日本人として日本の土地に生まれたものの少年時代は欧米の音楽や文化が輝いて見え、かぶれた時期もありましたが、20代後半になって日本の武術(合気道・大東流合気柔術)を学び始めたことをきっかけに『日本人として』のアイデンティティが大きく揺さぶられたように思います。学校では歴史の時間はただ寝ているだけで、何の興味もなかったぼんくら少年が時代小説にはまり、侍や幕末の志士たちに大きな感銘を受け、自分が日本人であるということ、そして日本の文
無限道場 mugendojo 道場長 竹内 研二のブログ
『自分』という枠を超える。武術・合氣・そして肉体としての自分。そんな『枠』を超えた氣の世界を表現したいという思いで活動しています。
日本人として日本の土地に生まれたものの少年時代は欧米の音楽や文化が輝いて見え、かぶれた時期もありましたが、20代後半になって日本の武術(合気道・大東流合気柔術)を学び始めたことをきっかけに『日本人として』のアイデンティティが大きく揺さぶられたように思います。学校では歴史の時間はただ寝ているだけで、何の興味もなかったぼんくら少年が時代小説にはまり、侍や幕末の志士たちに大きな感銘を受け、自分が日本人であるということ、そして日本の文
無駄な力みを根本的に解消肩肘に無駄な力が入って力む肩肘の無駄な力み「肩の力を抜いてリラックス」というのが一般的だと思いますが、無駄な力み=力を抜くでは根本的な解消には繋がらないように思います。 日頃の合氣の稽古を通じて感じることは、力みの原因は”活かすべきところを活かしていない”からの歪み。チカラというエネルギーの澱みや詰りによって起きることであると個人的には思っています。 この場合は「胸」姿勢(足腰から)をしっかり活かすことで”結果
合氣 氣 エネルギー。目に見えない働きをどのように捉えて稽古を組み立てるか?私はシンプルに見えないものは「見えないもの」として捉えて、それを観る目線、感じる感覚を養うことに努めています。経験上「頭で理屈を理解したい」人って結構多いんですが、可視化された世界、物質的なものにいちいち置き換えてしまうと余計にこじれてしまう事って多いんですよね。そしてその作業は過去の思い込み、刷り込みとリンクさせる事に繋がるような感じがします。見えないものは「見えな
日本に生まれこの地で育まれた感覚を通して氣エネルギーを感じる。我々には自分の氣づいていない感覚がまだまだ眠っている。共に目覚めていこう。侍の美学を心に。
日時:2025年2月2日(日)節分場所:福岡市博多区綱場町 陽の森(hinata-no-mori)おかげさまでそこまで寒くもなく時折晴れ間が見えるような天候に恵まれました。今回は初の都市部での開催。大博通りというJR博多駅前に繋がる大きな道路沿いのビル9Fなのですが、喧騒感を全く感じさせないとっても静かで落ち着いた空間。そして少人数での開催となったため、じっくりと丁寧に稽古できる時間となりました。肉体を重視した呼吸、動作と氣エネルギー
私がやっていること日本の武術に触れ、そこで求められる所作や侍の美意識のようなものに日本の文化を観る。そしてそこに誇りや喜びを感じる瞬間「あぁ俺は日本人なんだなぁ」と再認識させられる。また、氣の稽古を重ねるにつれ自分の本質は肉体ではなく意識体(エネルギー体)であることを痛感させられる。なんでしょうねぇその誇りや喜びそして言葉や形で表わし辛い氣の感覚をお伝えしているのです。
私たちが稽古している「氣」の感覚。特に優れた人、選ばれた人だけの特殊能力でもなんでもないんですよね。ただ、文明の進化発展により我々人類がより便利なモノ、手軽で素早くより効率的なノウハウに意識を向けてしまうこと、そちらに流されることで本来の能力が眠ってしまっている。そんな感じがします。以前から私の中にはずっと離れないイメージがあってそれは機械と人間が生存をかけて戦うターミネーターの世界。何でしょうねぇ、実際にターミネーターと戦うような現
どれだけ波動の高い氣を取り入れても、十分に発することが出来る「出口」が整っていなければ氣は詰り、流れが滞るのだと私は感じます。氣というエネルギーを十分に発するためにはカラダを十分に開放/解放すること。その過程においては以前にも増して詰まったような感覚が出ることもあります。それは「開く」という言葉で判断して誰もが誤った開き方「肉体の感覚」優先で体を開こうとするから。しかしそれは避けては通れない道であると私は思っています。遠回りのようにも感じます
氣を高める、氣の流れを良くする。一般的には心地よい自然のなかで深呼吸や瞑想をしたり、ゆったりとリラクゼーションなどなどがイメージされることと思います。それはそれで素晴らしいのですが、あくまでそれは個人レベルでやれること。私たちの稽古は合氣柔術のカラダ作りがベースであり、その目的もまた少し違います。それは「自他ともに心地よい」というのが基準。技を受ける側、掛ける側双方にとって心地の良い状態を求めた稽古なのです。個人レベルでリラックスした
無限道場で行っている氣の稽古それを一言で表すならば「自己浄化」でしょうね。それは自分自身がそれを体験すること、続けることで益々カラダが軽くなり、そして楽に動けるようになっていったから。合氣柔術という武術の稽古をベースに置いているというのもあって、摩訶不思議な技を身に付けるため、神通力のような特殊能力を身に付ける・・・肉体の技術を高めることを稽古の目的にしていると思われるかもしれませんが、私がやっていること、そして皆さんにお伝えしていることは自分の無駄
体の語源・由来体は「殻(から)」に接続語「だ」が付いた語。古くは、魂に対してそれを宿している身体、生命のこもらない肉体を「からだ」と言い、魂を宿した肉体は「身(み)」と言った。つまり、身の外形部分が「体」であった。平安時代には、セミが脱皮した後の抜け殻や死体などの意味で用いられ、いわゆる「亡骸(なきがら)」を指していた。 ※語源由来辞典よりhttps://twitter.com/mugen_dojo/status/1
氣の稽古とはなにか?私たちの稽古は合氣柔術がベースのカラダ作り、護身の感覚を磨くための稽古、トレーニングなのですが、そこで求める『氣』というものは摩訶不思議な術を使うことや他者に勝つことを目的とした技術でもありません。何だか厳しい修行の上に身に付く特別な能力や感覚とも思われがちですが、私自身そんな過酷な稽古をやっている訳でもありません。ではどのようなものなのか?一言で言えば真の自分自身を開放する(解放)ということ。「その作業は過酷で自
2024.11.17(日)多田神社(兵庫県川西市)にて。厳しい冷え込みもなく、雨にも見舞われず本当に丁度良い心地よさを感じられる気温でした。上の写真は午後から皆様をお迎えする前にこの場所の心地よいエネルギーを独り占めの状態です。場所は多田神社 政所殿。季節ごとの心地よさが味わえそうなところです。イベントスタート合氣 天地会 前谷先生との合同イベント。想像以上の方々にお集りいただきました。
面白きこともなき世を面白く すみなすものは心なりけり有名な高杉晋作の辞世の句ですよね。今まで何度も事あるごとに目にして、耳にしてきた言葉なのですが、この歳になってようやく沁みてきたと感じ入る今日この頃でございます。(私の人生のテーマであるように感じます)私がお伝えしたいのは日々の稽古もこれと同じことであり、同じことの繰り返しであれば面白くない。それを視点を変え、その場の空氣感や音をいかに聞こうとするかによって”観えかた”や”感じ方”と
肉体の物質的な感覚優位からエネルギー体(意識体)優位のカラダ遣いへ私たちの稽古目的はズバリこれです。結論から言いますと、軽い、早い、動き易い、柔らかい、開放的・・・といった動きが実感でき、それでいて肉体の力とはまた違う大きなチカラを使うことも可能となります。もちろん体格の大小や年齢、性別など肉体的な要素とは比例しないチカラです。なぜそれが可能なのか?それはエネルギー体(意識体)を主として捉え、そこに肉体動作を合わせるような稽古を組み立てている
オンラインで合氣?フェイスブックのプライベートグループ(完全非公開)を使って運営しており、実道場での稽古風景から稽古に必要なカラダ遣いや氣という目には見えないエネルギーを捉えるための感覚の磨き方などを配信しております。YouTubeチャンネルでも稽古風景動画は配信しておりますが、やはりそこは伝える”ニュアンス”が違います。より直接的な表現を用いて氣や合氣、目には見えないエネルギーを捉える感覚の磨き方などを配信しているつもりです。オンライン道場を始めた
氣エネルギーの働きが主、肉体は従。肉体からのノイズに耳を傾けず、意識をよりクリアにしていくことで”エネルギー主体”となり、軽く柔軟な動きが可能となる。是非、遊ぶような感覚で体験してください。ㅤ2024.11.17(日)13:00~ 多田神社政所殿にて申込締切:11/15(金)まで早い段階からお申込みいただいている皆様、誠にありがとうございます。当日会場でお会いできるのを楽しみにしております。合気道天地会 前谷先
私がお伝えしているのは【Ki:キ】であって【Qi:チー】ではありません
私が大東流合気柔術の合気に縁があり、学ぼうと思ったきっかけは「相手を傷めない、自らも傷まない」という教えが基本にあったということ。これが手段を択ばずに相手に勝つこと優位に立つというもの、そしてむやみに強さを誇示するような教えであったならば間違いなくこの道は歩んでいない。そう、そこにサムライスピリットのようなものが流れていると感じたから志したという訳です。以来私は真の強さを持った侍像を求めて今があり、日本人としてのアイデンティティーに益々深く目
氣の感覚(センス)を開く瞑想&呼吸法の体験会2 In関西が開催決定いたしました。今回は合氣道 天地会さんと合同イベント。前回の那珂川 清滝さんも素晴らしい環境でしたが、今回も写真で見る限りですがとても氣持ちよさそうな場所。今からとてもワクワクしています。日時:2024年11月17日(日)13:00~16:00場所:多田神社 政所殿(兵庫県川西市)https://tadajinjya.or.jp/費用:¥7,000対象:一般 18歳以上
霊主体従、体従霊主。合気道の開祖植芝盛平先生はこのような言葉を用いて伝えておられたとか・・・。言葉だけを見ると前者は精神主義、後者は物質主義として安易に捉えられそうですが、私は『肉体ではない働き』を合氣柔術やその他で実体験した後にそのような言葉が存在することを知りました。霊主体従私はこれを『霊主』とは言わず『氣が主』意識体やエネルギー体が主であり、体はそれに素直に従えるように環境を整えることこそが、軽く、快適に動作ができるものとして捉えており
2024年8月18日(日)源泉野天風呂 那珂川清滝 レンタルスペース南天【氣の感覚(センス)を開く瞑想&呼吸法体験会】昨日無事終了いたしました。ご参加いただいた皆様、猛暑のなか本当にありがとうございました。このようなイベントを通して皆様と出会い、貴重な体験をお聞きすることで逆に私自身学ばせていただくところが多かったです。終了後の食事会を含め、あっという間の時間でございました。次回また
2024年8月18日(日)源泉野天風呂 那珂川清滝 レンタルスペース南天【氣の感覚(センス)を開く瞑想&呼吸法体験会】昨日無事終了いたしました。ご参加いただいた皆様、猛暑のなか本当にありがとうございました。このようなイベントを通して皆様と出会い、貴重な体験をお聞きすることで逆に私自身学ばせていただくところが多かったです。終了後の食事会を含め、あっという間の時間でございました。次回また
2024年8月18日(日)源泉野天風呂 那珂川清滝 レンタルスペース南天【氣の感覚(センス)を開く瞑想&呼吸法体験会】昨日無事終了いたしました。ご参加いただいた皆様、猛暑のなか本当にありがとうございました。このようなイベントを通して皆様と出会い、貴重な体験をお聞きすることで逆に私自身学ばせていただくところが多かったです。終了後の食事会を含め、あっという間の時間でございました。次回また
今年の6月から道着を着なくなったので、それに代わる私の制服?を作ってみました。道着は重たかったですが氣が引き締まる感じが得られる。それに対して今は何を着てもOKとした訳ですから色々と楽しんでみようかと思いましてね。オリジナルグッズを作るというのは楽しいですね。冬場はまたトレーナーなどを作ってみようかと・・・。
氣の稽古とはエネルギー体と肉体の関係性を整えること身体を整えるから気の流れが良くなるのではなく、理想の氣のナガレに合わせてカラダを整える。無限道場の氣の稽古は組み立てる順番そのものが違うのです。そして自分の不調はなるべく自分自身で癒すというのが氣を高める目的です。
「枠」を超えた氣の世界を表現する。手始めに道着の着用を辞めてみました。ホント、最近色んなことに捉われていた自分に氣づかされます。ドタバタ出来ない環境で精妙な感覚を磨くような稽古ばかりをやっているにも関わらず、重たい道着に身を包み稽古をしている・・・・。もちろん気分的にはビシッと締まりますし良い事ではあるのですが、武術・合氣などの枠を超えた氣を表現する上では特に必要ではない。むしろ通って下さる道場生の皆さんにとっては重い荷物を抱えてくる
-セラピストとは、専門的な知識や技術に基づいて心身を癒したり、治療する人のことを指します。-とありますが・・・。私がやってる氣の武術の稽古って、表面的な肉体感覚だけで成り立つといったものではないんですね。より上達するには、更に深い段階へ進みたければ潜在的な自己と向き合い、流れを妨げている思い込みや癖習慣を取り除いていく作業が必要になってくるのです。それが人によっては苦痛と感じられたり、その場から逃げ出す人も当然おられます。ただ、そこを乗り越え
『枠』を超えた氣の世界を表現する者であり、伝道する者でありたい
武術、流派、合氣、そして肉体としての自分。氣の世界ってそんなちっぽけな『枠』には収まらないというか、それを遥かに超えたところで働いてるんですよね。だから私も『枠』を超えた氣の世界を表現する者であり、伝道する者でありたいという思いから、今後は道着を脱いだり合氣という表現を使わなくなったりしていくと思います。『合氣』では早速グーグルの検索順位が下がってるし。今後はどういうキーワードでうちの道場見つけてもらえるんやろう。(笑)皆様変わらずご
とある道場生の方から私の言ってること、やってることが「まるで映画ドクターストレンジで表現されていることのようだ。」と度々言われまして、先日初めてDVDを観て見ました。主人公は不慮の事故によって“神の手”とまで呼ばれた両手の機能を失ってしまった元天才外科医。まあ見事に物質主義者なうえに超傲慢。「何とか元の状態に戻りたい」と自分から助けを求めて後の師匠となる人の元に来たくせに”自分が受け入れられない”という理由で魂など目には見えない世界を拒む。そんな主人公に後の
30代前半の私、様々な不思議体験から『真の強さ』の重要性を強く実感させられ現在に至る。
私が無限道場で合氣を伝える原動力となった経験について。大東流合気柔術に入門したのが1996年ですから約3年が経った頃、一人の霊能者の方と縁があり、「氣の研究に繋がる」という思いからその後3年間という期限の約束でスタッフとして働かせてもらい、様々な修行を行ったことがあるのですね。癒しのサロンという形でしたが経営者の方から新米ママさんなど様々な目的で相談に来られるのですが、健康な方ばかりが来られる訳ではなく、中には目には見えない働きの影響で苦しむ方々のカウンセリ
個人的にはこの3月、とても大きな変化を感じるひと月となりました。発熱、体調不良、自分でも全く想像していなかったようなことが実は大きな詰りを生んでいたのだと氣づかされたり・・・。しかし過去を振り返ってみると数年前から今に繋がる兆候はあっていたんですよね。それをあまりにも自分の感情を無視し続けたというか観えないふりをしていたので今回は強制的に自分自身から修正させられたというような感じがします。なんだろうたった一点に氣づかされたこと
武道・武術の理にも色々あって円や螺旋の動き、脱力や緩み、〇〇抜きなど・・・結局その人にあったもの、縁のあるものに惹かれていくのだと思いますが、私にとってはそれが「真っ直ぐ」であり「シンプル」であること。それがカラダにとっても心にとっても心地よくて、益々ドはまりしていってるという状態ですね。ましてや自分だけでなく受けを取ってくれる相手までもが心地よいとくれば、これ以上のことはない訳です。真っ直ぐは角があってぶつかる、円い動きは角がなくてぶつから
wikiにもそう紹介されていますし、私自身も相手の攻撃を無力化し制する技、相手の力を奪い取る技として学んできましたが・・・。大東流を離れ、合氣を活人術に振り切ってしまった現在ではその逆の側面「相手に何を与えるか」ということに意識を置くようにしています。一事が万事といいますしね。日頃から何を思い、どう行動しているかが自分を造っていると思いますので、人から何かを奪うことを習慣づけしたような人生は歩みたくありませんのでね。
https://youtu.be/nZo6QIBKxZY?si=TtDUHhCVT6Ixt_eF一点突破型の稽古方法です。無限道場で稽古している基本技はあまり多くありません。道場生にいわせれば「いつも同じ稽古ばかりやないか」という声が聞こえてきそうなぐらい少ないです。鬼滅の刃の登場人物『我妻善逸』のように一つの呼吸をやり続けて、そこから何度も突き抜けていくような経験を重ねて感覚を得ていくような稽古方法だと捉えていただければ
赤に白抜きで「ム」のマーク。2009年5月に無限道場を名乗りだしたころからずっと共に歩んでおります。以前から私が新撰組に何故か惹かれるというのもあって隊旗をモチーフにさせてもらったのですが、その当時は感覚的に赤、そして白抜き、カタカナという感じでデザインしたもの。今となって思うことは、それ以来ずっとこのマークの持つ意味のようなものに影響を受けながら?合氣の道を歩み続けているように思います。【赤心】赤の持つ意味はコトバンクにこうあ
それは丁寧で精妙な動作と相手への入り方であると思います。病院で採血された経験がおありの方は分かると思いますが、上手な看護師さんは痛みも感じず、傷あとも残りにくい。それに対して下手な看護師さんのは痛いし、下手すれば内出血するような傷あとが残る。つまりは看護師さんの上手い下手は脱力云々ではないという事。合氣も同じ私はそう思います。道場長 竹内 研二
合気柔術の誤変換ではありません。Aiki-jiyu-jutsuです。何者にも自由を侵されないための術であり、そのために自己を開放/解放し氣(エネルギー)を高めることを稽古の目的としています。なんでしょう、この感覚。ずっと自分がやってること、そして伝えたい思いがあるのに、どうしてもそれを上手く伝える言葉が見つからない、しっくりくる表現が思い当たらない・・・。2021年5月、とにかく色んなものに縛られるのが嫌。どうしてもこの時期に決断すべ
合気柔術の誤変換ではありません。Aiki-jiyu-jutsuです。何者にも自由を侵されないための術であり、そのために自己を開放/解放し氣(エネルギー)を高めることを稽古の目的としています。なんでしょう、この感覚。ずっと自分がやってること、そして伝えたい思いがあるのに、どうしてもそれを上手く伝える言葉が見つからない、しっくりくる表現が思い当たらない・・・。2021年5月、とにかく色んなものに縛られるのが嫌。どうしてもこの時期に決断すべ
伝わる伝わらないこの一線について。旧約聖書 創世記には「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。」とあります。※詳しくは創世記 第21章をお読みください。つまり神によって目を開かれない限り、ハガルは井戸を見つけることが出来なかったと解釈できると思います。私は氣や合氣の感覚も同じだと思っているのです。目には観えない存在に与えられる、氣付かされることで得られるもの。であるならば、
私自身”他者に勝つための強さ”を求めていないこともあって、道場では守り重視、自らは積極的に攻撃しないという姿勢の合氣をお伝えしております。ですので「攻撃を仕掛けてきた相手に対してわざわざ自分のエネルギーを消費したくない。」というのが本音であり、「出来るならば勝手に自滅して欲しい。」というのが理想ですね。だって自分には全く攻撃する意思がないというのが大前提ですからね。なので稽古は相手の力、あくまで他力を使ってその場を収め
昨今巷には色んな合気が溢れておりますが、私たちの求める合氣には脱力や緩みの要素はありません。それは何故か?脱力・緩みは以下に例えるような身体の使い方と同質であると思うからです。現代ではまず放映出来ないと思いますが、昭和~平成初期頃までは世界の様々な「びっくり人間」を特集したような番組があったのです。その中でこのような方がおられたのを記憶しています。自分の大きな胸でスイカを割る女性どこの国の方か知りません
昨今巷には色んな合気が溢れていますが・・・どれが本物、偽物というより私的には「肉の体術による合気」と「氣の体術による合氣」という風に分類できるように思っています。両者は似て非なるものであり、発想と原理そのものが全く違うとも感じています。あとは個人の好みの問題でしょうね。それとそこに縁があるかどうかです。5/20(土)19:00~YouTubeで動画公開予定です。https://youtu.be/fbP9
本日5月8日、おかげさまで完全独立からまる2年を迎えました。支えて下さった皆様方、誠にありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。船出は2021年コロナ禍の中でした。市民体育館など公共施設を利用していた我々にとって稽古場所の確保は本当に難儀していました。そんな中「思い切って稽古場所を借りよう」と思い立ったは良いものの、今度は予算内で思うような場所が中々見つからない。「ここが良い」と思った物件の空きを半年近く待って、
写真は何をやってるかというと『ただの呼吸』です。地面からの抗力に従い真っ直ぐに立ち、そのエネルギーを伝える媒体に徹しているだけ。その中で掌を大きく開き”ただ呼吸をしているだけ”なのです。毎日毎日飽きもせず、目には見えないモノと向き合い、その中で観えてくるモノ、そして身に付いた感覚を表現した結果、技となったような感じです。つまり目には見えないモノの働きを軸にしてそれに自分を合わせた結果ということです。カラダに氣が満ち溢れれば当然姿勢よく
人として生まれ、人として生涯を活きるこれ私の目標であり、無限道場でお伝えしていることです。つまり人が生まれながらにして持っている感覚や能力を十分に活かしながら人生を生きていきたいという事です。「なぁんだそんな当たり前の事か」そう思われるかもしれませんが、便利な生活にどっぷり浸かってる人確実に感覚が鈍くなっていますよ。これなんでしょうねぇいつも”人の氣”という目には観えないモノと接する仕事柄ですかね、何とも言えな
スターウォーズで表現されるフォースのライトサイドとダークサイド。我々が学んでいる氣の世界もこれと同じようなことが言えると思います。※私自身そこまでスターウォーズには詳しくありませんので氣になる方はこちらで。スターウォーズwikiでは何がそれを分ける線引きとなるのか?私たちは合氣の稽古で常に氣という存在に触れていますが、経験を重ねる程観えてくるものがあり、感じてくるものがあるのです。自分が感じた以上に相手が軽く崩れてみたり、思っ
動画を配信していると「弟子にしか通じない技」というご意見をよく頂きます。もちろん全世界には80億人もの人が居る訳で全ての方に通じるとは思っておりません。実際に道場生の中にも効きやすい人、そうでない人が居るのも事実。そこは「条件付き」であるとお答えさせていただいております。ではその”条件”とは何か?結論を先に言えば1.弟子だから、演武だから容易に間合いを詰めさせているということ。私たちの基本姿勢は「後の先」であり、相手が攻撃を仕掛けてき
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日本人として日本の土地に生まれたものの少年時代は欧米の音楽や文化が輝いて見え、かぶれた時期もありましたが、20代後半になって日本の武術(合気道・大東流合気柔術)を学び始めたことをきっかけに『日本人として』のアイデンティティが大きく揺さぶられたように思います。学校では歴史の時間はただ寝ているだけで、何の興味もなかったぼんくら少年が時代小説にはまり、侍や幕末の志士たちに大きな感銘を受け、自分が日本人であるということ、そして日本の文
無駄な力みを根本的に解消肩肘に無駄な力が入って力む肩肘の無駄な力み「肩の力を抜いてリラックス」というのが一般的だと思いますが、無駄な力み=力を抜くでは根本的な解消には繋がらないように思います。 日頃の合氣の稽古を通じて感じることは、力みの原因は”活かすべきところを活かしていない”からの歪み。チカラというエネルギーの澱みや詰りによって起きることであると個人的には思っています。 この場合は「胸」姿勢(足腰から)をしっかり活かすことで”結果
合氣 氣 エネルギー。目に見えない働きをどのように捉えて稽古を組み立てるか?私はシンプルに見えないものは「見えないもの」として捉えて、それを観る目線、感じる感覚を養うことに努めています。経験上「頭で理屈を理解したい」人って結構多いんですが、可視化された世界、物質的なものにいちいち置き換えてしまうと余計にこじれてしまう事って多いんですよね。そしてその作業は過去の思い込み、刷り込みとリンクさせる事に繋がるような感じがします。見えないものは「見えな
日本に生まれこの地で育まれた感覚を通して氣エネルギーを感じる。我々には自分の氣づいていない感覚がまだまだ眠っている。共に目覚めていこう。侍の美学を心に。
日時:2025年2月2日(日)節分場所:福岡市博多区綱場町 陽の森(hinata-no-mori)おかげさまでそこまで寒くもなく時折晴れ間が見えるような天候に恵まれました。今回は初の都市部での開催。大博通りというJR博多駅前に繋がる大きな道路沿いのビル9Fなのですが、喧騒感を全く感じさせないとっても静かで落ち着いた空間。そして少人数での開催となったため、じっくりと丁寧に稽古できる時間となりました。肉体を重視した呼吸、動作と氣エネルギー
私がやっていること日本の武術に触れ、そこで求められる所作や侍の美意識のようなものに日本の文化を観る。そしてそこに誇りや喜びを感じる瞬間「あぁ俺は日本人なんだなぁ」と再認識させられる。また、氣の稽古を重ねるにつれ自分の本質は肉体ではなく意識体(エネルギー体)であることを痛感させられる。なんでしょうねぇその誇りや喜びそして言葉や形で表わし辛い氣の感覚をお伝えしているのです。
私たちが稽古している「氣」の感覚。特に優れた人、選ばれた人だけの特殊能力でもなんでもないんですよね。ただ、文明の進化発展により我々人類がより便利なモノ、手軽で素早くより効率的なノウハウに意識を向けてしまうこと、そちらに流されることで本来の能力が眠ってしまっている。そんな感じがします。以前から私の中にはずっと離れないイメージがあってそれは機械と人間が生存をかけて戦うターミネーターの世界。何でしょうねぇ、実際にターミネーターと戦うような現
どれだけ波動の高い氣を取り入れても、十分に発することが出来る「出口」が整っていなければ氣は詰り、流れが滞るのだと私は感じます。氣というエネルギーを十分に発するためにはカラダを十分に開放/解放すること。その過程においては以前にも増して詰まったような感覚が出ることもあります。それは「開く」という言葉で判断して誰もが誤った開き方「肉体の感覚」優先で体を開こうとするから。しかしそれは避けては通れない道であると私は思っています。遠回りのようにも感じます
氣を高める、氣の流れを良くする。一般的には心地よい自然のなかで深呼吸や瞑想をしたり、ゆったりとリラクゼーションなどなどがイメージされることと思います。それはそれで素晴らしいのですが、あくまでそれは個人レベルでやれること。私たちの稽古は合氣柔術のカラダ作りがベースであり、その目的もまた少し違います。それは「自他ともに心地よい」というのが基準。技を受ける側、掛ける側双方にとって心地の良い状態を求めた稽古なのです。個人レベルでリラックスした
無限道場で行っている氣の稽古それを一言で表すならば「自己浄化」でしょうね。それは自分自身がそれを体験すること、続けることで益々カラダが軽くなり、そして楽に動けるようになっていったから。合氣柔術という武術の稽古をベースに置いているというのもあって、摩訶不思議な技を身に付けるため、神通力のような特殊能力を身に付ける・・・肉体の技術を高めることを稽古の目的にしていると思われるかもしれませんが、私がやっていること、そして皆さんにお伝えしていることは自分の無駄
体の語源・由来体は「殻(から)」に接続語「だ」が付いた語。古くは、魂に対してそれを宿している身体、生命のこもらない肉体を「からだ」と言い、魂を宿した肉体は「身(み)」と言った。つまり、身の外形部分が「体」であった。平安時代には、セミが脱皮した後の抜け殻や死体などの意味で用いられ、いわゆる「亡骸(なきがら)」を指していた。 ※語源由来辞典よりhttps://twitter.com/mugen_dojo/status/1
氣の稽古とはなにか?私たちの稽古は合氣柔術がベースのカラダ作り、護身の感覚を磨くための稽古、トレーニングなのですが、そこで求める『氣』というものは摩訶不思議な術を使うことや他者に勝つことを目的とした技術でもありません。何だか厳しい修行の上に身に付く特別な能力や感覚とも思われがちですが、私自身そんな過酷な稽古をやっている訳でもありません。ではどのようなものなのか?一言で言えば真の自分自身を開放する(解放)ということ。「その作業は過酷で自
2024.11.17(日)多田神社(兵庫県川西市)にて。厳しい冷え込みもなく、雨にも見舞われず本当に丁度良い心地よさを感じられる気温でした。上の写真は午後から皆様をお迎えする前にこの場所の心地よいエネルギーを独り占めの状態です。場所は多田神社 政所殿。季節ごとの心地よさが味わえそうなところです。イベントスタート合氣 天地会 前谷先生との合同イベント。想像以上の方々にお集りいただきました。
面白きこともなき世を面白く すみなすものは心なりけり有名な高杉晋作の辞世の句ですよね。今まで何度も事あるごとに目にして、耳にしてきた言葉なのですが、この歳になってようやく沁みてきたと感じ入る今日この頃でございます。(私の人生のテーマであるように感じます)私がお伝えしたいのは日々の稽古もこれと同じことであり、同じことの繰り返しであれば面白くない。それを視点を変え、その場の空氣感や音をいかに聞こうとするかによって”観えかた”や”感じ方”と
肉体の物質的な感覚優位からエネルギー体(意識体)優位のカラダ遣いへ私たちの稽古目的はズバリこれです。結論から言いますと、軽い、早い、動き易い、柔らかい、開放的・・・といった動きが実感でき、それでいて肉体の力とはまた違う大きなチカラを使うことも可能となります。もちろん体格の大小や年齢、性別など肉体的な要素とは比例しないチカラです。なぜそれが可能なのか?それはエネルギー体(意識体)を主として捉え、そこに肉体動作を合わせるような稽古を組み立てている
オンラインで合氣?フェイスブックのプライベートグループ(完全非公開)を使って運営しており、実道場での稽古風景から稽古に必要なカラダ遣いや氣という目には見えないエネルギーを捉えるための感覚の磨き方などを配信しております。YouTubeチャンネルでも稽古風景動画は配信しておりますが、やはりそこは伝える”ニュアンス”が違います。より直接的な表現を用いて氣や合氣、目には見えないエネルギーを捉える感覚の磨き方などを配信しているつもりです。オンライン道場を始めた
氣エネルギーの働きが主、肉体は従。肉体からのノイズに耳を傾けず、意識をよりクリアにしていくことで”エネルギー主体”となり、軽く柔軟な動きが可能となる。是非、遊ぶような感覚で体験してください。ㅤ2024.11.17(日)13:00~ 多田神社政所殿にて申込締切:11/15(金)まで早い段階からお申込みいただいている皆様、誠にありがとうございます。当日会場でお会いできるのを楽しみにしております。合気道天地会 前谷先
私が大東流合気柔術の合気に縁があり、学ぼうと思ったきっかけは「相手を傷めない、自らも傷まない」という教えが基本にあったということ。これが手段を択ばずに相手に勝つこと優位に立つというもの、そしてむやみに強さを誇示するような教えであったならば間違いなくこの道は歩んでいない。そう、そこにサムライスピリットのようなものが流れていると感じたから志したという訳です。以来私は真の強さを持った侍像を求めて今があり、日本人としてのアイデンティティーに益々深く目
氣の感覚(センス)を開く瞑想&呼吸法の体験会2 In関西が開催決定いたしました。今回は合氣道 天地会さんと合同イベント。前回の那珂川 清滝さんも素晴らしい環境でしたが、今回も写真で見る限りですがとても氣持ちよさそうな場所。今からとてもワクワクしています。日時:2024年11月17日(日)13:00~16:00場所:多田神社 政所殿(兵庫県川西市)https://tadajinjya.or.jp/費用:¥7,000対象:一般 18歳以上
霊主体従、体従霊主。合気道の開祖植芝盛平先生はこのような言葉を用いて伝えておられたとか・・・。言葉だけを見ると前者は精神主義、後者は物質主義として安易に捉えられそうですが、私は『肉体ではない働き』を合氣柔術やその他で実体験した後にそのような言葉が存在することを知りました。霊主体従私はこれを『霊主』とは言わず『氣が主』意識体やエネルギー体が主であり、体はそれに素直に従えるように環境を整えることこそが、軽く、快適に動作ができるものとして捉えており
氣の稽古とはエネルギー体と肉体の関係性を整えること身体を整えるから気の流れが良くなるのではなく、理想の氣のナガレに合わせてカラダを整える。無限道場の氣の稽古は組み立てる順番そのものが違うのです。そして自分の不調はなるべく自分自身で癒すというのが氣を高める目的です。
「枠」を超えた氣の世界を表現する。手始めに道着の着用を辞めてみました。ホント、最近色んなことに捉われていた自分に氣づかされます。ドタバタ出来ない環境で精妙な感覚を磨くような稽古ばかりをやっているにも関わらず、重たい道着に身を包み稽古をしている・・・・。もちろん気分的にはビシッと締まりますし良い事ではあるのですが、武術・合氣などの枠を超えた氣を表現する上では特に必要ではない。むしろ通って下さる道場生の皆さんにとっては重い荷物を抱えてくる
-セラピストとは、専門的な知識や技術に基づいて心身を癒したり、治療する人のことを指します。-とありますが・・・。私がやってる氣の武術の稽古って、表面的な肉体感覚だけで成り立つといったものではないんですね。より上達するには、更に深い段階へ進みたければ潜在的な自己と向き合い、流れを妨げている思い込みや癖習慣を取り除いていく作業が必要になってくるのです。それが人によっては苦痛と感じられたり、その場から逃げ出す人も当然おられます。ただ、そこを乗り越え
武術、流派、合氣、そして肉体としての自分。氣の世界ってそんなちっぽけな『枠』には収まらないというか、それを遥かに超えたところで働いてるんですよね。だから私も『枠』を超えた氣の世界を表現する者であり、伝道する者でありたいという思いから、今後は道着を脱いだり合氣という表現を使わなくなったりしていくと思います。『合氣』では早速グーグルの検索順位が下がってるし。今後はどういうキーワードでうちの道場見つけてもらえるんやろう。(笑)皆様変わらずご
とある道場生の方から私の言ってること、やってることが「まるで映画ドクターストレンジで表現されていることのようだ。」と度々言われまして、先日初めてDVDを観て見ました。主人公は不慮の事故によって“神の手”とまで呼ばれた両手の機能を失ってしまった元天才外科医。まあ見事に物質主義者なうえに超傲慢。「何とか元の状態に戻りたい」と自分から助けを求めて後の師匠となる人の元に来たくせに”自分が受け入れられない”という理由で魂など目には見えない世界を拒む。そんな主人公に後の
私が無限道場で合氣を伝える原動力となった経験について。大東流合気柔術に入門したのが1996年ですから約3年が経った頃、一人の霊能者の方と縁があり、「氣の研究に繋がる」という思いからその後3年間という期限の約束でスタッフとして働かせてもらい、様々な修行を行ったことがあるのですね。癒しのサロンという形でしたが経営者の方から新米ママさんなど様々な目的で相談に来られるのですが、健康な方ばかりが来られる訳ではなく、中には目には見えない働きの影響で苦しむ方々のカウンセリ
個人的にはこの3月、とても大きな変化を感じるひと月となりました。発熱、体調不良、自分でも全く想像していなかったようなことが実は大きな詰りを生んでいたのだと氣づかされたり・・・。しかし過去を振り返ってみると数年前から今に繋がる兆候はあっていたんですよね。それをあまりにも自分の感情を無視し続けたというか観えないふりをしていたので今回は強制的に自分自身から修正させられたというような感じがします。なんだろうたった一点に氣づかされたこと