chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
玄徳道 https://blog.goo.ne.jp/sinnkiraifukukirai

古今東西、道を語るブログです。

坐は坤地の道なり、誠は乾天の道なり。そして天地の真神、真心を受託すは人の道なり。天地人合一して純陽、いづのめの働きと申すなり。

鬼雷
フォロー
住所
大阪府
出身
陸前高田市
ブログ村参加

2012/04/29

1件〜100件

  • 尚真人訓(南極老人を仲介され、天帝老祖を現化された、礎の神仙)

    人生は、身を治めることが根本である。身を修めるには、心を正す事が肝要である。心を正すには、意を誠にすることが先決である。心とは身を主(つかさど)るところであり、意とは、心の起こるところである。いわゆる、「その意を誠にするとは、自らを欺くことなきなり、悪臭を悪(にく)むが如く、好色を好むが如し」(大學)と。(注好色を好むとは、欲心の代名詞であり、ここでわざわざ大学で記されている意は、大善を好むが如しの意であります。多くの人は真に好色を好まれておりますが、その道は、上辺だけの世界であり、実相世界の美意識とは異なります。)誠意正心。これは、本心より出た自然の発露であって、外面をいつわり飾っている状態ではない。もし、意を誠にすることによって自らの、慊(快くすること)を求めれば、心は正しく無いことはなく、善く意を...尚真人訓(南極老人を仲介され、天帝老祖を現化された、礎の神仙)

  • 墨子道。

    今の人は、物質的な地位や名誉や、お金持ち、それが本当の幸せの種であり、また、それに史上の価値を置く。故に、人は、真なる実相の世界を悟れない。見れない。聞こえない。解らない。故に、老子は述べる。「下士、道を聞けば大いにこれを笑う。」道は神の本質であり、天の命であり、我が真髄であります。ははは。今の人は、道など、学んでいないし、古臭いし、されど、「古の法は古きにあらずして己を示す礎とこそ知れ。」なんてね。そして、道を知らない人は、地球上の全ての自然の働きは、天命から来る事を悟らない。宇宙の天命、地球の天命、月の天命ありて、主宰を為されておられるのでございます。人が道を知らない、罪科は、劫をつくるにあり、人が人を殺し、動物、昆虫を殺す。その行いは、天地にまで、害を及ぼして、自然の気の陰陽は、その調和を失い、雨が...墨子道。

  • 令和四年六月 三六月九神示。

    昭和六十年六月六日、大宇宙天照皇大御神を弥勒大神を奉祀(まつり)てより、三十八回日の弥勒大祭を意(お)えたな。昭和六十年三月八日、天地を結ぶ天橋立の磯清水(五十清水)の水を汲ませ修聖に天照皇大御神と墨書させて六六六の理の昭和六十年六月六日(六白乙丑年)、龍華館の神床に天照皇大御神の御軸を祀らせて最初の弥勒大祭に奉仕させたのであるぞ。この天照皇大御神は伊勢の天照大御神では無く、大宇宙天照皇大御神であり、自ら耀く神、弥勒の大神であるぞ。世界の型を見せる所、丹波綾部の大本教出口直刀自の筆先に現して、綾部神苑の本宮山頂に、大正十年七月立派な神殿を建て、天の弥勒の大神(天の三体の大神)を奉祀したが、その年十月、第一次大本業弾圧によりて破壊されたのであるぞよ。是も先駆けの型でありたが、世の時節が到らなかった故であり、...令和四年六月三六月九神示。

  • 令和四年六月八日 小長谷修聖 三六九神示霊視篇。

    古代丹波(丹後丹波、但馬、若狭は国常立大神、経綸の始めの地場である)。始め、丹後の男島(冠島)女島(沓島)、中津神之岩(鬼雷注霊界物語に登場した岩、若狭湾の沓島から冠島に行く途中にある。「大地の母によると、両島の距離は約一里あり、その中間に畳2枚程の広さの中津神岩がある。別名、とどろ礁。海面から二メートルほどの高さがある。」)が拝され、次に天橋立や真名井神社、籠神社が拝されました。(注国祖の国常立尊が世の立替立直しを始められた、古代丹波国の内、丹後が要で、丹波が面舞台、但馬は後備をも示されており、男島は天照国照彦火明命降臨の島であり、女島は、世織津姫之神[亦市杵島姫之命]の神島であり、中塚神の岩は竜宮の入り口であり、昭和五十四年7月一日、修聖神業す。女島は艮の金神、国常立尊隠棲の島と大本教では言い、こ...令和四年六月八日小長谷修聖三六九神示霊視篇。

  • 鎮魂道。

    神の黙示は、則ち、吾俯仰観察する宇宙の霊力体の三大を以ってす。一、天地の具象を観察して真神の体を試行錯誤すべし。一、万有の運化の毫差なきを以て真神の力を思考すべし。一、活物の心性を覚悟し、真神の霊魂を思考すべし。霊学の要は浄心にあり。神がその人に伝授される。その証しである鎮魂石をもって、そこに、意識を集中する。その証しである、磐笛を以て、神界と人界を宥和するのであります。鬼雷述べる。磐笛とは神霊を呼ぶ為の神石ではありません。人と神と磐笛の精霊と共に、地球を癒す、神と人と精霊を和す、音霊の発露で御座います。共に神縁ある身魂に授かれし神石でございます。神が、鎮魂石や磐笛を授ける由縁は一重に、随神あるのみであり、神は常に、人との繋がりを大切にされておられます。ただの、自然に落ちている石。そのただの石は生物で無...鎮魂道。

  • 悩み道。

    人なる種は、必ず悩むことあり。利己主義な悪人でも悩む。真面目な人から、見れば勝手きままに、生きているようで、実に悩んでいる。それは、古参のパートの親分のおばちゃんでも、マフィアのボス、暗殺集団、八九三やくざでも然りなり。例えていえば、安寧する仕事、公務員にしても、その仕事で悩んでいる。多くの聖職者を観ても、多くの神主や巫女を見ても、安心立命を得ている者は、非常に少ない。また、スピチュアルの世界の活動する人、霊能により、セッションをされる人々、レイキで活動される方、全てがその活動をするほど、悩み苦しんでおられる。宗教やスピチュアルによる、答え合わせは、活動や因果律、心の顕現をもって、道とする。一時の納得も、また、不安が生まれて、悩むなり。人は知らないのである。悩める素晴らしさを。自死する程の悩みが素晴らしい...悩み道。

  • 欲と神の道。

    住之江の神位(暗い)やま、峰の桜をかざしても、人は物をや、なほ思ふらん。人の心には欲がある。そして、欲無し人は、死骸でもありますが、なんて。仕事欲、名誉欲、金銭欲、支配欲、安心欲、家族欲、恋愛欲、神様欲、etc。されど、無欲の中、無心の中にも超意識もあり。私がかつて、教わった日本紅卍字会の前の会長でもあり、深見青山氏の師でもあられた、故根本誠乾(道名)師は、良く言っておられました。「人欲を排し、天理に還る。人心を捨て道心に帰る。天下にあっては、無くてはならない人になるか、有ってはならない人になれと。」即ち、中途半端な人間になるなと、言われておられました。善も悪も、極めれば、この地球において、光なる輝きもあり、真なる暗黒もあり、そして、条件が調うと、宇宙へと参画を意味します。何故ならば、闇も光も神の領域で...欲と神の道。

  • 松の神示道。

    松って、不思議に神域を育んでいる。いや、多くの人が神域に植えたのかも知れない。それでも、松は素晴らしい。松ぼっくりには、多くの不思議があり、その一つ、人の松果腺なる充ちの未知の働きに干渉される。たまたま、気に入った松ぼっくりは、神棚に捧げよう。瞑想や坐の糧とならん。松を喰えと日月神示は言う。然り。良きかな。松はハンセン病すら、正体不明の感染病すら癒すなり。松の世とは、一年中、安心をもって、松木と同様に松葉か、光に伸びて行く樹木精霊の世界。神が人に与えた樹木が松なり。松は如何なる季節でも、松葉があり、人を癒す葉と機能を発揮し、發生される。さて。松は、実に岩に生える。特に、神なる気を発する磐座に生える。何故であろうか。松は最も神に近しい樹木であるから。多く不可抗力な病を持つ者よ。松を食えよ。効果は、簡単にでる...松の神示道。

  • 神鳴仕組み道。

    世に神示がはびこるなり。多くの経典があり、盲信者は、その文字を信じるなり。神示とは預言の書では、無い事。神示を盲信せず学ぶ、これを道と呼ぶ。道とは、人の可能性であり、神もまた、人の自神(自身)の道を応援されておられので御座います。神の示すものはオサトシであります。オサトシは、人への応援でもあります。神の仕組みがあり、その中で神が自らの意向なる世界を創る。そんな事は皆無で御座います。神は人を奴隷とすることは、皆無なり。そして、真なる主神とは、無限絶対無始無終。そこに人の思考は存在しないし、介在出来ない。また、人間が自然なる循環を、自然の働きを動かそうとしても、無駄な努力と無駄な働きの如きように(一部に言霊による変化あり。)、自然を人の意識でどうこう出来ません。神が人の願えを叶える存在と、思考する段階で、人は人の領...神鳴仕組み道。

  • 令和四年五月 三六九神示。

    今の人民は、人を恐れて神を畏れず。天地の神の恵みを、貪り奪い合い、人に勝らむ為に争いを繰り返しておるぞよ。人間だけの栄えを願いた今の文明は、この地球を汚し穢し、段々と動植物も犯されて滅びゆくもの増えておるぞよ。その様を目の当たりに見ながら、改める事をせず、我が我がの戦争絶え間無く殺し合いを続けておる事、真に愚かな事である事に何故氣づかぬのか。先の第二次世界大戦で世界中の多勢の人民が犠牲となり、この日本の国は世界に先駆けて広島長崎と原爆を投下され、そのむごたらしい惨状を世界に見せつけて、もう二度と戦争はしてはならぬ、特に核戦争を起こせば世界は滅亡するぞよと、菊理比売の神、先頭に立ち大警告を発したなれど、人類の利己主義(われよし)強い者勝ちの精神は改まらず、神は全てを見て、原因結果の裁きをいたす畏ろしさも打ち忘れ...令和四年五月三六九神示。

  • 令和四年五月八日 小長谷修聖 三六九神示 霊視篇。

    残雪の白山山頂、白山神社奥宮の所に、白いドレスのような装束の女神が立たれ、諸刃の剣をぬき、その剣で輪を描いておられました。(注白山菊理比売の神は、霊体、陰陽、総てを括り結び給う神徳であり、神意に反する時は、逆に核の分裂、破壊の力と現れた、人民の改心を迫り給う。諸刃の剣は、真実の言霊を意味し、荒れる世界を言霊の力で輪(和)と結び、平和の世を開けとの神示であろう。)次に大東亜戦争の悲惨な沖縄の戦場、次には、広島長崎の原爆のキノコ雲が見えました。(注多くの人々が犠牲となる戦争を起こしてはならぬ事、特に核兵器の使用は人類の滅亡に繋がる事で、決して使用してはならぬと、日本を犠牲にして示されたのであり、広島は一よこ、長崎はIたて、日本に十字架を背負わされた型である。)次に出口聖師が出雲の安来節のドジョウスクイの扮装...令和四年五月八日小長谷修聖三六九神示霊視篇。

  • 宝石道。

    蓋し、今の人は光る石が好きらしい。更に、輝く金の延べ棒が好きらしい。ダイヤモンド、サファイア、ルビー、エメラルド、アメジスト。金銀、翡翠。すみません。わたしは武骨な男にして、宝石に何の価値も見出せません。何の興味もありません。何が素晴らしいのかわかりません。変人鬼雷でございます。私は磐笛好きですが、翡翠の磐笛には、何の興味がありません。そもそも、天の磐笛とは、自然石に穴が貫通したり、中途の穴が空いており、息を吹き込めば鳴る存在でございます。その地域特色なる天然石の自然石の磐笛が大好きです。故に、例え、翡翠なる石に、人工による穴を開けて、音が鳴る石となっても、それは、天の磐笛ではありません。ただ、人の手により、穴を開けて、息を吹けば、音が鳴る笛なる石であり、天然自然の淘汰を受けて、いない、人工的な笛でございます。...宝石道。

  • 光は東方より来る道。

    当然に、太陽は東から昇るなり。大岳光暉。吾が師、老祖は中華にて降臨されたが、アジアの東方に重きをおかれた。アとはあらわれであり、、ジとは示しであり、亞とは準ざる。順ずるにある。即ち、亜細亜とは神に、道に順う国である。老祖訓。天の道を奉じて世界を、化すには、世界を善導してゆくには、必ず、先ず東(日本)からしなければ、ならない。東なるもの、それは、物が生成発展する根源である。東が暗くじめじめしていたのでは、物は化育しない。清く明るく、光が輝き初めると、眠れる万物は生気を取り戻して、來るように、東を安んずると云うことが、われわれの生を安んずる所以である。さて、日本の東とは東北の地方である。日本三景の松島は、艮の金神の抜け殻であると言われる霊覚者もおりましたね。迫登茂子刀自ことといぬしの神示。いよいよみちのくの道開...光は東方より来る道。

  • 死道。

    人は、生物は死ぬ。そして、自ら、自己の種を滅ぼす生物も存在する。それらを行う事を自断と呼ぶ。人類にもその傾向が確かにあるようです。扨て。武士道とは、信念に死ぬ事とを見つけたり。信念に死ねば人はどうなるか。輪廻に帰るのみ。人の思いとは、信念とは、縛りでもある。ある宗教を信仰し、教団の中でも地位を獲得し、自らの立ち位置を天国としながらも、癌で死んだり、また事故で亡くなり、死後、行き先は地獄であったと云う伝えを聞いたことがあります。まあ、死後の世界なんて、自分が死んで初めて判るお話ですが。今、自殺なる言葉がある。自死した存在はどうなるのか。永遠の自死を繰り返すのみ。無限地獄の如く、永遠のループ。私の父は、私が幼稚園の最中、蒸発し、撫育を放棄し、借金を作り、行方不明となったが、今から十五年前に、自殺者となって見つかった...死道。

  • 秘奥道

    物事には必ず道理があり、事に終始があり、人には、天命がある。一子相伝の神法が有ると云う。神界や神仙界を見聞した者は、その伝聞を信じる。多くの伝統芸術に奥義があり、その伝授を大切にし、その口伝をまた、大切にされておられます。それも、善きかな。人は大切な意志を大事にする。私はひるがえる。今、日本刀の室町以前の秘術が廃れている。伝統文化が伝わっていない。ゆえに、古刀の再来は、現代では不可能なり。科学も万能では無く、現代の世に古来の古刀は再現できないらしい。云わば人を良く斬れる刀は、滅んだ。ふうむ。やるむ。あるむ。それは、時代の逆目なり、人の生活の安寧が失くなって滅びる文化なり。かつて、上古の時代に失われた、鎮魂法帰神法がある。これを復興したのが、日本霊学の中興の祖とされる、本田親徳翁師である。その伝統は、長澤雄楯翁、...秘奥道

  • 虫を殺さない道。

    日本で言えば、四季があり、春の芽生えがあり、夏の草草があり、秋の落ち葉の秋陽があり、冬の枯れ木があり、また、ふたたび、種子が芽吹く。それは、自然の中の剥復による、現象にしか過ぎない。虫は、常に剥複し、その生命を与えられている。虫とは、生命であり、人間の魂が凝らない、病や戦争などの原因があり、散らばった存在でもある。多くの人は、知らないだろうが。。。坐し、また、悟り、また、覚醒し、宗教に関わっても、偏らない人は、その普遍的意識を憶える、故に知っておられる。多くの虫達は、かつて、人であった者も多いのである。人の生命の輪廻を何故、悲しみの海と言うのであろうか。輪廻剥復。永遠に漂うのである。何故、坐を以て道と成し、それを提示した、吾が師、老祖が、悲しみの海からの脱却を唱えるのであろうか。天界に於て、秘奥の先天の坐、火と...虫を殺さない道。

  • 弭劫寿世要旨道13

    心は何によって明らかにするのであろうか。唯、「虚」であれば霊が働き、霊が働けば明らかとなり。明らかであれば、諸々の道理は皆、備わり、全ての事も兼ね備わる。未だ心が動かない時には広大無辺であり、「織(知らず知らず)(是非善悪を知り分かる心)」無く「知」無く、内には、「思い(一切の念)」が出て来れないし、外からも「思い」が入って来ない。唯(ただ)、光明の次元を超越して天理が有るだけで、心全体が光明に満たされて、「天理」そのものを自覚するだけで、万物ことごとく「この心」の中に包まれ、全てを体得することが出来る。「心」と言うものは「物に触れて」動き、「感じる」ことによって通じる。そこで円に遇えば、円(まる)く、四角に従えば四角に、と言うように、外の環境の変化に適応し、活発で囚われる事なく、自由自在に働く事ができ、その...弭劫寿世要旨道13

  • 弭劫寿世要旨道12

    功候に「初・進・完」の三段階があるのは、「静」の働きが始まる最初であり、必ず先に「明心見性」(自分の心を清浄にすることによって明らかになり、それによって自己の本性の働きが現れる)すれば、おおむね邪(よこしま)な道に堕落するようなことは無い。恭(うやうや)しく孚聖が南京道院の扶乩に臨んで言われるには、事理(因縁によって生じること)が移り変わる事に対しては、性が幻影を識別する。もし、心を明らかにしようとすれば、必ず先ず「見性」しなければならない。「先天の心」と言うのが、即ち性であり、「先天の性」と言うのが、即ち「虚無の元気」(宇宙無限エネルギー)であり、それには一つの虚と言うものを知らなければならない。人は生まれて来てから、気質の偏りによって囚われ、情欲によって蔽(おお)われ、愛欲によって纏(まと)わりつかれるのは...弭劫寿世要旨道12

  • 折り鶴道

    さて、私、鬼雷は、折り鶴は、小学生の時にしたのみ。特に興味も無し。今、世の中では、折り鶴をウクライナに送ろうととしたら、役に立たない。頭が悪いと。人はそう言う評価を与える。然り。されど、道では無い。道とは、自然の大道なり。大道とは愛道なり。お互いを思いやる気持ちこそが道の真価である。私は織り鶴の意を解釈しない。というか、出来ない。した事が無いから。それでも、想像する。折り鶴とは、夫婦と過程に似ていると。お互いに役に立たない事を為すことがある。なんせ、夫婦は赤の他人。その中で、通じ合うのは、お互いへの愛あるのみ。私で言えば、阪神タイガースをこよなく愛する嫁の好みは理解出来ないが、それもまた、良し。たかが、紙で鶴を織る。されど、古神道には、太古真法による神折符があり、和紙を一定の玄則によって折る事により神界の符則と...折り鶴道

  • 令和四年四月 三六九神示。

    明治二十五年、世の元からの神々を封じ込めておりた岩戸開けて、艮金神国常立大神世に現れて、三千世界の立替立直しの始まりとなり、神の御現れて姿は、言霊神也(ことだまかみなり)と若姫君命の御霊を受けた、丹波綾部の出口直殿の手を借りて、神の言霊の筆先を現したのであるぞよ。その筆先の中に、ロ国から大戦争が始まると申してあり、それは日露戦争とも現れたが、世界を自在にせんとする赤き辰は、ソ連の崩壊でしばらく静かにして居りたが、段々欧米に圧され、ロシアの弱りた国力を盛り返し、ロシアから離れんとするウクライナを止め、自在にせんと、ウクライナに戦争をしかけ、荒ぶり多くの人民を犠牲にいたしておるぞよ。赤き辰は、益々荒振り、赤き鬼は、赤き辰が世界から制裁を受けて弱るのを待ち、その末。我が方へ引き込もうといたしておるぞよ。明治二十五年...令和四年四月三六九神示。

  • 令和四年四月八日 小長谷修聖 三六九神示 霊視篇。

    ウクライナと思える原野の市街地で、赤い辰(龍)が火炎を吐きながら、空に舞い上がったり、地上を、のたうちまわり荒れ狂っている様が見え、ウクライナの南方と思える、海の上空(黒海か)に大きな青龍に乗られた、八臂の弁財天がウクライナの方をじっと見ておられました。(注ロシアのウクライナ侵攻の様であり、赤き辰(龍)は、旧ロシア帝国やソビエト連邦を築きた、世界制覇の野望の思凝りの元凶である。ハ臂の弁財天は、破邪顕正の武神でもあり、祓戸の神の筆頭、瀬織津姫の神である。青龍は刷新の氣を発す。)次に、昭和十年大本教の弾圧で破壊された、綾部大本神苑の金閣寺のような言霊閣の中で、出口聖師が静かに座し、磐笛を吹いておりました。(注荒れる世界を治めるは、言向け和(や)わす言霊の力でもある事を示しておられるのであろう。言霊とは嘘偽りの無い...令和四年四月八日小長谷修聖三六九神示霊視篇。

  • 失敗道

    ああ、失敗。大失敗。左官とは、なまもの(モルタル)で、物事を作り出す。一度つくった物は、部品の交換のようには直せない。全て、破壊し、斫らねばならない。いつも、きにしている基本も何故か、頭から抜ける。ゼネコンに対しては、ごめんなさい。吾が会社に対しても、ごめんなさい。すべからく、ごめんなさい。昔の私であれば、腹を斬ったであろう。されど、二度の失敗は無い。皆無なり。坐する私は、人の恥やプライド、人の世界の損得を重視することが無くなっている。そして、私の神業の為、責任ある立場を無くしたいが、仕事の責任が増えるばかり。幼稚園児がするような、大きな失敗をした私。そもそも、責任とは、人の意識。責任を放棄すれば、乱れの元となる。私の失敗は、プー珍さんの如くに如かず。失敗は成功の母。何にせよ、私はしばらく落ち込み、自分を責めて...失敗道

  • 弭劫寿世要旨道11

    坐とは、その修練に呼応し、必ず自然に「静定」する。ゆえに、その人体の内なる「真神」を収め、その天性に合し、そして後、自ら「自如」(自適、如意)になることが出来る。運用が「自如」であれば、心は自ら霊明であり、私欲に蔽(おお)われず、妄念に惑わされなければ、坐の彀(こう)に入ることが出来る。(注彀とは、「真息」が内に充ちること。真息が内に充ちれば、「炁」化して充ち周(めぐ)る。弓を引き絞って気力を充実している様子を「彀に入る」と言う。)そこで「念」が一たび生じて来るのは、魔の仲立ちであり、「意」が一たび起こって来るのは、惑が引っ張るということを知らなければならない。魔や惑に仲立ちされたり、引っ張られたりすると、坐というものが「平」となる事が出来ず、「定」になる事が出来ず、「適」になる事が出来ず、「如」となることも...弭劫寿世要旨道11

  • 弭劫寿世要旨道10

    坐ることを長く続ければ、息が凝ってくる。息が凝ってくるというのは、「玄」(奥深く微妙)に運(めぐ)り、「虚」に転じ、「空」に復(かえ)り.「竅」に止まり、「自然に輪転(めぐる)」のである。(鬼雷述べる。息が凝るとは、呼吸が肺のみに偏らず、頭蓋骨、背骨、踵の裏、ありとあらゆる、細胞が自発的に呼吸する意であると、考えます。即ち胎息。)念が起きてもすぐ、その念を止めれば、どうして、「思い」に繋がることがあるだろうか。意が正しく定まれば、何を慮(おもんぱか)ることがあるだろうか。そこで、道を修めるには、必ず「坐を堅め息を定める」の功をよって、妄念や、淫らな貪りを除けば、身の定まるものは、「虚化」に入り、心の玄なるものは、「真動」に入るのである。そうして後に憂いや恐れの患いが皆、無形のうちに消えてしまうのである。しかし...弭劫寿世要旨道10

  • 酒仙済仏訓、光明への道。

    沙宝霊宝済仏、妙山より来る。衆星(多くの星)は極に拱し(北極星に向かい帰向する)天はまさに曙宿の霧が漸消し、月日が明かならんとす。但だまさに、万霊一炁に帰して、天下坦蕩(ひろびろとして、こだわりがない)承平(太平)を見んとす。哈哈(ああ)、四言(前記の詩を指す)で始まったが、談ずる程容易なことではないのである。世の中が平穏で太平であるということは、人々の望むところである。しかし、人心は昔と違って軽薄であるというのは、今日に始まったことでなく、時代が繁華(はなやか)になる程、天下の動乱が益々激しくなっていくのは、何故であろうか。人心というものは、永遠にこれで良いと言って、満足する事はないのである。そこで、人心が一たび満足することが無ければ、争奪して混乱が生じてきて、止む事がないので、聖賢といえども、又、ただ、嘆...酒仙済仏訓、光明への道。

  • 先天坐道雑記10

    ああ、坐って面倒くさい。そんな事を思う事もある。しかし、坐(す)われない、時の事を思い起こせば、贅沢な思想である。私は左官職人で、ごく稀に地方へ長期出張へ行く時がある。昔で言う、出稼ぎの如く。そうすると、一人一部屋では無く、二人一部屋であり、その中で坐する事が出来ない事がある。そこでは心坐を道とするが、礎たる形坐が出来ないのは、辛かったですね。その時は身体が坐を求め、心も魂も坐を求めて、渇いておりましたよ。なんせ、坐すれば、気が廻る。邪悪な私でも、光が吾が身体を回るのである。この、至福は、先天の坐をした者でしか、理解出来ない。故に、坐すると言う事は、幸せな道なのである。私の知人に坐する神の巫女がおられ、その躍動は半端では無い。水を得た魚の如くである。おいおい、あっという間にぬかされてしまう。共に上下は無いが、心...先天坐道雑記10

  • 坐難解道。

    坐の難しいところについては、まことに不可思議なものがあり、それは、坐が無為自然にあるからであり、また、恒にして、変わらないからである。(鬼雷述べる。人は変化をもって進化とする。されど考えてみよ、進歩とは何か。進化とは何か。悟りとは、覚え。自覚あるのみ。変化なく、任運自然なれば、人は対抗する意識なく、永遠の幸せを得る事が出来るのである。)坐が難しいとは、心が複雑で難しいのであり、易しいとは、神について言っているのである。何を心が難しいというのであろうか。それは、速功(速く効果を求める)を願う心があるからである。これは修養の大障害である。もし、その自然に任せて、その気息の往来を聞き、神をして、身体より離れないようにすれば、霊気の感通は、自ずから玄妙な境地があり、無為にして、なさざることなく、通じることなくして通ぜざ...坐難解道。

  • 令和四年三月 三六九神示。

    二つに、にう(ひび割れ)入りかけたこの世界、今のままではどうにもならぬぞよ。(注にう=陶器などのひび割れ、赤き辰、赤き鬼、独裁主義の思凝霊。)世界人類如何にする。赤き辰(龍)と赤き鬼、相談致して、世界を自在にいたそうと、様々の策を練り、コロナウィルスを撒き散らし、ロシアは戦争を起こしてウクライナの原発をも破壊せんといたしておるぞ。ロシアは我が国を守らん為と申しておるが、それを為したら共倒れとなるのじゃぞ。総べては原因結果であり、裏に隠された因縁は必ず浄化の為に浮かび上りてくるのじゃぞ。人の不幸も病も世界の様も、みな理はひとつじゃ。この度のロシアとウクライナの戦争も今に始まった事ではない。長年、くすぶりつづけておりた赤き辰の野望がプ-チンを使いて浮かび登りてまいりたのじゃ。段々とさびれてゆくロシアを立て直し出来...令和四年三月三六九神示。

  • 令和四年三月八日 小長谷修聖 三六九神示 霊視篇。

    ロシアモスクワのクレムリン宮殿が見え、その上空の薄暗い夜空に、大きな赤き辰(龍)が火煙を吹きながら舞っており、次には、中国天安門の楼上に虎の腰巻をつけた、大きな赤鬼が鉄棒を持って現れました。その鬼は上を見たり下を見たり、左や右を見たり、何か窺っているようでした。そして、丹後の男島女島の中程より、太陽が昇ると、龍や鬼の姿は消え、天之橋立飛龍観が美しく見えました。(注クレムリンの宮殿上空の赤き辰は、今ロシアを動かしている、世界を自在にせんとする野望の思凝霊であり、プ-チンもこの辰に動かされている。中国天安門の赤き鬼は、中国を動かしている思凝霊であり、今オリンピックの開催中でもあり、世界の動向を窺っておる様であろう。赤き辰は欧米を、赤き鬼は亜細亜を自在にし、末は結託して世界を支配せんとする魂胆であろう。そのような恐...令和四年三月八日小長谷修聖三六九神示霊視篇。

  • 天災人災を化す道。

    地震や台風などによる災害は、人間の因果における、原因と結果に因るものなのか。中華における、天命思想では、政事、祭り事を行う、天子、皇帝、天皇の政治が善であれば、自然災害は治まり、帝の施政が悪ければ、また、為政者に誠と徳が無ければ、業は劫を呼ぶ事となり、世は乱れ、民は困窮すると言う。帝の行いが天災に繋がると言うが、どうであろうか。確かに聖徳による感化は、世を治める。自然災害も業をも和らげる、かも知れない。原因があり、結果がある。故に、明治の世から令和にかけて、そして、その後の時代の三世も、乱世である。と考えます。世も乱れ、更に人の心が乱れる結果でもある。何を以て、世が乱れるのであろうか。世の乱れは、人の心に即応しているからである。物や金が生命よりも尊しとする思考。そして先ず、人を救う為の宗教が物や金によりて成り立...天災人災を化す道。

  • 酒仙、済仏道。

    人間関係は、縁がなければ、会うことは出来ない。其処で遇う事が出来るのは有り難い事である。それを不愉快な顔で人と遇うのは、折角の縁を台無しにしてしまう。そこで笑顔で人と遇うようにするのである。如何なる美味といえども、舌先三寸を過ぎれば、味はなくなる。それなのに、何で、美味を貪り求める必要があるのであろうか。前の人が田を耕して、後の人がその収穫を得る。それで、何で、自分だけが甘い汁を吸おうとするのであろうか。頭上三尺のところに、御神霊が鎮座しておられ、四六時中我々の言行を見ておられる。そこでどうして、自分の良心を欺き、他人を欺く事が出来るのであろうか。他人の家の富貴は、前世で善根功徳を積んだお陰である。それを自分が貧しいからと言って、何で、妬む必要があろうか。酒仙、済仏道。

  • 渡(すく)いの道。

    今世及び、来世を救おうとすれば、先ず、自分の身を修めることから、始めるべきであり、この身を修めようとすれば、心より始めるべきである。万行は一より始まり、全ての行いの基礎は一心が自ら主体となる。末は本より始まり、彰かなものは、微かなものより、始まる。結果と言うのは、原因より始まる。そこで、原因のない結果と言うものはありえないし、また、結果の無い原因と言うものはありえない。このように、一切の因果というものは、この心から、離れる事は出来ないのである。それは、例えて言えば、これがあれば、それに関連して現れてくるし、これが生じてくれば、それに関連してそれが生じて来る。そこでもし、これが無ければ、それは現れて来ないし、これが滅びてしまえば、それも滅びてしまう。心中の一念の僅かな差がやがては、千里万里の大きな誤ちとなる。初...渡(すく)いの道。

  • 滅美道。

    やれやれだ。兵劫は、人類の歴史においては、繰り返される、人の行いの結果なり。その因果は誰が生んだのであろうか、人が自らの結果に、過ぎない。人は平和を愛する。されど、自分より、平和で愛されて、親しまれる人を羨む因子が備わっている。まあ、仕方がない。そもそも兵劫とは何なのか。自断の滅びの道なり。自断とは自殺と、同意語であり、自ら、親を殺し、子を殺し、我を殺す道なり。自断とは、祖を殺し、神をも殺すなり。なんせ、人は、繋がって生きる。因果に繋がり、カルマに繋がり、徳に繋がり、人に繋がり、神に繋がっている。やれやれだ。そん中で、私は坐を以て道とする。坐れば、戦争が無くなるのか。坐れば、人が争い、嫉みを止めるのか。坐れば、皆が仲良く出来るのか。否。それでも、坐をもって、化する道とする。瞑想では無い。坐である。瞑想は、我が内...滅美道。

  • 太乙北極真経、演経録道。

    「真経の大旨」周悟担演述「北極真経」は五経経典(道教・儒教・仏教・キリスト教・イスラム教)の祖脈(大本)であり、また人生における性命の根源である。吾ら修者(修道する人)は、これを演ずることはできても、講ずる(講義する)ということは出来ない。修者は、この経の主旨を明らかにしてさらに、五経の経典によってこれを証明すれば、自ずから「北極真経」の深遠にして玄妙なることを悟ることができるので、これを疎かにしてはならないのである。上古の時代の人心は、純朴にして人情に厚かったので、教を説く必要はなかった。それが中古の時代となると人心は、だんだんと軽薄になり、五教の聖人がそれぞれ、各地に降られて、大道を明らかにされ、人心を救い、正したのである。現在は下元の末にあたり、五教の精神は漸次絶えてしまい、道より益々遠ざかってきている...太乙北極真経、演経録道。

  • 太乙北極真経演義7

    「序論(韋達氏)」更に第六巻第二節に於いては。「これらの自然に起こる、求めないでも達成する、性状は、如何にすれば、達成できるのか。そして、帰依者が日常において中道の途(みち)を辿り、中庸を用いるには、これら、六つの働きを如何に培えば良いのか。正しい方法は坐の修練のみである。その為に帰依者は、真っ直ぐに坐り、意識を鼻の先に集め、瞼は鼻を見るように低く下ろす必要がある。物理的にはゆったりとし、感情は落ち着いており、心理は静寂でなければならない。これらは全て非常に単純なようであるが、その結果は最も意義深いものである得る。彼の生命力は、自然にひとりでに上へ下へと流れ、玄奥なる身体の隅々にまで隈なく広がり、七つの車輪状の渦(即ち丹田)へと集中し、八脈が身体を巡る。その結果各丹田(Chakra)は互いに整いあって回転し、...太乙北極真経演義7

  • 太乙北極真経演義6

    「序論(韋達氏)」この「真経」は「絶対的実相、永遠なる「道」、大いなる虚、光と創造的叡智の世界」という大本の真理が具象化されたものである。また、それによって修行者が永遠なる「道」と一体化し、悟りへと至るところの、「坐」の正しい方法を指導している。それは、人を自己の完成化に到達させ、また、至上なる成就へと邁進せしめる燈台に他ならない。過去50年の間、「真経」は紅卍字会の会員達によって、月二回、陰暦の一日と十五日、あるいは、祭典などの機会に集団で誦する、お経として使用されるだけであった。そして内容については、殆ど解説されることはなかった。なぜなら、会員達は、「真経」とその解説である、「演経録」に含まれている殆どの宇宙論的、且つ難解な真理が、人知による説明をつけるには、余りに深淵で難解で、直観による霊的能力によっての...太乙北極真経演義6

  • 太乙北極真経演義道5。

    「訳者(韋達氏)の序」玄奘三蔵による、「成唯織論」の英訳を出版し終えた1974年の初頭、小生は、ペンを置いて自らの晩年を静かに、もう、これ以上の執筆活動に携わらないように、しようと、密かに決意していた。しかしながら、ことは小生が欲したようには進まなかった。何故なら、その後程なくして、「世界紅卍字会・道院」の黙真人(杜黙靖)から、幾つかの注釈と、自身の理解に基づいた、「太乙北極真経」(同時に院における、永遠なる真理と究極的実相に関する聖なる真経)の英訳と解説を引き受けないかと、提案されたからである。その提案に触れた、小生の即座の反応は、ひどい当惑であった。一方において、紅卍字会の会員として、小生は先達からの要求を拒否するべきもなかった。しかし、他方において、小生は、翻訳と解説の仕事が余りにも厳しいので、小生の能...太乙北極真経演義道5。

  • 太乙北極真経演義4

    北極真経第一巻においては、坐をする者に心が完全な平静に達し、その中で呼吸が穏やか且つ調和的で殆ど、それと知覚できぬ程まで、その心を練ることを説いている。第二巻は、身体の生命力を強化し、固めることの重要性について明らかにしている。第三巻では、計り知れぬ、比較もできぬ、そして、秘的な脳と脊髄の質について述べているが、脳と脊髄は、創造エネルギーと水(源の水)の先天的特性を有する人体の本質である。それらの世俗的なものの中にあって、実際「金」であり、「玉」である。後天世界における、邪悪な考えと悪習による汚濁は、それらが正常に機能することを停止させるのである。坐によってのみ、人は脳と脊髄の螺旋的循環力を復活する努力をすることができ、それによって、脳と脊髄の潜在力は、最高位の完成度まで、発揚することができる。究極的には、先...太乙北極真経演義4

  • 北極真経演義道3

    太乙北極真経の「首録」は、この「真経」で扱われている、あらゆる坐における重要な原理の要約であり、簡潔で正確な注釈により、坐の真なる目標を明らかにしている。即ち、肉体を創造的エネルギーへと、純化、変成させて、あらゆる物的手段を超越し、無限なる「虚」のなかに、休息させるようにする。これらの先天的(霊的)活動は、人の物理的、心理的搭載に依らず、しかし、この後天世界(現世)で完遂されねばならない。そこで、坐をする者は、自己修養の為に、その肉体を充分に活用し、限界を持つ存在としての後天の状態から、無限なる、生命の先天的状態へと回帰するべく、努力しなければならない。もし、修行者が、この世で霊的修養に打ち込まななければ、永遠なる再生への望みも全くないまま、完全なる滅亡をする可能性と、対峙しなければならないであろう。それでは...北極真経演義道3

  • 太乙北極真経演義道2

    「真経」のはじまりは、六つの部分から成っている。即ち、至聖先天老祖の御心の紋様、絶対的実相(太極)とその二面「陽」(創造的)と「陰」(受容的)の紋様、訓文(教えの詞)、六箴(訓示)、四誡(戒律)、そして六銘(銘語)である。これらの序章は、「真経」読者に、静坐を修練する前段において、自己修養に打ち込むことが必須条件であることを心に留めさせる役目がある。この序章で特に明らかにされているのは、普遍なる宇宙(空間的、物理限界を持つ、それではなく、「世界」の意)の出現、及び万物の進化に繋がった創造の原理、並びに万物の進化、先行と継承、始まりと終わりの連続、創造と破壊の仕組み、完熟と可変成の過程などを統治する自然界の法則である。これらによって、修行者は、「道」の基本理念を理解し、次に静坐が実際何の為にあるのかを知る事が出...太乙北極真経演義道2

  • 令和四年二月八日 小長谷修聖、三六九神示、霊視篇。

    北京オリンピックのスキージャンプが見え、スキーの出発点の台の上に、大きな真っ赤な鬼が越中かけて、五輪の菓子のような物を手でぶら下げ、大きな口を開けて、飲み込もうとしていました。(注赤い鬼は、今の中国を示しており、オリンピックにより、世界に、中国の国威を顕示している様であろう。)次に真っ白な雪原に、黒光りするカラスが、三羽いる様が見えました。(注烏[からす]は、熊野の神の使いであり、熊野の神、素戔嗚尊等の活動を示され、白い雪原は、陰にありて世界の和を保たれている、白山菊理姫の神の働きを示し、裏にあって世界を見守っておられる神々の働きを忘れるなとの、お示しであろう。)次に、出雲の八重垣神社の椿の木の前に、素戔嗚尊と妃の櫛稲田姫がお立ちになられ、その姿は、大本教の出口聖師と、出口澄様、夫婦の姿と変わりました。出口澄様...令和四年二月八日小長谷修聖、三六九神示、霊視篇。

  • 太乙北極真経演義道1。

    太乙北極真経は、至聖先天老祖自体であり、当体である。老祖の弟子は、これを老祖の御神体とする。たぶん。現在、ウクライナは、孤立無縁となり、大国ロシアから侵略されております。戦争は独裁者の自我の肥大である、その結果である。神々は何故、天罰覿面と成さないのであろうか。なんせ神は、自然なり。自然を以って道とするのみ。その神に近い存在に善と悪がある。聖神、邪神。いずれにしても、劫を化し、悪意を消すのが、老祖の弟子の使命である。この世に争がある限り、坐し、誦経し、カルマを化す。孤立無縁。ああ、なんて可愛そうなのであろう。力無き正義は無力なり。されど、道は無力の中にある、本当の世界。故に、此処に北極真経演義の前書きを此処に写す。「坐」は、古来より、あらゆる求道者によって、悟りへと導く重要な方途として認識され、そして修練され...太乙北極真経演義道1。

  • 令和四年二月、三六九神示。

    天から降る縦の五六七(弥勒)が横の地の三六九(みろく)と結ばれて結ばれて弥勒となりて、弥勒の世に成るのであるぞ。それを地上天国とも、日の出の世とも申すのであるぞ。神人和楽の美わしき国を、この地球の上に開かんと、世の元の艮の金神、国常立尊は、人類を現の世に住まわせたのであるぞ。世界人類は何十億あるとも、龍体から変化させた、人の身に一人残らず、親神あり、その神霊を分けて鎮めてあるぞよ。その折、丸裸の人類が、立派に成長する為に、艮の金神は、自由意志と知恵も授けたのであるが、それが為、人類は、元の親神、国常立尊のやり方があまりにも厳しく自由にならぬと、艮の方へ押し込め、自我と欲の固まりの思凝霊を人間の願いを聞いてくれる神と、崇め祈り三千年の月日が立ちたぞよ。人類の自由と知恵の働きで、ここまで、物質文明も開け、楽な世とな...令和四年二月、三六九神示。

  • 至聖先天老祖訓、世界人類を救う、道。

    道には、声も形も無いのに、どうして、その中から、喜びを見出すことが出来ようか。また、道に対して、色々な説明があるが、いずれも、皆、想像も及ばないものであって、どうしてそれを楽しみとすることが出来るだろうか。このように思い込んでいる人々は、少なくない。吾が道の修方(老祖の弟子)にとっては、むしろ、声も形も無く、限定されてないからこそ、その喜びと楽しみも、極まる所が無いのである。今は、この宇宙間に曾つてない一大危機に遭遇しようとしている。人々は、日常茶飯事において、災難が押し寄せてくれば、それを感じ取る事ができるし、その災難による苦痛がどんなものであるかは、今更、言うまでもないことである。道(坐)を行なっている修方は自らを考えてみよう。諸子(老祖の弟子)が道に入ってから今日に到るまで、その志が順調に進んだであろう...至聖先天老祖訓、世界人類を救う、道。

  • 先天坐道雑記9

    坐や瞑想とは、手段ではない。何の為の手段などであろうか。悟りに至る為の手段。霊能や超能力を得る為の手段。ははは。さらさら可笑しい。偉大なる魂を持ち、それを顕現した人たちは、瞑想や修業に頼る事なく、初めから、その一端を持って顕現している。瞑想や坐を悟りに至る「手段」として、修行するから、道を誤り、危険を犯し、挫折し、気を狂わすのである。瞑想により、霊道が開けた、悟りが開けた、超能力を得たとか、すべて、妄想の自己満足の世界であります。まして、それにより、金銭を得て、指導者となり、それを職業とすれば、必然と、金を得る、尊敬を受ける為の手段となってしまうだけの話しであります。吾が先天坐とは、自然の坐なり。そこに、多少の工夫は必要でありますが、全ては任運自然。自然である故に、手段である事なく、悟りを求めず、無欲に徹する...先天坐道雑記9

  • 元曉法師と頭蓋骨の水道。

    元曉は、唐の時代、新羅から中国へ行って、仏教の師匠とめぐり逢った。そこで色々な艱難や辛苦を舐めた。ある時、本人が修業のために、地方に出て行脚をして、真夜中に郊外で野宿をした。夜中に喉が渇いたので、水を飲もうとしたが、水が無いので、手探りで何か飲み物が無いかと、探した。瓦礫や廃墟のなかにたまたま、僅かな水があった。そこでこの水を一気に飲んで、その渇きを癒した。その水は、甘露水のように、非常に美味しかった。ああ、生命の水なり。翌日、明るくなって見ると、この水は頭蓋骨の中に溜まっていた、汚水であることに、気がついて、たちどころに、吐き気を催したのである。そこで元曉が悟って謂うには、三界(前世、今世、来世)は、唯、心の中にのみあり、多くの法は唯心が万物を認識する働きによって、分別心があらわれてくるのである。(鬼雷が述...元曉法師と頭蓋骨の水道。

  • 根本誠乾師、有無自在道。

    仏教における生きた菩薩の教訓は枚挙にいとまがない。それは、俗世間から出家した人もおり、または、居士の身分で修道する人もおり。または、官吏の身分で修道する人もおり、これらの人達の行動は、我々の修道の模範となるのである。例えば、中国の唐の時代の龍蘊居士は大富豪であり、家族全員が修道に志していた。明心見性を目的に修道していた。彼らは、自己の家にある全ての財産を船に積んで揚子江の中ほどまで行って、この船ごと破壊して全財産を水に沈めた。彼のこれらの行動は、後世の人に一大教訓を残した。その当時、ある人が彼に尋ねた。龍さん、どうしてこれらの全財産で貧しく困っているひとを救わないのですか。彼が言うには、全ての事は煩雑で多いより、少ない方がいい。更に少ないより、無い方が良いと答えた。そこで、一体何人がこの答えを理解したであろ...根本誠乾師、有無自在道。

  • 根本誠乾師、嘘も方便道。

    世間一般の人民が悪をなすのは、それは悪縁によります。もし、我々が、この悪縁を断ち切れば。この悪は、消滅してしまのであります。そこで、経典の中の一つの物語が説かれています。それば、昔のある学者が、道で、一人の狩人にでくわました。彼は丁度、兎の獲物を追いかけていたが、二股に別れた道で、兎を見失ってしまった。たまたま、この学者は狩人に出会ったので、兎がどこの道から逃げたかと聞かれた。そこで学者は兎が逃げた方向と逆の方向を教えた。それによって兎の一命を救っただけで無く、狩人は殺生の罪を犯す事なく、動物と人の命を救ったことになる。これは、嘘も方便であり、彼の心根は善良であり、悪い事をしようとしても、それは皆、失敗する。我々は、生活の上において、多くの人と物に接触するが、もし、誤りを発見した時には、各人の知恵を持って、そ...根本誠乾師、嘘も方便道。

  • 根本誠乾師、温故知新道。

    ダルマさんの教えの中に、昔から今日に至るまで、道(心)を修める人は数多くいるが、直に悟りを開いた人は、極めて稀であるのは、どうしてであろうかと、疑問を提出されています。そこで、その原因を三つ挙げております。その中のどれ一つとってみても、我々の最も犯し易い過ちであります。その第一は、近い所(身近なこと)を捨てて顧みず、遠いところに道を求めているのであり、第二は、また直実なものを捨てて、偽物に(一時的な仮のもの)に従い、第三には内(心)に、道を求める事を知らず、ただ、外にばかり道を求めている弊害について述べています。孟子にも、「求めれば得られる」とありますが、それは、自分の内にあるものを求めるからであります。また、求めれば得られ、捨てれば、これを失う。自分自身の中にあるものは、求めれば、我が身にとって益となる。こ...根本誠乾師、温故知新道。

  • 中庸道。

    中庸の書物は、どうして出来たのであろうか。それは、子思(孔子の孫)が大道の学問の伝統を失われることを心配して、作られたのである。遠くは、上古の時代より、神人や聖人の道徳や崇高な地位にあった人物が、天命を受けて、至極の道理を打ち立てたのである。このようにして、道統が今日につたえられて来た。現在でも、十六字の真伝の中で、「允(まこと)に、厥(そ)の中を執れ」という真理が伝えられて来た。この真理は、昔の中国の帝王である、尭帝が舜帝に伝えた言葉であり、更に「人心危うく、道心微かなり。惟れ精、惟れ一」を加えた。この真理は帝舜が禹王に伝えた真理である。舜帝の一句は、道の真髄を述べ尽くしている。その内容は至極の道理をすべて抱合している。更に、舜帝は、「人心危うく」などの、十二字を加えた。この真理をまとめてみると、人の心の...中庸道。

  • 朱子訓、道心と人心。

    心は神明の舎(やど)るところであり。一身の主宰である。万善(全ての善)を抱合し、万里(すべての道理)を備えている。また、五倫(仁義礼智信、五つの人倫の道)、百行(すべての行為)は、心に由って出てくるのである。故に己自身を修め、人を度(すく)い、道をひろめ、世を救うには、心体の根本のところより、恒(つね)に主宰を存するようにし、そして、心術の隠微(自分が隠そうとする悪の部分)なところにおいて、真源を清め澄まし。妄念を取り去って、自らを救い、心を明らかにして、意を誠にすべきである。それが、本来、心を正すことであり、又、心を治める最も大切な功夫でもあり、これらは、みな自らその心を養うところの所以である。尚書で明示している、「人心惟れ危うく、道心惟れ微(かす)かなり、惟れ精惟れ一、允(まこと)に厥(そ)の中を執れ」の...朱子訓、道心と人心。

  • 令和四年一月、三六九神示。

    さあ、丑歳を送り迎えた寅の敏であるぞ。トラは、十🌀🌀(とら)じゃ。十は神、神の氣の🌀🌀(うず)が巻くのじゃぞ。世の元の艮金神、国常立大神、三千年の間、悪神邪神の如く、疎まれ艮の方に押し込まれても、辛抱致し、龍宮界の守りを受けて、現の世を陰から守護致してまいりたが、愈々、三千世界に梅(埋)の花咲く五六七(ミロク)の世の十来(とうらい)の時節となり、世界に一段と立替立直しの神氣が🌀🌀(うず)を巻くぞよ。闇の世は、思凝霊や人民の悪事も、垂れ流しの汚れ穢れも見えなんだが、艮の金神の世の立直しの神権は、天照国照神(日の出神)と現れるのであるから、日が昇れば、闇は晴れ何かの事、ありやかに見えて来るのが今の世であり、物資文明隆盛の...令和四年一月、三六九神示。

  • 令和五黄壬寅四年一月八日 小長谷修聖 三六九神示 霊視篇

    始め台湾の新高山(玉山)3,952mの山頂に、白いドレスのような装束で、銀色の蔵の鍵と桃形の白い玉を持たれた女神が対岸の中国の方を向いて御立ちであり、中国の方には黒雲が立ち登っていました。(注新高山とは、日本統治の時代、最高峰であったので、新高山と称したが、本当の山名は玉山である。昭和16年12月8日ハワイ真珠湾攻撃の暗号、[新高山ノボレ、トラトラトラ]に使われた。だいぶ前の神示に、台湾に世界が伸るか反るかの鍵があるとの、神示があり、今台湾の問題で中国、アメリカがにらみ合い、中国から台湾の締め付けは、きついが、台湾は、民主共生平和の道を守ってほしいものである。玉山に白山菊理姫の神立たれ、中国、台湾の和を保たれて来た御示しであろう。)次に熊野の那智の滝が見え、その拝所に黒髪を風になびかせ、十拳の剣をぬいて持たれた...令和五黄壬寅四年一月八日小長谷修聖三六九神示霊視篇

  • 真の稲荷道

    稲荷とは、飯成りの神である。衣食住を司り、ス神が人間を思い遣り、人の為の神であられます。。。その神を宇迦之御魂神とよび、本体は、豊受大神とされる。昔は、迷信が酷く、幽界の穢れが人の欲望に呼応し、狐蛇狸と化し、多くの人を騙し瞞し、欺した。明治近年より、文明開化の流れにより、人から迷信が消えつつありました。現代でも、その多くの盲信は消えつつあり、同時に狐狸に騙される人は皆無となりましたが。されど、人は、常に自己や家族、己の一族のみを愛し、心配する。そこに占う商売が、うまれるのです。ある知人が、コロナ禍になる前に、インドの有名な星占術師者による占いで、仕事がはかどり、運気が上がる年と占って貰った人が、コロナ禍により、その年は仕事が出来なったなどと聞いた事があります。占いとは、未来予測では、無いのです。占いに執着する人...真の稲荷道

  • 十日恵比寿道。

    本日は、一月九日。この日から三日間は十日恵比寿と述べます。恵比寿は戎とも呼ばれ、蛭子系と事代主系がおられますね。共に同体異名なのか。私は今宮戎では、何の感合も得られませんでしたが、西宮恵比寿では、色々な恩恵を頂いております。。。西宮神社の恵比寿は蛭子であり、漂える神であります。その本質は如何に。蛭子とは、日留子であり、太陽神なのであります。鬼雷の独断と偏見と妄想ですが。伊奘諾、伊奘冉の神々が最初な産んだ独り神は、太陽にして、宇宙を漂える最中の神、太陽として、独立します。古事記では、伊奘諾の左目により、天照太大御神々が現れますが、それまでに太陽神や月神がおられなかったとか、否。太陽と地球、そして、月。それと北極星は、地球の生成化育、神々の斎庭として善も悪も進歩も後退も現れる奇蹟の星でございますね。当然に様々な星の...十日恵比寿道。

  • 自然神との感合道。

    正月休み最後の日、一月四日、六甲山、日の出の神の磐座(鬼雷の自称)へ行きました。去年は越木岩神社へ行こうとしたけれども、途中に火事で道路が封鎖されており、仕方なく、保久良神社へ行き、そのまま、金鳥山を越えて私のマイ聖地、日の出の神の磐座へ行きましたが、今回はチャンネルが合った感覚があり、赴きました。人には、必ず、マイ聖地が備わっております。私が初めて、神を感じたのは、宮城県仙台市です。いやその周辺。小学生の時、義父が運転する車に母と私と姉が乗っており、私は寝てしまい、あるところに止まり、降りた瞬間に、そこに神が、居られると感じた事がありました。何処の神社仏閣であったかは、わかりませんが。私の小学校時代の心は、世界征服を目論み、世界を破滅させようと、厨二病に罹っておりました。今でも中二病は、治っておりませんが。故...自然神との感合道。

  • 道よ開けよ。

    正月。あけましておめでとうございます。されど、人の不幸があれば、年賀の挨拶はしないのも人の世。幾億千万年のカナタの中で、人の行いは、維新。その命維れ、新たなりと。それが正月の意識であり、新たな年を愛でたくしたい、人の思い。世界の殆どの人の願い。除夜の鐘を聞き、初詣をし、親類とより、親しむ。最近は、私事でありますが、正月が近くなると、苦しくなる。心が押し潰されそうになる。心が晴れない。しかし、正月が過ぎれば解放される。私は独自の思考で思う。年の移り変わりなど、人間の幻想、そこに活路を見出す、人の習慣。その習慣により、人は発展もしてきたが、それにより、囚われる。めでたいとめでたくないも、紙一重。正月が来れば全ての人が幸せになる事は無い。しかし、そうなれば良いのにね。今日は正月。うちの実家からの父、母、そして、弟との...道よ開けよ。

  • 令和三年十二月、三六九神示。

    今日のこの日は、今から八十年前、日本がアメリカハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争の勃発した、日であるぞ。この戦争により、日本人の犠牲者も三百万人を越え、アジアやアメリカ世界中で大勢の者が犠牲にになった。忘れてはならぬ大戦でありたぞよ。この大戦の大きな犠牲の陰に、アジアの植民地、解放の先駆が成りたとは、申せ、この一寸法師の日本が、世界相手に大戦をいたして、絶滅せず、今日のあるのは、神のお陰であり、この大戦の事を肝に命じ、今後決して戦争を起こすような、事は絶対にならぬのであるぞ。今、戦争の辛き悲しさを忘れて、如何にも日本の守りの如く、集団的自衛権行使や、敵基地攻撃能力保有等を申し力んでおるが、先の大戦の事を思うば、再び敵を作り、攻撃するような事は出来ぬのであり、そのような事をすれば、守るどころか、日本を危なくする...令和三年十二月、三六九神示。

  • 令和三年十二月八日 小長谷修聖 三六九神示 霊視篇。

    九州島原の雲仙岳(一.四八三m)ご拝され、上空に金の玉を咥えた青龍が舞っており、そして、平成三年六月に大噴火による火砕流の様が見えました。(注昭和五十三年二月四日、島原錦宮の菅公義氏と、雲仙妙見宮にて神業す。その折、神示にて、雲(ン)仙が噴火する時は、世替わりの始めと知れ。と言う言霊を給わる。雲仙は、ンゼンであり、五十音の最後のンの言霊を秘めている。ンの言霊は、神の霊では、金勝要神(キンカツカネ)の要の働きであろう。最近、地球上に噴火地震が頻発しているのは、大地の金神、金勝要神の活動が活発になっている証しであろう。)次に錦出の山水の絵の大きな中国の壺が見え、上から下へ大きくヒビが入っており、中国服の人が数名で、焼き継ぎをして直そうとしておられましたが、中々難しそうでした。(注これは亀裂の入った...令和三年十二月八日小長谷修聖三六九神示霊視篇。

  • 天橋立道。

    幾億万年、奏多の中の一厘の仕組み。多く少なく、神業を道とする者は、一重に天橋立を目指すなり。はるばる来たぜ、天橋立。かつて、二十数年前に、道院の修方、老祖の弟子であられた、(今もです。)人生の裏側のブログを書いておられるシタテルヒコさんに連れられてやって来ました。彼を通して三六九神示の小長谷修聖さんも知りました。彼は老祖の弟子であり、私の兄弟子で、彼の独特の神との感合、現臨と言われる道を歩んでおられます。詳しくはブログをご覧下さいませ。天橋立には、元伊勢籠神社があり、その奥宮には真名井神社があり、多くの神業者が寄り付く場所でありますね。私がシタテルヒコさんに連れて行かれた、およそ、二十数年前、真名井神社は、ひっそりと神軌をエガイテおられました。磐座の隣で坐も、出来ましたし、当然に垣根などありませんでしたね。が、...天橋立道。

  • 水源道。

    太乙北極真經で曰く、木に根本あり。水に水源あり。水源木本。道院の故、根本誠乾先生は、全ての存在には、必ず根があると。貴方の根は親であり、親を大事にしなければ、自分を汚すと。確かに、人は祖に基づき、祖は神に元づく。しかし、安易には、うなづかない。親が子を殺して、子が親を殺すが人の真実の世界なり。太乙北極真經にあるがごとく、その種を滅ぼすのは、親が子を殺し、子が親を殺し、截源、自断として、種の断絶が描かれている。太古より、滅びた種は多くあり。人間はどうなのか。ただ、一部の、滅びを推奨する阿頼耶識の因果により、行われている。故に、今の人類に自断は無い。しかし、未来は不透明であり、人の因果以外に、地球に積もった劫は相当なものである。老祖の弟子は速やかに、それを化さねばならない。滅びの阿頼耶識とは、悪意の積算。積もり重な...水源道。

  • 天命を明らかにする道

    人が天命を最初から知れば、人は神の奴隷と成る。そして、神は、人に追従を望まない。ついでに書く、神は、人の利益の為の信仰を望まない。なんだ、そりゃ。されど、神は、己を愛する者を好まない。これは、永遠な真理である。神は割と自己にタンパクで、ワンパクな人を好む癖があるようだ。神は自己よりも、人の世話をする存在を好む癖があるようだ。そして、神は、創造と冒険する人を確実に愛されるなり。やれやれだ、拝み拝し、奉り、供物を捧げ、神に請い願い奉る。私を幸せにして欲しいと。無益。されど一部の眷族が呼応する。そして、呼応した存在は虚に還される。神は我欲を好まず。なんで、ですか。人の個別の意思は、詰まらないからである。ああ、つまんない。神にオベッカは要らない。人に必要な価値は要らないのである。神とは虚。そこに、心は無いが、和する心に...天命を明らかにする道

  • 神道と人道。

    地球は遍く自転し、宇宙は普く回天する。神が人に臨むのは、調和と和合である。例えば、ゴキブリ、ぼっかぶり。人は忌み嫌うなり。されど、大本二代教主出口すみは、第二次大本教事件で獄中におりながら、ぼっかぶりと仲良くなられた。人は自己が忌み嫌う存在が神により、役割を与えられている事を知らない。(すみません。私もあまり解りません。)害虫と称される存在。それは、人の見方一つ。グネグネウネル気持ちムカデ。雀蜂とは悪い存在、人に刺す蚊。人に害悪を与える存在。しかしだ、神は悪を為して善とするなり。人の感情とは、好悪あるのみ。やれやれだ。この今、地球が壊れ痛み耐えている中で、何故人は、調和より、好悪を発揮するのであろうか。それは、自分を愛して、自己の周りのみを愛する由縁。神が調和を臨むならば、人は、真理を明らかにし、全ての存在に...神道と人道。

  • 南海大士訓、明心見性(女修の坐道)。

    南海大士が南京の女道徳社に臨んで扶乩に示して曰く。修道には、本来他に妙は無く、洗心滌慮(心や想念を洗い清める)を先となし、明心見性(心を明らかにして本性を見る)する事が真の悟りであり、そして初めて、一片の清霊が現れるのです。富貴栄華は仮の虚像であり、夫妻児女は、空言であります。人生の楽しい境遇というものは、何年続くのでありましょうか。臨終が来た時には、各々、自分で処置するのです。人生はこの世に在って、どれ程の歳月を過ごす事が出来るのでありましょうか。もし、早めに修持(修道を歩む事)して、固有の天に帰らなければ(鬼雷述べる、今、生きている人は既に、天に属し、地に属し、人に属し、天国地獄に属している。人が生きている間に、神に会わねば死んでも神に会えない。また、生きている間に、天国に登らなければ、死んで天国に至る事...南海大士訓、明心見性(女修の坐道)。

  • 令和三年十一月 三六九神示

    神代の昔、龍体より、人の姿を成らせ、八百万の神の御霊を分けて身の中に鎮め、人(霊止)の身魂を成らせたのであるぞ。この地球上に高天原に成る如く神人和楽の地上天国を開かむと、人の身をこの地球に食うてゆくべき物も授け住まわせたのであるぞ。世の元からの神の祭祀忘れず、神の教えを守り、自然を汚し穢さぬように氣をつけ、海山河野の恵みも分けおって仲良く暮らせよと、神言宣を授けたのであるぞ。始めは人の数も少なく、世の元の神の教えの通り穏やかに暮らしておりたのであるが、現の世に楽土を開く為に授けた自由意志や知恵学あるのを良い事に段々と利己主義(われよし)になり、世の元の神々の厳しい教えが邪魔になると、神の言う事、聞かぬようになりて、真に大事な、地球の恵みを貪り、奪い合いの争いをいたし、貧富の差を生じて、段々と争いは広がりて、近...令和三年十一月三六九神示

  • 令和三年十一月八日 小長谷修聖 三六九神示 霊視篇

    丹後の大江山、青葉山、磯砂山、依遅ヶ尾山、金剛童子山、甲山等の山々が、次々に拝され、又、海上の冠島(男島)沓島(女島)も拝され、最後、真名井神社の磐座が拝され、紋付き袴の出口聖師様と、浄衣を着られ、金色の瓢箪を捧げ持たれた、海部光彦名誉宮司(十一月八日未明、帰幽された。)が立たれ、礼拝されていました。(注大江山、青葉山、沓島等は、艮の金神国常立大神を始め、古代丹波に縁ある、世の元からの神々が鬼や邪の如く言われ、押し込められ封じられた山や島である。丹後には、崇神天皇の御世より、三度の鬼退治の伝承がある。又、沓島[女島]は古来、龍宮神界に縁の深い島であるが、地球の国祖である艮金神国常立大神が三千年前に、封じ込められた島である。明治二十五年、丹波の出口直刀自の手を借りお筆先を現し世の立替立直しの神業を、開始した大本...令和三年十一月八日小長谷修聖三六九神示霊視篇

  • 弭劫寿世要旨道9

    太上老君(老子)が沂水道院での扶乩に臨まれて曰く。修道には必ず、"私"を治めなければならない。私を祓いのけるには、先ず、戒律を守るのである。戒律は、また多方面にわたっているが、吾が道では、三点に重きをおいている。それは、"淫"と"殺"と"盗"である。"淫"と言うのは、万悪のはじまりであり、そもそも、人として知っていながら、品行を傷つけ、名誉を汚し、家声を辱め、いろいろと素行が治らず、永久に好色漢という、不名誉な名声を頂く事になる、由縁になるのである。いわんや、その精髓が内に枯れて、強健なる体格を害(そこな)う事になり、生命を先に断ち切り、強壮なる年齢や、歳月を維持しがたくなり、身の守るべき、本分を失うにおいては、なおさらの事である。そうなれば、道(神)は一体何に身を寄せるのであろうか。これを道を破壊するところ...弭劫寿世要旨道9

  • 先天坐道雑記8

    先週の月曜日、朝7時に現場の巡回をしていて、作業に邪魔な物をどかしていたら、「ぐきっ。」ギックリ腰になってしまった。原因は、前の週に、無理して重たい物を運んだ為かな。そして、腰が弱っていたところに、日曜日、六甲山に行った後、酒を飲んで、ゴロゴロし、緊張感が無くなった為かと思います。そして月曜日早朝のグキッ。その日は痛いながらも作業をし、坐して寝たら治るかもと寝て起きたら、次の日はもの凄く痛い。歩きにくい。仕事は休みたかったけど、作業指示がややこしいかったので出勤しました。仕事中はアドレナリンが出るので、何とか持たせます。そこで実験です。先天坐の回光エネルギーにより、腰痛を治せるのか。坐中に坐功が熟練すれば悪い箇所を意識し癒しを進める事が出来ると老祖は述べておられるし。一本指整体や、頚骨のエネルギー治療では全て...先天坐道雑記8

  • 弭劫寿世要旨道、上中下元の三法。

    達磨祖師が済宓再道院の扶乩の壇に臨んで示される。坐は上・中・下元の三法に分かれる。跏趺(かふ、座禅の結跏趺坐)、単盤(同じく半跏趺坐)は、中、下元の坐である。その効果は不易では無い。しかも強制の工夫を含んでいるので、常に弊害が無きにしもあらずと感じられる。今、吾が師(至聖先天老祖を指す)は、世人の真炁が日に日に流出しているので、もし補救(助け救う)しなければ、人の世界はまさに其の世界を成さない。故に天界の秘を惜しまず、真経を伝授し、救い、教えるに、上元の坐法を以って示された。つまり、いささかでも、元炁を挽回し、元通り先天に返すことを期し、ひとえに自然に純任(まかせる)することで、坐に入る、要旨とされた所以である。自然とは、即ち先天の大道である。蓋し、少しでも無理をすれば後天の作用に堕ちてしまう。また、達磨祖...弭劫寿世要旨道、上中下元の三法。

  • 弭劫寿世要旨道。無極の坐、大極の坐。

    老祖が益都道院の扶乩の壇に臨んだ、判示で曰く。先天の坐法は無極であり、後天の坐法は大極であり、趺坐は仏坐である。坐は先天、仏坐、後天の三元(上元、中元、下元)に分けることが出来る。趺坐は、周昭元年に起こり、後天の坐は、漢孝の時、四川省の峨嵋山派より起こった。先天の坐は、自然に純任し、後天の坐には滞礙(とどこおり、妨げがある)がある。この滞という字を用いたのには、大きな意味がある。仏法が宣疏(宣べ説く)し、後世なると皆、後天的な法を以って佞仏(仏に侫す)した。佞(この字には、へつらう、おもねる。また、よこしま、ねじけるの意味がある)は学(人知のはからい)である。故に後天的な法を興し、先天の大道を忘れたもので、まことに悲しむべく、嘆かわしい。趺坐は、なお心心相印(文学言語によらず、以心伝心の心眼により、悟る)する...弭劫寿世要旨道。無極の坐、大極の坐。

  • 弭劫寿世要旨道、竅。

    孚聖が北京道院に臨んで訓示して曰く。竅とは何を以って名付けたのか。(実際の文字は、穴に交わるを書くのですが、漢字変換出来ません。太乙北極真経には、穴と交わるの文字と竅とは、分かれていて、天地間の神々の働きを穴と交わると書き、竅は、人々の働きであるように描かれていたように、頭の悪い鬼雷が、記憶しております。誤っていたら、書き直します。)竅とは、何を以って名付けたのか。名とする所が無いので、これに名付けたのである。試みに天地の交わりを考えてみよ。定まる所があるか。定まる所がないか。定まる所があって、その時を守り、その序(前後の次第)を守る事は可である。されど、その他を守り、その処を守る事は出来ない。(自然、季節の移り変わりなどの天地の交わりは、ハッキリと有形にとらえて難い。)これによって天地と交わると言うのである...弭劫寿世要旨道、竅。

  • 弭劫寿世要旨道、先天の坐法と後天の坐法。

    関聖(関羽)が、京兆道院に臨んで訓示を曰く。坐には先天、後天の区分がある。先天は膝を組まず、自然に純任し、後天とは、膝を組んで強制を取り入れる。この二者のいずれが是であるかと言えば、おのおの其の用があるのである。先天を以って入門する者は、後天を非とし、後天を以って初めて学ぶ者は、先天を笑う。どれも皆、間違いである。その先天、後天を分けて入門せしめるのは、義(意味、理由)を取るところがあるからである。その義とは、何かと言えば、こうである。本来嗜好がなく、身体が康強で、その上、青年であれば、その修は先天の坐が宜しい。また、老年でも元から疾病の無い者は、やはり先天の坐が宜しい。何故ならば、自然の坐修は、王者の功である。これを修しても急速の効果は得られない。しかし、その竅を得て、これを守るは、火候(修行の功)を一度至...弭劫寿世要旨道、先天の坐法と後天の坐法。

  • 弭劫寿世要旨道8

    老祖が天津道院の扶乩に臨まれて曰く。人事が混乱して、諸々の事が紛糾している時にあたり、人の先天の炁は充実する事が出来ず、後天の霊もまた、これによって混乱している。このように次第に移り変わり、生々化々していくと、百年ぐらいの後には、人民の天性というものは、堕落して想像するに忍びない。故に坐によってこれを補完しなければ、その霊を充す事は出来ない。「坐」というものは、個人個人が能(く)坐って、「真如の境地」に至れば、天性が日に日に回復して、清霊が日に日に活発となる。「今」と言う時間を人々は知っていながら、これを揺るがせにしているが、それはまことに惜しむべき事であり、それを一体、人はどう思うであろうか。「真如の境地」というのは、「止まるところを知って、定まり、慮(おもんぱか)る」のであって、それはみな、到達すること...弭劫寿世要旨道8

  • 弭劫寿世要旨道7

    孚聖が武昌道院での扶乩に臨まれて曰く。「修養坐の功候」と言うものは、浅い所から深い所に至り、粗い所から細かく「黙」して心霊が運(めぐ)る。それには、外のものに心が囚われることなく、本性を養い、毎日途切れる事無く続ければ、自然と一体になることが出来る。坐が「二度」に進めば、自ら心が「静」となり、息が調い、陰陽の精光が交わるのである。さらに、坐が「三度」に進めば、「真炁」が上に揚がり「純陽」が復(かえ)って来る。順を追って「五度」に進めば、「虚室、白を生じ」(人の心体が「虚」になれば、先天の炁の働きである白光が体内に自然に生じて来る事)、真晶(真に明らかなもの)が自ら昇り、邪で汚れたものは、自ら消え、病を払い退けて、寿命が延びる効果がある。さらに勤め励み、少しの間も途切れる事が無ければ、「炁」が固まり「精」が結ば...弭劫寿世要旨道7

  • 弭劫寿世要旨道6

    済仏が北京道院に臨んで扶乩で示して曰く。皆さんは「悟・候・証」の三大要点に従って坐るようにしなさい。一つは、「色欲を好むのに易(か)えて、徳を尊ぶようにする。」一つは「世尊(釈迦)に心から随(したが)い、喜び願って法を聞く。」一つは「決して天下の人々の先に立とうとしない。」ことである。この三つは皆、悟りの候を修養する上での要点である。皆さんが道を学んでいるのに、いくら時間をかけても悟ることが出来ないのは皆、根底から徹底して悟れないからである。何を「根」と言うかと言えば「人身の中の堅固で虚であり、玄妙でとらえどころが無いもの」を言う。樹木に根がある事は、皆さんの知っている通りであるが、では「根」はどこから来たのであろうか。皆さんは草木の根の仁(種の中のさね)が深く蔵されていることに注目すべきである。その仁(さね...弭劫寿世要旨道6

  • 黙真人訓、先天坐の注意点と修坐の初歩道。

    「修めるは坐より始まり、成ずるのも又、坐より始まる。」と真経にあるように、修道は必ず坐より始めなければならない。しかし、静坐しても必ず、成果が上がらないのは何故であろうか。その原因は何処にあるのだろうか。ここで同修各位と共に討論してみよう。道を修めるには、必ず心を修めなければならない。心というものは、動き易く、落ち着かせるのが難しい。これは、後天的な物欲の心であって、先天的に一人一人に授けられた元性、道心とは違うのである。先天の清浄な心は、我々がこの世に生まれて来てからの習性や物欲によって次第に束縛され、汚染されて、その結果、心を正し、意を誠にし、身を修め、家を斉(ととの)えるいう事が出来なくなっている。順って、先天本来の心にかえるのに、まず静坐より始めて心を静かにし、気を平らかにすることから始めるのである。...黙真人訓、先天坐の注意点と修坐の初歩道。

  • 弭劫寿世要旨道、先天坐の修坐の時間。

    老祖が安慶道院の扶乩に臨まれて、曰く。静の妙なるところを会得するには、ただ、坐ることだけが、基礎となるのである。人が誠を以って坐り、堅を以て行い、恒を以って守る事が出来れば、即ち、一日に四度の坐(一度を四分とす。十六分)であっても、最高に達すれば、下生不滅(生せず、滅せず、生滅に渉らず、生死を超越すること)となり、永く長生不死たることが出来るのである。また、最低でも、身体を強健にして、長寿を保つ事が出来る。たとえ、永遠に楽しむ事は出来なくても、病を退け、寿命を延ばす事は出来るのである。人々がこの様になれば、世界には、私(利己主義)が無く、貪る事無く、競わず争わず、そこで初めて、万世に太平を得る事になる。君達修方(老祖の弟子)は、勉めて励む様にせよ。それぞれ、坐功というのは、間断なくやって行けば、それによって、...弭劫寿世要旨道、先天坐の修坐の時間。

  • 弭劫寿世要旨道5

    老祖が済南道院の扶乩に臨まれて示して曰く。気運は循環しており、陰が極まった状態(山地剥易の卦)になってはじめて、陽に復(かえ)って来る。(地雷復易の卦)人間が正しい心をまったく失ってしまい、多くの罪を積み重ねてきている。全てが塞がってしまっているので、気が通じにくくなり、いろいろな混乱や動乱が表れてくる。我々が、目に触れる世の中の色々な現象は、遂に人間同士が争う様な状態になった。生機は、日に日に衰えてきているが、しかし、陰が極まった状態から一陽来復(易の卦陽が復[かえ]ってくること)の状態に挽回するのは、少数の人の心に頼らねばならない。各々が善念を発する事によって、祥和の気(穏やかで、めでたい和の気)が世の中に漲(みなぎ)り、天地自然の「仁」が自ら行われるようになる。宇宙の気は、生成化育し、絶える事が無い気...弭劫寿世要旨道5

  • 弭劫寿世要旨道4

    老祖が蚌埠道院での扶乩に臨まれて曰く。一般で言う、「世を救う」とは、本当に世を救う事では無い。何故なら、「世を救うには、先ず、自分自身を救わなければならない。」と言う事を忘れているからである。天道の運行というものには、偏った面が無く、公平無私であり、循環し、巡ってまた、元に帰って来る。満ちたモノは必ずしも欠け、欠けたモノは、また満ちてくる。徳を積んだ豊かな旧家であっても、他日、衣食に事欠くように、なるということを誰が知るだろうか。「もっかの、ところ、誰も救ってくれる人が無く、また、世を救い人を救おうの云う、心を持った人が居ない」という様な状態であっては、ならない。いつも人を救い、世を救うと言う念を抱(いだ)いていれば、惻隠の心(哀れみの心、慈愛)は、これによって養われ、長くそれを積み重ねていけば、それは、元よ...弭劫寿世要旨道4

  • 弭劫寿世要旨道3

    老祖が太原道院での扶乩に臨まれて曰く。吾が道は、内功(内修)と外功(外慈)を兼ね合わせて修める。内功とは、心を正し、身を治める事である。外功とは、衆生を遍(あまね)く救うことである。この二つの功は、宏大で、しかもまた、重要であり、絶対に自分だけの修養で満足するような事があっては、ならない。ただし、それぞれの能力が、異なっているので、それを一律に強制しては、絶対にいけない。各々が、それぞれの良心に従って行えば良いのである。外功の要点を知ろうとすれば、それは、お金を出すだけにあるのでは無い。ただ、各々が善を為すことに集中するようにし、また、力ある人には、力を出す様に進めれば良い。これも外功の一端である。以上の事をまとめて、言うならば、ただ、「誠」でありさえすれば、全ての行いは「善」になる。そして、内功と外功の関係...弭劫寿世要旨道3

  • 弭劫寿世要旨道3

    老祖が萊陽道院の扶乩に臨まれて曰く。大道の主旨は、己自身を救い、他の人をも拯(すく)うことにある。この二つのものは、共に重要であり、一方だけに偏ってはいけない。自分自身を救うことが、人を拯(すく)う上での基礎となり、人を拯(すく)わなければ、また自分自身の功を円満に成就することが難しい。自分だけの修道で満足している者は、真の「道」に入る事が出来ない。その「拯う」というのは、人を救う意味である。人が困窮していれば、これを救い、人が邪道や不正な道に溺れていれば、これを自覚させ、目覚めさせてやり、自暴自棄になっていれば、これを戒め、飢えている者には食べ物を与え、凍えているものには、衣服を与え、また、愚かな者には明らかにしてやるのである。以上の事は、皆、他人を掬う例えである。ここに「道」によって立つ所の主旨がある。弭劫寿世要旨道3

  • 弭劫寿世要旨道2

    老祖が、沂水道院での扶乩に臨まれて曰く。天と人とは、本来一つのものによって貫かれており、神や聖、これを外に向かって求めるべきでは無い。諸子が自分を修めていながら、往々にして功行が進まないのは、善を積み重ねることが充分でないからである。人には善をやらないと、責めてばかりいて、自分は無力だと言って、常に責任逃れをしている。けれども、試みに問うてみるが、古今の優れた人が果たして、「有能な人」ばかりであっただろうか。そうでなく、「無能な人」で数多くの善を行なった人は多い。吾(老祖)が君たちに、「善を為す方法」を教えよう。それは、日常、生活の中で、朝起きて、夜寝るまで、絶えず、善念を持ち続けて、そこから、離れないようにし、めいめいが、出来る限りの力を尽くす事である。いろいろな事を良く考え、実際の状況を良くつかみ、それが...弭劫寿世要旨道2

  • 令和三年十月 三六九神示

    艮金神、国常立大神の金龍体の型を示す、日本列島、北に南に地震(ない・内)い震いて、世の立替の艮坤の神氣活発に動き出したぞよ。この地球の主である、国常立大神の活動活発になりて来ると、地球浄化の雨風嵐、地震雷、荒神の荒事が起こりて来るのであるぞ。この日本政府も新しき体制となりたが、未だ未だ真実(まこと)の御魂の者は出ておらぬから、仮の体制で芝居させてあるのであるから、人民がしっかりと真実を見る目を養いて、人倫の道を歩みてまいらぬと、党利党略の口先だけの政治に振り回されてしまうぞよ。三千世界の立替立直しであるから、真に大望の経綸であり、近欲の人民では見当も取れぬ四九三(しぐみ)がいたしてあるから、それが段々世に現れてまいるから、人民、楽ばかり求めて築きて来た、体主霊従(からたま)の利己主義(われよし)の世も荷程、人知...令和三年十月三六九神示

  • 令和三年十月八日 小長谷修聖 三六九神示 霊視篇

    始め熊野の花窟が拝され、大なる磐座の前に白いドレスのような装束で、金冠を被られて、白い大輪の菊を持たれた女神が現れました。(注熊野の花の窟は、神代黄泉国で夜叉となられた伊邪那美の神の陵、また、封じ込められた千引の岩と伝えられる。その岩戸が開け、伊邪那美命が本体の白山菊理比売の神として、御現れになった証しであろう。)次に石川県小松市の白っぽい奇岩奇石のそびえ立つ中にある那谷寺や、白山神社が拝され、中心と思える磐座の上に、花窟で拝された女神と緋色の装束に黄金の玉を持たれた女神が立たれました。(注那谷寺の磐座は、海底噴火の溶岩が噴き上げて出来たものであり、白山を開かれた、越の大徳、泰澄大師が千手観音と感得し開かれた寺であり、境内に白山神社も祭られている。菊理姫と共に拝された龍宮乙姫は、瀬織津姫神であり、白山菊理姫の神...令和三年十月八日小長谷修聖三六九神示霊視篇

  • 達磨仏訓、坐道奥義。

    天は万物を生み出しているが、そこには必ずその用(はたらき)がある。それは、たとえ、塵や芥のように微小なものと言えども、必ず、それぞれその功能を具(そな)えているのである。人は天地の精をとり、陰陽の極地に造(いた)りて、万物の霊長となり、その働きの行為の功用は、どうして、朽ちた木や腐った草と同日に語る事が出来るのであろうか。故に聖明なる人は世を化し、民を教え、天下の事を以って、己自身の任務と思っている。愚鈍なる者(道心を持っていない人)は日が出ると働き、日が沈むと、休息し、家庭や吾が身を顧みることを、己自身のの任務としている。たとえ天から賦与された者が同じでは無く、それによって、事業も又、異なってくるとは言っても、しかし、その行うところ、動くところ、赴くところの道は一(同じ)である。そこで、人はこの世に生を受けて...達磨仏訓、坐道奥義。

  • 先天坐道雑記7

    ああ、ダリぃ。なんか、面白くない。いや、いつだって、面白くない自分であり、他人を面白く、おかしく出来る人間ならば、自分も面白く出来る。つまんねえ。詰まるところは、それである。そんな気分に成る時もあるってだけの話しでございます。しかし、つまらない自分にも安心はするのです。生きている大部分は、仕事で、精神を消耗し、また、高揚し、また、挫折し、また、馬鹿となり、馬鹿となれば、猪突猛進するのみ。仕事で失敗もするし、人材育成で失敗もする。(注すみません。そんなに失敗はしていませんがそんな感じの気持ちでございます。)やれやれだ。一つの間違いが、尾を引き、つまづき転覆する。しかしだ、神は何とも無い。吾が内鳴る神は、自若万全と吾が内に響いている。何故か、それは毎日、朝に坐し、夕べに鎮魂をしているからである。これにより、吾が神は...先天坐道雑記7

  • 弭劫寿要旨道。

    蕪湖道院での、扶乩で言われるには、いま、修方に対して、「坐って効果があるのかどうか。」と聞けば、ある、一修方が、それに答えて言うには、「自分が精神を集中した時には、光が両目の間で輝き、白くなったり、赤くなったり、消えたり、現れたりするが、これはおそらく精神が凝って、自分の誠に感応して、現れた、現象ではないだろうか。」達磨仏答えて曰く「まあ、座りなさい。自分は貴方に話してあげよう。貴方の修道は、まだ深い境地にまで到達していない。それらは、幻影にすぎないし、あらゆる現象は、みな、虚妄である。心に囚われるものがあるので、これら幻があらわれる。そして、それら幻を見るので、妙の境地に至ることは出来ない。妙に囚われて、かえって幻を見てしまう。」「見えるものがあれば、「見よう」と貪るので、白くなったり、赤くなったりするものが...弭劫寿要旨道。

  • 黙真人訓、坐らない時の心道。

    後天の三宝とは、精気神であり、常に後天の三宝を宝とする事が出来れば、先天では自ずから、能(よ)く充実し、運化して、自然に錬(ね)られ、自然に成就する。しかし、後天の三宝を如何にして、これを宝とするか。多くの人が、これを宝とする方法を知らず、貪欲や不正な心を以って、その好む所、楽しむ所において、後天の三は宝を消耗していながら、それを自覚していない者が大半である。吾が道院の修方は、先天の坐法に力を尽くしているが、あくまでも自然を以って主と為すので、人々の体質や気息には、それぞれの違いがあり、自分が正坐(先天坐)している時、こうすれば快適の境地になるといっても、必ずしもそうはいかないのである。そこで、問題は、自分で悟ることである。又、自ら悟る事の出来ない者は如何にすべきであろうか。一誠不ニで変わらず工夫を用いることで...黙真人訓、坐らない時の心道。

  • 済仏訓、非劫非数の運命道。

    精は霊根を養い、気は神を養う。この真のほかに、更に真は無いのである。今の世に処する上で、古(いにしえ)の道を求めるのは、多くの人がこれを迂遠と見なして笑っているし、誰もそれを為そうとしないからである。しかし、今の世に処して、修養を知らずに、非業非数の悲惨な禍に倒れる者は非常に多いのである。何を非劫非数と言うのであろうか。そもそも、数(運命)が定まるのは、人に由る。人によって定まる以上、そこに数があり、その数がある以上、必ずその劫に応じる。これが劫数の一定なるものである。それは、善根の大きな者はこれを免れる事が出来、陰徳を積んでいる者も、知らず知らずの内に劫が無くなる。これは、陰徳によって化されるのであり、これらは皆、非劫非数の範囲には、入らないのである。本来、この劫がないのに、これにかかり、本来、この数が無いの...済仏訓、非劫非数の運命道。

  • 先天坐道雑記6

    私の毎日の毎朝は、神棚の榊と六甲山から賜った松の水替え、お玉の水、供えの米の交換から初まり、それから先天坐をします。毎週日曜日には神棚清掃もします。朝だから、便を催したら、そのまま、トイレに座り坐(ざ)すりますよ。なんちゅうこと、するやと。いやいや、先天坐とは、自然の坐。催したら、トイレに座り、坐し便道するのみです。排便とは、動植物、人間に於いては、宇宙に欠かせない自然の働きでございます。坐の働きも、身体の膿を出す働きがあるので、一石三鳥でございます。身体の毒素を流し、心の滓を回光し、大便所の神との交流がございます。トイレで坐するには、和式では無理ですが、洋式トイレならば、座る高さも丁度良いのです。私が昔、岡山県に長期出張となった時、職人と相部屋でしたが、朝、はやく起きて、トイレで坐しておりましたね。悪しからず...先天坐道雑記6

  • 青囊秘録なる道。

    「青囊秘録」。この書物は千八百年の長期に渡り、失われて来たが、今回(五十年以上前)、道院のフーチにより、再び復活して来ました。これは中国の歴史上において、一代の名医と言われた華佗が愛読されておりました。後漢の末期、三国志の時代、魏の国随一の権力者であった曹操孟徳が晩年に深刻な頭痛に襲われていた。若い時の曹操孟徳は、正義感と才気に溢れ、当時随一の人物鑑定家の許子は、「治世の能臣、乱世の奸雄」と観られました。晩年、人の怨みと権力欲により、良い性が悪性へと墜ちました。曹操の頭痛を治す為に、中華随一の名医である華佗が招聘された。華佗は外科手術により、脳の腫瘍を取り除けば、頭痛は完治すると述べた。当時は頭を開く手術なる方法は無く、曹操は自分を殺害しようとしていると、疑念を持ち、華佗を投獄し、獄中死、させたのである。華佗は...青囊秘録なる道。

  • 至生命先天老祖訓、愛鳴る坐道。

    修めるは、坐(瞑想)より始める。今日に、至る所で、修を語り、坐を論じているが、しかし、能(よ)く坐の奥妙を得ている者は、実に暁天の星の如く稀である。昧然(道理に暗く、わからない様。)として進み、少しもプラスを得る事が出来ない者が大多数を占めている。これは修める者が、未だ道院に入門していないか、それとも、修坐の方法が違っているのかのどちらかであろう。さもなければ、坐功が、どうして人身にとって無益であるということが、あろうか。吾はその原因を知っている。何となれば、それ、坐とは、人が修め、性を養い、気を固め、霊を充すところの根本であり、また、人として、身を立て世に処し、事に接し、物に応じる上での重要な務めであり、人々の片時も離れることが出来ないものである。そこで、古より、以来能く、聖となり、賢となり、仏となり、祖とな...至生命先天老祖訓、愛鳴る坐道。

  • 吾が聖地道

    コロナウイルスって奴は、企業的に社会的に面倒くさいですね。身近な人が発症したら次々と感染する。そして、現場が止まる。私はヘルペスウイルスと子供の時から付き合いがあり、宿主(鬼雷)にウイルスが既に憑いているので、他のウイルスに感染しづらいのでは無いかと考えております。当然に、周囲が発熱しても、私は発熱しません。元より、インフルエンザに感染したこともありません。理由のもう一つには、毎日、納豆、医者いらずの皮付きりんご、柑橘類、リコピン豊富のトマト、腸にバナナ、おまけに、松を三食、頂いております。そして、邪気や悪気を好むように努力しております。邪気とは、嫌いな人間にほど、寄ってくるのです。悪魔は意識すればする程寄って参ります。余談ですが、古事記に曰く「蛆たかれ心来て、頭には大雷、胸には火雷・・・・。合わせて八種の雷神...吾が聖地道

  • 令和三年九月 三六九神示。

    世界中のコロナ禍を始め、ミャンマーやアフガニスタンの事など、大きな渦が巻き荒れる世界の中、オリンピック、パラリンピックも済みたな。物が豊かになる程に、始めは、真面目に助け合いておりた人類も、段々と思い上がり、神の定めた人類の道を外れ、好き勝手の道に走り、この地球を汚し穢し、戦争を重ねて、争い絶え間の無き、強い者勝ちの世として、しまったのであるぞ。この地球の五大陸に住まわせてもらっておる五色の人種は、和となりて助け合わねば、いまのような主勝手のやり方では、その末、世も行き詰まりてしまうのであり、世界が和と輪となり、道を守りて、共に助け合い、大輪(大和)の世を開けよと、この和の国、日本でオリンピックを開かせたのであるぞ。今の時代、日本にも世界にも真に世を治めて行く御魂の者を、未だ出ておらぬから、日本の首相も次々と替...令和三年九月三六九神示。

  • 令和三年九月八日 小長谷修聖 三六九神示 霊視篇

    始め北海道の中央部にある、大雪山が見え、次に南の屋久島が見え、縄文杉の下に、長く髪を垂らし金冠をつけ、剣を持たれた女神が立たれました。(注大雪山は日本の北東、艮[うしとら]にあり、屋久島は大雪山から見て南西、坤[ひつじざる]方にある。縄文杉の下の女神は、坤金神、豊雲野尊であろう。艮坤の線は、地球生成の氣の通る線であり、旧い誤りを破壊する建替[立替]の氣を発す線である。今、日本と世界も、旧来の誤った事象を建替える厳しい神氣が発せられ、コロナ禍等、渦巻く中、新しき世の建直し[立直し]も始まっている事の御示しであろう。)次に、青森の十和田湖より、青龍に乗られた女神が出現になりました。(注是は善女龍王とも、現れ給う瀬織津姫の神であろう。東北の恐山、十和田湖、田沢湖、猪苗代湖は、直線上に連なっている。瀬織津姫の神線であろ...令和三年九月八日小長谷修聖三六九神示霊視篇

  • 孚聖訓、弭化道。

    弭化(みか)と言うのは、災いが未だ現れない前に、これを無くし、劫が、未だ現れない前にこれを化する事である。人がすでに災劫の網の中に落ちた後に、救うよりは、人が未だ災劫の網の中に落ちない前に、救う方が良いのである。そこで、弭化を施すと言う事は、実に災劫を、知らず知らずのうちに、密(ひそ)かに消してしまい、人をして災劫の恐怖と恐れから免れるようにし、また、災劫の苦痛を味わい舐めさせないようにするのである。故に、弭化の二字は最高無上の慈悲ということが出来る。これが、吾が道の最初に弭化を重視する所以である。(鬼雷述べる。今から六万年前に、暗黒の世界から、老祖により、救われた御魂が集い、その灵光を繋がりとし、老祖の弟子として、今世、縁を持っているのであります。老祖の真炁(太乙北極真経)は、人は元より、草や木、石や岩をも、...孚聖訓、弭化道。

  • 済仏訓、神集道。

    神が内に凝らなければ、外に放たれる。(鬼雷述べる。内在する神は、人の心や徳、言行に呼応し、魂が掠(かす)れたり、大きくなったりする。もし悪業を行えば内鳴る神は、ナリヒソメる。善業を行えば、内鳴る神は、広く響く。人間は内在神とは、泰然としていると思っているかも、知れないが、生きて来た証しが御魂であり、内在神であり、良く凝り集まり固い純度の魂もあり、欲望と悪行により、神が散り、輝きが無くなり、魄と同化し、内在神を失う者もいるのであります。神が外に放たれるとは、その根源に帰還しているのであり、それにより、内在神は薄くなるのです。人は神の生宮であり、神主が愚であれば、神は御元に帰るのであります。)気を内に養わなければ、外に散ずる。神が放たれて、気が散ずれば、元気が必ず衰退し、精・気・神の三宝が損なわれる。これらが損なわ...済仏訓、神集道。

  • 姫神道。

    姫神とは、秘めたる神。神に生きる、女性とは妙である。前世の夙根(前世からの修養悟り。)があるにしても、世に起ち、柱となるべき人が多いのであります。家庭の中、仕事の中、厳しい環境の中、神を忘れずに、道を歩み、おのれの本性を顕現される、女性は神界から来た御魂でございます。それは、中山みき、出口直、出口澄、車小房、長沼妙佼、矢野シン等もみな神界から来られ、世直しに尽力されたのであります。白山姫観音。久しぶりにバイクで、六甲山神社を訪れました。祭神は、白山菊理媛神。六甲山神社の奥へ行き降ると白水不動尊があり、ここで、水業の為のお水を頂き、尚且つ磐笛達を沐浴させて頂きました。六甲山神社の奥を真っ直ぐ行くと葉っぱだらけで行き止まり感があります。しかし、そのまま、突っ切ります。磐座があります。ここの神主さんは、おそらくここを...姫神道。

  • 尚真人訓、渾厚の気道。

    太乙北極真経に、「渾厚の気少なく、真誠の学衰う、道滅びたるかな、道未だ亡(ほろ)びざるなり、人、自ら道を亡ぼすなり。」(丑の集第三節)とある。何を渾厚の気と言うのであろうか。それは、妄心を頼みとせず、道心を以って天命に順応することである。何を真誠の学と言うのであろうか、大学、中庸(大学中庸共に儒教の四書五経にある、2つ。)の学問がこれである。道が亡びるのは、渾厚の気が少ないからであって、どうして渾厚の気が少なくなるのであろうか。それは、人が真誠の学を学ばず、これを失ってしまったからである。そこで、妄心を以って巧みに立ち回り、要領よく人に接し、世間を渡ることをもって得意とし、新奇を競って争奪し、日に日に道より遠ざかり、自ら道を亡ぼしているのである。人心が道を亡ぼすことによって、どうして道が亡びるのであろうか。たと...尚真人訓、渾厚の気道。

  • 黙真人訓、誠は天の道。

    「誠は天の道なり。これを誠にするが人の道なり。」天の道とは、ただ、誠の一字だけである。この誠とは、純粋にして、真実なものであり、いささかも、不純にして、虚偽なものは、一切混入しておらず、無心にして、全く自然を主とするのである。これを誠にするの、一字に含んでいる意味は広大である。誠の一字について、修道の面から工夫しようと思えば、必ず純粋に努力して修めなければならない。それを具体的言うならば、この、人心の全て一切の不誠不義にして、道に合わないところを取り除いてこれを修めるのである。これら、不誠不義不純なものは、決して先天から携(たずさ)えて来たものでは無くて、生まれて来てから、後天的に染まったものである。この人の道と天の道には、有心と無心の区別があると言うけれども、人々の心がそれぞれ違っていることは、あたかも、その...黙真人訓、誠は天の道。

ブログリーダー」を活用して、鬼雷さんをフォローしませんか?

ハンドル名
鬼雷さん
ブログタイトル
玄徳道
フォロー
玄徳道

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用