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私を知る https://blog.goo.ne.jp/suiku2013

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。

自覚とは「私」に意識を向け、一切のことは「私」の考えであることを自覚していくことです。

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2013/06/27

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  • 悟りの本質について

    ◇悟りの本質について◇最近になって、悟りについて、正確には悟りの捉え方についてまた理解が進みまして、今回はそれを記事にまとめてみたいと思います。悟りと言うと、体験として大きな意識の変化が生じるので、どうしてもその体験や、意識がどう変化したか等に目を取られてしまいがちになります。そして、多くの悟りを体験をした者は、自分の体験や意識の変化に基づいて、自らの悟りを語ります。かくいう私自身もそうでした。このブログに書いてきた悟りの体験談や悟りに関する文章は、悟りによって意識がどう変化したとか、どうなったか等が中心になっています。これを振り返り、悟りを語るには私自身まだまだだったなと思う次第です。端的に言えば、悟りの本質は何を悟ったかなのです。どんな体験をしたとか、悟ってどうなったとかは、どうでもいいんです。何を悟...悟りの本質について

  • ツイート記事(20240805~)

    ◇ツイート記事(20240805~)◇<8月5日>◇素晴らしき二元世界この世界は、良い悪い等のバリエーションのある二元の世界です。そして、その中で振り子が振れるように、大きな時代の波や流れが起こっています。例えば、欲望や物質面の追及と、利他性や調和の追及。悪の色合いと、善の色合いなど。欲望や物質面の追及は、否応なく悪の色合いを伴います。ひょっとすると、今は丁度、欲望や物質面を追求する方向への振れが極まり、その逆側に振り子が振り始めようとしているときなのかも知れないと考えています。みんなもう、今のこの世界の状況にうんざりしているでしょうから、利他性や調和を追求する展開がさぞ素晴らしいことかのように見えるのだろうと思います。しかし、この世界は二元の世界ですから、すべてのことにプラス、マイナスの二面性があります...ツイート記事(20240805~)

  • 仏教における苦をめぐる誤りについて

    ◇仏教における苦をめぐる誤りについて◇今回は、仏教における苦をめぐる誤りについて書いてみようと思います。大乗、上座部を含む大半の系統において、苦を滅することができると考えられているようです。しかし、これは大きな間違いなのです。私という存在そのもの、この世界そのものが苦なのです。私とは連鎖的に連なる識の連鎖であり、その一つ一つの識が苦なのです。ですから、苦を滅するなんてことは不可能なのです。釈迦は一切皆苦を言ったようです。一切皆苦と言えば、一切すべてか苦なのです。それがどうして苦が滅するという話になったのか。次に、渇愛と苦の関係についてです。仏教では、渇愛によって苦が生じるという考えがあるようです。そして、悟りにより渇愛を停止させ、それによって苦を滅することができるという考えがあるようです。このような考えも...仏教における苦をめぐる誤りについて

  • 無常無我苦と私

    ◇無常無我苦と私◇つい最近、無常無我苦は私のことを言っているのだと改めて納得したところがありまして、記事にしてみようと思います。悟りの捉え方は種々ありますが、悟りとは私を知っていくことだと言うこともできます。その過程で、無常無我苦に関する理解が自ずと進んでいきます。重要なのは、無常無我苦が私というものの別のところにあるのではなく、私そのものを言っているのだというところです。私という存在は、意識であり、この世界そのものであり、微細に見ると映画フィルムのコマのようにパッパッパッと連鎖的に連なる識です。そして、この識の連鎖のことを縁起と言います。このような私と、無常無我苦の関係について説明してみたいと思います。まず、無常無我苦についてのおさらいから。無常とは、ものごとは常に移り変わっていくものであるということで...無常無我苦と私

  • 根本苦と衝動

    ◇根本苦と衝動◇私という存在は、苦そのものです。根本苦とは、存在の根のようにしてある苦のことをそう言っています。私という存在の深層には、その根本苦を何とかしようとして激しく振動するもがきくような衝動があります。そして、その根本苦に対する衝動が、私という存在に生じる様々な衝動の震源となっています。例えば、何かをどうにかしようとする恐れ、何かを得ようする欲、何かを握り締める執着、何かを求め徨う期待などです。このような衝動は、ジャングルジムのように相互に関係し合いながら階層構造をなしています。根本苦は、私の意識を外へ向けさせ、外側へ展開させるよう作用します。苦しみにより藁にすがるよにして、考えを掴むのです。考えを掴むと、意識がその考えに向くため、根本苦の苦しみが表面的には緩和されるのです。深層では考えを掴むこと...根本苦と衝動

  • 高徳と悪徳

    ◇高徳と悪徳◇存在の成長には高徳を積むことが大事であるという類のことがよく言われますが、実はこれは誤りなのです。高徳はむしろどうでもよいくらいのことで、重要なのは悪事を行わないことなのです。一つでも悪事を行ってしまうと、いくら善い行いをしても帳消しになることはありません。一点の汚点が取り返しの付かないことになることもあります。この世界、即ち私という存在はそのように出来ていると私は考えています。それはどうしてなのか、少し説明します。善い悪い等の概念は二元的な囚われですので、本来そのような基準はありません。ですから、行いが誰かに評価されたり、裁かれることもありません。ではなぜ、悪行はいけないのか。私は、人として生まれてくる存在は、本性(本心と言ってもいいです)として善的志向を持っていると考えています。誰しも、...高徳と悪徳

  • 囚われと苦

    ◇囚われと苦◇握り締めた考えを囚われと言います。囚われとは、典型的にはこうあるべき、あああるべき、これはダメ、あれはダメ等ですが、表面的なものだと、お金は大事、女がいないとダメ、男がいないとダメ、ポスト(地位)がないとダメ等もこれに含まれます。どうしてそのような考えを握り締め、手放せないのでしょう。そこには、恐れという苦があります。何の頼りもなく、考えの海に浮かぶのは耐えられないのです。溺れる者は藁にもすがるという訳です。考えを握り締めると、その考えに囚われるため、さらに苦しくなります。しかし、考えを握り締めると、それが思考の前提として取り込まれ、あるいは潜在化され、自分が考えを握り締めていることに気付くのが困難になります。◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自...囚われと苦

  • 悟りと意志

    ◇悟りと意志◇以前にも何度か似たような文章を書いたことがあるはずなのですが、再度、悟りと意志について書いてみたいと思います。なお、ここのところ頑張って書いている苦についても、引き続き書いていく予定です。悟りは、悟ろうと思って悟れるものではないとか、本人の意志とは無関係などと言われます。確かに、意図せず悟りの方から突然やってくるという事例もありますから、そのように言われるのも全く見当外れという訳でもないのだろうと思います。しかし敢えて言うと、私はその考えは間違いであると考えています。私は、意志の力で悟りの行程に入り、最後まで進んでいけると考えています。なぜなら、悟りとは、自らが握り締めている囚われ(考え)を手放していくことなのです。自らが握っているのですから、それを手放すのも自らの意志で出来るのです。自分は...悟りと意志

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