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玄徳道 https://blog.goo.ne.jp/sinnkiraifukukirai

古今東西、道を語るブログです。

坐は坤地の道なり、誠は乾天の道なり。そして天地の真神、真心を受託すは人の道なり。天地人合一して純陽、いづのめの働きと申すなり。

鬼雷
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大阪府
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陸前高田市
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2012/04/29

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  • 進化道。

    神兕とは、神が人を介して、諭された道。大本神諭。霊界物語。伊都能売神諭。日の出神諭。日月神示。火水伝文。肚で行く。龍宮神示。天言鏡。三六九神示。大日月神示。まあ、多くの霊覚者があり。多くの未見真実がある。信じる、多くの者は、それに囚われて、それに固執し、そこから分析し、今の世に、変遷す。今の世に価値を付ける。今の世に、位置づける。知識が如何に増えようとも、ウクライナ、アメリカvsロシア戦争は止まない。人が存在する以上、戦火は消火出来ない。神は善を為して悪を成し、悪を為して善と化す。コロナワクチンを私は、4回受けた。世に蔓延る邪悪を受ける覚悟にて。それは、どうでもよいが。まだ、元気に生きております。納豆と松葉を食べていますよ。扨。悪の中に善人がおり、善人振る人に大悪人がいて、悪人の中に、希少な真善人もおられ...進化道。

  • 孚聖訓、愚道。

    愚とは、霊明の心が、モノに蒙(おお)われ、昧(くら)まされて、いる状態である。それは、あたかも、鏡が塵やゴミに蔽われているように、鏡の本来の光明のはたらきを失うことはようになり、ただの、つまらない、物質となってしまう。人の本性もまた、鏡と同じように、本来光明であるが、それが、私欲の塵に蔽われて、是非善悪を知らず、正邪を明らかにする事が出来ない。故に是を愚と、言うのである。この愚の字は、修道の大障害である。そこで、聖人や哲人の書をよく読み、達人の教えを多く学ぶべきで、そうして、自らの心の光明が、もの(欲)に蒙(おお)われていて、その愚かな事を知れば、則ち、つとめて、智慧の明らかな者の、教えを受けて、これらの愚を取り除き。それによって、一盲、衆盲を引き(一人の盲人が多くの盲人を案内する、一人の愚者が他の多く...孚聖訓、愚道。

  • 出口日出麿、あいうえお道句。

    あてもなく、生まれて死ぬとは、情けない。いよいよの、時になったら、神様だ。うんの良いも悪いも、神の守護次第。駅へ、着く前に、手荷物整理せよ。お光の射すも、こころの窓次第。解釈のしようで、神示に異論あり。気位を低く、実績あげること。苦労、しただけ、甲斐ある、神の道。結構に、なるもならぬも、心がけ。コツコツと、いろいろ、コツを覚えとけ。幸いは、日本人たる、一事でも。しっかりと、腹に力を作るべし。すくやかに、神苑(みその)の若木、伸びてゆく。せめて、世に何か手柄を、したいもの。卒業で、学問済んだわけはない。たね、蒔いておかねば、刈り入れできはせぬ。ちよろずの、宝こころの、舟につみ。辛い目に、合えば我儘、治るなり。ていさいも大事、心もなお大事。ところどころ、思わぬ所に神柱。なる儘に、ある儘にある世なりけり。荷を背...出口日出麿、あいうえお道句。

  • 孚聖訓、悪道。

    悪とは、何であろうか。我々の日常における想念の中に於いて、不正なる一念邪道に引き込まれるのである。人として生まれた以上は、生まれると同時に悪(人心の欲望)も合わせ持って来たのである。この悪の一字を具体的に述べると、人というものは、美(よ)いものを見れば、そこに惹かれて、そこで悪(欲心)が生じ、財貨というものを、手にする事ができると思えば、そこに悪(欲心)が働き、大きな勢力や高貴な地位を見れば、大いに繁栄することが出来るので、また、そこに悪(欲心)が芽生えるのである。すべて、自分の無いところのものを、もし、これを手にすることが出来ると思えば、なんとかして、これを手に入れようとするのである。このように、すべて、自分に無いところの、ものを手に入れようとする、欲心こそが、念々に人を邪道に引き入れて、悪業を生じる本...孚聖訓、悪道。

  • 孚聖訓、実道。

    実とは、虚に対して言い、幻に対して言い、また、因(原因)に対して、果(結果)を言うのである。全ての人が生まれるには、必ず、その因があり、上は聖人から、下は愚者まで、皆、その自(よ)って来る來源や、因とするところがある。修道の人は、その因に順(したが)い、その果に循(したが)うべきであり、人の身分の高いことを羨んではならず、また、己の身分の卑いことを嘆いてはならない。これが、真実なる実を守るところの一つである。また、虚に対して、実と言うのは、たとえば、現在富貴な身分にいれば、その富貴は実であり、それに反し、貧賤は虚となり、その身分が貧賤にいれば、その貧賤が実であり、それに反し、貧賤は虚となるのである。これがいわゆる、「位に素して、その他を願わず。」ということであり、修道を歩む者は、これに勤めねばければ、なら...孚聖訓、実道。

  • 関羽雲長 関聖訓、氣練道。

    人が道を修めるのには、自ら専一にして、集中することが大切である。一に集中して、他のものによって、惑わされ無い者は、その内候と外功は、自ずから、深遠となって、その運用も自由自在となる。何を専と言うのであろうか。目に専一とするところがあり、これに集中すれば、神は渙(ち)ることなく、耳に専一とすることろがあり、これに集中すれば、その精は漏れる事が無く、口に専一とするところがあり、これに、集中すれば、その炁は必ず凝ることになり、鼻に専一とするところあり、これに集中すれば、その霊は必ず聚(あつ)まるのである。そこで専一にして、これに集中するとは、どう言う事であろうか。それは、みな、後天的な意識が無く、また、有形の色相も無いところから、言を尋ね、意を究めるのである。先天の功候は、本来静定にして、安定しており、それが長...関羽雲長関聖訓、氣練道。

  • 人の生きる道。

    人は、何処から来て、何処に帰るのか。それを悟る人が非常に少ない、人が生まれてから、オギャーと発音し、慈愛ある両親の元で育つもの、親から忌み嫌われる者もあり。また、殺される者もあり。先天の坐を、以て、人は、完璧とはならない。完璧とは、和氏の碧。それは、物である故に、滅びる。我々人には、輪廻があり、肉体は坤に還るが、玉、霊は、吾が真軸に孵る。人は、実に不可思議な生き物である。なんせ、人は天地宇宙の中の、一つの小宇宙であられる。どんなに邪悪な存在であろうとも、小天地を現しておられる。何故、悪が栄えるのであろうか。善悪の概念は、人の思想にして、天地宇宙では、天地開闢からある、普遍の存在である。神に栄える意識無し。人のみが、我や、貴方が栄えると感じるのみ。所詮善悪とは、歴史から観ても、善を為して悪意となり、悪を為し...人の生きる道。

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