「ハマイバ」という地名は、奥州から中国にわたって無数にある。「破魔射場」と漢字でかいた地名だけ挙げて見るが、<破魔地名>常陸多賀郡黒前(くろさき)村大字黒坂字破魔射場(はまいば)三河八名(やな)郡七郷村大字名号(みょうごう)字破魔射場伊勢鈴鹿(すずか)郡関町大字新所字破魔射場同 同 亀山町大字亀山東町字破魔弓場(ゆみば)美作(みまさか)真庭(まにわ)郡美和村大字樫東字鳴ノ殖(うえ)小字破魔場石見(いわみ)美濃郡豊田...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、當地を平村に書事、慶長より寛文延宝の頃迄諸記にみへず、天和貞享の頃より少々見ゆ、就中元禄の頃より平村と書たる多し、古説色々あれ共不祥(解説)江戸時代の府中は「平村(たいらむら)」と呼ばれていましたが、何時からこの名前になったのかを調べています。江戸時代は慶長8年(1603)から始まり、元和、寛永、正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文、延宝...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、皆川山城守殿元和八年より寛永二十年迄府中被為領也 御嫡男又三郎殿、後山城守と也、御父御隠居し老甫と号せられたる也、神君に仕へ奉られし人にて落穂集に委く見へたり、二男又四郎殿寛永三年染谷村上両村にて千石を以て分地し、今に又四郎殿子孫領す、此時代も御城と称へし也、皆川家分限帖の中に御宮様御内お亀との渡りとて月毎の渡し方あり、又検地に...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、佐竹左衛門義尚天正十八年より慶長七年迄府中を領し羽州へ移る 世に水戸より南に當る故に南左衛門殿と云しと也、此時代までは古城と唱へずして御城と云しと也1、六郷兵庫頭殿慶長七年より元和四年迄領して羽州へ移る 此代も御城と云、城中に大破したる櫓壱ヶ所有りしを崩したるによりて其材木を用て花園寺の本堂建し也、享保十三申年焼失せしと也、照光...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、表川左右の土手は寛永の中頃水除同前に此処に築て年毎に段々築上て、正保三年に池袋大境より高浜明神下、また向は別所下より三村堺堂まで、両土手の間地府中四組、市川、根本、中津川、高浜、三村上下、田中、大橋、四箇村、小井戸、此村之石高に割付畢て成就す1、表新川(解説)表川(恋瀬川)の土手を築上して確保された耕作地をそれぞれの村に割り付けた。...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、花園寺脇より室貝への道は花園寺地也、六郷兵庫頭殿御時代に今の墓所替地と成、又室貝の堀より富田迄道に添て堀形、是は 埋て新畠と成、富田より田ばた迄も堀形少は右由いへども時代別れ難し(解説)花園寺は金丸寿通り沿いにある「常栄山本光院華園寺」です。一遍上人の時宗です。享保13年(1728)と昭和4年(1929)の火事で全焼しており、詳しい創建などに関...
江戸時代の常陸府中(石岡)の「府中雑記」を読み解いています。1、東耀寺先年の馬場は長峯寺町へ通る、今土橋町への馬場は 堀半分を埋て今の馬場と成、有野明神の後の堀箱の内へ通り、同石井の池宝暦六子年に埋み畑と成、京の馬場より宮部筋迄の堀は正保年中埋みたると見たり(解説)ここでの「馬場」は馬の通る道路であろうか?一般に云う馬場は馬を訓練したりできる広場かと思っていたが、新たな町立てに城跡として残されて...
江戸時代の常陸府中(石岡)の「府中雑記」を読み解いています。1、香丸丸町上町へ青木町裏の堀中の内千蔵院の脇へつきたる也、中興鍛治左衛門屋敷是也、此屋敷より千手院門前并新宿迄の町形相違せり、元和年中千手院の地替地中の内後ろにて御引替、今の町形になれり、是六郷兵庫頭殿之御時代也(解説)天正18年(1590)12月に佐竹氏により府中の大掾氏は滅ぼされ、町中も灰になったと考えられる。清凉寺や宮部不動院などは兵火で...
江戸時代の常陸府中(石岡)の「府中雑記」を読み解いています。1、中町下町木の地へ通る道、森木同時に新道と成、御札場本矢口前にあり、寛永の末水戸御元祖頼房公御旅館となり、御門前下馬前に相成に付て福聚院門前に移す、扨天王前矢口の塀の前角に享保十三申の年大火まで清明石と号せし石あり、一名市神といへり、今福聚院門内に移す、其石の後へ愛宕柱と名付て一株立てり、月毎廿四日森木町八代院来、法楽して札を蔵めし也(...
江戸時代の常陸府中(石岡)の「府中雑記」を読み解いています。1、清凉寺馬場、慶長迄は表通りへつかずして寛永年中今の如くなれり、その馬場は今の中川より木の地下の坪へ通し也、中川より南の方は小道にて、森木稲荷宮の辺へ小道ありて東の方へ森木の通道へ出る也、又森木迄之町天王仮屋の地裏にて御除、慶長年中に表口三間裏行街並となれり(解説)この文章が書かれた元禄・宝永(1688~1711)の頃に、どのような街並みになっ...
江戸時代の常陸府中(石岡)の「府中雑記」を読み解いています。1、森の木、香丸、金丸、富田四ヶ所の入口小土手ありて木戸をすえ番人を置き、明暦申年土手を崩し屋敷となれり、是を今に申木戸屋敷いふ、森の木下の組東の方富田へ出る、近来の新道也、扨森木中の組東側裏より富田水道へ通りて掘形ありて屋敷に開けず、寛永の初開けて屋敷と成(解説)江戸初期の町立てが各藩で行われた時、ここ府中(石岡)、佐竹氏が慶長7年(1602...
江戸時代の常陸府中(石岡)「府中雑記」を読み解いています。1、駒くゞり表川、三四百年以前は船橋にて渡る所ありと見ゑたり、税所古記に市川船橋に於て片野彦四郎申軍忠之事と書したる記あり、又慶長の初頃はたぬまより深立ほろ沼の辺に田にならざる地多くあり、又寛永中頃是を開けり、今其所を古田といへり、また寛永の古絵図に橋二つあり、一つは今の古川といふ所也(解説)表川は今の恋瀬川のことで、常陸国風土記にも「表川...
江戸時代の常陸府中(石岡)「府中雑記」を読み解いています。1、大掾清幹の嫡男慶松丸の墓所、中町福聚院の境内にあり、外に慶松丸八歳にて書せられし文珠利菩薩の一軸あり(解説)慶松丸は府中の大掾氏最後の当主である清幹の嫡男とここには書かれていますが、もともと子供がいたのかどうか今までの資料に書かれたものはなかった。天正18年(1590)12月 府中城落城により命運を共にしたとおもわれますが、どうしてこの寺にあっ...
江戸時代の常陸府中(石岡)「府中雑記」を読み解いています。1、若松町農家の裏に小社あり、是大掾国香の祭たる社と云、因て鴨の社と云也、実説わからず、又同所民家の裏に二十三夜と云て勢至菩薩の小き金仏尼寺ヵ原より掘出せしと也(解説)今泉義文氏の「石岡の今昔」には「鴻の宮」の記述があります。「石炭商山口徳太郎氏の居宅(若松1丁目)裏手に小さい祠がある。同家はもと、木間塚長者の後裔山口友次郎さんの居住して居ら...
江戸時代の常陸府中(石岡)の「府中雑記」を読み解いています。1、中町常葉権兵衛家に数員筆記の古書あり、其中に尼寺年中行事并光大寺尼寺へ出仕のこと、大掾家累代の法名ありけるに、権兵衛 卒し、家伝眼科の書のみ残りて余の書紛失、惜ひ哉(解説)ここにはかなり興味ふぃかい記録が無くなってしまったことを嘆いておりますが、「尼寺年中行事 並びに「光大寺尼寺へ出仕」とか「大掾家累代の法名」などの記録があったと...
江戸時代の常陸府中(石岡)の「府中雑記」を読み解いています。1、花園寺二十代全応和尚鹿島神向寺に住し此に移転す、此僧の云へるに、鹿島は正月七日朝まで扉を閉、神楽も奏せざる也、七日朝に至て初て開て其時大宮司大祢宜並神向寺神前に於て古より連歌の会あつて、巻中句の内に神の梅と云五文字を加えて一連終りて神前へ捧り、然るに和尚物語に鹿島連歌の古所は府中へ伝ると云伝ふ、其古記府中何れにありやと問に曽て其旧記不...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、コワシ水と云は柿岡道左にあり、大古より名水と云伝す、或書に古歌二首 名にしおふひなの都のこわ清水 汲みてや人の夏を忘れん よみ人不知 皆人の立とまりてや夏の日は こは清水とて手を結ひなん 同(解説) 柿岡街道の村上地区の道路沿いの竹林の中に「子は清水」の碑が建っています。これは「養老の...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、 柿岡道村上へ引つめて、左の方幼(ちご)の墓と云あり、見るに大石の岩石ありて此其頂きに愛宕の神を祭る、古来より花光院の支配なり、甚旧跡とみゆれども伝へ未知也、国誌に村上の神社末ある所を不知と書せり、村上神社とは男龍神乎、又幼(ちょご)カ墓乎、是非を不知也(解説) 稚児塚とか稚児の墓と呼ばれるものは各地にありそうです。この村上地区にあ...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、カウセイ堂と云て辻堂中津川地にあり、云伝るに大掾家の勢討死の地と云、可ならんか、故は大掾の旗下を書したるに、何某行里川一戦に功名、又何某国分寺一戦、或は山崎一戦並玉里の砦の一戦に功名などを記したる書に見ゆ、然れば中津川にあるも可ならんか、思ふに国府(こう)勢堂と書したる可なるべし(解説)現在中津川に「香勢堂共同墓地」という墓地があ...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、鹿の子万海塚、是は青木西光院の住僧 頃奥州湯殿山羽黒山を信じて四十八度詣す、因て湯殿山より上人号を給ふ、今に西光院に其時の負仏其外品々あり、存生の画像千手院にあり、村上の産なり、其姉青木町山口仙栄先祖に嫁す、因て湯殿山より上人号免許今に仙栄にあり、然るに近年青木長左衛門香丸指物産平兵衛等、仙台遊覧のため松島に至る、案内者に以て仙...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、マンナウ塚並小川道対馬塚は浅野対馬と云人、慶長の末元和の頃故ありて築となり、今香丸浅野の家也、マンナフ塚は今の万能の先祖にて、大和大峯山を信心して大峯より万能と云法号を得たり、此人此地に葬りし故にマンナフ塚と云、本姓鈴木氏なり1、北の谷津一名、九十九場、又ツボケ塚、二名何れ本名やらん、不分也(解説)石岡の一里塚から北へ杉並(水戸街道...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、宮部日光権現は不動院支配1、ホロハ権現は龍光院支配にて神体と云は苞に包、住僧の替り毎に一重宛包むと也、開き拝することは古より堅禁也1、松山阿弥陀谷津、此地に平石に仏体を彫す、三百余年とゆ、年号仏像とも分り難し、又松山後ろの石仏、同古仏也、両所とも不動院支配なり(解説) 宮部の不動院は「寺号:明王山虚空蔵寺不動院(真言宗)」であり、虚...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、長峯寺(宝永年中若松町と改む)摩利支天本観音堂東の畑中に在り、御郡奉行井上源蔵殿京の馬場へ移す、古跡には畑中に小塚あり、故に今京の馬場を摩利支天と覚えたる人あり、後故有て又龍光院に造立し、往古より龍光院支配也(解説)現在若松町は江戸時代前期までは「長峯(峰)寺(長法寺)」と呼ばれていました。ここに大きな長峰寺というお寺がありました...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、七薬師と云ふ、今老人に尋るに、国府の薬師、同所古薬師又香丸横町と青木町との境に石仏、又石井に是又石仏、竜光院の薬師、中ノ内千蔵院の薬師、小目代福生院薬師、又或人に尋るに、宝光院薬師松山御林後ろの石仏等を数に入るあり、何れに本説か、又何故に七薬師と称ふるや不分明也、或人按に医に七聖とも云ことあり、然れば若は七医師ならんか、今業とする...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、八木と云又六木と云ひ伝ことあり、外城の地に三丈余まはりの椎の大木今にあり、又惣社宮の馬場に榎三丈余まはりの木、年来ゆへ朽、宝暦の頃迄其株あり、至て大木也、其外不知也、後説に森ノ木、木ノ地、青木町の木の字六木に合せたる説あり、妄説ならん、さて鎌倉誌に 社の後ろに大木あり、是八木の内也とありて外不定とみえたり、是又木にあらずして外...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、今云六井は北の谷にホチ水と云て至て清水也、室ヶ井ひんづる谷津の田の側に清水あり、小目井の清水是又清水也、石井是同く清水也、田端井は名のみにて、畠中道傍に小塚あり、宮部にて孫兵衛と云農家の前に井あり、是鈴負とす、然るに鈴負と云地は五町ばかり西にあり、是を六井と古人云伝也、俗説に税所近衛書等の六人祭事を行ふ時、此六井に於て垢離(こり)...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、常陸大掾国香後代、今に至ては香の大掾又は鴻の大掾と書するあり、全非なり、国府大掾也、国民挙てこふと云し故後誤て鴻また香の字を書したる也、既に下総国に国府の台、相模国平塚大磯の間の宿を国府(こふ)津村と云あり、此地に十余町去て惣社六所宮あり、余の国府何れも此名多し、是に略す、大掾の系図に香鴻の二字不見也(解説)ここ石岡府中は常陸国の...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、京の馬場にある権現、今千手院支配の地なり、千手院旧記に云、七月 年毎千手院并(ならびに)六人の社家衆後ろに楽人列す、此時コクショ桑の弓蓬の矢を以てヤタウンと三言唱て、乾の方へ矢を放つと古記にあり、然るに慶長検地帳にチャウノ馬場とあり、按るに京の馬場又チャウノ馬場と云、何れならんや、東都にて職原抄を弁ずる人に問しに、古は諸国に府に...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、興国山清凉寺は云伝処佐竹佐衛門義尚の開基、尼寺の引寺と云、因て本山は水戸沢山光山寺、客末にて一老なり、清凉院殿と号す、位牌是則義尚の位牌にて興国山に在り、興国の字は本尼寺の最初は興国尼と云人有、此二字を取たると云伝、然るに慶長五年、水戸大佐竹羽州へ国替の時、府中の佐竹一同に移りて清凉寺の寺号を取て羽州にも清凉寺と云一宇を建立し沢山...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、根当(ねあたり)要害と云土地は掘形あつて出張城と云、鶴町因幡と云もの居りしと也、又、高浜台に要害と云地あり此所に岩屋有て岩屋権現と云社あり、古高浜某住せしと也(解説)戦国末期はこの地方はここ府中の「大掾氏」を護る、家臣の城や要害、砦などが各方面の敵と戦うための置かれていました。当然常時あったもの以外にその状況で築いたものもあると考...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、国々の惣社・国分寺・尼寺・八幡・七代天神は国府に属する者也、遠州見附駅は遠府なり、町中に惣社六所宮と云て御朱印七十余石並て天神社有、七代天神と云、御朱印三十余石也、見付の宿より十余町、上方の方右りに国分寺至て小地、然れども御朱印少しこれあり、此左りに大社八幡宮御朱印三百石なり国分寺八幡社地より、今に往古の布目瓦多く見ゆ、又下総の国...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、今御陣屋の下の池を上ハ池と云也、此地の北に尼寺先西寺と云号あり、此辺に今土橋町風間何某と云者の裏に少し杉森有て此地に古石碑あり、阿弥陀と云、今按るに尼寺破壊の後、庵室をむすび一、二僧居けるか(解説)この上ハ池に対して、総社の下側に下池がありました。上ハ池はスーパー太陽の裏の高台部分にありますが、近年になり湿地帯部分などを整備して「...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、宝永迄新ラ宿と云、今泉町也、此に国所と云ふ家は世に云伝は公税を納る升取の人を云と也、因て斛掌と書すと也、又或人云、京の馬場に於て毎年 ヤタウンと唱へ、弓を射る旧記千手院にあり、是に因て考るに左右大将の被官に的場を主る者を酷掌と云、酷の的の黒星をコクと云也、然れは、今の国所は何れなるなるか、旧記皆カナにて書す故、不分明なり、今上方...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、千手院の旧記に、薬師政所藤香部と云人あり、慶長の検地帳にフジカブ内蔵助と云あり、後フジカブ五郎左衛門と云しか、宝暦の末頃滅却す、又今中町金子孫衛門居宅の裏竹藪の地に当て、慶長の頃尼寺太郎左衛門と云者あり、フジカブ如の者ならんか、是を世人薬師の堂守と云り(解説)薬師政所(まんどころ)がどのような役割をするものだかは不明ですが、国分寺...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、木間塚とて笠間海道中谷津川の側にあり、云伝るに木間塚長者と云人居所と云、富家ありて、薬師伽藍は聖武帝御建立の伽藍兵火に失せ、其後此木間塚将監建立也と国分寺に云ふ、然れば此長者富家ならんか、徒然草の抄に源平藤橘四姓の長者、真言宗の本山京都東寺の長者は格別のこと、又富家にも傾城にも長者と云あり、此地も人家ありと也、然れば地の長カ富豪の...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、行里川(なめりがわ)の台に長者ヵ嶺と云地あり、古人云伝ふるに、茨城前此地人家数十有となり、然れば其地の長か豊家の云しか、延喜式に云、田の長さ六尺を一歩とす、長さ三十歩、広さ十二歩を一段とす、十段を合て一町とす、一家を一戸とす、五十戸を一里とす、一里ごとに長一人を置て戸口を検校せしめ、農桑を課殖し非違を禁察し、賦役を駈催すと云々、此...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、カラ桶新田の地、田中に小森、其中に小社あり、津賀霊明神と号、津賀左衛門と云人討死し、其人墳墓と云伝へ実事不分也、此地に田中より出し山の農人古鎧を掘出したり、カラ桶の地は旧地ならんか、寛永年中の絵図に桶新田と記し見えたり、室貝の旧記に飯地に一宇、鬼越えに一宇、桶地に一宇とあり、此桶地にあらんか、飯地鬼越えも所不知なり 私に曰、茨城...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、白久の南にキフサギと云地あり、古記にキヒサケとあり、此に杉一本ありて小社あり、神体不分明なり、若は吉備の社とも云しか、備中風土記に吉備津宮祭神は日本武尊の御妹吉備津宮とありと云々(解説) 小字名の「白久」「白久台」は現在の石岡駅東口前の一体です。この北側に「木比堤(きびさげ)稲荷」があります。また小字名にも「木比提」があります。石...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、香丸と云人あり、居所は今の照光寺地面なりと云伝ふ、其由縁の人は玉里に在りと云しに絶て今はなし、何しの時にか此香丸も絶しやら不弁也、祭りを務る六人の内一人也1、中宮部と云人あり、是も六人の内にて、何れの時断絶せしや居所不明なり1、金丸と云人、是も六人の内なり、居所しれず、末葉高浜殿と云て今の高浜にありしと也、然るに高浜道夢と云人あり...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、幸町門下坂の左の方を関の地蔵と云、今地蔵院の本尊是なり、此地蔵院は慶長年中以前開基とみゆ、今森木町宝光院は寛永の頃守横町に有て、其後今の地に移す、さて守横法橋寺は御当代に至て破壊す、又室貝家除地中正学院と云、同く東耀寺門徒あり、是又御当代に破却す、富田町神宮寺は元惣社明神の地中矢大陣門の外、西のくぼみにあり、明神唯一御取立につき、...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、幸町の後ろ、田端谷津へ通る道の側に、田端井とて畑の中に二三尺四方作物をなさぬ也、是六井の一つと云伝(解釈)田端谷津(たばたやつ)は小字名にあり、土浦方面から石岡台地に上がって行く途中にある。恐らくこのあたりは昔は「谷津」となっていたであろう。小目井にも近い。ここには府中六井の一つと書かれているが、今は六位の中にここは含まれない。...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、建児坂の北の上の小山と云地は近衛所累世の墓所にて無畝の地也、近来岩城内の寮へ葬ることいぶかし、此下の畑を堂窪と云1、近衛所居宅の北に空地あり、今愛宕を祭る、此地往古より如何なることや、今に作物の為に用んとすれば必災ありて今に芝地也、此地社共中町密蔵院の支配なり1、近衛所祭る処の四社明神、是を俗に古より今にヲシチャウと云、古人按する...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、ビンズル谷津の高房より岩城内へ通る道の東の田の中に清水あり、是を室ヶ井と云、今に其井の跡三四尺四方苗を種ることを禁ず、是も六井の一つと云、1、高房の社あり、今総社本殿南に末社三神あり、其内一社高房明神也、一社は稲荷、一社は鎌倉八竜神也、又、高房明神は鹿島の宮の正面に一社あり 藻塩草に詳なり1、高房の道場塚は今俗にドヂョウ塚と云、華園...
江戸時代の常陸府中の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、貝地に景清屋敷と云あり、世に上総七兵衛景清と云、非なるか、按るに大塚清幹の余類か、また平福寺に方四面九尺計りの観音堂あり、景清守本尊と云なり、延享の頃其堂破壊せり、右屋敷は清凉寺持分、今畑なり(解説)平景清(藤原景清)は源平合戦時に平家方の武将として孟優を轟かした武将ですが、ここ府中で生誕したという伝承があります。今の貝地にある「平等寺...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、田島の台地に三面寺と云地号あり、畠中榎あり、今田島金剛院の本尊観音はもと三面寺の本尊と云伝るなり、田嶋台タンクハクボと云地名あり、又同所に千本塚と云地名ありて塚あり、云伝るに古へ京都に千本釈迦念仏とて二月十五日に行はる、国々にも流行せんとなり、是寺の供養塚か、又田島より高浜道に光西寺と云地名あり、地所不知、今土橋に尼寺光西寺屋敷...
江戸時代の常陸府中の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、南は小目代、北は岩城内、此間の畑に布目の瓦を出す、旧跡とみゆ、俗に此所をチマグレ堂と云 小目代老人に尋るに此地の石場の石とて福性院の寺内にあり、富田の石の如きとなり、又尼法師の居し所神宮寺前と云伝へ、外に委きこと不知となり、所以をしらず、此地の下に月山の地名あり、古へ月山の宮此にあり、今貝地に移す(解説)現在茨城廃寺の発掘が大分進んでお...
江戸時代の常陸府中の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、外城と云は何れの時にのことなるや不聞、今田島前に石城前と云地あり、以是考れは今の外城なるか、又外城地中に勧請ある札掛明神も何を祭りしや由来不分也、室貝の旧記に石岡城警固の事と書たるあり、若石岡とも云しかイハラキとも云しか(解説)外城(とじょう)は鎌倉時代初期に多気氏(平氏)が滅びた後、系列の水戸吉田から吉田(馬場)資幹(すけもと)が大掾...
江戸時代の常陸府中の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、通安寺と云は小目井の北高地にあり、名のみありて破却の時を不聞、今小目代の福性院に薬師の尊像あり、至て古仏也、云伝るに通安寺の本尊なりと云、今に慶長寛永両度の検地帳にも薬師の除地、免の田八升蒔これあり(解説)この前の項目(14)に小目代(こもくだい)遺跡の地図を入れています。小目井は府中六井の一つで、舌状台地の恋瀬川頼の先端部分にあったよう...
江戸時代の常陸府中の地誌府中雑記を読み解いています。1、御霊の社は往古国造を祭ると云、然とも詳に分り難し、然とも税所家に御霊の神とて長さ八寸斗、束帯の装束の木造至て古く今に伝承して、此を以て考れは国造を祭ると云ふ可ならんか(茨城国造の祖筑紫刀祢 新治国造昆那良布命)一説に鎌倉権五郎奥州下の時、御霊の地より弓揃ためし一の矢場、二の矢場、三の矢場と云旧跡ありと云り、然るに矢場と云家は田の中に在る塚を...
江戸時代の常陸府中の地誌「府中雑記」を読み解いています1、貝地平福寺は中頃道心寮にひとしかりけるか、然るに清凉寺より修覆等あり、住職を備へ、今清凉寺の末寺となる也、所以は、江府触頭の帳に平福寺并(ならびに)田崎東蓮寺は漏れると云也 平福寺は大掾国香菩提所と云、大地とみゆ、其故は国香の墳墓、其余国香余類の墓石碑今に歴然たり、旦伽藍石、寺中に残り神宮寺の門前にのみへ、清凉寺へも多く引取たる也、本門前...
江戸時代の常陸府中の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、宮下富士山は古来よりの社也、幸町坂下の富士山は宝永中より也、宮下富士の後は富士の越と地名す、寛永中まで農地十軒あまり有りしなり、今多分宮下又は土器屋へ居住す1、幸町坂東の上蔵成と云、昔人家あり、貝地の前島氏一統、市川村押野氏一統、其外にも此蔵成より移るとなる1、今の鏡堂と云う地 田側(たはた)谷津にあり 古記にカマミドウとあり(解説)宮下...
江戸時代の常陸府中の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、今守木町と云こと、千住院古き書記に慶長中此れ六郷兵庫頭殿へ宮下富士山の論ありて目安あり、其文に先年守木殿何々のこと證拠の為に書したるあり、此先年とあるは天正の末ならむか、然るに守木殿と書たるを思へば由々しき人知らる、守木殿とは何人なるや不知。(解釈)江戸方面から水戸街道を進み、常陸府中に入ると街道沿いに幸町・守木町・中町・香丸町と並ぶ。...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読んでいます。1、愛宕山は是又旧跡なり、然るに宝永年中(1704~1711年)時花神(はやりがみ)と云て、国々在々村次を以て流行群集す、其より此地にきたりしに甚大そう成故隣郷可送の地なし、因て幸此社有によって此におさむ、既に古より愛宕免とて除地(納税を免除された土地)ある也、時花愛宕七月二日に此山に勧上し故に七月二日神事定日とす(解説)愛宕神社については京都...
地元に残る江戸時代の地誌「府中雑記」を読んでいます。1、金丸鈴宮、古実は千手院年中行事記に云、毎年二月に六人の社家并(あわせ)千手院弓削丹後宅にて三献の盃、素麺に青置菜、菓子は飴をこしの類とあり、終て神前に出、五穀成就祈念をなす、備は大橋方より供す、大橋又兵衛と云、天正落城の頃の人也、若是なるか、今大橋村の老人に尋るに曽て不知と也、按るに今東耀寺、古光大寺の時、鈴ノ宮祭に出しと見、ゆえは税所家今...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読んでいます。今回は室貝という地の弓削丹後守屋敷です。1、室貝税所の旧地は茨城の地に除地あり、万福寺の地も税所の寄附也、今の室貝地は弓削丹後の屋敷にて、天正後弓削家断絶か不祥、其跡へ税所来りたると見へたり、又出し山の前に弓削道、また竹原道と云名所あり、是は今俗に云、竹原両明神、一社は孝謙天皇、一社は弓削道鏡也、此祭事に弓削通路せしゆへ号となりぬ(解説)...
常陸府中(石岡)の江戸時代の地誌「府中雑記」を読んでいます。1、今幸町と云ふ所 宝永年中改る 往古土器屋と云り、其故は国府なる故に故実の神事数多あり、其時窪手 平賀など云土器を製せし所也と云ひ伝ふ、今寛政年中(1787~1793年)に至りても市助と云もの土器を天王祭礼に献ず、是古礼残れるか 旧地は御霊の下蔵成の辺に人家十八、九軒ありて残らず今の幸町に移す(解説)ここも市内の町名変更です。土器屋(かわらけ...
常陸府中(石岡)の江戸時代の地誌「府中雑記」を読んでいます。1、宝永年中御郡奉行井上源蔵殿の代に右馬ノ地を富田町と改む、古へより云伝るに右馬の地は当国の良馬を改て貢にす(職原大全に貢馬国駿河、相模、武蔵、上総、常陸、下総、上野、下野、周防、長門、讃岐、伊予十二ヵ国也)此地国府なれば国中の馬を寄す、則其職の人ありし故に右馬ノ地と云、今守横町を正政保年中の頃迄は右馬上と云、今の富田町東の裏を外右馬ノ...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読んでいます。1、今の貝地の地は往古公税を蔵むる地と云へり、神代類臭聚集に云、国府に三倉あり、公廨と云、公税を蔵むる所と云々、按ずるに今の貝地は廨地ならんか、寛政の始の頃貝地伝兵衛とて七旬余の男の云、我弱年の頃老人云、ギョクカイの畑、ヂヨクカイの畑と云ることあり、其地は予幼年の時ゆへ其地を不聞、考るに室貝の辺か、又貝地の辺かと覚えり、いつしか実を不知と...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読んでいます。1、岩城内近衛所家は 慶長七寛永二の検地牒に古仁所、小仁所、小児所とあり、按ずるに健児所と書すること可ならんか、今俗にコンデン坂と云坂あり、右検地帳に国字にてコンテイ坂とあり、然れば健児所峨眉子曰 一国の兵を寄する所をケ建児所と云、又庭訓の註に其国の政務を密談する所を建児所とあり。(職原大全に国々の建児又健児田と云こと見たり、今近衛家の旧...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読んでいます。1、田崎勘ケ由と云人あり、昔公税解由の人也と伝也1、今の東蓮寺は田崎勘ケ由(かげゆ)開基にて富田山円通寺と号。(佐竹水戸上町、寺号山号ともに曳移して今に富田山円通寺也、沢山の末なり) 後来破壊す。中興万福寺、再興して東蓮寺と号す。(解説)この「勘ケ由」という名前は各地に存在し、「勘解由使(かげゆし)」がその由来の様だ。精選版 日本国語大辞典...
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「ハマイバ」という地名は、奥州から中国にわたって無数にある。「破魔射場」と漢字でかいた地名だけ挙げて見るが、<破魔地名>常陸多賀郡黒前(くろさき)村大字黒坂字破魔射場(はまいば)三河八名(やな)郡七郷村大字名号(みょうごう)字破魔射場伊勢鈴鹿(すずか)郡関町大字新所字破魔射場同 同 亀山町大字亀山東町字破魔弓場(ゆみば)美作(みまさか)真庭(まにわ)郡美和村大字樫東字鳴ノ殖(うえ)小字破魔場石見(いわみ)美濃郡豊田...
これも諸国の山村に数多いトツラまたはツツラという地名は、前に挙げた多々良とは何の関係もないらしい。自分はこの小名ある地のしばしば谷川の岸であることと、東北ではもっぱらトツラといい中央部から西ではツツラばかり多いのを見て、二者はともに藤その他の蔓(つる)類を意味し、その地名の発生した事由は、単にこの植物の多くある所というところだけではなく、これを採取して最も利用する作業、すなわち筏(いかだ)を組むわざに...
東西の各府県にわたって「タタラ」という地名があって、とりわけ山中に多い。久しく、この地名を「タタラ製鉄」由来としてすべてを語るのは、いかに砂鉄の分布でもおおよそ限りのあるものであろうから、その起原をことごとく鍛工または鋳工の居住に帰するのは無理であろうと思うていた。しかし、多数のタタラは必ずしも原料の所在でなくとも、工人の分散してその業を営んだためであって、しかも燃料または用水の関係及び場所の清浄...
何々屋敷という小字の中には注意すべき者が多いかと思う。ことに今は田畠や山林となっていてなおその地名を存する者などは、何か普通の農民にあらざる者が居住したために、その地を別異にする風があった結果かと認められる。その一例として金子屋敷のことを言おう。もっとも金子という地名はいくらもある。今の美作(みまさか)苫田(とまた)郡加茂村大字黒木字樫原に金屋護神(かなやごじん)という祠がある。銕山(かなやま)の守護神だ...
「グリ」は各地で、海中の暗礁のことをそう呼んでいる。また地域によっては陸上でも岩の事を指す場合もある。「はなぐり」などよよばれる大きな立岩があるマクリ・シワナグリ・イスズグリ等とあり、、一合ぐり・宇田島ぐり・姫ぐり等もある。『和漢三才図会』には涅、和名久利、水中黒土などが載っている。東京などでも道路に敷く小さな割石をワリグリと呼んでいる。「ハエ」というのも中国・四国の海辺で、弘く暗礁を意味する語で...
水田を「ウダ」というという説があるが、ウダは果して単純なる水田だろうか。東北地方の多くの宇田という地名には注意せられぬまでも、鴫(しぎ)わな張ると大昔の歌にもある大和の菟田県(うたのあがた)などがあり、ウダは九州に多い牟田(むた)と同じ語ではなかろうか。長門風土記の阿武郡椿郷東分村松本船津組字無田ヶ原の条に「「小畑へ行く道なり、家二軒あり、むたヶ原、ぬたヶ原・うたヶ原とも唱え、文字定かならず」とある。ま...
関東平野の丘陵と丘陵の間、いわゆる窪またはヤツという地形の処を、田畑に開いた場合に一つの特色がある。・常磐線の利根川附近などは、そう言った風の田畑が丘の根方まで、ずっと境なしに続いている。・浦和辺では、地が低く沼がちで水の多いためか、丘と田畑との境には溝があって、丘の裾(すそ)から湧(わ)く清水が直接流れこまぬよう、やや温かくなってから田へ落すようにしてある。これらの溝を流れる水は相当の量となって川に...
「ダイ」という地名は大きく分けて三種類ある。1) ○〇台:高台などと云うように、文字通りに物の台などと似寄っているからの名であろう。2) ○〇代:河内・和泉その他畿内の国々では、上代(かみだい)、下代(しもだい)、東代、西代など、耕地の一区域をシロと言ったのが元かも知れぬ。3) ○〇岱:岩手・青森・秋田の諸県で多く使われ、堆、平の字を当てている例もある。またこのタイはサワ(沢)に対して使われている。これはア...
朝日という地名が朝日をよく受ける特徴からできたことは地形だけからでも疑いがない。これに対するカクノのカクは、あるいは「隠れる」などの語と縁のある陰地の義ではあるまいか。関東・東北に多い角間(かくま)または鹿熊など書く地名も、これと同事由かも知れぬ。川の隈だからとは説明しにくいカクマもずいぶんある。もっとも山の北または西に当る日影に乏しい処は、東国ではアテラというのが普通である。大和・伊勢でこれをオン...
「潟」カタ、ガタという地名は太平洋岸にも愛知潟(あゆちがた)・平潟などの古い例はあるが、まずは日本海海岸に特有なものである。川口の砂浜がすでに必ずしもその川の搬出した物でないとすれば、もちろんさしたる川の流れて出ぬ海岸にも、砂嘴はできるはずである。汀(みぎわ)の屈折した静かな入江、ないしは海沿いの低地の地先に、砂の堤がおいおい高くなって来ると、それから内側はすなわち潟である。荒浪が幾度となくこれを毀(...
大森停車場の上の八景坂はどう考えてみても八景一覧の地とは思われぬ。近年たびたびの土工などのためにやがて地形も不明になろうから、今の間にあの地名の何を意味するかを確かめておこう。大森の八景坂は、岡の上(ハナワ)の村里から浜辺へ下りて行く坂のことで、風流という物を知らぬ人の附けた名だろう。ハッケまたはハケは東国一般に岡の端の部分を表示する普通名詞である。武蔵には特にこれから出た地名が多い。甲武線の附近...
武隈(たけくま)の塙(はなわ)の松は有名なる奥州の歌名所で、古来人のもてはやす所である。武隈という地名の起原は、一説には阿武隈(あぶくま)の阿の字が脱落したのだろうとあるが、阿武隈や武隈の名はともに中国以西に多い久万(くま)もしくは何隈という地のごとく、水流の屈曲している地形を意味する普通名詞であろう。塙の字は多分は和製の合意文字で、土の高い処がすなわちハナワであることを証している。(圷:アクツはこれの...
・土居(ドイ):堺などの置土をドイ、ドエなどとという所は多くあり、土手を言う言葉と思う。この土の堤防で囲まれた屋敷などが昔はドイと呼ばれたとしても、土居は決して近世にいわゆるドイをもって取り囲むことを要せず、単に武家の屋敷を指してそう呼ばれたりしたようである。この土居の地名の多く存している中国・四国の村々に入り、その地形を審(つまびら)かにしつつ昔からの生活を考えたら、多くの面白い事実が発見せられる...
・根岸(ねぎし):山の根岸の義としか考えられないが、関東から奥羽へかけて数多い地名であり、何故この地名がはなはだ多く発生したか?第一には村が高い処から下りて来る傾向である。そのため、根岸という村は、根岸に家を作って開発するのが便利であった土地が新田となった時代にできたものと見てもよろしい。(比較的新しい時代にできた)第二には荘園が小さく分裂し、多くの小名が各自館を構えて兵備を事とする際、家来と農夫...
「堀之内」という地名は非常に数多くあり、堀からすぐに中世以降の城の堀を考えるが、そこに村が起こっていることを考えれば、「城址」と考えるのは早計であろう。多くの堀ノ内の地名のある場所で「城址」の説明がされているが、地名となったのはもっと古い頃ではないかと思える。中古の武家は通例砦の中には住まず、戦時の防禦地は険阻の山の上にあって、平時は平地に今の大地主のようにして住んでいた。堀之内の堀はその屋敷を取...
・東北六県に地名としてまた普通名詞として最も広く行わるるタテ(館)という地名は、漢字が「館」であるので武士の居宅を想像するが、館は国訓タチであってタテではない。しかも奥州のタテは古くは「楯」の字も用いられて始めからタテである。・代表的に実物をもって示しているのが、常陸真壁(まかべ)郡下館(しもだて)の町(現茨城県下館市)である。また北足立郡志木(しき)の町(現埼玉県志木市)も、古くは「館村」と呼ばれてお...
垣内(かいと)問題は、郷土研究で必ず研究すべき課題であったが、必ずしもこれと云った説に接していない。これはそれだけ込み入った事柄である。垣内は文字のごとく垣の内でいわゆる土豪の囲い込んだ地域を意味する。しかし、これがその後いろいろな村の属地の義に転んじたり、切り開いた新部落をよぶようになった。東京近郊で村附の山野を開いた一区をサンヤ(山谷、三屋などと書く)というのと同じであろう。・『三州志』などに...
・山居(サンキョ):家族が増えて、遠い原野の開墾に着手し、別な居を構える「散居」が元の言葉か?関東から奥羽にかけての地名にサンキョというものが多くある。「散居」「参居」「三居」「山居」などと書く。文字のごとく山中の住居の義かと思っていたが、不思議に平地にも往々にこの名がある。たとえば羽後酒田港で有名な米穀倉庫の所在地なども確か山居であった。市街から少し離れ最上(もがみ)川の川口に臨んだ水郷である。房...
・イナカ=田舎 とはどの範囲を表しているのだろうか?イは居であって、イナカは民居の中ではないかと思う。 田舎という語の最も古く顕われたのは『日本書紀』垂仁天皇の二年、意富加羅(おおから)国王の子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の伝説である。その中の黄牛(あめうし)に田器を負わせて田舎に将往(い)かんとすとあって、田舎の二字をいつの頃よりかイナカと訓ませている。昔は今でいう田舎それ自身の中において、特に田舎...
・軽井沢:「カルウ=背負う」から、この地で馬から人の背に荷物を積みかえ人力で山を越す仕度をした場所? 軽井沢と称する地で最も有名なものは、もちろん中仙道碓氷(うすい)峠の軽井沢である。この「軽井沢」という地名が諸国にわたって多いことと、それが知れている限りいずれも峠路の麓にあることとを注意していた。この地名の意を今までの書物では、「涸渓(かれさわ)の義(村岡櫟斎(れきさい)翁)」とか「水源涸渇の渓頭(吉...
常陸国風土記の香島郡の冒頭に「天の大神、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天(あめ)の大神と称ふ」と書かれています。また、信太郡の条でも、「榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗ることが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。」と書かれています。香島の大神=鹿...
鹿島神宮にはよく人が訪れていますが、すぐ近くの鹿島城があった場所は観光客はあまり足を向けません。ここのは大きな城跡公園があり、桜の名所でもあるので、地元の方は良く知っておられるのだと思います。鹿島神宮から入口の鳥居「二の鳥居」と大船津にある「一の鳥居」とをつなぐ位置にあります。実際はこの神宮も城跡も高台にあるので、この城跡は一の鳥居側からは山の上にあります。以前に訪れた時は国道沿いのこの城山の麓...
昨年の常陸国風土記の勉強会から来週鹿島地方を巡ろうと計画している。そこで銚子に行くときに途中で何か所かを再訪問してみた。ここは鹿島神宮の一の鳥居のある「大船津」。やはり大きな赤い鳥居が水の中にあるのは神々しい。今は隣に橋が3本架かっている。鉄道の橋。国道が2本。一番手前が古くなり新しい橋を架けたが、まだ使用されている。この大船津は古代からきっと様々な歴史を持って居た場所だと思う。対岸は潮来地方だが...
昨日銚子に向かう途中で、神栖市にいるコウノトリの巣を見てきました。コウノトリは渡り鳥だから冬場から春先に入るものだと思い込んでいましたが、日本で過ごす番がいるのですね。場所は利根川に架かる有料の「かもめ大橋」のすこし上流側の神栖市波崎の国道124号線の旧道沿い。ここに巣の塔が設置され、親鳥と四の雛がいるようです。昨年は二羽の雛が育ち、今年は四羽が確認されているようです。周りは余り人家はありません...
先週木曜日に東京の小石川後楽園に行ってきました。大学時代の研究室の同期を中心とした集まり(飲み会)で、この庭園内にある「涵徳亭」の日本間を予約して8名程が集まりました。私の居る「石岡」は同じ水戸藩の支藩の常陸府中藩でしたので、この庭園の東側の小石川植物園に近いところに藩邸がありました。ただ、播磨守を拝命していましたので「播磨屋敷、播磨様」と呼ばれていましたので、今は桜の名所である「はりま坂」あた...
本日が、この事務所(石岡市国府)での「ふるさと風の会」会合も今日が最後となりました。感謝を込めてきれいなお花を頂きました。色々ありましたが風の会はこの5月で満18年が経過しました。来月からは「まちかど情報センター」さんの場所を月2回の会合場所として、また会報「ふるさと風」の印刷場所としてお借りして再出発します。この事務所も10年以上使ってきましたが、オーナーさんの事情で今月いっぱいで引き渡しするこ...
以下は2013年11月の「ふるさと”風”」に投稿した記事です。2013年9月19日にJR函館線でおきた脱線事故の後に書いたもの。10年後の昨年9月19日にNHKでこの事故を教訓とした現在の安全確保の取り組みという内容の報告がありました (NHKの記事 ⇒ こちら)事故は無くなるのかさて、最近の事故ニュースではJR北海道の貨物列車脱線事故がある。そして事故直後のJR北海道の説明が波紋を投げかけている。レールは常に列車の遠心力など...
これは「ふるさと”風”」の機関紙に書いた文章であるが、時々思い出したくなることがあり、こちらに「備忘録」として残しておきます。以下は2014年8月の「ふるさと風」機関誌の記事です。今から10年ほど前にも世界の日本も、かかわらずあまり変わっていないように思われます。ダブルスタンダード 今年の夏はエルニーニョの発生で北日本は冷夏だと騒いでいたが、何の事は無い梅雨明けと共に物凄い暑さに襲われている。体力が無くなっ...
潮来もあやめ祭り(5/17~6/16)も先週末から始まっていますが、外は雨。何か余り元気もなさそうですが・・・・この時期に合わせて長勝寺の仏像の開帳されているかとも思い、古刹長勝寺へ。檀家の方でしょうか法事らしい人の姿も散見。でも本堂は開いておりませんでした。本堂前の菩提樹の木もまた蕾もほとんど見られません。いつもより遅いのかしら・・・・。新緑はまぶしいくらい。この自準亭で詠んだ芭蕉たちの俳句碑、説明版...
ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...
小林一茶は故郷信濃(柏原)に戻り、居を構えた後も、江戸から房総方面の俳諧仲間の所を訪ね、俳句を教え旅費や生活費の稼ぎをしていました。そんな中で生まれたばかりの長男を亡くした後に、やってきた俳諧行脚ともいえる房総・常陸国の旅が文化14年(1817年)前半にありました。一茶の7番日記に記載されている日記の内容から読んでみたいと思います。前回、信濃と江戸との往復に旅程などを述べましたので、今回は房総への旅で...
芭蕉の鹿島紀行を巡るとして6回に分けて記事を書いてきました。そこにもう一つ記事を追加しておきます。それは小林一茶が同じように鹿島へも訪れていることです。一茶が鹿島へやってきたのは文化十四年(1817)の五月(旧暦)末です。芭蕉が鹿島に来たのは「貞享四年(1687)八月の中秋の名月」ですから一茶は130年後になります。芭蕉の生まれは寛永21年(正保元年、1644年)伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)です。一方一...
松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...
潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...
昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...
桜もだいぶ咲き始めました。今朝、市内の国府公園にいってみました。桜ももうだいぶ咲いています。桜と考える人?彫刻またスズランもきれいです。オオアラセイトウ(紫ハナナ、紫金草、花ダイコン)...