やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
大正11年に、旧松山藩主の久松(松平)伯爵が建設された「萬翠荘」です。県内では最古の鉄筋コンクリート造の建物で、ネオルネッサンス様式の建物で、日本人の美意識に…
大正11年に、旧松山藩主の子孫である久松(松平)定謨伯爵が建設した「ルネサンス様式の洋館」の別邸(国の重文)「萬翠荘」です。松山の中心地「大街道」から近い、「…
「坂の上の雲」で有名になった「秋山兄弟の生家」です。原形に忠実に、再現されています。 まずは、兄の秋山好古大将の騎馬像が、お出迎え。 そして、弟の秋…
「伊予シリーズ」を始めます。主な訪問地は、松山と伊予大洲です。内子も訪問を検討しましたが、交通の便などを考慮して諦めました。関東から、新幹線が開通していない地…
永仁元年(1293)の創建の「薬王院(日蓮宗)」です。 案内板には、「寺紋に三つ葉葵を使用出来るほどの、格調高いお寺でした。」と記載してありますが、一方では、…
扇ケ谷の奥、横須賀線の線路脇に、八角形の御堂があります。頼朝の長女・大姫の「守り本尊(地蔵菩薩)」を祀り、大姫を供養しています。平成13年に再建されました。 …
扇ケ谷の奥まった処にある「浄光明寺」です。今は、住宅地の真っただ中にありますが、当寺は、色々な歴史を内包しています。 まずは、「冷泉為相(藤原定家の孫。冷泉家…
いつも多くの参拝者で賑わう「銭洗弁財天/宇賀福神社」です。頼朝が、文治元年(1185)に創建し、正嘉元年(1257)には、北条時頼が、此処の霊水で「銭を洗い」…
「仙境に湧く水で神仏を供養すれば、天下は泰平に治まる」という夢のお告げを受けた頼朝が、霊水に湧く此の地を発見し、文治元年(1185)に「宇賀神」を祀るべく、創…
安国論寺を南下し、横須賀線の踏切を越えると、「石井山長勝寺(日蓮宗)」が見えて来ます。一帯では、他を圧倒する大寺です。弘長3年(1263)創建で、開山は日蓮上…
日蓮が安房から鎌倉へ来て、最初に草庵を構えた松葉ケ谷。今も樹木が鬱蒼と茂り、山懐に抱かれています。此の日は、「大宝寺」から住宅地を抜け、「妙法寺」、「安国論寺…
大町から名越へ。更に住宅地へ入ると「多福山一乗院大宝寺(日蓮宗)」があります。後方の山は「佐竹山」。その向こうは「妙本寺(比企能員屋敷跡)」です。佐竹山の左が…
ツツジの名所、名越の「安養院(浄土宗)」ですが、此の日は、(法事でもあるのでしょうか)山門が固く閉ざされていました。 「安養院」は、嘉禄元年(1225)に政子…
安養院の直ぐ隣りにある「別願寺」です。 弘安5年(1287)に覚阿が真言宗能成寺を「時宗」に改め、「別願寺」としました。そして、鎌倉における時宗の中心寺となり…
新羅三郎義光は源頼義の三男。兄の八幡太郎義家が、後三年の役で苦戦するのを見て、援護するために陸奥に向かう途中、鎌倉に立ち寄りました。丁度そのころ、疫病に苦しむ…
鎌倉十橋のひとつ「夷堂橋」です。鎌倉駅に近く、滑川に架橋されています。西直ぐに「本覚寺」、東へ行くと「妙本寺(比企能員邸跡)」です。 かつては、橋のたもとに、…
小町大路が滑川を渡る「夷堂橋」。その西詰めに「本覚寺(日蓮宗)」があります。本覚寺二世の日朝上人が、なかなか身延山までお参りに行けない人々のために、本山に、日…
鎌倉では、最近、駅前に出来た「メトロポリタン鎌倉」に宿泊することが多いです。それまでは鎌倉駅前にホテルが少なく、横浜に宿泊したり、郊外の「鎌倉プリンス」を利用…
妙隆寺の直ぐ南の小町2丁目。若宮大路と小町大路を結ぶ「宇都宮辻子」に「宇津宮稲荷神社」が鎮座しています。この社は、かつての「宇都宮辻子幕府」の御所内社でした。…
「日蓮辻説法跡」がある小町大路沿いは、日蓮宗の寺院が多いエリアです。「妙隆寺」も、此処に屋敷を持っていた千葉氏が開基となり、至徳2年(1385)に、日英上人を…
治承4年(1180)、鎌倉入りした頼朝は、大倉の地(現在の清泉小学校辺り)に自邸の建設を始めました。頼朝は此処に、侍所、公文所、門注所(後に駅西口へ移転)など…
宝戒寺の斜め前に、「土佐坊昌俊の屋敷跡」碑があります。昌俊は頼朝に仕え、その指示に従い、義経を堀川邸に襲撃しましたが、弁慶などの防戦に遭い失敗。鞍馬へ逃れまし…
鶴岡八幡宮の直ぐ東に位置する「宝戒寺」です。建武2年(1334)に、後醍醐天皇の命により、尊氏が、北条得宗家の屋敷跡に建立しました。天台宗の高僧・円観慧鎮を開…
犬懸橋から「田楽辻子のみち」へ入ります。鎌倉期には、田楽師が住んでいた処で、滑川に沿った、気持ち良い散策道です。 「田楽辻子の道」を雪の下方面へ行くと「大御…
杉本寺の直ぐ前の「犬懸橋」界隈。有名な「穴子丼の左可井」前ですが、この辺りは、「犬懸上杉氏」の本拠地でした。「上杉朝宗および氏憲邸跡」の碑があります。 上杉朝…
鎌倉随一の古刹と言われる「杉本寺(杉本観音)」です。坂東三十三観音霊場の第一番札所です。天平6年(734)春に、光明皇后の祈願により堂宇を建立。丁度、関東巡行…
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やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…