「ハマイバ」という地名は、奥州から中国にわたって無数にある。「破魔射場」と漢字でかいた地名だけ挙げて見るが、<破魔地名>常陸多賀郡黒前(くろさき)村大字黒坂字破魔射場(はまいば)三河八名(やな)郡七郷村大字名号(みょうごう)字破魔射場伊勢鈴鹿(すずか)郡関町大字新所字破魔射場同 同 亀山町大字亀山東町字破魔弓場(ゆみば)美作(みまさか)真庭(まにわ)郡美和村大字樫東字鳴ノ殖(うえ)小字破魔場石見(いわみ)美濃郡豊田...
今日も机に向かって地名などを調べていましたところ、私の携帯に着信がありました。目も悪いので知らない番号だけどと思って出て見ると、少し間があり、暫くしてから男の人の声で「こちらは大阪。。。生活安全課の者ですが、事件の事でお話があります。10分ほどよろしいですか?」と、これは何か怪しそうだと、発信の電話番号を見て見ると 下4桁が「0110」です。最近テレビで盛んにやっている「詐欺」のようです。まあ、何かあ...
屈巣【くす】・・・鴻巣市下忍【しもおし】・・・鴻巣市荊原【ばらはら】・・・鴻巣市鴻巣市の難読地名です。屈巣(くす):屈巣村は江戸期から明治29年まで存在し、明治29年に川里村の大字名となった。平成13年に川里町となり、平成17年(2005)に鴻巣市に編入となった。角川の地名辞典には屈巣は「屈須」とも書いていたとあり、地名由来を4つ紹介している。1)地名は、元は「国主」といっていたが、正長年間(1428~1429)に村社...
神戸【ごうど】・・・東松山市下青鳥【しもおおどり】・・・東松山市箭弓町【やきゅうちょう】・・・東松山市東松山市の地名を集めて見ました。神戸:「神戸」は一般に「ごうど」と読む地名は多く、その多くがその地に神社領などがあった所が多い。・東松山市神戸(ごうど)・・・かつて伊勢神宮の御厨があったため(新編武蔵)・川口市神戸(ごうど)・・・当地に神社領があったことによる(新編武蔵)・羽生市神戸(ごうど)・・...
上赤工【かみあかだくみ】・・・飯能市下赤工【しもあかだくに】・・・飯能市双柳【なみやなぎ】・・・飯能市赤工:江戸期からの地名で、江戸時代初期には「赤内匠(あかだくみ)村」が存在していた。元禄郷帖に「上赤工村」「下赤工村」とあり、この頃分村したと思われ、名前表記も変更された。角川の地名辞典には名前の由来は「赤土」に由来するという、と書かれている。また平凡社の地名辞典には大量の紙漉き(和紙)を行ってい...
牛重【うしがさね】・・・加須(かぞ)市(騎西町)上種足【かみたなだれ】・・・加須市(騎西町)中種足【なかたなだれ】・・・加須市(騎西町)下種足【しもたなだれ】・・・加須市(騎西町)牛重:「牛重」(うしがさね)という地名も江戸期からあるが、地名辞典にもその由来は書かれていない。この地域の鎮守は「天神社」で、祭りなども行われているというが、名前の「さね」は「鉄」のことを指しているのかもしれない。下記の...
靭負【ゆきえ】・・・(比企郡)小川町「靭」は一般には「靭帯」「強靭」など音読みで「じん」と読み、意味は「しなやか」です。しかし古代の律令制の職に、「靭負(ゆげい)」という職の人がいました。「靭」は「矢を入れる道具」のことで、「靭(ゆぎ)」と呼んでおり、これを背負って運ぶ人を「靭負(ゆげい)」と呼んでいました。しかし、中世ではこの矢を入れる道具は「矢巣(やす)」とも呼ばれていました。またこの名前「靭...
道祖土【さいど】・・・さいたま市緑区「道祖」と書いて、「さい」「さや」と読む地名が各地に存在する。角川の地名辞典にはこの道祖土【さいど】・・・さいたま市緑区(旧浦和市)は、江戸期は武蔵国足立郡浦和領に属し、地名の由来については2つの説が書かれている。(1)道祖土神の社があったため(新編武蔵」(2)比企郡八ツ林村の名主道祖土氏の祖先道祖土土佐守が戦国期に当地に住したため一般には人名は土地の名前から呼...
五十子【いかっこ】・・・本庄市 十二月田【しわすだ】・・・川口市 一被目【いちひめ】・・・春日部市埼玉県の数字を含んだ少し変わった地名を集めて見ました。五十子: 全国に五十とつく地名はたくさんあり、その多くの読みが「いか」「いが」である。五十嵐(いからし、いがらし)、五十土(いかづち)、五十里(いかり)、五十畑(いかばた)、五十原(いかはら)、五十浦(いかうら)、五十沢(いかざわ、いさざわ)、五...
如意【ねおい】・・・越生町 この「如意」は本来は「にょい」という。 地名の由来はこの地に行基作ともいわれる如意輪観音を本尊とする「如意寺」があったことによるという。現在は寺はなく「観音堂(如意輪堂)」のみが残されている。このお堂には応保2年(1162)の墨書銘がある木造如意輪観音半跏像(県指定文化財)がある。読みの「ねおい」も「にょい」の発音から「ねおい」と書くようになったのかもしれないが、定かでは...
上手計【かみてばか】・・・深谷市 下手計【しもてばか】・・・深谷市 血洗島【ちあらいじま】・・・深谷市手計: 深谷市に「手計」とかいて「てばか」と読む地名がありますが、鎌倉期には「手墓村(てばかむら)」という名前が見られ、「手波賀郷」などの名前も見られます。また「手墓村」は鎌倉時代に「上手墓村」と「下手墓村」に分村していた記録があります。名前の由来は、下の血洗島の話と同様で、源義家が切られた片腕...
矢颪【やおろし】 ・・・ 飯能市 征矢町【そやちょう】 ・・・ 飯能市矢颪: 角川の地名辞典には『「矢下風」とも書く。とある。また前ヶ貫村から元禄年間までに分村したと考えられる。地名由来は矢は岩、「おろし」は「崖」の意で、地形に由来するという。征矢町: 矢颪のすぐ南側にあり、総鎮守としての「征矢(そや)神社」がある。矢颪、征矢町、前ヶ貫(まえがぬき)の3つの地区の境にこの「征矢神社」があり、地名...
男衾【おぶすま】・・・寄居町 この「男衾(おぶすま)」は平安時代の倭名類聚抄(和名抄)の武蔵国の郡名として出てきます。読み方は「乎夫須萬」となっている。地域は武蔵国のやや北部で、「大里・比企・秩父・榛沢」の郡に囲まれた地区である。名前の初見は正倉院の調布に記された天平6年(714年)11月の墨書である。この地には「小被(おぶすま)神社」があり、この社が男衾郡の総鎮守と云われている。創建はかなり古く...
仏子【ぶし】・・・入間市 道佛【どうぶつ】・・・埼玉郡宮代町仏子: 角川日本地名大辞典には、『読みは「ぶし」「ぶっし」とも云うとある。また「ブシ」の意味は、この名前の多くは小平地・河岸段丘・谷頭・鈍頂の山に見られる地名であるとも云われ、また仏師、あるいは武士がもとになったともいわれる。』とある。また、平凡社の日本歴史地名体系には『永禄年間(1558~70)と推定される文書に「仏師村」の記述がみえる』と...
宮ケ谷塔【みやがやとう】・・・さいたま市見沼区 宮ケ谷戸【みやがやと】・・・深谷市 さいたまし見沼区(旧大宮市)の宮ケ谷塔のは「みやがやとう」とも「みやがやと」とも云っているようで、「田園簿」には宮ケ谷戸村と記載がある。註:武蔵田園簿・・・慶安2~3年(1649~1650)成立。郡別に村名・村高・田畑高・諸役銭・社寺朱印高・支配代官・旗本知行主・大名領主、また一国の寄高・道法・船道・村駅・古城・名所が明ら...
上敷免【じょうしきめん】・・・深谷市 番匠免【ばんしょうめん】・・・三郷市 三町免【さんちょうめん】・・・鴻巣市(吹上町) 埼玉県内で「免」の付く地名が3つありました。一般に「免」がつく地名は、「租税」が免除されていた地区についています。上敷免:江戸時代から明治22年までは「上鋪免村」と書かれていましたが、明治22年以降の大字名として「上敷免」と書くようになりました。名前の由来としては、昔の職人で「...
水判土【みずはた】・・・さいたま市西区「水判土」は「水波田」とも書き、意味は角川日本地名大辞典は、水畑=水田 の水田地帯であることにちなむか(地名誌)とある。ただし地名としては戦国期には見られ、随分古く縄文早期~後期の水判土遺跡がある。「新編武蔵」に、足立郡に「水判土荘」が見られる、とある。また、水判土地区の中央には「慈厳寺(じげんじ)」という天台宗の寺があり、「大宮水波田観音」として親しまれ、...
清河寺【せいがんじ】 ・・・ さいたま市西区 清河寺(せいがんじ)はその名の通り、ここに存在する「清河寺」という寺の周辺についた名前が、地域の分村時にそのまま村名となったものである。清河寺は臨済宗円覚寺派の寺院で、山号は「大龍山」である。1360年(正平15年)、初代鎌倉公方足利基氏の開基とされる。寺名であるので名前の由来はよくわからない。寺は応永年間(1394年 - 1428年)には足利家の祈願所として栄えたが...
指扇【さしおうぎ】 ・・・ さいたま市西区さいたま市(旧大宮市)の「指扇」は、角川地名大辞典には『指扇子・差扇とも書く。荒川と鴨川にはさまれた大宮台地上に位置する。地名由来は「さしおぎ」とも称しているが、「サシ」は日向地や傾斜地、「オギ」は崖・湿地の意があり、地形からつけられた地名である。』と書かれている。ただ、江戸の小石川指ヶ谷町(さすがやちょう)のサスは焼畑の義で、「ソリ」や「ソウリ」も焼畑...
遊馬【あすま】町 ・・・草加市 西遊馬【にしあすま】 ・・・さいたま市西区 この「遊馬」で【あすま】と読む地名が2か所ありますが、両所は結構離れておりお互いの関係は不明です。角川日本地名大辞典には、さいたま市の遊馬について『「遊間」とも書き、低湿地上にあり、「アソ」に水の浅いところ・湿地の意が、「マ」に湖沼・狭間の意があり、荒川沿岸の低湿の狭間に位置することによる(地名誌)』との説明があり...
風渡野【ふっとの】・・・さいたま市見沼区風布【ふうぷ、ふうっぷ】・・・寄居町、長瀞町「風」の付く難読地名を2つ。風渡野 角川日本地名大辞典によると、『県東部、綾瀬川右岸の大宮台地上に主として位置する。東と西に見沼の低地が入り組んでいる。地名の由来について「地名誌」には、「風渡野のフットはホトの義、ホトは女陰、噴火口の方言から地名となり、多くは河谷の名となっている」とあり、地形から生じた地名としてい...
茨城県、千葉県と続いた難読地名シリーズも3県め「埼玉県」に入ります。どれくらいまとめられるかまだ不明ですが、しり込みして居たら何も始まりませんので早速、始めましょう。第1回目は 生出塚【おいねづか】・・・鴻巣市一般に「生出」は「おいで」「はいで」などと読む場合が多く、 ・埼玉県加須市(旧大利根町)生出・・・「おいで」 ・愛知県稲沢市生出本町・・・「はいで」加須市(旧大利根町)の「生出」は角川...
ここ数回にわたって桜川市の真壁地区を紐解いています。旧陣屋があった場所に今は伝承館という施設が建ち、町の歴史などを学べます。またこの施設の周りの街並みが真壁の街並みとして国指定の建屋などがたくさん並んでいます。更に平成22年には国の「重要伝統的建造物群保存地区=重伝建」に指定されています。この街並みはどのように作られていったのでしょうか?(伝承館(旧陣屋跡)入口)この伝承館の南側の通りの西側が「下...
1,古代の新治郡の郡衙は旧協和町古郡(現桜川市)にありました。2,古代常陸国の国府である現在の石岡市からこの新治郡衙迄どのような道を通っていたのでしょうか? 距離的に近い道と考えると、両者の間には筑波山から北に延びる加波山とのの間の峠を越えていくことになります。ここに、真壁町(桜川市)の伝承館発行の一つの資料があります。「歴史の道 鎌倉街道と小栗道」これは、もう何年も前に友人から頂いた資料です。この...
本ブログ「まほらにふく風に乗って」のアクセス数(ページビュー)が本日 100万回に到達しました。 ブログ開始日:2010年8月10日 本日(達成日):2025年3月15日 総日数:5,332日 総記事数:4,021件 1日当たり閲覧数:187.5回(平均)これもブログを続けていくためのモチベーションアップ。いつまで続けられるか?・・・・・・・・地域に埋もれた歴史などを掘り起こして満15年目前に何とかクリア。こうして記録を...
真壁の伝承館のすぐわきに神社がありますが、ここは「神武天皇遥拝所」といい、「神武さま」と呼ばれています。明治14年に真壁の氏神である五所駒瀧神社の分社として建立されました。ここは神武天皇を遥拝する場所ですが、拝殿の向きはこの五所駒瀧神社の方向を向いています。その先には「鹿島神宮」方向です。五所駒瀧神社は平安時代(1014年)に鹿島神宮の御祭神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)の分霊を祀り、真壁氏の氏神...
雨引観音から真壁の町中に引き返し「伝承館」へ久しぶりに来たのだけれど少しイメージが違いました。建物が増えたのかもしれません。周りが狭く感じました。裏側の駐車場に車を停めて表の通りの方にぐるりと歩いていくと「教育発祥之地」という看板が置かれていました。その上に小さく「真壁小学校」とあり、右側には「真壁小学校創立百周年記念」と彫られています。元々この地には笠間藩の真壁陣屋がありました。そして明治6年...
先週の事ですが、久しぶりに雨引観音に立ち寄りしました。桜はまだのようですが、4月13日(日)はどうなりますか・・・・...
上曽トンネルが出来るとこの峠道を通らなくなりそうですね。という訳で峠の中腹にある五所駒瀧神社に立ち寄ってみました。石岡からの県道沿いからは裏側の入口からは入れます。入口は狭いですが、駐車場は結構広いです。「櫻斎軒」ひなまつり期間中はきっとここにも雛段が飾られていたのでしょう。今は静かにひっそりと・・・・...
石岡市と桜川市真壁町を結ぶ上曽峠のトンネルもいよいよ本年度の開通が予定されています。昨日、上曽峠を越えて真壁町へ行ってきましたので、真壁側の出口の状況を見てきました。写真は県道7号線の真壁町の出口道路部分です。この左側が国指定史跡となっている「真壁城址跡」です。多気平氏の一族であった真壁氏も佐竹氏の家臣として活躍し、佐竹氏の出羽(秋田)転封により秋田角館に800石で移りました。関ヶ原の戦いで戦功をあ...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、国分寺の鐘は鹿島郡子生村よりあがると云伝ふるより子生村の人に尋けるに、子生より一里去て上釜村と言所に鯵(あち)明神の辺に池あり、是より上ると也、国分寺迄引たる道筋は上釜村より下太田村迄の原道に七日が原八日堤下太田村より造谷村迄に折れ車鐘洗ひと云地名あり、造谷村より富田村の間にまた鐘洗といふ地名あり、是より先はしらずと也、是昔鐘を引...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、大砂新田は寛文年中平ら高の内別御割付に成、初て名主を立たり(解説)大砂は村上の東北側で、「ひまわりの郷」の手前辺り。 寛文年中は1661~1672年であり、この頃に新田を拓いたのか?...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、當所御縄は皆川山城守殿御代寛永二年より今に至る迄用る也、縄打役人は皆川御家臣岡安長左衛門、櫻田清兵衛、勝浦太郎左衛門、中嶋 此五人也、寛永三年より正保四年迄の新開き今古畑古田と号す、慶安年中より後の新開を今新切に用ゆ、寛永九年より表深杉北の位分る、格免は御當代様御仁恵を以御立被下置候(解説)縄打(なわうち)とは検地と同じような...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、山王橋(横竪) 白久橋石(横竪) 森下橋石 この三ヶ所の石は市川台岩屋窪と言所より市川にも少々残る、矢口裏の石(横竪)表門前に小堀ありて其橋石也(解説)山王は山王川、山王台などに名が残るがこの橋はどこか? 白久は今の石岡駅の北側近く、市川は恋瀬橋近く、矢口は本陣の矢口家?、 石組みの橋も結構あったのか・・・屋敷を造る時に基礎にも...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、古人の説に古當国の府と云し一躰の地は村上龍神山より鬼越山、向は雫山其内に染谷、粟田、高倉、上中下雫、夫より市川、野寺、三村、境戸、石川、夫より向地は小井戸、川中子、玉里、一町田、四ヶ村、小井戸、大橋、是を境として此内の村々を府内何村々々と言し也と聞け共、慥成る事しらず(解説)古い常陸国の国府の範囲を書いています。今のかすみがうら市...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、木ノ地町花光院は古は今の向地にて今の地は浄土屋敷と云、浄土寺と哥有て時の鐘を撞しと也、門馬場は今の土橋町へ通りし也、今の時鐘は慶長後より照光寺務る也(解説)木之地町に在るのは幸町の古墳上にあった愛宕神社が移って存在し、江戸時代はここの祭りも盛んであったらしいと云うことくらい。現在「花光院」は知らない。名前からは真言宗か浄土宗の寺院...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、青野祭古人の云伝るは、往古勅使此地へ御下向有て夫より在庁の面々供奉し鹿嶋へ拝社有之と也、後保元平治の頃世乱、夫より勅使下向なく在庁の人々にて其式を勤め(国誌には藤原の人々初るとなり)、又其後此地高浜へ鹿嶋明神勧請し、夫より今に至る迄其式を行ふ也、尤鹿嶋の社家にては別説あるや、宮中の町家にては府中にて井げた形なるを作り、神前へ用ると...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府1万1中雑記」を読み解いています。1、村上村市川村両村は寛永三年迄は全府中五千石大高の内也、同三年に御割付分つて分村と成、市川は夫より元禄年中御代官所の時迄は府中領也、先年より根本、中津川、高浜元禄年中迄は代々府中領也、此三ヶ村は古来は全く府中の地慶長年中より御割付別村に成と云伝ふ、故に高浜へは鹿嶋明神を勧請し六月廿一日祭礼の式を行ひ、又天王の浜下り高浜へ行幸有之...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、府中之地、茨城郡新治郡の違は古き事にみへたり、風土記等を見れば府中は茨城郡に紛れなし、国誌にも茨城之地今新治に属すとみへたり、然れば古茨城郡に疑なき也、慶長以来は総て新治郡と書す、唯惣社明神へ伊勢守殿奉納之弓箱に常陸国茨城郡府中と書したる斗、其余に見たる事更になし(解説)ここ府中が万葉の頃は茨城郡で、その後新治郡となり近年まで続き...
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「ハマイバ」という地名は、奥州から中国にわたって無数にある。「破魔射場」と漢字でかいた地名だけ挙げて見るが、<破魔地名>常陸多賀郡黒前(くろさき)村大字黒坂字破魔射場(はまいば)三河八名(やな)郡七郷村大字名号(みょうごう)字破魔射場伊勢鈴鹿(すずか)郡関町大字新所字破魔射場同 同 亀山町大字亀山東町字破魔弓場(ゆみば)美作(みまさか)真庭(まにわ)郡美和村大字樫東字鳴ノ殖(うえ)小字破魔場石見(いわみ)美濃郡豊田...
これも諸国の山村に数多いトツラまたはツツラという地名は、前に挙げた多々良とは何の関係もないらしい。自分はこの小名ある地のしばしば谷川の岸であることと、東北ではもっぱらトツラといい中央部から西ではツツラばかり多いのを見て、二者はともに藤その他の蔓(つる)類を意味し、その地名の発生した事由は、単にこの植物の多くある所というところだけではなく、これを採取して最も利用する作業、すなわち筏(いかだ)を組むわざに...
東西の各府県にわたって「タタラ」という地名があって、とりわけ山中に多い。久しく、この地名を「タタラ製鉄」由来としてすべてを語るのは、いかに砂鉄の分布でもおおよそ限りのあるものであろうから、その起原をことごとく鍛工または鋳工の居住に帰するのは無理であろうと思うていた。しかし、多数のタタラは必ずしも原料の所在でなくとも、工人の分散してその業を営んだためであって、しかも燃料または用水の関係及び場所の清浄...
何々屋敷という小字の中には注意すべき者が多いかと思う。ことに今は田畠や山林となっていてなおその地名を存する者などは、何か普通の農民にあらざる者が居住したために、その地を別異にする風があった結果かと認められる。その一例として金子屋敷のことを言おう。もっとも金子という地名はいくらもある。今の美作(みまさか)苫田(とまた)郡加茂村大字黒木字樫原に金屋護神(かなやごじん)という祠がある。銕山(かなやま)の守護神だ...
「グリ」は各地で、海中の暗礁のことをそう呼んでいる。また地域によっては陸上でも岩の事を指す場合もある。「はなぐり」などよよばれる大きな立岩があるマクリ・シワナグリ・イスズグリ等とあり、、一合ぐり・宇田島ぐり・姫ぐり等もある。『和漢三才図会』には涅、和名久利、水中黒土などが載っている。東京などでも道路に敷く小さな割石をワリグリと呼んでいる。「ハエ」というのも中国・四国の海辺で、弘く暗礁を意味する語で...
水田を「ウダ」というという説があるが、ウダは果して単純なる水田だろうか。東北地方の多くの宇田という地名には注意せられぬまでも、鴫(しぎ)わな張ると大昔の歌にもある大和の菟田県(うたのあがた)などがあり、ウダは九州に多い牟田(むた)と同じ語ではなかろうか。長門風土記の阿武郡椿郷東分村松本船津組字無田ヶ原の条に「「小畑へ行く道なり、家二軒あり、むたヶ原、ぬたヶ原・うたヶ原とも唱え、文字定かならず」とある。ま...
関東平野の丘陵と丘陵の間、いわゆる窪またはヤツという地形の処を、田畑に開いた場合に一つの特色がある。・常磐線の利根川附近などは、そう言った風の田畑が丘の根方まで、ずっと境なしに続いている。・浦和辺では、地が低く沼がちで水の多いためか、丘と田畑との境には溝があって、丘の裾(すそ)から湧(わ)く清水が直接流れこまぬよう、やや温かくなってから田へ落すようにしてある。これらの溝を流れる水は相当の量となって川に...
「ダイ」という地名は大きく分けて三種類ある。1) ○〇台:高台などと云うように、文字通りに物の台などと似寄っているからの名であろう。2) ○〇代:河内・和泉その他畿内の国々では、上代(かみだい)、下代(しもだい)、東代、西代など、耕地の一区域をシロと言ったのが元かも知れぬ。3) ○〇岱:岩手・青森・秋田の諸県で多く使われ、堆、平の字を当てている例もある。またこのタイはサワ(沢)に対して使われている。これはア...
朝日という地名が朝日をよく受ける特徴からできたことは地形だけからでも疑いがない。これに対するカクノのカクは、あるいは「隠れる」などの語と縁のある陰地の義ではあるまいか。関東・東北に多い角間(かくま)または鹿熊など書く地名も、これと同事由かも知れぬ。川の隈だからとは説明しにくいカクマもずいぶんある。もっとも山の北または西に当る日影に乏しい処は、東国ではアテラというのが普通である。大和・伊勢でこれをオン...
「潟」カタ、ガタという地名は太平洋岸にも愛知潟(あゆちがた)・平潟などの古い例はあるが、まずは日本海海岸に特有なものである。川口の砂浜がすでに必ずしもその川の搬出した物でないとすれば、もちろんさしたる川の流れて出ぬ海岸にも、砂嘴はできるはずである。汀(みぎわ)の屈折した静かな入江、ないしは海沿いの低地の地先に、砂の堤がおいおい高くなって来ると、それから内側はすなわち潟である。荒浪が幾度となくこれを毀(...
大森停車場の上の八景坂はどう考えてみても八景一覧の地とは思われぬ。近年たびたびの土工などのためにやがて地形も不明になろうから、今の間にあの地名の何を意味するかを確かめておこう。大森の八景坂は、岡の上(ハナワ)の村里から浜辺へ下りて行く坂のことで、風流という物を知らぬ人の附けた名だろう。ハッケまたはハケは東国一般に岡の端の部分を表示する普通名詞である。武蔵には特にこれから出た地名が多い。甲武線の附近...
武隈(たけくま)の塙(はなわ)の松は有名なる奥州の歌名所で、古来人のもてはやす所である。武隈という地名の起原は、一説には阿武隈(あぶくま)の阿の字が脱落したのだろうとあるが、阿武隈や武隈の名はともに中国以西に多い久万(くま)もしくは何隈という地のごとく、水流の屈曲している地形を意味する普通名詞であろう。塙の字は多分は和製の合意文字で、土の高い処がすなわちハナワであることを証している。(圷:アクツはこれの...
・土居(ドイ):堺などの置土をドイ、ドエなどとという所は多くあり、土手を言う言葉と思う。この土の堤防で囲まれた屋敷などが昔はドイと呼ばれたとしても、土居は決して近世にいわゆるドイをもって取り囲むことを要せず、単に武家の屋敷を指してそう呼ばれたりしたようである。この土居の地名の多く存している中国・四国の村々に入り、その地形を審(つまびら)かにしつつ昔からの生活を考えたら、多くの面白い事実が発見せられる...
・根岸(ねぎし):山の根岸の義としか考えられないが、関東から奥羽へかけて数多い地名であり、何故この地名がはなはだ多く発生したか?第一には村が高い処から下りて来る傾向である。そのため、根岸という村は、根岸に家を作って開発するのが便利であった土地が新田となった時代にできたものと見てもよろしい。(比較的新しい時代にできた)第二には荘園が小さく分裂し、多くの小名が各自館を構えて兵備を事とする際、家来と農夫...
「堀之内」という地名は非常に数多くあり、堀からすぐに中世以降の城の堀を考えるが、そこに村が起こっていることを考えれば、「城址」と考えるのは早計であろう。多くの堀ノ内の地名のある場所で「城址」の説明がされているが、地名となったのはもっと古い頃ではないかと思える。中古の武家は通例砦の中には住まず、戦時の防禦地は険阻の山の上にあって、平時は平地に今の大地主のようにして住んでいた。堀之内の堀はその屋敷を取...
・東北六県に地名としてまた普通名詞として最も広く行わるるタテ(館)という地名は、漢字が「館」であるので武士の居宅を想像するが、館は国訓タチであってタテではない。しかも奥州のタテは古くは「楯」の字も用いられて始めからタテである。・代表的に実物をもって示しているのが、常陸真壁(まかべ)郡下館(しもだて)の町(現茨城県下館市)である。また北足立郡志木(しき)の町(現埼玉県志木市)も、古くは「館村」と呼ばれてお...
垣内(かいと)問題は、郷土研究で必ず研究すべき課題であったが、必ずしもこれと云った説に接していない。これはそれだけ込み入った事柄である。垣内は文字のごとく垣の内でいわゆる土豪の囲い込んだ地域を意味する。しかし、これがその後いろいろな村の属地の義に転んじたり、切り開いた新部落をよぶようになった。東京近郊で村附の山野を開いた一区をサンヤ(山谷、三屋などと書く)というのと同じであろう。・『三州志』などに...
・山居(サンキョ):家族が増えて、遠い原野の開墾に着手し、別な居を構える「散居」が元の言葉か?関東から奥羽にかけての地名にサンキョというものが多くある。「散居」「参居」「三居」「山居」などと書く。文字のごとく山中の住居の義かと思っていたが、不思議に平地にも往々にこの名がある。たとえば羽後酒田港で有名な米穀倉庫の所在地なども確か山居であった。市街から少し離れ最上(もがみ)川の川口に臨んだ水郷である。房...
・イナカ=田舎 とはどの範囲を表しているのだろうか?イは居であって、イナカは民居の中ではないかと思う。 田舎という語の最も古く顕われたのは『日本書紀』垂仁天皇の二年、意富加羅(おおから)国王の子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の伝説である。その中の黄牛(あめうし)に田器を負わせて田舎に将往(い)かんとすとあって、田舎の二字をいつの頃よりかイナカと訓ませている。昔は今でいう田舎それ自身の中において、特に田舎...
・軽井沢:「カルウ=背負う」から、この地で馬から人の背に荷物を積みかえ人力で山を越す仕度をした場所? 軽井沢と称する地で最も有名なものは、もちろん中仙道碓氷(うすい)峠の軽井沢である。この「軽井沢」という地名が諸国にわたって多いことと、それが知れている限りいずれも峠路の麓にあることとを注意していた。この地名の意を今までの書物では、「涸渓(かれさわ)の義(村岡櫟斎(れきさい)翁)」とか「水源涸渇の渓頭(吉...
常陸国風土記の香島郡の冒頭に「天の大神、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天(あめ)の大神と称ふ」と書かれています。また、信太郡の条でも、「榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗ることが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。」と書かれています。香島の大神=鹿...
鹿島神宮にはよく人が訪れていますが、すぐ近くの鹿島城があった場所は観光客はあまり足を向けません。ここのは大きな城跡公園があり、桜の名所でもあるので、地元の方は良く知っておられるのだと思います。鹿島神宮から入口の鳥居「二の鳥居」と大船津にある「一の鳥居」とをつなぐ位置にあります。実際はこの神宮も城跡も高台にあるので、この城跡は一の鳥居側からは山の上にあります。以前に訪れた時は国道沿いのこの城山の麓...
昨年の常陸国風土記の勉強会から来週鹿島地方を巡ろうと計画している。そこで銚子に行くときに途中で何か所かを再訪問してみた。ここは鹿島神宮の一の鳥居のある「大船津」。やはり大きな赤い鳥居が水の中にあるのは神々しい。今は隣に橋が3本架かっている。鉄道の橋。国道が2本。一番手前が古くなり新しい橋を架けたが、まだ使用されている。この大船津は古代からきっと様々な歴史を持って居た場所だと思う。対岸は潮来地方だが...
昨日銚子に向かう途中で、神栖市にいるコウノトリの巣を見てきました。コウノトリは渡り鳥だから冬場から春先に入るものだと思い込んでいましたが、日本で過ごす番がいるのですね。場所は利根川に架かる有料の「かもめ大橋」のすこし上流側の神栖市波崎の国道124号線の旧道沿い。ここに巣の塔が設置され、親鳥と四の雛がいるようです。昨年は二羽の雛が育ち、今年は四羽が確認されているようです。周りは余り人家はありません...
先週木曜日に東京の小石川後楽園に行ってきました。大学時代の研究室の同期を中心とした集まり(飲み会)で、この庭園内にある「涵徳亭」の日本間を予約して8名程が集まりました。私の居る「石岡」は同じ水戸藩の支藩の常陸府中藩でしたので、この庭園の東側の小石川植物園に近いところに藩邸がありました。ただ、播磨守を拝命していましたので「播磨屋敷、播磨様」と呼ばれていましたので、今は桜の名所である「はりま坂」あた...
本日が、この事務所(石岡市国府)での「ふるさと風の会」会合も今日が最後となりました。感謝を込めてきれいなお花を頂きました。色々ありましたが風の会はこの5月で満18年が経過しました。来月からは「まちかど情報センター」さんの場所を月2回の会合場所として、また会報「ふるさと風」の印刷場所としてお借りして再出発します。この事務所も10年以上使ってきましたが、オーナーさんの事情で今月いっぱいで引き渡しするこ...
以下は2013年11月の「ふるさと”風”」に投稿した記事です。2013年9月19日にJR函館線でおきた脱線事故の後に書いたもの。10年後の昨年9月19日にNHKでこの事故を教訓とした現在の安全確保の取り組みという内容の報告がありました (NHKの記事 ⇒ こちら)事故は無くなるのかさて、最近の事故ニュースではJR北海道の貨物列車脱線事故がある。そして事故直後のJR北海道の説明が波紋を投げかけている。レールは常に列車の遠心力など...
これは「ふるさと”風”」の機関紙に書いた文章であるが、時々思い出したくなることがあり、こちらに「備忘録」として残しておきます。以下は2014年8月の「ふるさと風」機関誌の記事です。今から10年ほど前にも世界の日本も、かかわらずあまり変わっていないように思われます。ダブルスタンダード 今年の夏はエルニーニョの発生で北日本は冷夏だと騒いでいたが、何の事は無い梅雨明けと共に物凄い暑さに襲われている。体力が無くなっ...
潮来もあやめ祭り(5/17~6/16)も先週末から始まっていますが、外は雨。何か余り元気もなさそうですが・・・・この時期に合わせて長勝寺の仏像の開帳されているかとも思い、古刹長勝寺へ。檀家の方でしょうか法事らしい人の姿も散見。でも本堂は開いておりませんでした。本堂前の菩提樹の木もまた蕾もほとんど見られません。いつもより遅いのかしら・・・・。新緑はまぶしいくらい。この自準亭で詠んだ芭蕉たちの俳句碑、説明版...
ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...
小林一茶は故郷信濃(柏原)に戻り、居を構えた後も、江戸から房総方面の俳諧仲間の所を訪ね、俳句を教え旅費や生活費の稼ぎをしていました。そんな中で生まれたばかりの長男を亡くした後に、やってきた俳諧行脚ともいえる房総・常陸国の旅が文化14年(1817年)前半にありました。一茶の7番日記に記載されている日記の内容から読んでみたいと思います。前回、信濃と江戸との往復に旅程などを述べましたので、今回は房総への旅で...
芭蕉の鹿島紀行を巡るとして6回に分けて記事を書いてきました。そこにもう一つ記事を追加しておきます。それは小林一茶が同じように鹿島へも訪れていることです。一茶が鹿島へやってきたのは文化十四年(1817)の五月(旧暦)末です。芭蕉が鹿島に来たのは「貞享四年(1687)八月の中秋の名月」ですから一茶は130年後になります。芭蕉の生まれは寛永21年(正保元年、1644年)伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)です。一方一...
松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...
潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...
昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...
桜もだいぶ咲き始めました。今朝、市内の国府公園にいってみました。桜ももうだいぶ咲いています。桜と考える人?彫刻またスズランもきれいです。オオアラセイトウ(紫ハナナ、紫金草、花ダイコン)...