常陸国風土記の香島郡の冒頭に「天の大神、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天(あめ)の大神と称ふ」と書かれています。また、信太郡の条でも、「榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗ることが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。」と書かれています。香島の大神=鹿...
先日銚子へ行く途中で、行方市の教育委員会のある北浦庁舎へ資料を頂くために立ち寄った。これはその前に沖洲地区高台側にある「石神遺跡」の場所が近くに行ってもわからなかったために問い合わせのメールをしていて、石神遺跡に関する資料をコピーしていただいたのをとりに伺ったものだ。石岡からはこの北浦の庁舎は結構遠いイメージがあり、街道周辺以外はあまりたちることが無い場所でもある。ただし、今回あちこちうろうろし...
昨日はまた朝から銚子へ・・・石岡から国道355号線で霞ヶ浦の湖岸道路へ。この国道沿いに「珈琲哲学」という喫茶・料理店がありました。小美玉市に入る少し手前です。トンガリ帽子の屋根が特徴のお店です。そのお店のチェーン店が倒産のニュースがつい最近流れてきていました。その店の前の信号で停止して、気になったのでみてみると、看板が大きな文字で「カモダ珈琲」と変わっていました。え? コメダでもなく、またカメダで...
過酷な暑さも一段落し、少し梅雨空に戻ったかと思いましたが、青空も広がっています。7月7日は七夕でしたが、父の命日でもあり墓参りに多摩湖へ。車で所沢経由で、墓参りを済ませて、首都高を通って新宿経由で戻ってきました。雨で洗われたかのように都内のビルもくっきりきれいに見え、山や川も空気が澄んできれいに見えました。9日(土)は風の会の会報(7月号)の印刷。出来上がった会報を持って、八郷からつくば市北条ま...
笠間(岩間)の奥(愛宕山のふもと)にある滝入不動尊に行ってみました。山から流れ落ちる水はとても冷たそうで、この暑さの中マイナスイオンが一杯でした。紫陽花も咲き、気持ちの良い空間でした。...
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常陸国風土記の香島郡の冒頭に「天の大神、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天(あめ)の大神と称ふ」と書かれています。また、信太郡の条でも、「榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗ることが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。」と書かれています。香島の大神=鹿...
鹿島神宮にはよく人が訪れていますが、すぐ近くの鹿島城があった場所は観光客はあまり足を向けません。ここのは大きな城跡公園があり、桜の名所でもあるので、地元の方は良く知っておられるのだと思います。鹿島神宮から入口の鳥居「二の鳥居」と大船津にある「一の鳥居」とをつなぐ位置にあります。実際はこの神宮も城跡も高台にあるので、この城跡は一の鳥居側からは山の上にあります。以前に訪れた時は国道沿いのこの城山の麓...
昨年の常陸国風土記の勉強会から来週鹿島地方を巡ろうと計画している。そこで銚子に行くときに途中で何か所かを再訪問してみた。ここは鹿島神宮の一の鳥居のある「大船津」。やはり大きな赤い鳥居が水の中にあるのは神々しい。今は隣に橋が3本架かっている。鉄道の橋。国道が2本。一番手前が古くなり新しい橋を架けたが、まだ使用されている。この大船津は古代からきっと様々な歴史を持って居た場所だと思う。対岸は潮来地方だが...
昨日銚子に向かう途中で、神栖市にいるコウノトリの巣を見てきました。コウノトリは渡り鳥だから冬場から春先に入るものだと思い込んでいましたが、日本で過ごす番がいるのですね。場所は利根川に架かる有料の「かもめ大橋」のすこし上流側の神栖市波崎の国道124号線の旧道沿い。ここに巣の塔が設置され、親鳥と四の雛がいるようです。昨年は二羽の雛が育ち、今年は四羽が確認されているようです。周りは余り人家はありません...
先週木曜日に東京の小石川後楽園に行ってきました。大学時代の研究室の同期を中心とした集まり(飲み会)で、この庭園内にある「涵徳亭」の日本間を予約して8名程が集まりました。私の居る「石岡」は同じ水戸藩の支藩の常陸府中藩でしたので、この庭園の東側の小石川植物園に近いところに藩邸がありました。ただ、播磨守を拝命していましたので「播磨屋敷、播磨様」と呼ばれていましたので、今は桜の名所である「はりま坂」あた...
本日が、この事務所(石岡市国府)での「ふるさと風の会」会合も今日が最後となりました。感謝を込めてきれいなお花を頂きました。色々ありましたが風の会はこの5月で満18年が経過しました。来月からは「まちかど情報センター」さんの場所を月2回の会合場所として、また会報「ふるさと風」の印刷場所としてお借りして再出発します。この事務所も10年以上使ってきましたが、オーナーさんの事情で今月いっぱいで引き渡しするこ...
以下は2013年11月の「ふるさと”風”」に投稿した記事です。2013年9月19日にJR函館線でおきた脱線事故の後に書いたもの。10年後の昨年9月19日にNHKでこの事故を教訓とした現在の安全確保の取り組みという内容の報告がありました (NHKの記事 ⇒ こちら)事故は無くなるのかさて、最近の事故ニュースではJR北海道の貨物列車脱線事故がある。そして事故直後のJR北海道の説明が波紋を投げかけている。レールは常に列車の遠心力など...
これは「ふるさと”風”」の機関紙に書いた文章であるが、時々思い出したくなることがあり、こちらに「備忘録」として残しておきます。以下は2014年8月の「ふるさと風」機関誌の記事です。今から10年ほど前にも世界の日本も、かかわらずあまり変わっていないように思われます。ダブルスタンダード 今年の夏はエルニーニョの発生で北日本は冷夏だと騒いでいたが、何の事は無い梅雨明けと共に物凄い暑さに襲われている。体力が無くなっ...
潮来もあやめ祭り(5/17~6/16)も先週末から始まっていますが、外は雨。何か余り元気もなさそうですが・・・・この時期に合わせて長勝寺の仏像の開帳されているかとも思い、古刹長勝寺へ。檀家の方でしょうか法事らしい人の姿も散見。でも本堂は開いておりませんでした。本堂前の菩提樹の木もまた蕾もほとんど見られません。いつもより遅いのかしら・・・・。新緑はまぶしいくらい。この自準亭で詠んだ芭蕉たちの俳句碑、説明版...
ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...
小林一茶は故郷信濃(柏原)に戻り、居を構えた後も、江戸から房総方面の俳諧仲間の所を訪ね、俳句を教え旅費や生活費の稼ぎをしていました。そんな中で生まれたばかりの長男を亡くした後に、やってきた俳諧行脚ともいえる房総・常陸国の旅が文化14年(1817年)前半にありました。一茶の7番日記に記載されている日記の内容から読んでみたいと思います。前回、信濃と江戸との往復に旅程などを述べましたので、今回は房総への旅で...
芭蕉の鹿島紀行を巡るとして6回に分けて記事を書いてきました。そこにもう一つ記事を追加しておきます。それは小林一茶が同じように鹿島へも訪れていることです。一茶が鹿島へやってきたのは文化十四年(1817)の五月(旧暦)末です。芭蕉が鹿島に来たのは「貞享四年(1687)八月の中秋の名月」ですから一茶は130年後になります。芭蕉の生まれは寛永21年(正保元年、1644年)伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)です。一方一...
松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...
潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...
昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...
桜もだいぶ咲き始めました。今朝、市内の国府公園にいってみました。桜ももうだいぶ咲いています。桜と考える人?彫刻またスズランもきれいです。オオアラセイトウ(紫ハナナ、紫金草、花ダイコン)...
潮来アヤメ祭りに合わせて、地元の古刹「長勝寺のご本尊等の仏像が開帳されていました。祭り会場(前川アヤメ園)から比較的近いのですが、訪れる人は少ないようです。長勝寺本尊である「阿弥陀三尊」です。いわゆる阿弥陀如来と左右に観音菩薩(慈悲)と勢至菩薩(智慧)を配しています。県指定文化財では「阿弥陀如来坐像及両脇侍像」となっています。檜材を使用した寄木造り・玉眼で定朝様の流れをくむ仏像です。制作年代は鎌...
コロナ禍も一応終った?まあ何処も制限なしでお祭りも行なえるようだ。潮来といえばやはり「アヤメ祭り」でしょうか。昨日、天気は雨天かもしれないとの予報もありましたが、こちらは銚子へ行く途中の立ち寄りでした。まだ、午前10時過ぎ頃で、人でも余りまだそれ程多くは出ていませんでした。今年のアヤメはもうかなり咲いており、やはり早いようです。前川アヤメ園周辺で簡単に写真を数枚撮りましたのでUPしておきます。...
6、藻島(めしま)の駅家(うまや):郡衙の南方三十里のところに、藻島の駅家がある。その東南方の浜辺には碁石がある。藻島の名の由来:倭武の天皇(ヤマトタケル)が舟に乗って海から磯辺を見たら、様々な種類の海藻(め)が生い茂っていた。そのために藻島と名付けた。 藻島の駅家の遺称地:十王町伊師が有力候補地といわれる。伊師に「目島」という小字名が残っており、古代官道跡の調査をきっかけに発見された長者山遺跡が古...
21、多珂(たか)郡 郡衙・・・大高台遺跡(高萩市下手綱:県立高萩清松高等学校の敷地。以前の書物には松岡町とあるが松岡町名称はは消滅)1、多珂の国造:古老の話では、成務(せいむ)天皇(景行天皇の後:4世紀半ば)の世に、建御狭日(たけみさひの)命が多珂の国造に任命された。この人が最初にこの国を巡り、山の峰が険しく高いところだというので「多珂国」と名づけた。建御狭日命は出雲臣と同族(やから)である。今、多...
12、賀毗禮の高峰: 13、御岩神社 常磐道高速の日立中央ICより県道36号線で西の常陸太田を流れている里川の上流の方に進むと、山を下る途中に「御岩神社」の看板があります。 入口には「常陸最古の霊山」と彫られています。少し入ったところに駐車場があり手前に20台くらい、奥に7~8台くらい止められます。こんな山奥と思っていたのですが、休日の事もあり駐車場が8割程車が止まっていて、少しの間にもまた車がやってきました。...
前回からの続きです。 場所の地図をもう一度出しておきます。1、久慈郡郡衙 郡衙の場所は確定されていないが、有力な場所として、常陸太田市大里町~薬谷町の長者屋敷遺跡辺りではないかとされています。この遺跡からは古代の郡寺と考えられる久(慈)寺の跡が見つかっています。平成7年に発掘調査がされ、平成9年3月に報告書が発行されています。 長者遺跡全景(真ん中の溝部がトレンチ跡) ...
常陸国風土記の勉強会を「ふるさと風の会」で今年始めました。時々このブログでも紹介しておりますが、今回は最後の「久慈郡」と「多珂郡」をまとめてみました。この地域は石岡からは少し離れているので訪れることは少ないです。また風土記に記述されている内容も少ないのですが、奈良朝の初めの頃のこの常陸国を知るうえではちゃんと読んでおかなければ歴史を理解することは出来ないようです。8世紀後半はまだ、蝦夷との争いが...
先日阿見町を通った時に、予科練平和記念館を訪れた。生憎、風の強い日で、記念館東側の零戦の実物大模型は風の影響で扉を閉めており見学は出来なかったが、西側の庭に展示してある「回天」の実物大模型は見ることが出来た。回天:人間魚雷ともいわれた玉砕型1人乗りの魚雷。敵艦隊近くに行って、1時間ほどの酸素と爆弾を積んで敵の艦船の船底で爆発させる。特攻隊の飛行機の魚雷版。30分くらいで目的場所まで操縦し、そこで体当...
昨日も銚子まで霞ヶ浦北側の街道を通って車で出かけた。先日まで周りの田には満々と水が張られ、山々の木々などがそこに映し出されていた。今はそこに植えられた稲の穂が整然と並び、いかにも日本の原風景が広がっていた。そして、神栖市の整備された広い車道の両端や中央分離帯では、キバナコスモスの花とチガヤの白い穂が優先順位を競うかのように存在感を高めていた。一部は黄色い花が一面い続き、外来種の花であっても今では...
連休最後の土曜日、午前中はふるさと風の会での「常陸国風土記」の勉強会。香島郡の終わりと那賀郡をやりました。まあやったというより私が説明をしながら、現地の案内などを写真などで説明したといったところ。その後、会員のお一人(東京からこちらに1年前に来られた方)から、「大洗磯前神社に先日娘に案内してもらって行ったけど、大杉神社までは回れなかった」という。それなら、これから出かけますか? といって2人で出か...
昨日は一日中雨降る生憎の天候であったが、旅ぶらでお世話になった縁で知りあった方のお誘いを受けた企画に出かけた。萩原嘉市コレクション「SPレコードと蓄音機によるコンサート ほとけ様と一緒に聴く、妙なる音楽時間」へ出かけた。行くまでは、お病気になった方も今は元気だと聞いて、是非会いたいな~ と言うくらいの単純な思いであった。しかも生憎の雨。また次第に雨脚も激しくなるという予報。車で1時間くらいかかるし...
過去に各地(特に銚子)の庚申塔を紹介して来ました。 ⇒ こちら昨日出かけた時に見た庚申塔をここに追加で載せます。場所は、安婆様(大杉神社)の少し手前にある神宮寺の境内元文五年の銘がある立派な庚申塔が二基。神宮寺は満巻上人が建立したと伝わる古社。元文五年庚申は1740年で、庚申の年は60年に一度ですから江戸時代でもそれほど多くはありません。西暦が60で割り切れる年です。次に巡ってくるのは2040年です。青面金剛...
先日、小美玉市の旧小川町にある「天聖寺」を訪れた。ここに中国から伝わる海洋の女神といわれる「天妃尊像」を友人に紹介するためである。天妃尊像については、前に記事を書いているので今回は省略します。(前の記事は ⇒ こちら)今回は、この寺の表参道川入口近くに置かれているある石碑についてです。上の写真が寺の表参道入口です。竹林と、古びた板碑などが並ぶ石段を上った所にコンクリの収納庫があり、ここにこの天妃...
常陸国風土記の香島郡(鹿島郡)の記述には、香島郡の成立について次のように書かれている。【下総の国、海上の国造の部内、軽野より以南の一里、那賀の国造の部内、寒田より以北の五里とを割きて、別て神の郡を置きき。・・・」これは記録によれば、西暦649年である。大化の改新(645年)からまもない時になる。当時、現在の利根川河口附近は、今とはかなり違っていて、霞ヶ浦ももっと大きな内海(香取の海)となっていた。上記...
先日(4/27)、東庄(とうのしょう)町を通りかかって、看板につられて「雲井岬(くもいざき)つつじ祭」を見て来ました。香取市(旧佐原市、小見川町)の隣。ここも小見川町と同様に古代は内海がかなり奥まで広がっていた。この雲井岬も名前の通り、この内海の奥、入り江のような場所の上にある高台で、岬のような場所だったらしい。横には東庄町の中心的神社の「東大社(つたいしゃ)」がある。つつじ園もこの大社の付属園的な...
355号線を玉造方面に走っていて、石岡脳外科病院近くを通ると、いつもまたあの石像を見ていこうか? などというおもいにかられる。しかし、殆んどの場合はそのまま素通りだ。今回は天気も良かったので、久しぶりに挨拶していこうと、信号を左に曲がった。左折、耳守神社へは行かずそのまま道を進むと通りの曲がり角にこの石造の仁王像が野ざらしに置かれている。かつてここには寺があったが、この造以外はみな無くなった。日本...
常陸国風土記の那賀郡に書かれている大男(ダイダラボッチ)の話し。当時はまだ貝塚などといった知識もなく、今から1300年以上も前にこの貝塚の話しが書かれたのは日本では最古といわれるけれど、世界でもかなり古いものかもしれない。当然大量の貝殻が積もって岡をなしていたのを、大男(ダイダラ坊)に話と結びつけて語られた。今では貝塚などは珍しくも無く、各地に見つかっているが、少し前までは、大昔に貝を食べてそれ...
<常陸国風土記 那賀郡> (最前は略く)平津の駅家の西一二里に岡有り。名を大櫛と曰ふ。上古、人有り。躰極めて長大く、身は丘壟(をか)の上に居ながら、手は海浜の蜃(うむき:はまぐり)を摎(くじ)りぬ。其の食へる貝、積聚りて岡と成りき。時の人、大くじり(又は朽ちる)の義を取りて、今は大櫛の岡と謂ふ。其の践みし跡は、長さ四十余歩、広さ二十余歩、尿の穴の径は二十余歩許なり。(以下略す)風土記の記述では、最...
常陸国風土記の那賀郡に「駅家の南の坂の途中に泉があり、清い水がたくさん出る。曝井といい、附近の村の女は、夏の月に集まって、布を洗って日に曝して乾す。」と書かれている。昨日紹介した愛宕山古墳のすぐ裏側にこの井戸があると言う。場所は水戸市愛宕町の滝坂と呼ばれる坂道の途中にこの泉がある。現在「萬葉曝井の森」という名の公園として整備され、きれいな竹林と泉がとてもこの時期美しい。ただこの道は下の方から上る...
常陸国風土記では潮来に攻め入ったタケカシマは那珂川(粟川)をさかのぼりこの地を治めた。そして最初の那賀国の国造(くにのみやっこ)となったと云われている。そして、タケカシマの墓がこの(水戸)愛宕山古墳ではないかと・・・。台渡里廃寺跡から比較的近いこの愛宕町にやって来ました。紫陽花で有名な保和苑なども近くにありますが、愛宕神社周りの道は狭く、一方通行も多く少し奥まった場所にあります。神社の社務所がある...