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踊る埴輪
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熊谷市
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熊谷市
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2011/07/21

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  • 企画展のお知らせ

    市内万吉に所在する「立正大学博物館」では、第14回企画展として「東国の埴輪と埴輪窯」を開催します(詳細は資料・立正大学博物館HPのとおり)。 熊谷市には多数の古墳が残り、ユニークな姿の「おどる埴輪(野原古墳群)」や、端正な若人を思わせる「短甲武人埴輪(中条古墳群)」など全国でも指折りの埴輪が所在しています。また、近年の発掘調査では埴輪生産遺跡であった窯跡も市内から発見されており、熊谷産の埴輪についても研究が進められています。 今回の展示では、埴輪と生産遺跡の資料や関連する埴輪を選んで紹介しています。 (画像:立正大学博物館より)

  • 令和元年度星溪園俳句講座閉講式

    9月23日、令和元年度星溪園俳句講座の閉講式が行われました。9月下旬から当日までの計5回の講座でそのうち3回の出席があった受講者には修了書を授与しています。本年は7名の受講生に交付されました。講師を担当した熊谷俳句連盟の吉岡正雄会長は「俳句講座を通して今後も日常的に俳句を詠む習慣ができたら、視野が広がり、生活が豊かになる」と講評していました。毎年恒例となる俳句講座にはリピーターも多く、また来年の開講に向けて各受講者は再会を楽しみにしていました。

  • 文化の日「秋の茶会」 星溪園

    文化の日、星溪園「秋の茶会」。松風庵での茶席の様子 11月3日の文化に日に、熊谷市名勝「星溪園」にて、毎年恒例の熊谷茶道協会主催の「秋の茶会」が開催されます。表千家、裏千家、江戸千家による計5席のお茶席が設けられます。現在、星溪園では徐々に紅葉の季節を迎えようとしています。ぜひお越しください。 概要 『文化の日 秋の茶会』 日時:11月3日(祝) 10時~15時 会場:熊谷市名勝「星溪園」(熊谷市鎌倉町32) 全5席あり、星溪園入口で当日券を2000円で販売します。 問合せ 熊谷市立江南文化財センター 電話048-536-5062

  • 「熊谷歴史たてものレビュー ― 熊谷市の歴史的建造物を学ぶ ―」

    2019年10月23日、熊谷市立大麻生公民館にて、熊谷市の歴史的建造物について学ぶ「熊谷歴史たてものレビュー ― 熊谷市の歴史的建造物を学ぶ ―」が開催されました。熊谷市は国宝「歓喜院聖天堂」をはじめ多くの歴史的建造物が所在する「名建築」の宝庫です。名工達が建立した建造物が、長い時間を経て現在に至るまで保存され、熊谷の歴史や文化芸術の特色を明らかにしています。画像や図面などを用いて、建造物の概要を説明しながら、建物の文化財としての価値などを分かりやすくレビュー(評価、評論)しレクチャーする機会を提供しました。講師:熊谷市立江南文化財センター 山下祐樹 主任(学芸員・埼玉建築士会歴史的建造物保全活用専門家・ヘリテージマネージャー)が担当し、約40名が参加しました。

  • 寺内廃寺の整理から―2 平安時代の籾の痕跡

    弥生時代の土器には籾跡圧痕の残ることが稲作の証拠として取り上げられますが、弥生時代以後も稲作は続けられています。ときおり、火災建物跡などから炭化したモミやおにぎりが発見されて話題となります。 寺内廃寺から出土した土師器坏に籾跡痕が残っていました。坏に埋もれたように深く残る圧痕から、坏に付着したというより埋め込んだという印象を受けます。縄文土器には意図的に豆類を埋め込んだ例も知られ、特別に作られた品ではないかとの推定もあります。寺内廃寺から出土した坏に籾とはどんな意味があったのでしょうか。なお、この坏は現在のごはん茶碗のような手持ちの容器で、この形は寺内廃寺では灯明血にも使われています。 写真1 土師器坏 左側―外面、右側―内面 籾痕が残る 写真2..

  • 出土瓦から―4 ―指紋事例の追加―

    寺内廃寺の東院集落は金堂。塔のある伽藍地の東から東北に広がり溝で区画されています。その内部には竪穴住居や堀立柱建物、鍛冶炉などが確認され大量の遺物が出土しています。同所から出土した遺物にも工人の指紋が残る瓦や土器がありました。 写真1 須恵器甕の破片に残る指紋 右は拡大。拇指か 写真2 平瓦に残る指紋 右は拡大。拇指か

  • 寺内廃寺の整理から―1 ―古代の坏は左利き―

    寺内廃寺の東院集落の遺物整理から気付いたことを紹介しています。平安時代初期以降(9世紀代)、ほとんどの須恵器坏は底部に回転糸切離痕がそのまま残っています。製作地は南比企窯跡群と末野窯跡群からもたらされるもので、時代が下がるほど末野窯か、未確認の末野系窯ではないかと考えています。寺内廃寺の出土品の場合、底部や体部に墨書文字の痕跡が残ることが多いので、舐め回すように観察しています。 写真1~4で見るとおり、糸切り痕の位置が左右に偏っている例がいくつか出てきました。この糸切の偏りは何を示すかというと、ろくろの回転方向が右回転か左回転かということです(註)。この差は工人が右利きか、左利きかということを示すものと思います。今まで数百の須恵器坏を見てきましたが、ほとんどの糸切痕は写真3,4に区分されます。つまり、右回転、右利きの工人による製作と思われます。写真1、2のような左回転、左利き工人の製..

  • 旅の記憶‐17 ―真剣な旅人 高山彦九郎―

    生涯にこれほどの旅を行いその見分と道中記を綿密に記した人物は数少ないと思います。天明飢饉に際し、東北地方を巡る旅程の途上で聞き取った天明飢饉の災禍の生々しく冷静な記述は今も胸を打つほどです(北行日記)。その人は高山彦九郎といい、市域とも少なからず関わりの深い人物です。現在の太田市細谷の地に延享4年(1747)に生まれ、親戚縁者が妻沼地域にいたことから、たびたび市域を行き来しています。 40冊余り残された旅行記の中には市域の関係者や地名が多出し、市域の記事も多くみられます。詳細は全集や「高山彦九郎記念館」の展示・同館のデータベースが参考となることから、ぜひ現地やホーム頁を訪れてみてください。 なお、市域を目的とした小旅行記として安楽寺の所在する西別府を訪れた記録、「武州幡羅廻」があり、安楽寺に建つ別府氏の五輪塔と板碑を見分し簡潔な図も残しています。図と記述によると碑は九体堂の東側に東..

  • 浄安寺「お地蔵様の日」(10月23日:熊谷市御正新田)

    2013年9月の竜巻で全壊した地蔵堂から「救出」された後に修復を終え、2016年10月に一般公開された「浄安寺千体地蔵」(市指定有形文化財)が、本年も「お地蔵様の日」として10月23日に公開されます。浄安寺には、現在約650体が奉納されています。同日夕方は、参道に灯篭が置かれ、幻想的な雰囲気を感じることができます。先日も熊谷では台風による被害などもあり、文化財の保存に対して改めて意識する契機となっています。 日時:2019年10月23日17時から19時頃 場所:浄安寺(埼玉県熊谷市御正新田248-1) 入場無料

  • 旅の記憶‐16 那須野の開拓へ 4 -開拓地のその後-

    現在開墾地周辺地を見渡すと屋敷森を負う大きな住まいと南下がりの傾斜地に水田と畑が広がり、水稲や野菜が造られていることが窺われます。南方には集落の子供たちが通う「埼玉小学校」をはじめ公共施設が位置していました。さらに熊谷とのかかわりを示すモニュメントが大通りの一角にありました。太平洋戦争時に造られた「那須野陸軍飛行場」の巨大な石碑です。文面を読むと「陸軍熊谷飛行学校塩原分教所」とあります。 どうして熊谷飛行学校の分校が那須野に造られたのかは定かではありませんが、広範囲の土地が確保しやすかった点や飛行距離や飛行時間の上で教習基地として適当な環境であったと思われます。埼玉開墾地の一角を占めた飛行場基地は戦後に廃止、再び開墾され現在に至っています。所々に基地跡施設の一部が残るようですが、この大きな碑と埼玉開墾地の歴史を知り熊谷との繋がりを強く感じたところです。 那須野を訪問する機会があり..

  • 旅の記憶‐15 那須野の開拓へ 3 -熊谷から新天地へ-

    那須東原の開拓事業は明治23年頃にはめどがつき、開墾地での本格的な農業経営が始まることになります。生活の基盤か整ったこの地には「埼玉」の名が付けられ、小学校などの公共施設にも明示されています。また、小字に相当する地域名には「稲村・四方寺・奈良・上中条・北河原・熊谷・行田」などが存在しています。開拓地に郷土の地名を付けたのであり、開拓事業に当たった熊谷の人々の想いが伝わってきます。 写真1 埼玉集落の案内板 (左下方に集落の区分が示されている―写真2へ) 写真2 集落に付けられた熊谷の地名― 通り名には右側には赤字で「さきたま」と記し、 これを頭文字として「さわやか西通り」「きぼうの稲村通り」「たのしい中通」 「まごころ東通り」とまちづくりの思いが標語となっています。 ..

  • 「もの」と「ひと」の旅―15 ―どうしても見つけたい銅―

    国内での銅生産は奈良時代の「和銅」の発見から始まるようですが、それまでは銅製品の作成は銅塊や銅製品などの輸入素材から造られていました。弥生時代の銅剣・銅鐸や古墳時代の鏡などがよく知られた遺物で、これらを原料として別製品を作ることも国内では行われました。このような日本製品としてつくられた鏡は北島遺跡や冑山地区の古墳からも出土しています。仏教が広まり仏像・仏具や貨幣の鋳造など銅の需要はより高まり、朝廷はその確保に迫られました。地方に国司・郡司が配置された奈良時代以後、全国の資源調査が進められたようです。埼玉県では秩父産出の銅である「和銅」の発見が良く知られています。この発見から元号に使われたともいわれ、「和同開珎」の文字を持つ貨幣が作られました。 秩父地方は、古い地層が各所に露出し、鉱物資源や石材資源を得やすい地質と地形に特徴のある地域です。実際、市域から出土する縄文時代の石皿などの石..

  • 旅の記憶‐14 那須野の開拓へ 2 -開墾事業-

    開墾地は約1200町歩(約3×4㎞)に及ぶ山林原野を対象に、中村孫兵衛を責任者とした「那須東原開墾社」で事業を進めました。実際に現地の開墾作業や事務に当たったのは中村の意を受けた実弟の中村房五郎と現地責任者として入植した大平定治(武体村の出身)です。 現在、那須野の乳業牧場は有名です。開墾初期から乳牛牧場開発は目標にあったらしく、獣医であり自らも牧場経営を行っていた中村房五郎に協力を求めたと思われます。 那須塩原市埼玉には、明治22年に造られた「埼玉開墾墓地」があり数十の墓碑が立ち並んでいます。門柱石には大平らの名が刻まれ、この地に生涯を埋めた入植者たちの奥津城であることを示しています。やや離れた西方に「埼玉公民館」があり、敷地の一角に大正3年撰文の大きな「那須東原開墾碑」が建っています。碑文には開墾事業へ傾けた苦心が簡略に述べていますが、先人たちはこの那須野の地に自負を持って埼..

  • 「もの」と「ひと」の旅―14 ―長野県からきた黒い石―

    考古資料の発見からものの動き(流通)やかかわる古代人の活動圏(移動範囲)を知ることできます。考古遺物は天然自然のものを最小限度の加工を加えて利用していることがほとんどですが、その技術水準は頂点に達している遺物があります。ガラス質の黒曜石を細かく打ち割り、剥ぎ取り造られた小さな鏃は現代人が簡単には造りえない品です。材料となる黒曜石は限られた産出地にしかなく、荒川で拾うことはできません。その産出地も遠く伊豆諸島の神津島、天城、箱根山や長野県八ヶ岳周辺に産出地があり、市内の遺跡から多数出土する黒曜石製のナイフ形石器や矢尻は古代人が採取し運び出したものです。当時、物々交換的な交易品として取り交わされた可能性があり、地方形式の土器が出土する理由も説明できそうです。でも、疑問がわきます、産出地の情報をどうやって知りえたのでしょう。古代人は旅人であり探検家ではなかったかと想像しています。 写真1..

  • 旅の記憶‐13 那須野の開拓へ 1 -熊谷人の先人-

    明治維新後、それまで土地に縛り付けられていた多くの農民は基本的に移動の自由が保証されました。近代国家建設への道を急ぐ政府の新政策に、多くの人々は戸惑いを見せながらも、新時代の到来を歓迎した人々もまた多かったようです。そのような開明的な一人であった荻野吟子は医師となり北海道に渡ったことはよく知られています。 そのような郷土人の足跡を紹介します。ところは、栃木県那須野ヶ原、現在は牧場や農場が広がり、高級リゾート地としても知られています。しかしこの地域は明治時代以降の厳しい開拓事業により完成されたものです。その事業に市域の人々が深く関与していました。那須野ヶ原の開拓事業は明治政府の肝いり事業の側面もあり、政府高官や財界人も事業にかかわっていました。その一人に内務省出仕の吉田市右衛門(下奈良―第5代 市十郎)がおり、地域の繋がりから吉田二郎(四方寺)や稲村貫一郎(上川上)、八木原市三郎(上川..

  • フォーラム「熊谷染のデザインに触れる」 in 星溪園

    ラグビーワールドカップ2019TM、熊谷ラグビー場でのアルゼンチン対アメリカ戦当日の2019年10月9日、熊谷市名勝「星溪園」で、「熊谷染」・「熊谷型紙」をテーマにしたフォーラムを開催しました。ラグビーワールドカップへの「おもてなし」の一環で星川を彩る「ウエルカムイルミネーション」に用いられた「熊谷染型紙」の文様。フォーラムでは、デザインを担当した熊谷明美さんと「熊谷型紙」の文化財指定に向けて調査研究を進めた熊谷市立江南文化財センターの山下祐樹主任が、熊谷版インスタレーション(空間芸術)と文化財としての「熊谷型紙」をテーマに対談しました。ラグビー観戦に熊谷へ訪れたアメリカ人とアルゼンチン人観光客も参加したフォーラムとなり、約20名が熊谷染型紙のデザインについてその良さや美を共有する機会となりました。会場では熊谷さんが制作した着物、アートディレクションを行っ..

  • 旅の記憶‐18 ―路をたどる宗教者―

    道の語源は人首をかざして魔物を避けながら進んだ場所が人の通行する場所になったとされます。私見では道はまだ知られていない土地への通路であり、「未知」の世界をつなぐ意味からも「みち」とするのではないかと考えたりします。また、「路」は整備された通路と考えます。 古代には、朝廷の主導で地方と都を結ぶ陸の道、海の道が造られ、要所に駅や津という交通施設が置かれました。朝廷の管理する「官道」と、住民が交易や日常的に使う道もあって、列島に葉脈のように広がっていました。古代武蔵国は東山道と東海道が官大道になります。 中世では鎌倉に幕府が置かれたことにより鎌倉道が整備され、人馬物資の移動もより盛んになり、上は貴族や武士から下は庶民や流浪の宗教者と言われる「聖」まで諸国を通行していました。時宗開祖の一遍は諸国を巡り「南無阿弥陀仏」の賦算(ふさん)を60万人の人々に手ずから配布する願いの元、終生を旅に生..

  • 「もの」と「ひと」の旅―13 ―仏の来た道 最初の仏教遺品 立野古墳群出土杏葉―

    杏葉とは乗馬用の馬具のなかで、馬の頭部から胸や尾に掛けまわした「胸懸―むながい」や「尻繋―しりがい」に付けられた皮革や金銅で造られた装飾品です。 立野古墳のものは、銅板に金メッキを施し皮革に鋲留したようです。繋ぎとなった皮革は腐朽して残りませんが、金銅版の表面には細い線で模様が彫られています。唐草文が元になったデザインとされ、6世紀から7世紀に馬具や仏像の金具などに類例を見ることができます。精巧な製品であり、盗掘によりほとんどの部品は残りませんが完存していれば藤木古墳の馬具のような豪華な馬具であったかもしれません。類例品を見ると飛鳥の朝廷からもたらされた品で、日本最初の寺院「飛鳥寺」の本尊仏を製作した鞍作止利に代表される渡来人の一族は、その名から馬具の製作に当たった専門工人集団だったと考えられています。 古墳時代も終末期に築造が始まる立野古墳群の被葬者達は中央との特別な結びつきを..

  • 旅の記憶‐12 ―昭和初年のサイクリング―

    服部清道は板碑の研究者として知られ、板碑研究の基本図書とされる『板碑概説』昭和8年(1933年)を公刊している。研究調査の途上、市域を巡った小旅行の随筆を残している。「毛武紀行」と題した一編の第三章―世良田から熊谷まで―にみえる昭和10年7月に行われた小旅行をたどってみよう。 毛は毛野つまり、古代北関東の名で群馬栃木一帯を云う。服部は、群馬県太田市から利根川を越え武へ入る。武は武蔵で埼玉県妻沼町の古戸渡しを暮れ方「渡し船」で通行し、バスで熊谷市街に入り知人の宅へ泊す。翌朝、自転車を駆っての文化財探訪を始めた。服部の服装は和服に下駄履きだったが自転車走行は意外と快適だったとしている。 訪問地は、(熊谷 8時発)―玉洞院―大我井板碑(当時の妻沼小学校)―聖天堂―安楽寺(別府氏板碑)―(玉井)―一里塚―(熊谷市街 昼食)―熊谷寺―(荒川越え)―嘉禄の板碑(須賀広 大沼公園)―茶臼塚板碑..

  • 熊谷染のデザインに触れるフォーラム

    ラグビーワールドカップ2019TM、熊谷ラグビー場でのアルゼンチン対アメリカ戦当日の2019年10月9日、熊谷市名勝「星溪園」で、「熊谷染」・「熊谷型紙」をテーマにしたフォーラムを開催します。 国内外から熊谷を訪れる方々への「おもてなし」として、華々しく繰り広げられているウエルカムイルミネーション in 星川。このデザインでは「熊谷染」がモチーフに用いられ、夜のイルミネーションによるライトアップも熊谷版インスタレーション(空間芸術)として大きな反響を呼んでいます。 また、本年3月、熊谷染の染技法を支えた型紙については、明治時代から昭和時代まで型紙の製造を続けていた「岸家」の名を冠して、熊谷型紙「岸家」関連資料として熊谷市の有形民俗文化財に指定されました。 新たな熊谷版インスタレーションを祝し、熊谷市の文化財指定としての価値や意味を再認識することを目的に、熊谷染..

  • 「もの」と「ひと」の旅―12 ―百済で使われたつぼ―

    櫛挽台地の縁辺部に当たる奈良―中条―上之―池上付近はかつては湧泉が多くみられ、派生する小河川や水路により農業水利として古くから活用され、貴重な水源地は神の住まうところとして社や祠が建てられその環境を守つていました。 平成3年に行われた諏訪木遺跡(上之)の発掘調査では、小河川跡から祭祀遺物が多量に出土し、この須恵器が見つかりました。筒形寸胴の体部に朝顔のように大きく広がる口縁がつく「広口壺」なのですが、よく見る壺や甕とはかなり異質で発見当時から注意されていました。6世紀後半以降の「中の山古墳(さきたま古墳群)」と桜山窯跡(東松山市)、末野窯跡(寄居町)で同形品が出土したことから、県内での生産、埋納が確認されました。この須恵器壺は「有孔広口筒形土器」「平底短頸壺」と呼ばれ韓国の古墳上に埴輪のように配列された例(伏岩里2・3号墳―全羅南道羅州市―5世紀後半から6世紀前半)が知られています。..

  • 旅の記憶‐11 ―行旅の人 高山彦九郎―

    生涯にこれほどの旅を行いその見分と道中記を綿密に記した人物は数少ないと思います。天明飢饉に際し、東北地方を巡る旅程の途上で聞き取った天明飢饉の災禍の生々しく冷静な記述は今も胸を打つほどです(北行日記)。その人は高山彦九郎といい、市域とも少なからず関わりの深い人物です。現在の太田市細谷の地に延享4年(1747)に生まれ、親戚縁者が妻沼地域にいたことから、たびたび市域を行き来しています。 40冊余り残された旅行記の中には市域の関係者や地名が多出し、市域の記事も多くみられます。詳細は全集や「高山彦九郎記念館」の展示・同館のデータベースが参考となることから、ぜひ現地やホーム頁を訪れてみてください。 なお、市域を目的とした小旅行記として安楽寺の所在する西別府を訪れた記録、「武州幡羅廻」があり、安楽寺に建つ別府氏の五輪塔と板碑を見分し簡潔な図も残しています。図と記述によると碑は九体堂の東側に東..

  • 熊谷市文化財保護審議会及び第12回地域伝統芸能今昔物語実行委員会の開催

    熊谷市文化財保護審議会における熊谷市教育委員会の野原晃教育長の挨拶 第12回地域伝統芸能今昔物語実行委員会での藤間勘蓉副委員長の挨拶 10月2日、熊谷市立江南文化財センターで、令和元年度第2回熊谷市文化財保護審議会及び本年度1回目となる第12回地域伝統芸能今昔物語実行委員会が開催されました。午後1時半から開始された文化財保護審議会では、熊谷市教育委員会から審議会への文化財指定に向けた調査に関する諮問の協議と、文化財関連の公共施設再編方針案などに関する報告がありました。 午後3時15分から開始された今昔物語実行委員会では、毎年恒例となった11月23日開催の「地域伝統芸能今昔物語」の運営についての協議が行われました。本年は第12回となり熊谷文化創造館「さくらめいと」太陽のホールを会場に、無形民俗文化財と一般芸能を合わせた14団体の出演を予定しています。 ..

  • 「もの」と「ひと」の旅―11 ―上中条の小王に捧げられた祀り―

    上中条地域は米麦の穀倉地帯として知られ、古代から実りの地域であったことはこの地域を治めていたであろう豪族たちの古墳からも想像されます。昭和53年に発掘された「鎧塚古墳」は盛土を削平された前方後円墳でしたが古墳周溝が良く残り、そこから大量の土器と埴輪が出土しました。特に大型の須恵器「器台」は関東では稀な発見で、完全な形に復元され注目を集めました。日本で最初に造られた須恵器の一つだったからです。 須恵器は行田市稲荷山古墳出土鉄剣に名を刻まれたワカタケル大王(雄略天皇)の時代(5世紀後半)に「百済」から渡来した「新漢陶部高貴」を祖とする陶部の工人たちの伝承があり、大規模な窯業遺跡が経営された大阪府の陶邑古窯跡群(泉北市など)での生産が確認されています(5世紀初頭)。鎧塚古墳出土の須恵器もこれらの窯場から運ばれ、古墳を取り巻く2か所の墓前祭祀場に据え置かれていました。遺物の主体は土器類ですが..

  • ラグビーワールドカップ2019ジョージア対ウルグアイ戦 記念茶会

    9月29日、ラグビーワールドカップ2019、埼玉・熊谷ラグビー場でのジョージア対ウルグアイ戦に合わせて、熊谷市名勝「星溪園」で記念茶会が開催されました。お菓子にはラグビーボールの形をした最中が提供され、ラグビーの雰囲気を醸し出していました。無料茶会で星川などとの回遊性を楽しんでもらおうと企画されたもので、熊谷染体験などの行事も開催されました。

  • 旅の記憶‐10 幡羅郡新四国八十八ヵ所霊場 石造物

    新四国霊場の調査はそれが主目的ではなく、市内各所で行われる開発事業と埋蔵文化財の試掘確認作業や工事立会確認などの合間に行っているものです。そのため霊場資料の発見も余り増えてはいません。文化財の現状確認も兼ねていますので急がす確実に進めたいと考えています。 さて、妻沼八木田 薬師堂は第六十七番札所になっていますが、往時をしのばせる大きな四面堂が建っています。正面見上げの欄間大羽目彫刻は天女などを配し、厚みのある細部まで行き届いた彫刻で、聖天山系の彫師が関わっているように思います。須弥壇彫刻と厨子彫刻も細密な造りと見受けられます。また、格天井の花鳥画などこの薬師堂が造られた頃の威勢を感じ取ることできました。 巡拝石塔は境内の石造物に紛れて佇んでいました。下部を欠損していますが、空海像と新四国の文字が確認できます。折れているとはいえ貴重な歴史の証人です。自然に手を合わせました。 ..

  • 「もの」と「ひと」の旅―10 ―中世の銭は輸入品―

    日本の貨幣は皇朝十二銭の発行以外、甲州金(戦国大名武田氏の鋳造した金貨)などを除いて、寛永通宝(江戸時代)まで「通貨」の発行はなかったようです。代替品として、布・米・砂金などの生産物や希少品などが使われていたようです。ただこのような物々交換だけでは対価を量ることは難しく、普遍的で安定した価値と品質を持つ通貨がどうしても必要になります。中世期には中国から大量の銅銭を輸入し、国内の経済活動に使用しています。この貨幣は「渡来銭」と呼ばれ中国の唐王朝から明王朝までのほとんどの種類があり、中央の方孔に紐を通し保存や携帯していたようです。 遺跡からは落とし物や祭祀に使われた様子を示す場合や六道銭として墓に納められた状態で発見されることがあります。さらに、蓄財として大量の銭が箱や甕に納められたまま発見されることがあります。当時の有力者が埋納し、掘り出されることがないまま発見されることになったため、由来..

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