兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
「ヨハネ黙示録略解」第一四章 二種の刈入れと天使の宣言(4)
〔14〕「白雲」清くかつ輝いているさま。キリストの栄光を現わす。「人の子」キリスト。「金の冠」神性と王を表わす。すなわちキリストを王として神として審判主として、権威をもって現われて下さる。「利き鎌」罪人を滅す恐ろしい鎌。「座せり」審判の型である(マタイ二五31、32)。〔15〕「殿より出で」直接に神から出て神の命令を抱いて来るのである。「刈時すでに至れり」審判を下す時がすでに来た。「地の穀物すでに熟したり...
「ヨハネ黙示録略解」第一四章 二種の刈入れと天使の宣言(3)
〔6〕今の時代では、神は福音宣伝を贖われた者に託しておられるが、この時代になると悪魔が具体的に現われて、超自然の力をもって暴威をふるうために、神は天使に力を与えて、福音を宣伝させられるのである。「永遠なる所の福音」福音の真理が永遠に動かないものであるとの意である。この時代の福音は罪人を救う福音ではなく、今日の恵みの時代における福音と異っている。永遠の福音である。〔7〕「神を恐れ、栄をこれに帰せよ」こ...
「ヨハネ黙示録略解」第一四章 二種の刈入れと天使の宣言(2)
〔1〕「シオンの山」エルサレム神殿のあったところである(詩四八2)。ここでは将来に現われるべき新しいエルサレム、すなわち天国にたとえているものである(黙二一2)。「一四万四千の人」。 12×12=144……………神の数 144×1000=144000……完全数これは先きに七章4節で印を捺された者であってユダヤ人中の選ばれた民のことである。この民の受けた印の対照であって、民は小羊の名を受けた者である。「名」はその実を現わし、性質にお...
「ヨハネ黙示録略解」第一四章 二種の刈入れと天使の宣言(1)
分解一 一四万四千人 1二 彼らの讃美 2~3三 彼らの資格 4~5四 第一の天使の福音宣伝 6~7五 第二の天使の宣言 8六 第三の天使の宣言 9~12七 天からの声と霊の声 13八 人の子と二種の刈入れ 14~20オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
「ヨハネ黙示録略解」第一三章 二匹の獣――偽キリストと偽預言者(3)
〔11〕「一匹の獣」偽預言者のこと。この子をイスカリオテのユダであると言う人もある。悪魔の三位一体は、竜、偽キリスト、偽預言者である。「地より出ずる」明白ではない。しかし、事実地から出るがごとくである。地から超自然の者が出て来て羊のような様をする。「二つの角」偽預言者が、偽キリストから与えられたすべての権のみならず、宗教上の権もあると解する人もある。またこれは自然界、超自然界のことであると解く人もあ...
「ヨハネ黙示録略解」第一三章 二匹の獣――偽キリストと偽預言者(2)
〔1〕悪魔の奥義の現われるところ。あたかも神の奥義がキリストによって現われたようにである(テモテ前三16)。ただし、七章と関連している。今までに悪魔はいろいろな手段方法をもってこの世の権力を用い働いてきたが、いよいよこの時になってその姿を現わしてきた。これは悪魔がその力を現わして働こうとするためである。「七の首」「十の角」共に恐ろしい権力をいう。首は尊厳の意、角は権威を現わす。「十の冠」悪魔はこの世...
「ヨハネ黙示録略解」第一三章 二匹の獣――偽キリストと偽預言者(1)
分解一 第一の獣 1~7 獣の形状と権威 1~2 獣の人望 3~4 獣の勝利 5~7二 警戒 8~10三 第二の獣 11~18 獣の形状 11 獣の権威と働き 12~15 獣の印誌 16~17 獣の数目 18オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
〔13〕「女を悩ませり」地上に残された有形の教会は、悪魔からはなはだしく迫害される。〔14〕神の特別の保護がなければ悪魔に殺され滅されてしまうであろう。「大いなる鷲の二つの翼」神の救いの力(申三三11。出一九4)である。神の救いの力は再び患難時代に現われる。「野に」イスラエルがエジプトを離れて淋しいシナイの野に来て、天来のマナをもって養われたように、淋しい野に行き難を避けて神の聖手に守られるのである。神...
〔7〕「ミカエル」キリストであると解する人もある。しかし、天使の長と解すべきである。悪魔と天使との戦い。〔8〕悪魔は天にあって暗の権威を司ったが今はキリストの勝利が有形に現われて来たので、天にいることが出来ないのである。〔9〕「悪魔」ギリシャ語では訴える者との意。「サタン」へブル語では敵する者との意であって、保恵師の反対。「老蛇」惑わすことは彼の特色であって、奸智にたけた者である。〔10〕大讃美。あが...
〔1〕「大なる異象」ヨハネはこの異象の大きなことに驚いた。第一は、女、第二は男子、第三は龍である。「一人の女」諸説がある。ある人はマリヤであると解し、男の子をキリストと解する。その他エルサレム、またイスラエルあるいは初代教会、ローマ教会(この場合には男の子はコンスタチン帝)であるなどと解釈する人もいる。これは過去の歴史に適応させるべきではなく世の終りのときに起るべきことである。サイス氏の解釈によれ...
分解一 一人の女 1~2二 赤龍 3~4三 男子 5四 女の避難 6五 天における戦い 7~10六 悪魔の怒りと証人の勝利 11~12七 龍の迫害と女の保護 13~17オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
「ヨハネ黙示録略解」第一一章 神殿をはかることと二人の証者および第七のラッパ(4)
〔15〕地上にはまだ顕現してはいないが、天においてはすでに成立しているのである。キリストが王の王としてこの世を治められる時が来ることの預言である。聖国がこの世に成るとき、み心が天に成るように地にも成る時が来るのである。〔16〕大きな讃美礼拝。〔17〕「今いまし、昔しいます全能の主なる神よ」一章8節、四章8節には後いますとあるがここには記されていない。これは特に今に重きを置いたためである。現在において主の国...
「ヨハネ黙示録略解」第一一章 神殿をはかることと二人の証者および第七のラッパ(3)
〔7〕「獣」陰府から出て来たもの。超自然の動物であって、いかなるものであるかは不明である。「これと戦いをなし勝ちてこれを殺さん」神の許しによってこの動物は二人の証者と戦い、勝ってついにこれを殺すのである。神の栄光のために一時悪魔に勝つことを許されるのである。しかし、殺されるものはこれによって殉教の栄光を受け、ついにはよみがえりの恵みに浴するのである。〔8〕「その屍は大なる町のちまたにあり」証者の死体...
「ヨハネ黙示録略解」第一一章 神殿をはかることと二人の証者および第七のラッパ(2)
〔1〕「われ」ヨハネであって、聖徒全体を代表している。一○章の終りにおいて、ヨハネはキリストの手にある巻物を取ってこれを食し、その結果預言をした。そして今は聖徒の特権として審判時代に審く権利を与えられた。「杖の如き葦」杖はこらしめ、鞭打つことの意。あるいは革命、または政治すなわち神から授けられた特別の権威。葦は、はかり竿の意。原意はキャノン(正典)と同じ字であって定規の意。測るもの調べることを言う。...
「ヨハネ黙示録略解」第一一章 神殿をはかることと二人の証者および第七のラッパ(1)
分解一 神殿をはかること 1~2二 二人の証者 3~14三 預言 3~6四 二人の証者の殉教 7~9五 悪人の喜び 10六 証者のよみがえりと昇天 11~12七 地震 13八 第七のラッパの審判 15~19オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
「ヨハネ黙示録略解」第一○章 一人の強い天使の小さい巻物(2)
〔1〕「一人の強き天使」キリスト。「雲を着て」み座のそばに雲がある。(詩九七2)、雲に乗ってくることは神の栄光、威厳を現わす。「天より降る」これは主の再臨ではない。ヨハネの黙示したところのものである。「日」栄光。「火の柱」堅固。この足の行くところを焼きつくす恐ろしい光景を示している。〔2〕「小さき巻物」五章にあった巻物であろうとの説がある。「その右の足を海の上にふみ、左の足を地にふみ」キリストが陸と...
「ヨハネ黙示録略解」第一○章 一人の強い天使の小さい巻物(1)
分解一 一人の強い天使の姿 1~2二 七つの雷の声 3~4三 天使の誓言 5~7四 小さい巻物と天使の命令 8~11オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
〔13〕「金の祭壇」神を信じる者には、祝福となり、神を信じない者には審判となる(八3~5)。〔14〕「ユフラテ」人の造られた場所にある河。この所に神の祝福が下り、悪魔もそのわざを始めた。神と悪魔との最後の戦いをする場所である。〔15〕「四人の使者」四は完全を現わす。全世界に及ぶことを意味する。「許されたり」神の許しを得るまで待っていたが、その許しがあったので釈き放たれたのである。「年月日時」その年、その月...
〔1〕「一つの星」第八章の星は鉱物であったが、これはそうではない。権威を持って輝いていたものであるが、堕落して落ちて来た天使である。「底なき穴」この世の穴ではなく、陰府である。陰府は霊界での悪の勢力の満ちあふれたところ。恵みによって今はこの世と陰府との交通遮断がされているが、この時になると神の許しを得て、交通が始まり、陰府の門が開かれるのである。「鍵を与えられたり」この世と交通するために陰府の門を...
分解一 第五のラッパの審判 1~12 イ 底なき穴 1~2 ロ いなご 3~10 ハ いなごの王 11~12二 第六のラッパの審判 13~21 イ 四人の天使解き放たれる 13~15 ロ 騎兵 16~19 ハ 人々の状態 20~21オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
〔7〕「血の混りたる雹」一八一九年。パッフィンスベイ近くの山の八マイル四方に血の色の雪が降ったことがあると言う。その他ビクニウス山、ノウルウェイ等にも降ったことがあると言われる。これはたんにやがて現われて来ることの模型であって、世の終りには物すごい光景で降って来るのである。木を大人物、草を普通の民衆として解する人もあるが、これは文字通りに解釈すべきであろう。〔8〕「火に焼かれる大なる山の如きもの」ど...
〔1〕七章の終りにおいて大讃美があった後、半時ばかり天が静かになった。これは実に厳粛な光景であって、恐ろしいわざわいの迫って来たことを悟ったためである。詩篇の中にも大讃美を、歌ってきてのち「セラ」に至ってしばらく静まるものがある。これは実に神の沈黙の力の働く時である。〔2〕「七人の天の使い」神から各自一つのラッパを与えられたために、静かになったのである(アモス三6)。七つのラッパは、祈祷の答として吹...
分解 一 第七の封印と七つのラッパ 1~2 二 主イエスおよび聖徒の祈祷の答 3~5 三 ラッパを吹く準備 6 四 第一のラッパ……雹と火 7 五 第二のラッパ……火に焼かれる大きな山のようなもの 8~9 六 第三のラッパ……星 10~11 七 第四のラッパ……日と月と星との変化 12 八 一つの鷲のラッパ 13オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
〔15〕14節の条件を果たしたものの祝福。第一、「神の宝座(くらい)の前にあり」私たちは、この世の帝王の前に立つ事のできないものであるが、神から与えられる祝福によってみ座の前に立つことができる(二四人の長老、四つの生き物のようである。み座には座すことはできないが)。これが栄光、また喜びである(ユダ二四、コロサイ一28)。聖霊は言い難い嘆きをもって、私たちのために祈り、私たちをしてしみなく、傷なき神の前に...
〔9〕天の有様。すなわち患難を経て来た聖徒の祝福の状態である。 (一)六章において神を信じない人々への地上の患難が現われた。 (二)七章一節から八節までにおいては、選ばれた神の民の有様が記されている。 (三)七章九節から一七節までには、天にある聖徒たちの様子が見られる。神を信じない者も神の民も、天にある聖徒もみな患難時代を経て来たものである。「諸国民、諸族、諸民、諸音(いん)」先の一四万四千のイス...
〔1〕神は七つの封印を開かれて、恐ろしいわざわいの来るまでに、患難時代に残された神の民を顧みて下さる。それゆえ、封印を六まで開いて、七まで開かれない前に、これを挿入したのである。「四人の天使」地球の四隅に立って、この世をかき乱しわざわいを来らせようとする嵐をとどめ、何一つどこにも風を吹かせず、あたかも嵐の最中に暫時静穏な時のあるようになし、更に大きなわざわいの来ることのために、このようになしたので...
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兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
二、また聖書の文字はイエスの体と同じく、啓示であると共に又蔽ひである、人の感(センス)のみを以て之を読む時は矛盾が多いやうに見える。此事は凡て神の啓示に共通のことである。例へば自然に就てもさうである。自然は確かに神を現はす。しかし人の感覚に訴へる時には矛盾のみ多くして却て神を誤り易いではないか。光もあれば暗(くらき)もある、熱もあれば氷もある、生命の保護もあれば死の跋扈(ばつこ)もある。故に或人は...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...
〔28〕「我ゆきてまたなんじらに来たらん」これは聖霊によって来ることを言われたものである。もちろん父なる神は、キリストよりも大いなる栄と力とを持っておられる。キリストがこの父に帰るのは凱旋である。だから弟子たちもこの主を喜ぶべきであるのに、彼らは悲しんだのである。キリストと弟子たちとはどうしても喜憂を共にすることが出来なかったのである。肉体なるキリストの去られることは大いなる神の恵みであるにもかかわ...
次に記すのは、バックストン兄の講義の中に示されたものである。 恵の富(一)我が平安 ヨハネ一四27(二)我が愛 ヨハネ一五10(三)我が喜び ヨハネ一五11(四)我が恩 コリント後一一9(五)我が力 コリント後一二9(六)我が安息 へブル四5(七)我が栄光 ヨハネ一七24オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...