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私を知る https://blog.goo.ne.jp/suiku2013

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。

自覚とは「私」に意識を向け、一切のことは「私」の考えであることを自覚していくことです。

suiku2013
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2013/06/27

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  • ツイート記事(20240301~)

    ◇ツイート記事(20240301~)◇<3月1日>◇悟りに関する他者批判私は、悟りに関して他者を批判します。どうしてそうなるのか、自分でもよくわからない部分があるのですが、やっています。多くのことは放っておけるのに、なぜかそこは放っておけずに、批判してしまう。あるいは、意識的にそれは違うよと指摘しています。悟りに関して間違った情報が多く(と言うか、残念なことに大半の情報が間違っているし、釈迦が喋ったとされる経典類も改変や作り物が多く、非常にやっかいです)、それがとってもイヤなのです。なぜそこまでイヤな気になるのか。ひょっとしたら、過去世でその誤った情報に翻弄され、悔しい思いをしたことが何度もあったのかもしれないと思っています。ともあれ、この批判はまだまだ続けるつもりです!(^O^)<3月3日>◇悟りと日常...ツイート記事(20240301~)

  • 問答の限界と悟り

    ◇問答の限界と悟り◇今回は、悟りと問答について書いてみます。禅系の一部で、悟り修行に公案や問答が使われるようです。悟りに問を使うことのメカニズムは、それはそれで非常にシンプルでハッキリしているのです。結果はおそよ二種類あるようです。どちらもポイントは問への集中です。一つ目は、問への集中により、意識の囚われにより構成された外層部分が崩壊し、急激な自我感覚の希薄化が起こるのです。このとき、自我が喪失した等の錯覚が生じやすいです。二つ目は、問へのさらなる集中により、意識の囚われにより構成された外層部分の崩壊がさらに進み、主客に対する錯覚が剥がれ落ち、それらの統合体験が起こるのです。この体験をわかりやすく言うと、自分の意識あるいは存在が問そのものになるという体験です。このときも、自我が喪失した等の錯覚が生じやすい...問答の限界と悟り

  • なぜ自由意志を否定できないのか

    ◇なぜ自由意志を否定できないのか◇今回は、自由意志についてちょっと違った切り口で書いてみたいと思います。自由意志が無いと仰る方は、本当にそれで納得できているのでしょうか。納得できるはずはないのですが。なぜなら、その考えは間違っているからです。自我が無いというのも同じで、間違っています。正しくは、自我も自由意志も実体が無いのであって、有る無しについてはどちらとも言えないのです。これは私が繰り返し書いていることですが、今回の趣旨ではありません。以下が本題です。自由に意志が無いと言う方は、以下の問についてぜひ考えていただきたいのです。「自由意志が無いのなら、どうして人は後悔をするのか」◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。◇自覚の要領をひとつに...なぜ自由意志を否定できないのか

  • 正しさの追求の果て

    ◇正しさの追求の果て◇今回は、正誤、正しいことと間違ったことについて書いてみたいと思います。正誤は、善悪等の二元の概念と混同されがちですが、それらのとは本質的に異なるものです。善悪等の二元の概念は囚われであり、本来そのような区別はありません。これに対し、正誤はそれなりにしっかりとあるのです。「それなりにしっかりと」などという中途半端な言い方をするのは、本当は厳然としてあると言いたいところだけど、敢えて避けたというところです。面倒なので、最初から結論を書くような形になりますが、ご容赦ください。何が正しいのかについて、論理的に徹底的に追及していくと、必ず到達する結論があるのです。それは、「一切に根拠が無い」あるいは、「一切に絶対は無い」なのです。ここが正しさの原点であり、源なのです。これに沿ったものは正しく、...正しさの追求の果て

  • 自我の手放しという誤り

    ◇自我の手放しという誤り◇今回は自我の手放しについて書いてみます。自我を手放しは悟り界隈でよく言わることですが、間違いです。そもそも、自我を手放すことなんて不可能であり、あり得ないのです。究極的には、この世界そのものがあなという自我なのですから。自我、私、個の意識など、なんと言っても同じです。すべて私であり、手放す対象となり得るものではありません。自分は自我を手放しと言っている人が時々おられますが、それは本人の誤解であり、認識不足です。世界があり、その世界が見えている、感じられているのに、私が無いなんてことはあり得ないのです。起こってくる現象と、それを観ている、感じている観照とは、不可分であり一体なのです。悟りの行程は、囚われ(執着)を手放していく行程です。囚われの手放しを少しずつ進めていく行程を漸悟とい...自我の手放しという誤り

  • 虚無を超えて生きる

    ◇虚無を超えて生きる◇今日は、久しぶりに虚無について、思うことを書いてみたいと思います。まずは私自身のことから。私は小学校に入る頃には、社会常識や道徳等も人が決めたことであり、本来はどうでもいいことだということがそれなりにわかっていて、すべてに意味が無いこともなんとなくわかっていました。そして、生きることの面倒くささ、特に社会と関わっていくことの煩わしさを強く感じていました。余談ですが、おそらく前世で小悟か大悟を既にやっていたのだろうと思います。で、何が言いたいのかと言うと、そりゃあ、そんな人間なら虚無感を感じしてしまうのは仕方ないよなぁ、と改めて思ったのです。そこには、この世界に生まれてしまったこと、もっと言えば自分という存在が生じてしまったことへのやり場の無い怒りもあるよなぁ、と思ったのです。それもこ...虚無を超えて生きる

  • 二元的志向の矛盾と本心

    ◇二元的志向の矛盾と本心◇一切のことがらには、プラス面とマイナス面が必ずあります。これは決して避けられないのです。例えば、平等について。実際に自分で考えてみて頂きたいのですが、平等なんてものは幻想であり、皆平等なんてことはあり得ないし、不可能なのです。平等にしようとすると、必ずその裏側で不平等が増大します。平和もそうです。平和になるようにしようとすると、必ずその裏側で過度な抑圧が増大し、結果として平和から遠ざかってしまいます。権利や自由もそうで、それらを守ろうとすると、その裏側で義務や規制が必ず増大し、結果としてそれらを抑制することになってしまいます。愛だってそうです。個々の人もそうです。良い人も悪い人も、皆プラス面、マイナス面があります。^このように言うと、何をどう選択したらいいのかわからなくなってしま...二元的志向の矛盾と本心

  • 空を批判する

    ◇空を批判する◇仏教で使われる概念に、空というものがあります。今日は、その空を批判します。空は、日常的な概念について説明するためにわざわざ導入された概念ですが、この空という概念を持ち込むというやり方がそのものが既に筋が悪いのです。そもそものところ、一切のことがらは説明をすることが不可能なのです。よりわかりやすく言うと、一切のことがらは説明を尽くすことができないのです。ですから、空という概念を持ち込んだところで説明できないという状況には変わりないのです。むしろ、いたずらに概念を増やすことで余計ややこしくなってしまうだけです。わざわざ空なんて概念を持ち込まなくても、日常的な概念を使って同程度の説明は十分にできるのです。むしろ、空を持ち込まない方が、ややこしくならずに、よりわかりやすくすっきりとした説明ができま...空を批判する

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