日本人として日本の土地に生まれたものの少年時代は欧米の音楽や文化が輝いて見え、かぶれた時期もありましたが、20代後半になって日本の武術(合気道・大東流合気柔術)を学び始めたことをきっかけに『日本人として』のアイデンティティが大きく揺さぶられたように思います。学校では歴史の時間はただ寝ているだけで、何の興味もなかったぼんくら少年が時代小説にはまり、侍や幕末の志士たちに大きな感銘を受け、自分が日本人であるということ、そして日本の文
無限道場 mugendojo 道場長 竹内 研二のブログ
『自分』という枠を超える。武術・合氣・そして肉体としての自分。そんな『枠』を超えた氣の世界を表現したいという思いで活動しています。
2024.11.17(日)多田神社(兵庫県川西市)にて。厳しい冷え込みもなく、雨にも見舞われず本当に丁度良い心地よさを感じられる気温でした。上の写真は午後から皆様をお迎えする前にこの場所の心地よいエネルギーを独り占めの状態です。場所は多田神社 政所殿。季節ごとの心地よさが味わえそうなところです。イベントスタート合氣 天地会 前谷先生との合同イベント。想像以上の方々にお集りいただきました。
面白きこともなき世を面白く すみなすものは心なりけり有名な高杉晋作の辞世の句ですよね。今まで何度も事あるごとに目にして、耳にしてきた言葉なのですが、この歳になってようやく沁みてきたと感じ入る今日この頃でございます。(私の人生のテーマであるように感じます)私がお伝えしたいのは日々の稽古もこれと同じことであり、同じことの繰り返しであれば面白くない。それを視点を変え、その場の空氣感や音をいかに聞こうとするかによって”観えかた”や”感じ方”と
肉体の物質的な感覚優位からエネルギー体(意識体)優位のカラダ遣いへ私たちの稽古目的はズバリこれです。結論から言いますと、軽い、早い、動き易い、柔らかい、開放的・・・といった動きが実感でき、それでいて肉体の力とはまた違う大きなチカラを使うことも可能となります。もちろん体格の大小や年齢、性別など肉体的な要素とは比例しないチカラです。なぜそれが可能なのか?それはエネルギー体(意識体)を主として捉え、そこに肉体動作を合わせるような稽古を組み立てている
オンラインで合氣?フェイスブックのプライベートグループ(完全非公開)を使って運営しており、実道場での稽古風景から稽古に必要なカラダ遣いや氣という目には見えないエネルギーを捉えるための感覚の磨き方などを配信しております。YouTubeチャンネルでも稽古風景動画は配信しておりますが、やはりそこは伝える”ニュアンス”が違います。より直接的な表現を用いて氣や合氣、目には見えないエネルギーを捉える感覚の磨き方などを配信しているつもりです。オンライン道場を始めた
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日本人として日本の土地に生まれたものの少年時代は欧米の音楽や文化が輝いて見え、かぶれた時期もありましたが、20代後半になって日本の武術(合気道・大東流合気柔術)を学び始めたことをきっかけに『日本人として』のアイデンティティが大きく揺さぶられたように思います。学校では歴史の時間はただ寝ているだけで、何の興味もなかったぼんくら少年が時代小説にはまり、侍や幕末の志士たちに大きな感銘を受け、自分が日本人であるということ、そして日本の文
無駄な力みを根本的に解消肩肘に無駄な力が入って力む肩肘の無駄な力み「肩の力を抜いてリラックス」というのが一般的だと思いますが、無駄な力み=力を抜くでは根本的な解消には繋がらないように思います。 日頃の合氣の稽古を通じて感じることは、力みの原因は”活かすべきところを活かしていない”からの歪み。チカラというエネルギーの澱みや詰りによって起きることであると個人的には思っています。 この場合は「胸」姿勢(足腰から)をしっかり活かすことで”結果
合氣 氣 エネルギー。目に見えない働きをどのように捉えて稽古を組み立てるか?私はシンプルに見えないものは「見えないもの」として捉えて、それを観る目線、感じる感覚を養うことに努めています。経験上「頭で理屈を理解したい」人って結構多いんですが、可視化された世界、物質的なものにいちいち置き換えてしまうと余計にこじれてしまう事って多いんですよね。そしてその作業は過去の思い込み、刷り込みとリンクさせる事に繋がるような感じがします。見えないものは「見えな
日本に生まれこの地で育まれた感覚を通して氣エネルギーを感じる。我々には自分の氣づいていない感覚がまだまだ眠っている。共に目覚めていこう。侍の美学を心に。
日時:2025年2月2日(日)節分場所:福岡市博多区綱場町 陽の森(hinata-no-mori)おかげさまでそこまで寒くもなく時折晴れ間が見えるような天候に恵まれました。今回は初の都市部での開催。大博通りというJR博多駅前に繋がる大きな道路沿いのビル9Fなのですが、喧騒感を全く感じさせないとっても静かで落ち着いた空間。そして少人数での開催となったため、じっくりと丁寧に稽古できる時間となりました。肉体を重視した呼吸、動作と氣エネルギー
私がやっていること日本の武術に触れ、そこで求められる所作や侍の美意識のようなものに日本の文化を観る。そしてそこに誇りや喜びを感じる瞬間「あぁ俺は日本人なんだなぁ」と再認識させられる。また、氣の稽古を重ねるにつれ自分の本質は肉体ではなく意識体(エネルギー体)であることを痛感させられる。なんでしょうねぇその誇りや喜びそして言葉や形で表わし辛い氣の感覚をお伝えしているのです。
私たちが稽古している「氣」の感覚。特に優れた人、選ばれた人だけの特殊能力でもなんでもないんですよね。ただ、文明の進化発展により我々人類がより便利なモノ、手軽で素早くより効率的なノウハウに意識を向けてしまうこと、そちらに流されることで本来の能力が眠ってしまっている。そんな感じがします。以前から私の中にはずっと離れないイメージがあってそれは機械と人間が生存をかけて戦うターミネーターの世界。何でしょうねぇ、実際にターミネーターと戦うような現
どれだけ波動の高い氣を取り入れても、十分に発することが出来る「出口」が整っていなければ氣は詰り、流れが滞るのだと私は感じます。氣というエネルギーを十分に発するためにはカラダを十分に開放/解放すること。その過程においては以前にも増して詰まったような感覚が出ることもあります。それは「開く」という言葉で判断して誰もが誤った開き方「肉体の感覚」優先で体を開こうとするから。しかしそれは避けては通れない道であると私は思っています。遠回りのようにも感じます
氣を高める、氣の流れを良くする。一般的には心地よい自然のなかで深呼吸や瞑想をしたり、ゆったりとリラクゼーションなどなどがイメージされることと思います。それはそれで素晴らしいのですが、あくまでそれは個人レベルでやれること。私たちの稽古は合氣柔術のカラダ作りがベースであり、その目的もまた少し違います。それは「自他ともに心地よい」というのが基準。技を受ける側、掛ける側双方にとって心地の良い状態を求めた稽古なのです。個人レベルでリラックスした
無限道場で行っている氣の稽古それを一言で表すならば「自己浄化」でしょうね。それは自分自身がそれを体験すること、続けることで益々カラダが軽くなり、そして楽に動けるようになっていったから。合氣柔術という武術の稽古をベースに置いているというのもあって、摩訶不思議な技を身に付けるため、神通力のような特殊能力を身に付ける・・・肉体の技術を高めることを稽古の目的にしていると思われるかもしれませんが、私がやっていること、そして皆さんにお伝えしていることは自分の無駄
体の語源・由来体は「殻(から)」に接続語「だ」が付いた語。古くは、魂に対してそれを宿している身体、生命のこもらない肉体を「からだ」と言い、魂を宿した肉体は「身(み)」と言った。つまり、身の外形部分が「体」であった。平安時代には、セミが脱皮した後の抜け殻や死体などの意味で用いられ、いわゆる「亡骸(なきがら)」を指していた。 ※語源由来辞典よりhttps://twitter.com/mugen_dojo/status/1
氣の稽古とはなにか?私たちの稽古は合氣柔術がベースのカラダ作り、護身の感覚を磨くための稽古、トレーニングなのですが、そこで求める『氣』というものは摩訶不思議な術を使うことや他者に勝つことを目的とした技術でもありません。何だか厳しい修行の上に身に付く特別な能力や感覚とも思われがちですが、私自身そんな過酷な稽古をやっている訳でもありません。ではどのようなものなのか?一言で言えば真の自分自身を開放する(解放)ということ。「その作業は過酷で自
2024.11.17(日)多田神社(兵庫県川西市)にて。厳しい冷え込みもなく、雨にも見舞われず本当に丁度良い心地よさを感じられる気温でした。上の写真は午後から皆様をお迎えする前にこの場所の心地よいエネルギーを独り占めの状態です。場所は多田神社 政所殿。季節ごとの心地よさが味わえそうなところです。イベントスタート合氣 天地会 前谷先生との合同イベント。想像以上の方々にお集りいただきました。
面白きこともなき世を面白く すみなすものは心なりけり有名な高杉晋作の辞世の句ですよね。今まで何度も事あるごとに目にして、耳にしてきた言葉なのですが、この歳になってようやく沁みてきたと感じ入る今日この頃でございます。(私の人生のテーマであるように感じます)私がお伝えしたいのは日々の稽古もこれと同じことであり、同じことの繰り返しであれば面白くない。それを視点を変え、その場の空氣感や音をいかに聞こうとするかによって”観えかた”や”感じ方”と
肉体の物質的な感覚優位からエネルギー体(意識体)優位のカラダ遣いへ私たちの稽古目的はズバリこれです。結論から言いますと、軽い、早い、動き易い、柔らかい、開放的・・・といった動きが実感でき、それでいて肉体の力とはまた違う大きなチカラを使うことも可能となります。もちろん体格の大小や年齢、性別など肉体的な要素とは比例しないチカラです。なぜそれが可能なのか?それはエネルギー体(意識体)を主として捉え、そこに肉体動作を合わせるような稽古を組み立てている
オンラインで合氣?フェイスブックのプライベートグループ(完全非公開)を使って運営しており、実道場での稽古風景から稽古に必要なカラダ遣いや氣という目には見えないエネルギーを捉えるための感覚の磨き方などを配信しております。YouTubeチャンネルでも稽古風景動画は配信しておりますが、やはりそこは伝える”ニュアンス”が違います。より直接的な表現を用いて氣や合氣、目には見えないエネルギーを捉える感覚の磨き方などを配信しているつもりです。オンライン道場を始めた
氣エネルギーの働きが主、肉体は従。肉体からのノイズに耳を傾けず、意識をよりクリアにしていくことで”エネルギー主体”となり、軽く柔軟な動きが可能となる。是非、遊ぶような感覚で体験してください。ㅤ2024.11.17(日)13:00~ 多田神社政所殿にて申込締切:11/15(金)まで早い段階からお申込みいただいている皆様、誠にありがとうございます。当日会場でお会いできるのを楽しみにしております。合気道天地会 前谷先
私が大東流合気柔術の合気に縁があり、学ぼうと思ったきっかけは「相手を傷めない、自らも傷まない」という教えが基本にあったということ。これが手段を択ばずに相手に勝つこと優位に立つというもの、そしてむやみに強さを誇示するような教えであったならば間違いなくこの道は歩んでいない。そう、そこにサムライスピリットのようなものが流れていると感じたから志したという訳です。以来私は真の強さを持った侍像を求めて今があり、日本人としてのアイデンティティーに益々深く目
氣の感覚(センス)を開く瞑想&呼吸法の体験会2 In関西が開催決定いたしました。今回は合氣道 天地会さんと合同イベント。前回の那珂川 清滝さんも素晴らしい環境でしたが、今回も写真で見る限りですがとても氣持ちよさそうな場所。今からとてもワクワクしています。日時:2024年11月17日(日)13:00~16:00場所:多田神社 政所殿(兵庫県川西市)https://tadajinjya.or.jp/費用:¥7,000対象:一般 18歳以上
霊主体従、体従霊主。合気道の開祖植芝盛平先生はこのような言葉を用いて伝えておられたとか・・・。言葉だけを見ると前者は精神主義、後者は物質主義として安易に捉えられそうですが、私は『肉体ではない働き』を合氣柔術やその他で実体験した後にそのような言葉が存在することを知りました。霊主体従私はこれを『霊主』とは言わず『氣が主』意識体やエネルギー体が主であり、体はそれに素直に従えるように環境を整えることこそが、軽く、快適に動作ができるものとして捉えており
氣の稽古とはエネルギー体と肉体の関係性を整えること身体を整えるから気の流れが良くなるのではなく、理想の氣のナガレに合わせてカラダを整える。無限道場の氣の稽古は組み立てる順番そのものが違うのです。そして自分の不調はなるべく自分自身で癒すというのが氣を高める目的です。
「枠」を超えた氣の世界を表現する。手始めに道着の着用を辞めてみました。ホント、最近色んなことに捉われていた自分に氣づかされます。ドタバタ出来ない環境で精妙な感覚を磨くような稽古ばかりをやっているにも関わらず、重たい道着に身を包み稽古をしている・・・・。もちろん気分的にはビシッと締まりますし良い事ではあるのですが、武術・合氣などの枠を超えた氣を表現する上では特に必要ではない。むしろ通って下さる道場生の皆さんにとっては重い荷物を抱えてくる
-セラピストとは、専門的な知識や技術に基づいて心身を癒したり、治療する人のことを指します。-とありますが・・・。私がやってる氣の武術の稽古って、表面的な肉体感覚だけで成り立つといったものではないんですね。より上達するには、更に深い段階へ進みたければ潜在的な自己と向き合い、流れを妨げている思い込みや癖習慣を取り除いていく作業が必要になってくるのです。それが人によっては苦痛と感じられたり、その場から逃げ出す人も当然おられます。ただ、そこを乗り越え
武術、流派、合氣、そして肉体としての自分。氣の世界ってそんなちっぽけな『枠』には収まらないというか、それを遥かに超えたところで働いてるんですよね。だから私も『枠』を超えた氣の世界を表現する者であり、伝道する者でありたいという思いから、今後は道着を脱いだり合氣という表現を使わなくなったりしていくと思います。『合氣』では早速グーグルの検索順位が下がってるし。今後はどういうキーワードでうちの道場見つけてもらえるんやろう。(笑)皆様変わらずご
とある道場生の方から私の言ってること、やってることが「まるで映画ドクターストレンジで表現されていることのようだ。」と度々言われまして、先日初めてDVDを観て見ました。主人公は不慮の事故によって“神の手”とまで呼ばれた両手の機能を失ってしまった元天才外科医。まあ見事に物質主義者なうえに超傲慢。「何とか元の状態に戻りたい」と自分から助けを求めて後の師匠となる人の元に来たくせに”自分が受け入れられない”という理由で魂など目には見えない世界を拒む。そんな主人公に後の
私が無限道場で合氣を伝える原動力となった経験について。大東流合気柔術に入門したのが1996年ですから約3年が経った頃、一人の霊能者の方と縁があり、「氣の研究に繋がる」という思いからその後3年間という期限の約束でスタッフとして働かせてもらい、様々な修行を行ったことがあるのですね。癒しのサロンという形でしたが経営者の方から新米ママさんなど様々な目的で相談に来られるのですが、健康な方ばかりが来られる訳ではなく、中には目には見えない働きの影響で苦しむ方々のカウンセリ
個人的にはこの3月、とても大きな変化を感じるひと月となりました。発熱、体調不良、自分でも全く想像していなかったようなことが実は大きな詰りを生んでいたのだと氣づかされたり・・・。しかし過去を振り返ってみると数年前から今に繋がる兆候はあっていたんですよね。それをあまりにも自分の感情を無視し続けたというか観えないふりをしていたので今回は強制的に自分自身から修正させられたというような感じがします。なんだろうたった一点に氣づかされたこと