[北魏:神亀二年 梁:天監十八年]┃称詔 春、正月、甲申(4日)、梁が領軍将軍の鄱陽王恢⑴を使持節・散騎常侍・都督荊湘雍梁益寧南北秦八州諸軍事・征西将軍・開府…
588年(3) 楊素、水戦を制して江神と称され 後主、天塹を信じて詩酒に耽る
[隋:開皇八年 陳:禎明二年]┃親餞 11月、丁卯(2日)、隋の文帝⑴が自ら伐陳軍を見送りに出た。 また、陳の後主⑵の身柄に上柱国・万戸公の懸賞を懸けた。 壬…
588年(2)大軍隋を発って 五十一万、晋王の節度を受け 精兵江に臨んで 旌旗舟楫、数千里に亘る
[隋:開皇八年 陳:禎明二年]┃壮行の宴 9月、丁丑(11日)、隋の文帝⑴が南征に参加する諸将を集めて宴会を開き、差をつけて下賜を行なった。 癸巳(27日)、…
『周書:斉王憲伝(3) 〜晋公護の死と武帝の警戒〜』『周書:斉王憲伝(1) 〜勇敢なる駁馬将軍〜』[544(545?)~578]┃原州で育つ 斉煬王憲は字を…
『周書:斉王憲伝(1) 〜勇敢なる駁馬将軍〜』[544(545?)~578]┃原州で育つ 斉煬王憲は字を毗賀突といい、宇文泰⑴の第五子である。母は達步干妃(柔…
┃重用 天和三年(568)、夏、4月、辛巳(17日)、北周が雍州牧の斉公憲を大司馬・治小冢宰とした。雍州牧はそのままとした。 憲は〔北周の権臣の〕晋公護から信…
588年(1) 神龍騰躍して 隋文、伐陳の詔を下し 災異相継ぐも 後主、大いに酒色に耽る
[隋:開皇八年 陳:禎明二年]┃拝礼問答 春、正月、乙亥(5日)、陳の散騎常侍の袁雅・兼通直散騎常侍の周止水が隋に到着した⑴。 この時、内史侍郎の元善が客館に…
587年(2) 梁廃されて 蕭巖、部衆を率いて陳に奔り 父母を称して 隋文、一衣帯水に限らず
[隋:開皇七年 陳:至徳五年→禎明元年 後梁:広運二年]┃後梁滅ぶ 隋が後梁の靖帝⑴に入朝を求めた。帝は臣下二百余人を引き連れて長安に赴いた。江陵の父老たちは…
[544(545?)~578]┃駁馬 斉煬王憲は字を毗賀突といい、宇文泰⑴の第五子である。母は達步干妃(柔然人)。 聡明で器が大きく、幼い頃から気高い精神を備…
┃芸術の天才 広寧王孝珩は北斉の文襄帝(高澄⑴)の第二子である。母は王氏。 孝珩は才能のある者を愛し、読書家で、作文を好み、芸術の才能があった。 ある時、役所…
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[北魏:神亀二年 梁:天監十八年]┃称詔 春、正月、甲申(4日)、梁が領軍将軍の鄱陽王恢⑴を使持節・散騎常侍・都督荊湘雍梁益寧南北秦八州諸軍事・征西将軍・開府…
『羊侃伝(1)』[496~549]┃東朝に帰るべし 羊侃は字を祖忻といい、泰山郡梁甫(鉅平?)県の人で、〔後〕漢の南陽太守の羊続の末裔である。 祖父の羊規之…
[530~548]┃蠕蠕公主前史〔柔然の頭兵可汗⑴は、北魏に護送されて帰国を果たした頃(521年正月参照)は北魏に恭しく接していたが、北方に勢力を拡大してから…
┃プロフィール【生没年】天監七年(508)八月丁巳(6日)~承聖三年(554)十二月辛未(19日)・梁の武帝の第七子。・幼名は七符(官)・字は世誠・眼病により…
┃官職・都督→560年:領軍将軍・都督→武平年間(570~576):開府・王┃高家の家奴〔東魏の権臣の〕高歓⑴の蒼頭(家奴)の陳山提⑵・蓋豊楽⑶・劉郁斤・趙道…
『北斉書:安徳王延宗伝⑴ 動けるデブ』[544~577]┃衝天王にならんと欲す 安徳王延宗は〔東魏の権臣の〕高澄⑴の第五子である。母は東魏の広陽王〔湛⑵?〕…
[544~577]┃衝天王にならんと欲す 安徳王延宗は〔東魏の権臣の〕高澄⑴の第五子である。母は東魏の広陽王〔湛⑵?〕の芸妓の陳氏。〔澄が武定七年(549)に…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃為仁微小 壬寅(8月24日)、北魏の孝文帝⑴が肆州(九原)に到った。この時、〔肆州〕民のうち七十歳以上の者の爵位(二十…
[?~531]┃占卜によって成り上がる 劉霊助は、燕郡(幽州の治所の薊がある郡)の人である。父は劉僧安。陰陽・占卜の事を好み、范陽の人の劉弁に師事した。ただ、…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃王融策動 戊寅(7月30日)、〔病気に罹っていた〕南斉の武帝⑴が突然危篤に陥り、意識不明の状態となった。この時、帝の子…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃遷都計画 北魏の首都の平城は南五十里に定襄(雁門の誤り)郡より出て海(東シナ海)に流れる桑乾水という川があり、それに因…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃皇太孫昭業 夏、4月、癸未(3日)、北魏の使者が南斉に到着した(正月14日に北魏は邢巒と劉承叔を南斉に派遣していた)。…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃陳顕達の静退 春、正月、壬子朔(1日)、北魏の孝文帝⑴が百官を太極殿に集めて宴会を開いた。 癸丑(2日)、南斉の武帝⑵…
┃生没年 521~549年8月○北斉文襄紀〔武定…七年(549)…八月…〕辛卯,王遇盜而殂,時年二十九。┃容姿 北史:美姿容 賈子儒:瞼が薄く、目の動き(或い…
[507~568]┃楊忠の登場 楊忠(本姓は普六茹?)は幼名を奴奴といい、武川鎮の人である。 漢の太尉の楊震の末裔という(眉唾)。 震の八代孫の楊鉉は燕(北燕…
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃嶺南乱る これより前(588年)、陳は使持節・光勝将軍(六品)・平越中郎将・大都督・東衡州刺史・領始興内史の王勇⑴を鎮南大将軍…
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃江州降る 癸巳(正月29日)、隋が使者を江南の各地に派して巡撫させた。 隋の〔上大将軍・蘄州総管の〕王世積⑴は蘄口にて陳が滅亡…
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃逃走の機逸す 陳軍が敗北を喫すると、任忠⑴は宮殿に馳せ入って後主⑵に謁え、敗北した事を報告した。それからこう言った。「陛下、身…
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃馬鞍山・磨刀澗の戦い これより前、陳の荊州(公安)刺史の宜黄侯慧紀⑴は隋軍が渡江したのを知ると、公安の留守を長史の陳文盛らに任…
[隋:開皇三年 陳:太建十五年→至徳元年 後梁:天保二十一年]┃北斉系の不遇〔丁巳(3月19日)、隋は詔を下し、書一巻を献じた者には絹一疋を褒賞として与える事…
[隋:開皇三年 陳:太建十五年→至徳元年 後梁:天保二十一年]┃緩和 春、正月、庚子(1日)、隋が新都に遷る準備が整った事を祝い、天下に大赦を行なった。 また…
[496~549]┃東朝に帰るべし 羊侃は字を祖忻といい、泰山郡梁甫(鉅平?)県の人で、〔後〕漢の南陽太守の羊続の末裔である。 祖父の羊規之(?~473)は、…
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]┃突厥の侵攻 10月、隋の文帝が旧殿を撤去し、居所を東宮に移した。また、朝廷内外の官吏に俸録を支給した。 こ…
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]┃能吏・蘇孝慈 壬午(6月10日)、隋が太府卿の蘇孝慈を兵部尚書とした。 蘇孝慈(生年538、時に45歳)は…
[?~551]┃侯景の右腕〔548年(梁の太清二年)8月、梁の南豫州(寿陽)刺史・河南王の〕侯景が叛乱を起こし、西方の馬頭を攻めると共に、将軍の宋子仙に東方の…
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]●陳、隋に和を求める 戊辰(正月24日)、陳が隋に使者を派して和を求め、胡墅(石頭城の対岸)を返還した(去年…
┃警戒 これより前、後主⑴が蘭陵王長恭に邙山での大勝(564年)についてこう尋ねて言った。「何故敵陣に深入りしたのか。成功したからいいものの、失敗したら大惨事…
┃河間王孝琬の死〔565年(河清四年→天統元年)、武成帝⑴が太子緯⑵に位を譲って太上皇帝となった。緯は即ち北斉の後主である。〕 北斉の〔尚書令の〕河間王孝琬⑶…
[541?~573]┃蘭陵王の登場 高長恭は本名を肅、或いは孝瓘といい、長恭は字である。高澄⑴の第四子⑵で、母の詳細は不明。 長恭は肌が白く、美女のような顔立…
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]●隋軍、長江に達す〔これより前(581年9月26日)、隋は上柱国・〔宜州刺史・〕薛国公の長孫覧⑴を東南道行軍…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●五銖銭鋳造 これより前、北周と北斉が鋳造した貨幣は総じて四種類⑴あり、更に民間の私鋳銭⑵も…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●宇文闡の死 5月、丙辰(8日)、陳が前鎮西将軍の樊毅⑴を中護軍とした。 戊午(10日)、隋…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●貴盛比類無し この日(2月24日)、上柱国・并州総管・申国公の李穆⑴を太師とし、上柱国・鄧…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●官制を漢・魏に戻す 隋の〔少内史の〕崔仲方⑴が文帝⑵に六官の制度(大冢宰など古代の周の官制…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●推挙令 春、正月、壬午(1日)、北周の静帝⑴が詔を下して言った。「朕は〔不徳の身であるため…