ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
昨日はまた朝から暑い中、車(軽)を運転して銚子まで行って来ました。朝9時頃に家を出ましたが、もう既に気温はかなり高く、出かけにアクエリアス1本を持って、信号で止まるたびに一飲みしながら・・・・途中で知り合いの方にたのまれていた資料を届け少し立ち話し。少し外でいるだけで汗も噴出します。そんな中でしたので、その方より冷たいペットボトル2本もいただき、銚子につくころには、持ってきたボトルと頂いたボトル1本...
先日銚子へ行く途中で少し別なところへ行ってみたいと玉造市内で355号線の方へ曲がった。適当に見当をつけていたのだが、どうも目標をだいぶそれてしまったようだ。今、ナビも使わずに地図を頭に入れてみもせずに感のみで走ると良くこんなことがある。しかし、ナビに頼ると、どうも途中の地形などが頭に入らないし、次に行く時もナビに頼る事になり、周りが記憶に残らない。そんな言い訳はどうでもよいが、諦めて湖畔よりの国道...
この週末は少し忙しかった。しかも急激に暑くなり、どうも睡眠不測です。土曜日は八郷(青柳地区)の古民家で開かれたトークイベントの講師をたのまれて、2時間の予定が時間オーバー。あっという間に時間が過ぎてしまいました。テーマは地元「石岡の歴史を訪ねて」とのことでしたが、大昔のはなしと、近世の産業や街並みに話を絞ってお話しさせていただきました。古民家はクーラーが無くても結構涼しいのですが、多くの人に集ま...
潮来の前川あやめ園のある「大門河岸」から古刹「長勝寺」までは、真っ直ぐ道はつながっており、歩いてもわずかな距離である。アヤメ末期間中にここを通ると沿道の家々の玄関先にかわいいつるし雛が飾られ、どこかホッコリとして気持ちが和んでくる。これはもう何年か前から続いている。沿道のお家の皆さんは庭の花などの手入れも怠らず、皆さん頑張っておられるな~と感心して眺めている。シャッターは閉まっていてもこうしてつ...
行方市羽生にある「橘郷造神社」の脇を、先日通りかかったので立ち寄りました。この神社もこのブログを始めた頃から何度も立ち寄っています。そしていくつもの変化を記録してきました。国道355号線沿いにある「羽生郵便局」から茨城空港へ向かう道路沿いに、この神社は建っています。木々の続く参道の先に神社の鳥居と奥に拝殿が見えます。隣りの道路が拡張され、寂しくはなりましたが、参道の木は何とか無事に葉を伸ばしていま...
このブログも地域に眠る歴史などと、もうかなりの数の寺などを紹介してきたので、同じところも何度か登場したりする。今回のこ萬福寺も以前に紹介している。ただ、今回はこの裏山側から回ってのアクセスだから少し感じ方も違う。昨日紹介した「羽生館跡」の場所はこの萬福寺のある山とは地続きなので、何か関係しているのだろうと思う。羽生館跡の看板から山を巻くように民家との間の細い道を車で通り抜けて、この寺の山門に出た...
今日少し調べ物をしていて気になった所があり、午前中に出かけてきた。気になった所というのは、行方市沖洲の奥に「石神遺跡」という場所だが、ここに縄文時代のストーンサークルに似た環状列石遺跡があり、市の指定史跡に認定されているという。市のHPにある住所を訪ねてみたが、この辺りは沖洲芸術村の延長で宅地開発がされた場所らしく、住宅が少しあるが、売地と書かれた場所などは草や木々が茂り、足を踏み入れることも出来...
潮来は江戸時代は仙台方面や関東方面から霞ヶ浦や利根川を経由して江戸に荷を運ぶ水運の中継地として栄えた。そのため、ここ二は関東でも屈指の規模の遊郭があった。茨城県では水戸光圀が大洗の祝町に公的な遊郭を作り、那珂湊などでの芸者衆など明治以降もにぎわったが、ここ潮来も明治期までは結構栄え、潮来節などの芸者音楽も栄えた。その後、一時廃れたが、昭和初期にはかなりにぎやかだった様だ。その昔遊郭があったという...
5月末に潮来の前川アヤメ園を訪れていましたが、アヤメも少しまばらでしたので6月半ばにまた訪れました。梅雨で雨が少しシトシトと降る天気でしたのでまだ人の出もあまり多くはありませんでした。それでもアヤメは雨に似合います。6月下旬にかけてまだまだ咲きそうです。雨は小雨でしたが、傘をさす人が多くいました。この前川は北浦と常陸利根川をつなぐ川で、江戸時代には東北から江戸に運ぶ荷物もたくさんあったようです。潮...
源氏ゆかりの寺といわれる潮来の長勝寺の菩提樹の花を見て来ました。今の時期の潮来といえば「あやめ祭り」ですが、ひっそりと佇む長勝寺も見所の一つです。5月末に訪れたときはまだ花の姿はありませんでした。最近はこのあまり目立たない花も、この時期になると愛でたくなります。今年は台風で被害を受けた本堂の屋根等の修理が終了し、観光客もまばらですが訪れていました。訪れたときは雨が降ったりやんだりの梅雨特有の天候...
昨日は、朝からシトシトした雨模様そんな中でまた銚子へ出かけて来ました。昼頃の港を眺めに、調子駅に近い漁港に立ち寄りました。このような天候のときは、やはり港には多くの船が停泊していました。奥に見えるのが銚子大橋です。銚子と波崎(茨城県)をつないでいます。この公園も小雨模様で、人は殆んどいません。...
私がブログ(まほらにふく風に乗って)を書き始めたのは2010年8月、東日本大震災の7ヶ月前である。あれから12年近くが経とうとしている。当時からロシアとの距離を取りたがっていたウクライナではあったが、ロシアのウクライナ侵攻がおきようとはまったく考えていなかった。仕事でロシア、ベラルーシ(白ロシア)、ウクライナなどを数回訪れた事があり、今の戦争は他人事には思えない。このブログももう3500回以上記事を書いている...
私は幼い頃から小学1年までいた。場所は本牧で、三渓園のすぐ近くだった。小学校はこの庭園のすぐ隣にあった「間門(まかど)小学校」へ1年間通った。子供の頃はこの三渓園は出入り自由で、子供達の遊び場だった。トンボとり、ザリガニとりなど日の暮れるのも忘れて、門がしまってしまったこともあった。そんな時は、年長の子供らの案内で、なんとか脱出できたようだが、どうやって出たのか?あまり記憶に無い。さて、年をとると...
田植えが終わりもうすぐ梅雨となる。月数回は銚子まで行っているのだが、そのルートはいくつかある。最初の頃は霞ケ浦南部沿岸を国道125号線などで走り、阿見町、美浦村や稲敷なども散策しながら道中の楽しみとしていた。まあ、それに飽きると、今度は時間短縮もあり、利根川と常陸利根川に挟まれた中洲土手を走っていた。しかし、これも車はすいているが、速度制限がかなり厳しく、時々警察のスピード取り締まりが行われてい...
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ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...
小林一茶は故郷信濃(柏原)に戻り、居を構えた後も、江戸から房総方面の俳諧仲間の所を訪ね、俳句を教え旅費や生活費の稼ぎをしていました。そんな中で生まれたばかりの長男を亡くした後に、やってきた俳諧行脚ともいえる房総・常陸国の旅が文化14年(1817年)前半にありました。一茶の7番日記に記載されている日記の内容から読んでみたいと思います。前回、信濃と江戸との往復に旅程などを述べましたので、今回は房総への旅で...
芭蕉の鹿島紀行を巡るとして6回に分けて記事を書いてきました。そこにもう一つ記事を追加しておきます。それは小林一茶が同じように鹿島へも訪れていることです。一茶が鹿島へやってきたのは文化十四年(1817)の五月(旧暦)末です。芭蕉が鹿島に来たのは「貞享四年(1687)八月の中秋の名月」ですから一茶は130年後になります。芭蕉の生まれは寛永21年(正保元年、1644年)伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)です。一方一...
松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...
潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...
昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...
桜もだいぶ咲き始めました。今朝、市内の国府公園にいってみました。桜ももうだいぶ咲いています。桜と考える人?彫刻またスズランもきれいです。オオアラセイトウ(紫ハナナ、紫金草、花ダイコン)...
芭蕉たちが鹿島に来て何か所かで句を詠んでいますが、私が訪れたことがある句碑が置かれている場所を書いておきたいと思います。書かれている句は次の5か所に分類されています。1)仏頂和尚の庵にてをり/\にかはらぬ空の月かげも ちヾのながめは雲のまに/\ 和尚月はやし梢は雨を持ながら 桃青 (根本寺)寺に寝てまこと顔なる月見哉 同 (大儀寺)雨に寝て竹起かへるつきみかな 曾...
仏頂和尚について今回は芭蕉が禅の師と仰ぐ、鹿島の仏頂和尚(禅師)について、あまり知られていませんので紹介しておきたいと思います。仏頂和尚(仏頂河南)は寛永19年(1642)2月18日鹿島郡白鳥村字札(現鉾田市札)の農家(平山家)に生まれました。芭蕉より2歳年上です。 (仏頂和尚像:根本寺蔵) (大儀寺の仏頂和尚石像)白鳥村の名前は常陸国風土記の香島郡に登場する「白鳥(しらとり...
(解説) 松尾芭蕉は伊賀上野の生まれですが、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。小田原町は慶長年間の僅かな期間存在した地名ですが、その後本小田原町となり、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年(1680年)まで8年間を過ごしています。しかし日本橋の芭蕉宅には寿貞という身の回りを世話してくれる妾と、伊賀...
芭蕉の鹿島紀行を巡る(はじめに) 松尾芭蕉は貞享四年(1687)八月の中秋の名月の日に、二人の門人と共に鹿島地方を月見に訪れました。これは江戸深川の芭蕉庵にいた時に知り合った仏頂和尚からの誘いを受けたものでした。仏頂和尚は当時鹿島の根本寺(こんぽんじ)の住職をしており、鹿島神宮との間で寺領争いがあり寺社奉行に訴えるために、江戸深川の臨川院という草庵にいました。仏頂和尚は、根本寺の寺領訴訟に天和2年(168...
桜の開花は進まないけど、日が照って暖かくなると気持ちも豊かに・・・・ かすみがうら市に用事があり朝早く行ってきました。四万騎農園の栗の木の幼木畑には一面の菜の花がきれいに咲いていました。毎年のことだけどやはり春を感じますね。部屋に鉢植えシクラメンもほったらかしでも毎年遅咲きでも花を咲かせてくれます。やっと満開になりました。事務所入り口の花も、取り除かずにおいたらどんどん出しゃばり・・・・・でも可愛...
常陸大宮市東野(とうの)にある真宗大谷派の法専寺で教えて頂いた元山伏弁円こ「明法房」が葬られたとされる墓所へ。頂いた地図で、元の通り側に戻って法専寺の裏山の向こう側に車で向かいました。地図もあるし大丈夫と思っていたのですが、入口の曲道を通り越して、大回りしてまたもとへ帰って来て見つかりました。通りからの曲がり道に何か案内でもあればいいのですが、何もなかったので見過ごしてしまいました。分って見れば...
昨日の続きです。親鸞の弟子二十四輩の第十九番目が 山伏弁円こと「明法房」です。昨日は真宗本願寺派の「上宮寺(じょうぐうじ)」を紹介しましたが、今日は真宗大谷派の「法専寺(ほうせんじ)」を紹介します。このお寺は常陸大宮市東野(とうの)地区にある寺で、山伏弁円が最初にこの地で修験場を開いた場所です。弁円の素性ははっきりしないとされていますが、ここでは平清盛の孫と云われています。正確には清盛と時子の長...
本ブログも数年前に常陸国と親鸞聖人の足跡などを辿って、記事にもし、また本にもまとめました。しかし、24輩の弟子の残した寺などは特に辿っているわけではありませんでした。ただ、最近見落としている寺などが気になり、特に石岡に暮らしていると大覚寺に伝わる山伏弁円などをもう少し詳しく調べて見たくなりました。思い立つとその残された寺や墓などと云うところに行ってみなければならないという気持に襲われ、昨日3月16日...
3日ほど前だが、案風の強かった日に銚子へ出かけていたのだが、ランチ後に少しの時間で何処か梅見によいところは?と調べて見たが、銚子市内ではあまりヒットしない。それでも「梅と浄国寺」の写真が出て来た。このお寺は確か「芭蕉と一茶の句碑」があったはずで、昔訪れたことがあった。街中から近いし、小雨でもあるので立ち寄ってみることにした。浄土宗の寺院だが、なかなか趣のあるお寺である。境内のお堂と梅のコラボレー...
昨日も銚子まで霞ヶ浦北側の街道を通って車で出かけた。先日まで周りの田には満々と水が張られ、山々の木々などがそこに映し出されていた。今はそこに植えられた稲の穂が整然と並び、いかにも日本の原風景が広がっていた。そして、神栖市の整備された広い車道の両端や中央分離帯では、キバナコスモスの花とチガヤの白い穂が優先順位を競うかのように存在感を高めていた。一部は黄色い花が一面い続き、外来種の花であっても今では...
連休最後の土曜日、午前中はふるさと風の会での「常陸国風土記」の勉強会。香島郡の終わりと那賀郡をやりました。まあやったというより私が説明をしながら、現地の案内などを写真などで説明したといったところ。その後、会員のお一人(東京からこちらに1年前に来られた方)から、「大洗磯前神社に先日娘に案内してもらって行ったけど、大杉神社までは回れなかった」という。それなら、これから出かけますか? といって2人で出か...
昨日は一日中雨降る生憎の天候であったが、旅ぶらでお世話になった縁で知りあった方のお誘いを受けた企画に出かけた。萩原嘉市コレクション「SPレコードと蓄音機によるコンサート ほとけ様と一緒に聴く、妙なる音楽時間」へ出かけた。行くまでは、お病気になった方も今は元気だと聞いて、是非会いたいな~ と言うくらいの単純な思いであった。しかも生憎の雨。また次第に雨脚も激しくなるという予報。車で1時間くらいかかるし...
過去に各地(特に銚子)の庚申塔を紹介して来ました。 ⇒ こちら昨日出かけた時に見た庚申塔をここに追加で載せます。場所は、安婆様(大杉神社)の少し手前にある神宮寺の境内元文五年の銘がある立派な庚申塔が二基。神宮寺は満巻上人が建立したと伝わる古社。元文五年庚申は1740年で、庚申の年は60年に一度ですから江戸時代でもそれほど多くはありません。西暦が60で割り切れる年です。次に巡ってくるのは2040年です。青面金剛...
先日、小美玉市の旧小川町にある「天聖寺」を訪れた。ここに中国から伝わる海洋の女神といわれる「天妃尊像」を友人に紹介するためである。天妃尊像については、前に記事を書いているので今回は省略します。(前の記事は ⇒ こちら)今回は、この寺の表参道川入口近くに置かれているある石碑についてです。上の写真が寺の表参道入口です。竹林と、古びた板碑などが並ぶ石段を上った所にコンクリの収納庫があり、ここにこの天妃...
常陸国風土記の香島郡(鹿島郡)の記述には、香島郡の成立について次のように書かれている。【下総の国、海上の国造の部内、軽野より以南の一里、那賀の国造の部内、寒田より以北の五里とを割きて、別て神の郡を置きき。・・・」これは記録によれば、西暦649年である。大化の改新(645年)からまもない時になる。当時、現在の利根川河口附近は、今とはかなり違っていて、霞ヶ浦ももっと大きな内海(香取の海)となっていた。上記...
先日(4/27)、東庄(とうのしょう)町を通りかかって、看板につられて「雲井岬(くもいざき)つつじ祭」を見て来ました。香取市(旧佐原市、小見川町)の隣。ここも小見川町と同様に古代は内海がかなり奥まで広がっていた。この雲井岬も名前の通り、この内海の奥、入り江のような場所の上にある高台で、岬のような場所だったらしい。横には東庄町の中心的神社の「東大社(つたいしゃ)」がある。つつじ園もこの大社の付属園的な...
355号線を玉造方面に走っていて、石岡脳外科病院近くを通ると、いつもまたあの石像を見ていこうか? などというおもいにかられる。しかし、殆んどの場合はそのまま素通りだ。今回は天気も良かったので、久しぶりに挨拶していこうと、信号を左に曲がった。左折、耳守神社へは行かずそのまま道を進むと通りの曲がり角にこの石造の仁王像が野ざらしに置かれている。かつてここには寺があったが、この造以外はみな無くなった。日本...
常陸国風土記の那賀郡に書かれている大男(ダイダラボッチ)の話し。当時はまだ貝塚などといった知識もなく、今から1300年以上も前にこの貝塚の話しが書かれたのは日本では最古といわれるけれど、世界でもかなり古いものかもしれない。当然大量の貝殻が積もって岡をなしていたのを、大男(ダイダラ坊)に話と結びつけて語られた。今では貝塚などは珍しくも無く、各地に見つかっているが、少し前までは、大昔に貝を食べてそれ...
<常陸国風土記 那賀郡> (最前は略く)平津の駅家の西一二里に岡有り。名を大櫛と曰ふ。上古、人有り。躰極めて長大く、身は丘壟(をか)の上に居ながら、手は海浜の蜃(うむき:はまぐり)を摎(くじ)りぬ。其の食へる貝、積聚りて岡と成りき。時の人、大くじり(又は朽ちる)の義を取りて、今は大櫛の岡と謂ふ。其の践みし跡は、長さ四十余歩、広さ二十余歩、尿の穴の径は二十余歩許なり。(以下略す)風土記の記述では、最...
常陸国風土記の那賀郡に「駅家の南の坂の途中に泉があり、清い水がたくさん出る。曝井といい、附近の村の女は、夏の月に集まって、布を洗って日に曝して乾す。」と書かれている。昨日紹介した愛宕山古墳のすぐ裏側にこの井戸があると言う。場所は水戸市愛宕町の滝坂と呼ばれる坂道の途中にこの泉がある。現在「萬葉曝井の森」という名の公園として整備され、きれいな竹林と泉がとてもこの時期美しい。ただこの道は下の方から上る...
常陸国風土記では潮来に攻め入ったタケカシマは那珂川(粟川)をさかのぼりこの地を治めた。そして最初の那賀国の国造(くにのみやっこ)となったと云われている。そして、タケカシマの墓がこの(水戸)愛宕山古墳ではないかと・・・。台渡里廃寺跡から比較的近いこの愛宕町にやって来ました。紫陽花で有名な保和苑なども近くにありますが、愛宕神社周りの道は狭く、一方通行も多く少し奥まった場所にあります。神社の社務所がある...
常陸国風土記に、現在の水戸を中心とした那賀郡の記載内容は意外に少ない。少ないのか、写本に省略されて残っていないのかは良くわからないが、とにかく余り多くは残されていない。そのため、まり訪れてみる機会もなく、今迄やり過ごしてきてしまった。この風土記の勉強をするに当って、もう少し知っておかねばならないことを痛感して、遺称地を訪ねてみる事にした。まず向かったのは、那珂郡の郡衙(郡家)があったとされる「台...
イギリス・ロンドンから来ている長女家族も今朝(8/18)成田を出立しました。先週末は1日東京デズニーランドで楽しんで、日曜には長男家族も3年ぶりの再会と云うことで我が家にやって来ました。そして、ファミレスで食事をした後に見頃を向かえているという常陸海浜公園にネモヒラを見に行って来ました。午前中は天気もまずまずで、午後から雷雨もあるというので心配していましたが、夕方3時頃なら空きはじめるかとも思って夕方...
銚子にも月に3回ほどまだ通っているが、最近は比較的交通量が少なく、また道路も広い神栖市側を通って、。銚子大橋をわたることが多くなっていたが、今回は利根川の土手沿いの道を通る事にした。その入口には国の史跡に登録された「横利根閘門」がある。霞ヶ浦と利根川を水路で結び、蒸気船をはじめ、物資輸送にも大いに利用された閘門である。一般的な水門は上下に動かすが、この水門(閘門)は真ん中をくの字にして前後にして...
昨日銚子へ出かけました。桜も散り、途中でどこ見ておきたいところは・・・などと考えながら車を霞ヶ浦北側を潮来のほうへ走っていました。もう、周りの田んぼは土起しがなされ、かなりの田には水が張られていました。一部の田では稲がすでに植えられているところもありました。茨城のこのあたりは長閑で良いのですが、新緑の美しさや湖は見られるのですが、この日は少し霞んでいて、遠くの方はぼやけていました。これも黄砂の影...
もう6日前ですが、潮来の裏山の稲荷山から、脇の道を下に下って潮来の市街に出ました。ここの頼朝ゆかりの古刹「長勝寺」に桜と新緑を求めて立ち寄ってみました。この参道沿いの桜も並木となって、咲いているときも、また花吹雪となっているときも美しいのですが。多くに桜花は散って、葉桜となっていました。この楼門も水戸光圀の命で、別な寺から移築されたものです。ほんどうも前にこのあたりを通過した台風で痛めつけられま...
麻生から東に進むと「潮来」地区になる。ここは市街地のすぐ裏手を国道51号線が通っているが、この高台に「稲荷山公園」がある。暫く訪れていなかったので、様子を見に山側の国道側から公園に入った。国道沿いに公園の入り口がある。中を右に進むと、市街地から稲荷神社への上り階段がある。ここから潮来の町をこのように見下ろすことが出来る。これが稲荷神社。公園の桜はもうすっかり葉桜となっていた。この稲荷神社もすっかり...
沖洲、小高ときて、次に立ち寄ったのは麻生、この町の街中商店街から直ぐの所に「羽黒山公園」があります。地元の方の憩いの場所となっているようです。でも初めて訪れた人はその入り口から少し迷いそうです。結構狭いところから山に登ります。上は公園や休憩所などと、旧麻生の城跡遺跡があります。麻生氏は行方四頭の一人ですが、戦国時代に隣にいた同じ身内の島崎氏(潮来)に攻められ落城しました。江戸時代になると、周りは...
沖洲の常福寺を後にして、次に立ち寄ったのは小高地区にある「皇徳寺」だ。この寺へも久しぶりである。国道355号線の道沿いに「皇徳寺」の矢印看板があるので、そこを左折してすぐである。ここは行方四頭の長男「小高氏」の菩提寺だ。小高氏も戦国末期に玉造氏や島崎氏と同様に、佐竹氏により滅ぼされたが、玉造や麻生などの名前は都市として残されたのに比べ、小高氏は行方氏の長男であったにもかかわらず、余り知られていない...