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2012/12/23

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  • この世をくれると言われてもイエスはさっぱり興味がない

    「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」(マタイ4:8-10)---荒野で悪魔は引き続きイエスを誘惑するが、この悪魔はこの世と世の栄華のすべてをくれるというのだ。自分が聖書に接して以来、長らく分からなかったのがここだった。この世とその栄華を手に入れてそれを神の国にしてしまえばずっと簡単ではないか。しかしこれは神を知らないゆえの考えだった。神と御子にとっては、この世とこの世の栄華は引きつけられるものではなく、悪魔がくれてやると言われても、欲しいと感じないし要るとも思わない。「神と富と...この世をくれると言われてもイエスはさっぱり興味がない

  • み言葉は悪魔も使う -道具としてのみ言葉

    「すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」(マタイ4:5-7)---悪魔の誘惑に遭うイエス。その誘惑とは、詩篇91:11-12によるものであった。悪魔もみ言葉を使うのであり、ここではイエスを挑発するためである。だからここでは、み言葉は、いのちのことばとしてではなく、もっぱら道具として使われている。さて聖書を知らない知人から聞かされた話なのだが、その人が困難に突き当たっていたときに、「神は真実な方ですから、あなたがたを耐える...み言葉は悪魔も使う-道具としてのみ言葉

  • パンだけで生きることができるか

    「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:1-4)---「人はパンだけで生きるのではない」という箇所だけが一人歩きしている聖書箇所。姪が就活中にこの言葉を使って、いやそういう意味じゃないと返したことがある。ところが、逆に、もっぱらパンだけで生きているような人が数多くいるように見えてならない。パン、それと情報だけで生きているこのような人たちは、すべてを物質的に捕らえているのだろうか。物質的な部分...パンだけで生きることができるか

  • 受洗するイエス

    「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:13-17)---受肉した神の子イエ...受洗するイエス

  • みことばは「いのち」の触媒

    「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)---パウロ書簡の後半部は「おこごと」で占められるが、上の聖句はロマ書のおこごとより。ちなみに、おこごとを馬鹿にしているというわけではない。なぜなら聖書のことばは、字面とは全く異なる意味で働くことがあるからである。つまり、聖書の言葉とは霊的なものなのだ。上の14節は、煩悶きわまったアウグスティヌスが、この言葉に触れて回心を果たした聖句である。つまり、アウグスティヌスにとっては、ロマ13:14が「いのち」の触媒だったのである。触媒となる聖句が何かは人によって全く異なり、予測のしようもない。聖書の「おこごと」の箇...みことばは「いのち」の触媒

  • 愛とは何か

    「「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」(ローマ13:9-10)---「愛」とは何か、自分にはまるで分からない、そう言い続けてきた。アガペーとかフィリアとかエロスとか、一体何のことだと思う。愛という言葉を耳にすると、何かだまくらかされているようにすら感じる。愛という言葉はうさんくさいのだ。だが、こんな自分であっても、愛されていると思うことは少なからずある。あるいは、そのときにはなんとも思わないことが、ずっと後になって、ああ愛してくれていたんだなあとじんわり思い出すこともよくある。愛とは、愛する側の...愛とは何か

  • 復讐を禁止する神

    「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)---有史以来ハンムラビ法典ほど優れた法律はないと、かねがね自分は思っている。「目には目を」。近代法は復讐や決闘を禁じるが、ハンムラビ法典はやられた限りにおいての復讐を認めている。被害を受けた者が復讐感情を持つのは自然なことで、その自然の情を果たすことができるのであるから、何と素晴らしいことだろうか。そんな...復讐を禁止する神

  • イエスによる世からの解放

    「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)---「心の一新」は、与えられた聖霊によるもので、自力でどうこうして一新できる類いのものではない。イエスが与えて下さるものである。このこと自体よりも、この「心の一新」によって変えられた私は、この世と調子が合わなくなるとパウロは言う。現代の欧米社会のように強い自我を持つ社会であればまだしも、日本のような和を以て貴しとなす社会、「わたし」がなく「和」の平衡状態を重んじるKYの社会、突出する者を叩いては村八分にしてかかるこの社会において、世と調子を合わせないというのは相当の覚悟がいることである。だが、パウロは...イエスによる世からの解放

  • イエス同様「彼」は世界から捨てられる一方で「彼」は神に受け入れられる

    「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」(ローマ11:15)---イスラエルと異邦人とについての文脈の中でのみことば。「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう」。この「彼」は、ここではイスラエル。だが、イスラエルだけでなく異邦人でも、私でも彼でも、誰にでも上のみことばに当てはまる。イエスは世界中の憎しみのさなかに、極刑の十字架につけられて死んでいった。しかし神によって、イエスはよみがえる。そのイエス同様、「彼」は世界から捨てられて、そのことによりその世界は和解をする。その一方で、捨てられた「彼」は神に受け入れられて、死者の中から生き返る...イエス同様「彼」は世界から捨てられる一方で「彼」は神に受け入れられる

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