今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
脇坂家5万1千石の頃は賑わっていた龍野の城下町は、今は「小京都」とは呼ばれるものの、とても静かです。 此処は「旧脇坂屋敷」。12代脇坂安斐公の旧住居です。明治…
老中・松平定信が、淡路島や瀬戸内の島々まで遠望出来る素晴らしい景色から「聚遠亭」と名付けたといわれる風光明媚なエリアです。「龍野公園」の中の最も高いエリアにあ…
「龍野~伏見シリーズ」に入ります。龍野。脇坂氏5万1千石の城下町です。 脇坂安治は、「賤ケ岳七本槍」のひとりですが、関ヶ原の戦いでは、小早川秀明の裏切りに伴い…
温暖な瀬戸内気候に恵まれた岡山は、消費量全国第1位の「さわら」を始め、下津井の「たこ」、「千屋牛」、桃やマスカットなどのフルーツなど、食材の宝庫です。「ばら寿…
柳川筋を走る路面電車を「大雲寺前」電停で下ります。 「法澤山大雲寺」です。浄土宗西山派の寺院で、御本尊は「阿弥陀如来」さま。天正年間(16世紀)に、岡山城を築…
桃太郎大通り「柳川電停」の南は、お寺が多く、ちょっとした寺町の風情があります。 まずは「薬師院(真言宗)」。宇喜多家が岡山城を築城する際、広大な寺地を与えられ…
岡山の路面電車、「岡山駅前」の次の電停「西川緑道公園」です。 岡山市街を南北に流れる「西川」。西川に沿う2.4km、4haの広大な緑地公園になっています。スロ…
「城下」電停に近い「甚九郎稲荷」です。 宇喜多家再興のために城下に入った「佐久間甚九郎」ですが、多数の暴漢に囲まれ、危機に陥ります。そのとき、天から霊光が燦然…
岡山藩の藩学跡ちかくに「浦上玉堂」碑があります。浦上玉堂は江戸後期の南画家ですが、岡山藩の支藩の岡山新田(鴨方)藩の大目付まで務めた人物でした。後に脱藩し、「…
岡山独特の「巨大な交差点」です。市街地の南北幹線「柳川通り」で、路面電車2系が分離する「柳川交差点」が典型的です。直径100m以上の空間になっています。交差点…
岡山藩池田家の藩祖:池田輝政と利隆の菩提寺「国清寺」です。山号は萬歳山。臨済宗妙心寺派です。御本尊は、釈迦牟尼像。 池田輝政は、姫路城を今の巨大城に大改修した…
歩き廻って空腹だったので、宿泊していたホテルの「がっつり系」にしました。ホテルグランヴィア岡山「重慶飯店」です。 ●前菜、サラダ ●イカの大葉炒め ●スープ …
仁徳天皇が「大吉備津彦命」の「吉備国開拓の功績」を称えて創建したと言われる「吉備津神社」です。三備(=備前、備中、備後)の一之宮とも言われ、全国から多くの参拝…
桃太郎の鬼退治伝説のメッカ「吉備路」のハイライト「吉備津神社」です。 温羅(うら)との戦いに勝利し、吉備国を平定した「吉備津彦命」は祭神として当社に祀られます…
「吉備国」が、備前、備中、備後の3国に分かれました。現在の岡山市のやや左部に、備中国と備前国の国境が敷かれました。その結果、JR桃太郎線「備前一宮」駅にある社…
岡山城の「目安橋」です。大手側から本丸に通じる橋で、池田光政公が藩主の時期、此の橋の袂に、領民からの投書を受ける「目安箱」が設置されたので、此の名があります。…
岡山県庁の対面。相生橋の袂に「伊木家屋敷跡」がありました。伊木家は、代々、岡山藩主池田家の筆頭家老を務め、その禄高は、大名並みの3万3千石でした。加賀藩前田家…
岡山に美味しいイタリアン・レストランがありました。野菜の味に目覚めさせてくれる「トラットリア・ミズオチ」です。イタリアでの修行経験を有する夫婦が営むこじんまり…
後楽園の案内を続けます。何しろ14万4千㎡もの広さなので、案内に3回掛かります。園内中心の「唯心山」からの景色から。 まず頂上です。 「沢の池」です。右手に「…
「岡山後楽園」の案内を続けます。 「大立石」です。巨石で、そのままでは搬入困難。90数個に割り、ようやく搬入したと言われています(元禄初期)。 此の辺りは「…
日本三名園のひとつ「後楽園」です。 「三大〇〇」というものは無数にあります。例えば「徳川御三家」でも、徳川本家を含めて水戸を外す人もいます。数え方は色々です。…
岡山中心部の総鎮守「岡山神社」です。 かつては、岡山城本丸の地に鎮座していました。天正元年(1573)に、宇喜多直家(秀家の父)が岡山城築城にあたり、現在の地…
舞台は、倉敷から岡山へ。岡山と言えば「桃太郎の鬼退治伝説」です。吉備津彦命が「鬼人・温羅(うら)」を退治したとの伝承です。 古代、吉備(備前+備中+備後)には…
「倉敷アイビースクエア」内にあり、クラボウ創業時の工業だった建物ですが、「日本の紡績事業の発展」を示す貴重な「日本近代化産業遺産」として残されています。 此の…
「クラボウ(倉敷紡績)」旧倉敷本社工場を改修した文化施設「倉敷アイビースクエア」です。近代化産業遺産に指定されています。 蔦が絡まる赤いレンガ館が素敵です。…
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今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
JR奈良駅前のホテルに宿泊した場合、食事処は近場に殆どなく、三条通りやならまち辺りまで出掛けていく必要があります。 此処は、ホテル日航奈良内の和食処「よしの」…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…
伊豆急下田駅から「マイマイ通り」へ出ると、「稲田寺(とうでんじ、浄土宗)」があります。お吉の恋人/船大工「鶴松(川井又五郎)」が眠っています。 当寺は、幕末の…