神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 そのさばきというのは、
キリストへの祈りは生活の現場から誰にでも自由にできます。キリストは呼び求める人と共に居る方です。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。 クリスチャン2世として、教会の問題、カルト化の問題について、傷を受けた皆さんと共に祈り、教会・教派主義からの脱出と信仰について、自立を目指す現実的視点で触れていきます。
『絶対にこれだ』と強く信じたいことを心に決めてしまうと楽(らく)
確信はどんな確信でも説得と影響を与える瞬発力になり、同志のつながりは強まるしかし心を決めて心を閉ざし確信に自信を持つと成長は鈍化し視野は狭くなっていく他人は一応話は聞いてくれるがその場限りで離れていくし些細な行き違いで激しいやりとりになったり
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神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 そのさばきというのは、
誰かを好きなるのと同じことでキリストに「一緒に居て」と願えば神キリストは誰の中にもすでに共に居て その交わりには楽しく希望の光があります。誰一人キリストに知られなていない人はいませんから。何の条件もいらずただ落ち着いて信頼すればキリストは
”『自分は罪人』と意識して祈り悔い改め、キリストの十字架を信じて『救われた』と、すぐに平安を得られるのが『信仰』”これは愛され信頼を育まれた経験のある人には、抵抗なくできるのかもしれません。でも、存在を否定され続け、激しく非難し合う酷い争いに巻き込まれ
優れること、優位に立つことが自我ではなくいつも自分のために選択することが健全な自我であり、自分らしい自分をつくることになりますどんな自分でも、それがその時の無理のないありのままの自分なら受け容れる選択をするそこへとキリストはどの人の内にも住んで導きま
私たちの人格のすべての領域の救いのために誰でも信頼できるキリストの内住、聖霊の満たしを自分の奥深くに意識すればすぐに与えられたと信じてよいのです。聖書は内住のキリスト、聖霊の導きによって理解できるものです。キリストとの歩みは、おおらかに赦されている自
いつでもキリストに会えるというイメージは、どの人が持ってもいいもの。一緒にいる愛する相手として大好きなパートナーのように触れあうと癒される存在としてそんなふうにイメージできる身近な存在を考えてみて、キリストを同じように感じていい。でもキリスト
心の底からの叫び祈り弱さや困窮からの絞り出す祈りただ真実を願いその中で生きたい祈り祈りは形ではなく心の声それなら必ず神様に届き聞かれています福音派牧師の説教の『神に聞かれる祈りには、まず聖書を読み服従することが必要』などという話はまったく当
ただキリストが内に居て語る言葉が力を持つキリストが居ることの実感は人の誰からも与えられず、ただ個人として求める祈りでしかキリストご自身は見つけられない。もし大説教家や奇跡を行う者に感動させられ按手されても、その実感はキリストとは違うことが多くあります
原っぱで集会したイエス家に集う聖書に描かれた教会信じる人を神の宮と言ったイエス神殿を3日で建てると言ったイエス(十字架刑と3日目の復活のこと)二人でも三人でも集まればそこは教会いったい誰が教会堂を造りはじめ、続々どの教団も大金を集めて造り
確信はどんな確信でも説得と影響を与える瞬発力になり、同志のつながりは強まるしかし心を決めて心を閉ざし確信に自信を持つと成長は鈍化し視野は狭くなっていく他人は一応話は聞いてくれるがその場限りで離れていくし些細な行き違いで激しいやりとりになったり
教会とはキリストに声を聞かれている個人の集まりのはずです教会の教えで心の声が潰される問題が確かにあります罪の告白、悔い改め、型にはまった言葉、聖書解釈は教団と牧師の言う通り、それで教会の知識を持っていてもキリストを個人で知らない人が集まる教会に行
『神に自分の最上のものを捧げましょう』などという煽り文句で教えるキリスト教関係者を警戒すべきです。彼らが『最上のもの』だと教える内容に決して従ってはいけません。選民思想で聖書聖霊が特別な意味を持ち従うべき使命を持ち人生をがんばる、という意識になってし
「自分が貢献した結果・やり遂げた目に見えるモノ」が絶えず欲しい自分の存在を確認したいからでも結局結果はモノではなく、「心に何を願っているか」だけが永遠に残りますキリストに何を願うかキリストがどんな方か知れば祈りの内容が決まっていきますだからキリスト
自然な普通の自分の存在が、世界に与えるものがある。その事実は大切で必要な認識です自然な心の願いは自然な祈りになり神に届き聞かれています整えられた祈りより心の思いをそのまま人としての素の祈りを人がその人らしく生きるために自分のためと隣人のため
自由な心で神様に祈っていますか?祈りの言葉が何かに縛られていませんか?私たちは神様に向いて自由であり、それぞれの心の思い、叫びがあります。その自由に聖霊がおられ、必ずとりなされています。多様な祈りがあってこそ、みからだの一致ではないでしょうか。
私たちも心の中まで普段着であること飾らずありのままキリストはそんな普段着の人を認めて友として傍にいるのに教会や牧師が認めないどうやっても改善しない悪い教会や悪い牧師は存在します『正統で聖書的(異端・カルトとは違う)』と自称し日曜出席や奉仕
『問題の原因が人間の原罪(げんざい)で悔い改めて実を結ぶ生活が解決の道』と言って教会通いと献金と無償の伝道奉仕をさせるのがキリスト教系のカルト宗教福音派聖霊派は『原罪を解決する救いは聖書的な信仰、聖霊の満たし』と言いさらに深みに誘い込み『聖書
カルト化ブラック化被害者にとって自分の心のためにストレスマネジメント、アンガーマネジメントは大切です自分が理想とする心地よいことを見つけて自分ために時間を取って満たして自分に余裕を与えるようにしてあげましょう何が自分に良いことで心を生かすことにな
死生観 人の命 人生の重みそれを説きながら実は理解しておらず成長せず幼い我欲のために他人をもてあそぶカルト神キリスト聖霊聖書を我が物のような顔で『他では救われない』という教派福音派聖霊派それを捨て追い出して人生を取り戻し心を書き換える脱カルト
聖霊派でキリストよりも聖霊の満たしと癒し奇跡を絶対視して頑なに教会の教えで固定したものとしての信仰の励ましのかたち、清さ、教会参加、交わり奉仕、聖書祈りの日課それは頭に袋を被せられるようなもの牧師は本来聖書を教える人ではなくキリストへ導く役
その境界線は高い山の尾根のよう転んでは影になっている暗い斜面に引きずり込まれ光のある方を見上げて祈ると引き上げられ牧師や教会が光の側に居るとは限らない罪や心の痛みによって闇はどの人にも例外なく誰にでもこの世で生きる現実を知りつつ、キリストもその
福音派聖霊派の教会で苦しめられている当事者であり目撃者は、神からの試練ではなく、牧師や教会の人からの責めや縛りに苦しんでいます。全人類が福音派の『福音』を信じなければ地獄行き、と信じさせられ、真面目で純真であるほど持てる情熱を惜しみなく捧げて教会と隣人
キリスト教の優れた所は、キリストが地上で生き、人々と語り合い、共に歩む神の姿であることで、人に分かりやすく神が人格的な交わりを喜び、共に居て住み、言葉を語り、人の思いの変化を人の理解できるペースで導き促すことを、福音書で示していることです。ところ
この世を支配したい人間と教会は他人の心を殺しますが、キリストは人の中に住み、傷んだ心に寄り添い、人の心を守ろうとします。キリストは現実を生きる神なので、そのやり方も現実的です。私達が普段触れるものから、思うこと感じること体験することから、心の自由を得
福音派聖霊派の言う『聖書通りの価値観』を持とうとするため、終末観と罪責感に支えられた『我を忘れ自我を殺す忠実な信仰の型』が信徒の心に大なり小なり存在するので、それを断ち切り、自分の中に人生の支えを得る必要があります。それが神である父・キリスト・聖霊の導
今と将来のクリスチャンと社会に資するために、片隅の小さな記録として残しています。もう、福音派・聖霊派・聖書信仰を標榜するのをやめた方が良いと思っています。今知っていることから言えば、もし十代に戻れたら、選ばなかったもの、信じなかったもの、考えずに済ん
キリストがありのままの人の心に手を入れて支えるから、人はその平安のある変化を感じ、現実にキリストが伴う愛を感じて、悔い改められるし、生きられます。自分に共感して心配して寄り添って助言してケアしてくれるキリストに共感して、自分に自分で寄り添い静まって自分
一緒に暮らすことで相手のことが分かるとよく言われます。犬や猫も飼い主と暮らして人を知り、人への愛情と欲求の素直な反応を喜び飼い主は世話をします。私の中に素直さが絶えず出ていれば、と思います。キリストの愛と癒しが満たされて溢れるのはいつだろうと。人生へ
キリストにどんな時も会えるのを楽しみにする、これを忘れずに過ごしたいですね。キリストがトラウマになるような教会にいると、会えない、話せない、遠いと思ってしまうことがあります。心で気を張って頑張って生きていると、心の休ませ方が分からなくなることもあって
キリストは、私たちのひとりひとりが神の宮だと言いましたし、いつでもどこにいても、キリスト・聖霊は私たちから離れません。キリストはこの世に生まれ、人として生きる間も、十字架上でも、刑場に引かれていく間も、死に黄泉に下る時も、今の私たちのことをご存じ
孤立、痛み、自己否定、自分を責め続ける心の自傷、奥底まで他人に手を入れられて干渉され責められた記憶、子どもから大人へと自立する反抗期もなく人格批判や人格否定を忠実に受け入れて、他人に左右され失った自分の存在感を揺るがない自己確立にするにはどこまで行
自分の本音や願いの本当のところを聴きたいのに、聞こえないところまで心を殺す『自我の死』。それがカルト化した教会のやり方です。幼稚園児の時から連れて行かれ小学生からは自分から欠かさず福音派キリスト教会の日曜学校に通い『人はみな罪だから』と言われて殺
救いも心の変化も、聖書の律法ではなく、キリストとの人格的な出会いによります。キリストと出会うことで聖書のことばが人の中で生き満たされます。自由で自然で健全な心のあり方を知り、人生の現実や出会いで新鮮な発見が生まれ、いろんな過去の縛りや悪い支配の記憶が
本音の祈りは人前では祈れない内容が当然たくさんありますが、人前での『立派な祈り』の頻度が多すぎてそれに慣れると、本音の祈りと離れていきます。だから、奉仕の多い牧師は特にそうなる必然があります。本音本心の祈りは、嘆きの祈りでも良いし、神の御心
世に悪いものと良心的なものがありますが、信仰者は世から目を背け嘆くのではなく、両方を見て、意識して見分け、キリストにつながり絶えず祈ることで、この世を保っています。成長に従って、正しい良心・良識を持つようになることは、広く実生活に通用する祈り
「イエス様、愛してます」と軽々しく言っていいもちろん、重く、どん底の状態ですがる祈りからでも良い葉っぱに乗って空を飛び、何もない野原や荒野に降り、何もないと思えてしまう所から祈り始める、断食の時のように悲しみは重くても、重いものをキリストに吐き出せ
『キリストを告白する』とかしないとか、『救われている』とかいないとか、人の心の真実、初めの愛を分かるのはキリストです。人は他人を裁けないので、早まって判断せずそれぞれキリストが居る自らの心の真実に従うこと。そこからの人との出会いであり、そこに居るキリス
自然な、内から湧く素直な発想と公平さ冷静さとちゃんとした自意識、客観的な視点で、自分を他人を動かすことができる信仰。自分と周りに前向きな動機と癒しを生むような表現と行動を生きる原則にしたい。教会や親に教えられ強いられた枠とプライドと支配と傷が心に奇妙