兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
これは、もう一つの要素をもたらします。それは、彼は神格を持つ神としてそこにおられ、神たる方の全豊満が肉体の形で彼に宿っている一方で、また、彼はエホバの御名を帯びつつその地位を占めておられる一方で、彼は人としてそこにおられるということも同様に真実である、という要素です。彼は栄光の中にある人です。栄光を受けた人であり、多くの兄弟たちの長子です。神は人を栄光の中に連れて行き、主イエスのパースンにおいて人...
実に、主イエスは、神の働きが目指している原型であり、実際です。この目標たる御方にそのあるべき地位に直ちについていただきたいと、いま私たちは願っています。なぜなら、そうならないかぎり、私たちは何か劣ったものに捕らわれてしまうからであり、この地上における私たちの人生の目標や原動力は不十分なものになってしまうからです。使徒自身の場合、これがいかにそうだったのかは、おわかりでしょう。使徒行伝の九章で、彼が...
聖書朗読:ピリピ三・一~二一。「なぜなら、神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです……」(ローマ八・二九)。「愛する者たちよ、今や、私たちは神の子供たちです。私たちがどのようになるかは、まだ明らかにされていません。彼が現れるなら、私たちは彼のようになることを知っています。なぜなら、私たちは彼...
御霊から生まれるもの― キリストにある新創造 ―T. オースチン-スパークス目次第一章 御子のかたち第二章 新創造の本質的な天的性質第三章 新創造の普遍性第四章 新創造のかしらである主イエス第五章 新創造の本質的な団体的性質オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
「聖霊の極度の必要性」第五章 命・聖潔・真理の御霊(9) 完
真理の霊この二重の提示では、主イエスがこれらの特徴をすべて帯びて登場されることに気づきます。彼は彼処に命、生きている者としておられます。彼処に聖潔としておられます、その髪は白い羊毛のように白く、聖潔と清さという冠をかぶっておられ、人を代表する清められた御方です。次に、彼は三番目に忠信で信実な証人として示されていること、そして七つの霊の三番目は真理の霊であることに気づきます。七つの霊に関連して個人的...
聖潔の霊これは、栄光を受けた人の子であるイエス・キリストのパースンの中にある積極的な原則、積極的な美徳、特徴です。聖霊は、この基準に向かって働くために、ここに聖潔の霊としておられます。今、私たちは、聖潔の霊とどれだけ一致しているかに応じて裁かれることになります。神は主イエスにおいて、人に対する聖潔の基準に到達されました。聖霊が来臨したのは、他のすべての信者において、主イエスにおけるその基準に到達す...
これがそもそも問題です。まず第一に、あなたは命を得たでしょうか?黙示録は、「だれでも小羊の命の書に書かれていないことが判明した者は……」という問題と共に閉じます。自分は命の書に、生ける者の書に書かれていると、あなたは確信しているでしょうか?次に、命の量についてはどうでしょう?あなたの中で命はますます豊かになっているでしょうか?勝利の命はあるでしょうか、それは力の角であり、視覚と知覚の目である復活の命...
命の霊ともし火、火、角(力)、目(視覚)という言葉を取り上げて、神の御言葉を辿って行くと、命はこれらの特徴を帯びていることがわかります。命は火によって表され、力は復活の命の力(角)です。視覚、理解力は命のしるしです。同じことが他のすべての特徴にも当てはまりますが、ここではまず、七つの霊は命の霊である、という真理のとても単純な声明に話を絞ることにします。黙示録では、主イエスの積極的な力は、まず第一に...
私たちはみな不十分であることがわかります――ああ、私たちはまだそこに至っていません。現時点における私たちの問題は、「聖霊は今、この瞬間に行いうることをすべて行うための許可、同意、従順、協力、信仰を私たちから得ておられるでしょうか?」ということです。明日でも、未来でも、過去でもありません。重要なのは、聖霊が今、私たちの中で自由な道を得ることです。私たちは今日のことだけを考えればいいのです。明日のことは...
「この書を受け取って、その封印を解くことができる者は誰か?」という叫びが上がったことがわかります。それができる者は天にはだれもいませんでした。しかし、「私が見ていると、御座の中央にほふられたような小羊を見た。それには七つの角と七つの目があった。彼は来て、その書を受け取って開かれた……」。すると、すべてのものが「あなたはふさわしい」と歌い始めました。主イエスの何が、御座についてその統治の書を受け取るの...
この二つの節、この二つの期間で、主イエスが示されています。一つ目は諸教会に関して示されており、それに関連して七つの御霊がおられます。二つ目は地上に住む者たち、地の住人たちに関して示されています。どちらの場合も主イエスを見せており、どちらの場合も七つの霊が主イエスに関して働いておられます。その働きとはまさに次のようなものです、すなわち、高揚と栄光と統治の地位についておられる主イエスと結ばれているこれ...
まず、聖霊について「私は御霊の中にいた」と言及されていることに気づきます。次に、この三つの章を通して、聖霊について「御霊が諸教会に言われること」と何度も言及されています。次に二番目の期間、新たな状況では、「私は御霊の中にいた」とありますが、聖霊の直接的な活動についてはそれ以上何も述べられていません。しかし、神の七つの霊について二回言及されています。これはとても重要であることがわかります。なぜなら、...
朗読:黙示録四~五章、一・四~六、四・五、五・六。これらの御言葉の一つか二つの特徴に注目していただきたいと思います。そこには、この章について私たちが心に抱いていることの背景を形成するのに必要ないくつかの点があります。まず、ここで「私は御霊(the Spirit)の中にいた……」と二回述べられていることに注目してください。これは、まず黙示録一・十で、次に黙示録四・二で述べられています。どちらの場合も、御霊(Spir...
さて、私たちは御霊に満たされるための根拠を見てきました。私たちは自問しなければなりません、「私は神の御言葉に浸された生活を送っているでしょうか?それがなおざりになっていないでしょうか?それは貧弱で縮んだ状態にあるのではないでしょうか?」。今、これを正すつもりはあるでしょうか?私たちの祈りの生活についてはどうでしょう、そうあるべきだと自覚しているよりも低い水準に、主が望んでおられるよりも遥かに低い水...
二つ目は御言葉です。神の御言葉の中にある豊かな命が、御霊に満たされた生活には不可欠です。御言葉の中にしっかりととどまらなければなりません。聖霊が神の御言葉の代わりになってくださる、とは思わないでください。多くの人は、聖霊が働いて自分たちに話すメッセージを与えてくださると考えて、神の御言葉に関して何もしません。これは悪質な罠です。「キリストの言葉をあなたたちの内に豊かに住まわせなさい」と御言葉は述べ...
従順と祈りと御言葉の必要性御霊に満たされるために、そして御霊に満たされ続けるために必要な三つのことについて、あまり掘り下げずに述べることにします。次は、従順です。つまり、神を信じ、神への信仰に基づいて行動し、神が指摘されるいっさいのことで神に従うことです。これは、議論したり、質問したり、疑ったりせずに、神に何かを指摘されたら、疑わしきは神に譲ることを意味します。これが従順です。暗黙の従順に通じる神...
全き献身は人生を狭めるものではありません。人生を豊かにし、人生の秘訣に導き、存在理由を知らせてくれます。それはあなたをこの世界が創造される前の神の御思いの中に導きます、「私たちは世の基が置かれる前からキリストにあって選ばれていたのです」。そして、神は世界が存在するようになる前から御子にあって御旨を定められました。しかし、キリストを受け入れないかぎり、あなたはこれに決して気づきません。その時、若い回...
「あなたたちの体が聖霊の宮であることを知らないのですか?」「あなたたちは代価をもって買い取られたことを知らないのですか?」「あなたたちは自分自身のものではないことを知らないのですか?」。この三つの問いかけは何を意味するのでしょう?なんと、あらゆる点で私たちのあらゆる部分を神は要求されるのです。それはみな神に属するものとして認識されるべきであり、私たちは霊・魂・体を全く神のものとして明け渡さなければ...
神への絶対的な明け渡し前の章では、別の言葉「服従」を使いました。さて、それが好きかどうかは別として、それは正しいです。「服従」と「明け渡し」のどちらを好むにせよ、それは真実です。新約聖書では「服従」よりも「明け渡し」の方が多く使われているように思われます。ローマ六・十六、十九、「あなたたちは知らないのですか?だれかに自分を僕としてささげて従順になるなら、あなたたちは自分が従っている者の僕であって、...
さて、私たちは信仰を行為によって思慮深く行使して、キリストと十字架における彼の御業とを把握し、彼と彼の御業を自分のために受け入れなければなりません。なぜなら、それは私たち一人一人のためだったからです。十字架上のあの御業はみな、全世界のためであるのと同じように個人のためでもあります。私たち一人一人のためでもあります。御霊に満たされよという神の偉大な命令を、それが意味するいっさいのところと共に果たすう...
さて、御霊による聖別に関連して、他に一つか二つのことを見てみましょう。この件では信仰の明確な行為が必要です。キリストと十字架における彼の御業とを、信仰によって把握することと証しすることが必要なのです。これを二つの部分に分けることにしましょう。キリストと十字架における彼の御業とを信仰によって把握する必要があります。「キリストを把握する」とは、イエス・キリストは歴史上実在した人物であり、とても素晴らし...
主イエスの御業が聖霊の御業の基礎であることがわかります。これが出エジプト記二九章のあの素晴らしい節を読んだ理由です。この御言葉には本当に大きな感銘を受けてしかるべきです。それはこう述べています、「それは入口で常にささげる全焼のささげ物である」。入口は中に入る所であり、通路でした。そしてあの幕屋はキリストの表現、型でした。キリストの中に入るのは、入口で常にささげられている全焼のささげ物によってです。...
聖別の第三段階は、ほとんどの人が他のどの段階よりも優先している段階です。それは漸進的な面です。キリストにあって私たちの立場であるもの、そして神への献身という私たちが熟慮して行った行為と選択の結果が、今や、聖霊の働きによって、私たちの中に漸進的に伝達されるのです。つまり、キリストに似た者にされるという意味で私たちは日毎に聖別されつつあり、私たちの代表者である彼が分離されたいっさいのものから日毎に分離...
さて、聖別の性質について考えてみましょう。聖別とは何でしょう?これは重大な言葉であり、これについて非常に多くのことが書かれてきました。そして、聖別の第三段階(これについてはすぐに触れることにします)がしばしば入り込んで、この言葉の真の意味を混乱させています。旧約聖書はこの言葉で満ちています。ヘブル語の翻訳は「奉献された」、また別の言葉は「ささげられた」です。何かを神に聖別し、奉献し、ささげるときに...
聖別さて、聖別は聖霊の満たしの前ではなく後に置かれることがとても多いことは私も承知しています。また、聖書の諸々の節を単独でとらえるなら、これを支持しているかのように思われるかもしれません。しかし、聖別を御霊の満たしの後に置くことは、聖別の意味の理解としてはきわめて不完全で不十分です。聖別は、あるとても重要な点において、御霊の満たしの前に来ます。しかし、聖別には次のような三つの段階があります。第一に...
これから読むのは神の御言葉です。人の言葉ではなく、神が聖霊によって書き記させた神の御言葉です。まず一般的な性質の節を二つ読み、次により具体的な性質の節を一つまたは二つ読みます。最初はローマ八章九節です。「もしだれでもキリストの霊(Spirit)を持たないなら、その人はキリストのものではありません」。これは神の御言葉であり、私や他のだれかの言葉ではありません。「もしだれでもキリストの霊(Spirit)を持たない...
しかし、本題に戻ることにします。敵は力と惑わしにより、勢力と誤謬によって、主の民を損ない、神の事柄に疑問を呈し、神の御旨に反対しようとしています。これらの両方の線に沿って私たちは敵に対抗します。その両方の線とは、敵の勢力・力・強さ・抵抗・圧力と、敵の欺き・誤謬・嘘です。どのようにしてこの両方の線で敵に首尾よく対抗すればいいのでしょう?「あなたたちの中におられる方は、世にいる者よりも大きいのです」。...
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兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
二、また聖書の文字はイエスの体と同じく、啓示であると共に又蔽ひである、人の感(センス)のみを以て之を読む時は矛盾が多いやうに見える。此事は凡て神の啓示に共通のことである。例へば自然に就てもさうである。自然は確かに神を現はす。しかし人の感覚に訴へる時には矛盾のみ多くして却て神を誤り易いではないか。光もあれば暗(くらき)もある、熱もあれば氷もある、生命の保護もあれば死の跋扈(ばつこ)もある。故に或人は...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...
〔28〕「我ゆきてまたなんじらに来たらん」これは聖霊によって来ることを言われたものである。もちろん父なる神は、キリストよりも大いなる栄と力とを持っておられる。キリストがこの父に帰るのは凱旋である。だから弟子たちもこの主を喜ぶべきであるのに、彼らは悲しんだのである。キリストと弟子たちとはどうしても喜憂を共にすることが出来なかったのである。肉体なるキリストの去られることは大いなる神の恵みであるにもかかわ...
次に記すのは、バックストン兄の講義の中に示されたものである。 恵の富(一)我が平安 ヨハネ一四27(二)我が愛 ヨハネ一五10(三)我が喜び ヨハネ一五11(四)我が恩 コリント後一一9(五)我が力 コリント後一二9(六)我が安息 へブル四5(七)我が栄光 ヨハネ一七24オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...