きることで、ある程度運命を変えられるのであろうこと。例えば、やったやられた(加害者、被害者)の関係や、親子等の依存関係の連鎖から抜け出していくときなどは、運命を変えている可能性があること。また、悟りの...ツイート記事(20240203~)

  • なぜ悪行はいけないのか

    ◇なぜ悪行はいけないのか◇今回は、なぜ悪行はいけないのかについて、私の考えを書いてみます。善悪も囚われですから、本来、行いついても善い、悪いはありません。これは間違いありません。ではなぜ、悪行はいけないのか。私は、人として生まれてくる存在は、性分として善的志向を持っていると考えています。人々の行いを善悪の観点から観れば、実際に表出する行いは種々あります。しかし、実のところは、誰しも出来れば悪いことではなく、善いことをしたいという想いを持っています。これは、どんなに悪いことをしている人でも、本心はそうなのだと考えています。ところが、実際に生きていく中では、表面的な欲や価値観、そこから派生する損得勘定や感情等に流され、本心に反する行いをしてしまうことが多々あります。生きることは難しく、仕方のないことでもありま...なぜ悪行はいけないのか

  • 肯定と否定

    ◇肯定と否定◇今回は、肯定と否定について書いてみます。ものごとに対するアプローチとして、肯定的アプローチと否定的なアプローチがあります。両者を比べると、イメージ的にも肯定の方がいいですし、受け入れやすいです。否定はどうしても、辛く、受け入れ難い。そのため、否定はどうしても受けが悪いです。また、両者の特性として、肯定は女性的あるいは母性的であり、否定は男性的あるいは父性的であると言うこともできます。昨今は社会的にも男性性不在あるいは父性不在の時代となっていて、否定的アプローチに対する風当たりが強いです。悟りの世界でも、良い悪い等の二元の囚われた落ちる小悟の辺りまでは肯定的アプローチが有効であり、またその階層周辺に属する人々の数も多いことから、どうしても肯定派が優勢となりやすいです。しかしそもそものところ、悟...肯定と否定

  • 悟りと覚悟

    ◇悟りと覚悟◇悟りよりもまず先に、生きること、人生への取り組みがあります。悟りは、生きるという営みの中の一要素に過ぎません。ですから、悟り云々の前に、如何に生きるか、生きる姿勢が重要です。私はこの点について、自身の本心に向き合って生きることが大切だと繰り返し書いてきました。しかし、それは実際にはなかなか難しいようです。どうして難しいのか。何が難しくしているのか。もっと言えば、何が足りないのか。私は、次の二つに集約されるのではないかと考えています。一つは、後悔しないという決意(あるいは、後悔しないようにするという決意)。もう一つは、どんな人生になろうと受けて立つ覚悟(あるいは、どんな人生でも受けて立つ覚悟)。特に、上の二つ目の覚悟が要になっていると考えています。多くの方々は、その覚悟が足りないのです。覚悟が...悟りと覚悟

  • 滅尽定と入滅とその関連(2)

    ◇滅尽定と入滅とその関連(2)◇前回記事の続きです。私とは、パッ、パッ、パッと断続的かつ連鎖的に連なる識の連鎖として捉えることができます。この識の連鎖という観点から見たとき、それは否応なく自動的に展開していきますから、そこには自由意志を含めて自我の存在も無いかのように感じられます。しかし、だからと言って自我は無いと考えてしまうのは、私は間違いであり、大切な要素を見落としてしまうことになると考えています(かと言って、自我があると言うのもまた間違いなのですが)。識の展開、自我の活動、どちらも幻ですが、私は、自我の活動が識の展開に大きく影響を与えているのではないかと考えています。以前の記事で、各コマを構成するひとつひとつの識には、その識をそのものを認識する自己認識機能が含まれており、それが自我の主体感覚の源泉で...滅尽定と入滅とその関連(2)

  • 滅尽定と入滅とその関連

    ◇滅尽定と入滅とその関連◇首記のテーマについて、思い付くことを書いてみたいと思います。死んだとき、できればもう終わりにしたい、これ以上はやりたくないという想いがありまして、入滅という現象の有無や可否について興味があります。これ以上はもうどうすることもできないので、後はなるようになっていくだけなのはわかっているのですが、やっぱり興味があります。ちなみに、ここで問題としているのは、死んだときに、そこで存在が終わって一切が消えるのか、それとも存在の展開が続いていくのかということです。予め書いておきますと、結論は残念な程ハッキリしていて、いくら考えても死んだときにどうなるかは決してわからないのです。どんなに悟っていても、またどんな能力を持っていても、死んだときにどうなるかは決して誰にもわからない。知ったようにいろ...滅尽定と入滅とその関連

  • 生きることは悟ることより難しい

    ◇生きることは悟ることより難しい◇悟りというと、それがとても大きなものであり、人生の最終目標であるかのように考える方がおられますが、それは誤解です。悟ることが人生の目的となることはありません。あくまでも、生きることそのものが目的なのです。悟りを余り過大に評価しないでください。悟りは人生の営みに含まれる一要素に過ぎません。悟りに崇高さを感じるのは、悟りが崇高だからではありません。それは、生きることそのものの崇高さを感じているのです。悟りに難しさを感じるのは、悟りが難しいからではありません。それは、生きることそのものの難しさを感じているのです。生きることは、悟ることより難しいのです。◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。◇自覚の要領をひとつに...生きることは悟ることより難しい

  • ツイート記事(20231230~)

    ◇ツイート記事◇<12月30日>◇エックス(ツイッター)はどうも気に入らないので、それに少し似た形で切れ端のような文章を書いてみようと思います。やり方は、ブログ記事の形で、記事の最後に順番に追記していく方法でやってみようと思います。内容は悟りから世情、個人的なことなど、何でも書いていく予定です。◇例の注射の件例の注射に関する情報が、あちこちで表面に出てきているようですね。情報はいくらでもありますが、例えば次のものがあります(及川さんは有名な宗教組織の有力な信奉者のようなので、どうかなぁというところはありますが^^;)。https://twitter.com/oikawa_yukihisa/status/1737094523539595336リンクはこれです。◇陰謀論注射のことについて触れたので、陰謀論まで...ツイート記事(20231230~)

  • 目を覚ませ

    ◇目を覚ませ◇自分は何をしようとして生まれてきたのか、思い出せ。目を覚ませ。自分にとって何が一番大切なのか。これでよかったのか、このままでいいのか。同じ失敗を繰り返してないか、後悔を重ねてないか。死ぬときに、自分はよくやったと言えるのか。自分をごまかすな。妥協するな。◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。コメント大歓迎です。気軽にお書きください。読んで頂いてありがとうございました。哲学・思想ブログランキングへ目を覚ませ

  • 教団と悟り

    ◇教団と悟り◇ツイッター記事で軽く書こうかと思って書き始めたのですが、単独記事として書くことにしました。これは、仏教系を含めた方々に対する批判です。教団内にいて深い悟り、特に解脱が生じ得るものなのかについて、私は非常に困難だろうと考えています。無理と言ってもいいのではないかと考えています。主に仏教系の教団を念頭に言っています。大乗だけでなく、上座部も含めての話です。それはなぜかと言いますと。第一に、教団に対する依存があるはずであり、それが邪魔になります。教団に守られ、依存している状態でやれるほど甘いものではない。第二に、教団に属するような方は、釈迦を含め、仏典や先人の言動を含めた教団の伝統に関する囚われが強すぎるのです。それらをフラットに見れず、信じ込んでしまったり、頼ってしまうのです。教団の教えが合って...教団と悟り

  • 夢、現実、転生

    ◇夢、現実、転生◇首記のテーマについて、とりとめのない文章を書いてみようと思います。おそらく、上手くまとまらず、何が言いたいのかわかりにくい内容になりそうですが、取り敢えず書いてみます。最近、自分の夢を観察していてよく思うことがあります。それは、夢の中の私の人格特性における表面的な部分は夢によって多少の変化がありますが(行動的だったり、人前に出ていくタイプだったり、その反対だったり等)、コアの部分はどの夢の中でも同じだし、この現実世界の私とも同じだということです。基本的にお人好しで、真面目なんです。でも、芯の部分はこうだという譲れない部分がしっかりあって、そこはとても骨っぽいんです。ここで一つ思ったことありまして。それは、私の人格特性のコアの部分は、現実と夢だけではなく、転生に関しても継続していくのではな...夢、現実、転生

  • 精神の成長と恐怖心

    ◇恐怖心と悟り◇精神の成長度と恐怖心には相関があります。精神が成長するに連れ、種々の恐怖心も薄くなっていきます。恐怖心が強いうちはまだまだ子供であり、精神的に独り立ちもできません。精神が成長し、大人になり、諸々のことを経験すると、自ずと悟りの道に入っていきます。それでも、最初の頃はまだいくつかの恐怖心を残しています。死に対する恐れや、得体の知れないものに対する恐れや、存在が消滅することへの恐れなどです。上に具体的に挙げた三つのうち、意外にしぶとく残るのが実は二つ目の恐れなのかも知れないと思います。その二つ目の恐れの有無を確かめる方法があります。それは独りきりで苦や闇で行う瞑想です。それをやっていると、突然自己の妄想が渦を巻くように拡大し、耐えられない程の恐怖心が起こることがあります。瞑想をやってみて、自分...精神の成長と恐怖心

  • 予定された覚醒

    ◇予定された覚醒◇悟りに入る切っ掛けの一つに覚醒があります。その覚醒には、ひょっとすると予め予定されたものがあるのではないかと考えています。時限装置が起動するようにしてあるタイミング、あるいはある状況が訪れると、自発的に覚醒が起こるというような。例えば、2012年の暮れに私自身に起こった明け渡しも、その可能性があると考えています。あのとき、2012年が終わりに近づいた頃、ネットでチラッと見たマヤ暦の終わりのことがなぜか急に気になりだし、急にソワソワし始めたのを覚えています。そして、明け渡しが起こる何日か前からデジャブが起こっているかのような体験や妙な心理状態となり、その日を迎えました。また、もしそのような予定された覚醒があるとすれば、それは前世の悟りと関係しているのではないかと考えています。おそらく、前世...予定された覚醒

  • 根源的な二つの謎(2)ー認識論の観点からー◇

    ◇根源的な二つの謎(2)ー認識論の観点からー◇前回記事の続きです。私は、私自身を含めたこの世界の謎は根源的に次の二つに集約されると考えています。一つは、この世界(宇宙と言ってもいいです)とは何なのか、なぜあるのかです。もう一つは、私とは何なのか、なぜあるのかです。一つ目の世界に関する謎は、自然現象に着目し、それは何なのかという問いを追求していけば必然的に突き当たるものです。これに対し、二つ目の私に関する謎は、着目されにくく、捉えるのも難しく、余り問題として挙がりにくいものです。唯物論の方々は、私という意識は物質的な自然現象として説明できるはずであり、根本的な謎ではないと捉えていると思います。この点に関し、私は、私という意識は物質的な自然現象の上に成り立っているものではなく、物質的な自然現象として説明するの...根源的な二つの謎(2)ー認識論の観点からー◇

  • 根源的な二つの謎(1)ーわかることの限界ー

    ◇根源的な二つの謎(1)ーわかることの限界ー◇私は、私自身を含めたこの世界の謎は根源的に次の二つに集約されると考えています。一つは、この世界(宇宙と言ってもいいです)とは何なのか、なぜあるのかです。もう一つは、私とは何なのか、なぜあるのかです。但し、初めに言っておきますと、この二つの謎は解明不可能なのです。絶対に不可能なのです。そもそも、私たちが本当の意味で解明できること、あるいは本当の意味でわかることなんて何もないのです。今回のお題である謎について書く前に、わかることの限界について書いてみようと思います。わかることの限界について説明するためには、まずはわかるとはどういうことなのかについて説明する必要があります。わかるという現象(意識的な現象です)が生じるときには、必ずその背景、あるいは前提、あるいは土台...根源的な二つの謎(1)ーわかることの限界ー

  • 雑記など

    雑記など、少し書いてみようと思います。まずは、個人的なこと。健康問題。私は身体が余り強い方ではないのですが、若い頃からいろいろ無理してきたのもあり、その上、3年前から始めた農業による肉体的な負担も重なり、あちこちと身体のガタが目立つようになってきました。つい先日は、またコロナ(おそらく4回目)にかかってしまい、一週間以上も寝込んでしまいました。ワクチンは一度も打ってないのですが、それにしても4回もかかってしまうというのは、自分の身体がどうかしているのだろうと思っています。左目の緑内障(隅角狭窄型緑内障)も、自然治療等も含めてこれまでだましだましなんとかやってきたのですが、もうそろそろ限界のようで、少し無理をすると目に激痛を伴う発作が出るようになってしまいました。もう限界のようなので、秋の農作業が落ち着いた...雑記など

  • 存在への執着と解脱

    ◇存在への執着と解脱◇私たちは、途方も無い数の転生を繰り返し、それぞれの今の至っているのだろうと考えています。悟りの行程に入る前はもちろん、悟りの行程に入った後も、おそらく幾世もかけて悟りの行程を進んで行くのだろうと考えています。なぜ、悟りの行程に入ってからもその歩みに幾世もかかってしまうのかと言うと。悟り始めても尚、悟りの階層ごとにものの見え方や感じ方が変わるため、階層ごとに人それぞれやりたいことや、やるべきことがいろいろあり、それを一通りこなさないと先に進めないのです。そして、ああでもないこうでもないと一通りのことをこなし、いくらやっても切りがないことに気づき、飽きが来るというか、これ以上続けることに嫌気がさすようになって初めて、解脱へと向かうことになるのだろうと考えています。なぜなら、そうじゃないと...存在への執着と解脱

  • 趣味やペットについて

    ◇趣味やペットについて◇お節介なことですが、趣味やペットについて少し書きます。世間では趣味が励行され、趣味が無いのは良くないことのように言われています。しかし、私はその考えには批判的です。そもそも、一生懸命生きていれば、あるいは自分の本当にやりたいことに取り組んでいれば、趣味やペットにかまけてる暇はないはずなのです。趣味やペットに忙しい人は、自分の大切なことや、取り組むべきことから目をそらし、逃げているのです。もう少し踏み込んで言えば、趣味に忙しい人は、本当にやりたいことが何か別にあるはずです。多くの場合、仕事に対する不足感が根っ子にあります。また、ペットに忙しい人は、多くの場合、異性やパートナーに対する不足感が根っ子にあります。人生の時間はとても貴重なものです。後悔の無いよう生きていただきたいと思います...趣味やペットについて

  • 親子関係と自立について

    ◇親子関係と自立について◇親子関係について少し書いてみたいと思います。親子関係は複数の要素が絡み合い、複雑かつやっかいなものになることがあります。どうしてそうなるのか、何が問題なのかと言えば、親も子も自立が出来ていないからなのです。但しここで言う自立とは、経済的な意味ではなく、精神的な意味であり、フラットな立ち位置で相手と対峙できるようになることです。別の言い方をすると、自立するとは、精神的に大人になるということです。どんなに関係が複雑に絡み合いこじれているように見えても、親側が抱えている問題要素と、子側が抱えている問題要素ははっきりと独立していて、双方とも相手側の問題要素に触れることなく、自分の問題要素の解消を図ることができます。つまり、親がいくら子に依存し、執着していても、子の方で自分の抱えている問題...親子関係と自立について

  • 「それそのもの」という囚われについて

    ◇「それそのもの」という囚われについて◇確か以前にも、似たようなタイトルで記事を書いたように思いますが、もう一度で書いてみようと思います。「それそのもの」とは禅系の覚者がよく使う言葉です。これは、それに対するの批判記事です。彼らは「それそのもの」とか、「それに成り切る」と言います。そして、それを目標(目標という言い方に語弊があるかもしれませんが)に修行すると、幾人かはそのようになるようです。しかしそもそものところ、その「それそのもの」が囚われになっているのです。それはなぜか。「それそのもの」がある特定の状態を表しており、概念だからです。つまり、彼らはまだ「それそのもの」に囚われている、執着しているのです。そこに何かピンと来るか、違和感を感じられないことにはどうにもなりません。◇「私」に意識を向ける自覚につ...「それそのもの」という囚われについて

  • 苦の雨に寄る辺なし

    ◇苦の雨に寄る辺なし◇私たちは常に何かを求めています。これが私たちの性です。悟りに対してもそうです。何かを探し求めてしまう。どこかに安住の地があるのではないかという期待を捨てきれないのです。最後の最後まで捨てきれない。私とはそういうものなのです。最後の最後まであがき続け、疲れ果て、どうしようもなくなって、諦めざるを得なくなるというか、やっと諦めが付くようになるという具合です。◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。コメント大歓迎です。気軽にお書きください。読んで頂いてありがとうございました。哲学・思想ブログランキ...苦の雨に寄る辺なし

  • 現象と観照は一体

    ◇現象と観照は一体◇今回は、観照(観照意識)について少し切り口を変えて書いてみたいと思います。まず、観照意識について改めて説明します。観照意識とは、ものごとをただ観ている意識要素であり、通常は様々な思考や感情に遮られて気づきにくいですが、それなりに囚われが減り、思考や感情が減ると自然と意識の表層に現れてきます。その観照意識に気づき、観照意識を捉えることで、小悟となります。観照意識を捉えるとは、私がその観照者であることに気づくことです。この観照という現象は、悟りに関係なく、またどんなに深く悟ろうと、無くならないのです。目が覚めているときはもちろん、寝ているときも、続いています。唯一の例外として、一切の現象が消滅する滅尽定(涅槃)に落ちているときだけ、現象の消滅に伴って消滅します。なお、大悟に至ると、誤認又は...現象と観照は一体

  • 中国経済の崩壊と世界経済

    中国経済の崩壊と世界経済について、思うところを少し書いてみたいと思います。中国の不動産バブルの崩壊が一部で話題となっています。私は、中国経済はもうどうにもならない状況にあるのだろうと考えています。大きな混乱にはまだ至っていませんが、いずれコントロール不能となり、崩壊するのではないかと考えています。具体的には、食料又は銀行預金に関する不安から、いずれ中国民衆のパニック的な行動が起きるのではないかと考えています。例えば、預金不安から大規模な取り付け騒ぎが起こり、それが広範囲又は全面的な預金封鎖を誘発し、大混乱となり、崩壊に至るのではないかと考えています。そして、その中国経済崩壊の影響は世界経済に波及するのではないかと考えています。但し、その世界経済への直接的な影響は、それが直ちに世界経済を崩壊させる程のもので...中国経済の崩壊と世界経済

  • 悟りと合理性

    ◇悟りと合理性◇今回は、悟りと合理性について書いてみたいと思います。私という存在は意識であり、この世界そのものなのですが、その意識は意外なほど合理的に出来ています。おそらく正しくは、もともとの意識の特性として合理性に相当するものが先にあって、そこから我々の考える合理性という概念が生じたのだろうと思います。ともあれ、私という意識は合理的に出来ています。そのため、自ずと悟りにも合理性があり、理に適っているか否かという観点は悟りの行程を歩む際にも非常に役に立ちます。例えば、「悟りとは私(自我)を滅することである」なんてことがよく言われますが、理の観点から観れば、自我を滅するということが理に適っておらず、そもそもあり得ないことであることがわかるのです。あるいは、理の観点が育っていれば、自我を滅しようとするのは筋が...悟りと合理性

  • 輪廻に関する考察ー輪廻はあるか、解脱後はー

    ◇輪廻に関する考察ー輪廻はあるか、解脱後はー◇今回は、輪廻について私なりに考察を書いてみたいと思います。まず最初にハッキリと申し上げておきたいことがあります。輪廻があるのか無いのか、あるとしたらどんなものなのか等、輪廻に関する我々の疑問はいろいろありますが、輪廻があるのか否か等の核心部分に関することは、決して誰にもわからないのです。まず初めに、輪廻はあるのかついて。結論から言いますと、輪廻はおそらくあるのだろうと考えています。正確には、あると考えた方がいろいろと辻褄が合い、妥当であると考えています。そう考える理由について。一番の理由は、人の意識のバリエーションを見ていると、意識の成長度の違いを考えざるを得えないと考えるからです。二番目の理由は、私自身の個人的な経験によるものです。例えば、6、7歳の頃生まれ...輪廻に関する考察ー輪廻はあるか、解脱後はー

  • 私が無いというのも、私があるというのも間違い

    ◇私が無いというのも、私があるというのも間違い◇私が無いと言っても間違いであり、私があると言っても間違いなのです。私には実体が無いと言うのが正解なのです。大悟まで至ると、このあたりことが凡そスッキリとわかって来ます。腑に落ちてしまえば、とてもシンプルかつ当たり前のことなのですが、簡単なことではありません。見当違いやわかったつもりなど、何度も何度も(おそらく何世も何世も)繰り返し、やっとわかることなのだろう思います。なお、ある無しの問題は、私に限ったことではありません。一切のことがらについてそうなのです。私を含む一切のことがらについて、あるとも言えないし、無いとも言えないのです。実体が無いと言うが正しいのです。◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方...私が無いというのも、私があるというのも間違い

  • そもそも私とそれ以外の事象を分けられるのか

    今日も、「私が無い」と言う覚者たちへの批判記事を書きますwもうね、これはライフワークですね(^O^)◇そもそも私とそれ以外の事象を分けられるのか◇悟って私が無くなったなどとたわけたことを言っているのは、何が足りないのかと言うと、私という意識に対する追及が足りないのです。この世界の事象について、そもそも、私というものと、それ以外の事象とを分けられるものなのか。私無しに(特に、私に関する認識作用無しに)、この世界の事象が成立し得るものなのか。軽はずみに「私は滅した(悟った)」と言ってしまう前に、まずはこのあたりのことをもっと追及し、確かめるべきなのです。◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント...そもそも私とそれ以外の事象を分けられるのか

  • 近況など

    久しぶりに近況など書いてみたいと思います。仕事など。農業は相変わらず苦戦中しておりまが、頑張っています。立地条件やら圃場の条件など条件が厳しすぎて、仕事として成り立たない、無理だと泣き言を言いながらも続けています。夜寝ながらも、今の条件で農業収益を上げる方法はないかと考え続けてますし、昼間は体が壊してしまうくらいやっています。自分でもどうしてそこまでやるのかわかりませんが、やる気があるようです。最近気づいたのですが、私って人生で大きなことで諦めたり挫折したことが無いんです。やりたいと思い続けているうちは、投げ出しそうになりながらもやり続け、最後はそれなりに成就してしまうか、成就する前にもういいかと納得してしまうのです。だから今回取り組んでいる農業も、そんな感じなんだろうと思ったのです。ただ、世界経済もその...近況など

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