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  • 「ヨハネ黙示録略解」第一章(7)

    〔17〕かかる姿でキリストが現われたときに、ヨハネは、死んだ者のようになった(ダニエル十7、8、16、17参照)。イザヤが、神を見たときのようである。このように血肉が全く死んだときに、キリストは右の手をあてて彼を甦らせなさった。このようにして彼は、初めて生きたキリストを見たのである。黙示を受けようとするためには、このような態度を通らなければならない。倒れて後に起されるのである(民二四4)。「我はいや先なり...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一章(6)

    〔12〕「声を見んとて」声を聞こうとしたのはもちろんのこと、その声を発している者をなんとか見ようとしたのである。このように記者の目と耳とが、主に向って働いたことは、その全注意力を主に注いだことをあらわしている。主は、そのような態度を、私たちにも要求しておられる。「金の七つの灯台」これは、教会のことである。教会は、このような者として置かれたのである。「金」は、神性を示す。「灯台」は、光を示す。この世の...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一章(5)

    〔9〕記者自身を現わす。「汝らの兄弟」読者に対してご自身を兄弟として現わしている。自己を卑しくして、私たちと同じ位置におかれた。これが彼の謙遜である。「なんじらと患難を共にし」まことに親密な関係である。快楽ではなく、患難を共にしたもの、イエス・キリストの国および、その忍耐を共にする者イエス・キリストの国は、霊的な王国である。この悪魔の支配する世界にあって、あなたがたも、私もイエス・キリストの国に共...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一章(4)

    〔7〕「見よ、彼は雲に乗って来る」栄光をもって現れ給う時にこのようになる。雲は、神の栄光のあるところに伴う。キリストの地上再臨を示す(使徒一9、11)。他の事を説くのではなく、再臨のキリストを説くのであると。先ず第一の幕が開けられる、これが本書の特色である。再臨は、第一降臨の時と異なり、栄光と権威とをもって下られる。「すべての目かれを見ん」キリストは、このとき、全世界のものに見られ、かつ知られるように...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一章(3)

    〔4〕「七つの教会」七の数が完全数を現わし、世界にある全教会を代表している。どのような種類のものもみなこの中に含まれているので、これはいかなる信者にも適応する。黙示は、アジアの七つの教会に与えられた書であって、また全世界の教会にも与えられた書である。「今いまし、昔いまし、後います者」、父なる神、ありてある主、時代のどうであるかにかかわらず、いつも存在し給う神を言う。「七つの霊」全き霊、父の前にあっ...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一章(2)

    略解〔1〕「これイエス・キリストの黙示」第一に、キリスト自らがその事実を示し給うだけでなく、彼ご自身をも現わし給うたことを意味し、第二に、彼より出たところの事柄についての黙示を意味している。「彼をして」キリストをしての意。「迅速に起るべきこと」黙示録に記されたことは、いつ頃起るべきかが判然としないものではなく、神の前には迅速に起るべきことであって、その僕たちに知らされないことの決してない事柄である...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一章(1)

    分解一 緒言 1~3二 七つの教会に対する挨拶 4~6三 再臨に関する預言 7~8四 黙示を受けたときの実状 9~11五 キリストの顕現 12~16六 ヨハネの恐怖と告示 17~20この章は、敬虔の念をもって黙示についての鍵を握るべきところである。それゆえ、私たちはヨハネと同じところに立って、霊によって解釈しなければ、この黙示を語ることはできない。本書は、ヨハネ黙示録としないで、イエス・キリストの黙示録と名付けた...

  • 「ヨハネ黙示録略解」緒言(2)

    本書に現われたキリストの聖名 一 神 一8 二 人 同13 三 十字架に釘づけられた者 同5 四 復活して生きている者 同5、18 五 大預言者(忠信なる証人) 同5 六 祭司の長 同13 七 審判者 同13 八 摂理の主 五5 九 聖徒の王、教会の首 一13、16 十 再臨の主 同7 十一 天国の光と栄 二一23 十二 万国の王 一5 十三 イスラエルの王 五5 十四 その民を愛して潔める者 一5 十五 罪人を愛する...

  • 「ヨハネ黙示録略解」緒言(1)

    一、記者 使徒ヨハネ二、時 紀元九六年あるいは九七年三、場所 パトモス島であろう。四、時機ヨハネは、長い間エルサレムに住んでいたが、後にエペソに移り、そこを中心に小アジアの諸教会を監督したものと思われる。当時彼は、迫害のためにパトモスの島へ流されていたが(一9)、主イエスはそこでこの驚くべき黙示を彼にさずけ、彼を通して私たちに光を与えられたのである。ヨハネは、その後放免されてエペソに帰り、そこで紀...

  • 「ヨハネ黙示録略解」目次

    ヨハネ黙示録略解笹尾鉄三郎目次諸言第一章第二章第三章第四章第五章第六章第七章第八章第九章第十章第一一章第一二章第一三章第一四章第一五章第一六章第一七章第一八章第一九章第二〇章第二一章第二二章オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (16) 完

    付録:イエス復活後現われしこと十度一 マグダラのマリヤに現われる(ルカ一六9、ヨハネ二〇1~18)二 他の婦人達に現われる(マタイ二八9)三 二人の弟子に現われる エマオにて(ルカ二四13~32)四 ペテロに現われる(コリント前十五5、ルカ二四33~34)五 十人の弟子に現われる(ルカ二四36~43、ヨハネ二十19~25)六 十一人の弟子に現われる(トマス加わる)(ヨハネ二十26~29)七 七人の弟子に現われる ガリラヤの...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (15)

    昇天(マルコ一六19~20)場所 ベタニヤ〔19〕天に上げられて神の右の座につかれたキリストを我らは明かに知ったであろうか。ある人はキリストを知るのに十字架までで止まるが、しかしキリスト伝の特色は甦えりと昇天があることである。ああ、この主を覚えたい。〔20〕昇天の主が力を合せて共に働かれる伝道である。ハレルヤ。〔ルカ二四50~53〕祈祷は彼らにとってどんなに幸いであったであろうか。穴のある手をあげて祝された時...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (14)

    ガリラヤ山における最後の顕現(マタイ二八16~20)〔16〕幸いな山である。我らはこの山で主を拝したいものである。〔17〕「されど疑える者もありき」ペンテコステまでは主はどんなに懇ろに御自身を示されても、なお弟子たちの誰かは疑った。実に悲しいことである。〔18〕「イエス進み出て」特別に注意をひいて御自身を王の王、主の主として示されたのである(詩二6~11)。この王を畏れて喜びたいものである。〔19〕「この故に……...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (13)

    〔18〕羊を托された主は、次に我ら牧者たる者に一つの覚悟を求められるのである。「汝いとけなき時」信仰の幼稚な時は、自分の心のままに遊んで歩く生涯で、彼らはペンテコステの時まではこの生涯であった。しかし「老いては」成長したら十字架を負う生涯に入らねばならない(ヨハネ一○11~15)。死に至るまで忠実なことである。〔19〕「如何なる死にて神を崇めんかを示せるなり」主にこれが見えていた(言伝えによれば、ペテロは...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (12)

    〔12〕「来りて食せよ」幸いである。前に「おさなご共よ、食物あるや」との主の問に対して彼らは「無し」と答えた。彼らは自分に食物がないのだから、もちろん人を養い得なかった。しかし今度は主が魚をたくさんとらせて、「来りて食せよ」と言われたのである。ああ、この甦えりの主のご馳走を得たいものである。〔13〕弟子たちは先に五千人あるいは四千人を養われた主を思い出したことだろう。この時彼らは霊肉共に大いに飢えてい...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (11)

    テベリヤ湖にて七人の弟子に現われる(ヨハネ二一1~24)一~一一 罪人を漁ること一二~一八 信者を飼うこと一九~二一 十字架を負うこと二二~二五 再臨を待ち望むこと(バックストン氏の分解による)これは我らの全生涯を示している。故に、これをしっかりと心に入れれば成功である。〔1~2〕ここは七人である。「ペテロ、トマス、ゼベダイの子等」みな弟子として失敗した者ばかりである。〔3〕人情としてはさもあろうが、実...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (10)

    十一の弟子に現われる(ヨハネ二〇24~49)(トマスのいる時)〔24~25〕「十二の弟子」とあるのは英語のthe twelve(ザツエルブ)であって弟子たちということの通称である。先にトマスは共にいなかった。どうもとかく理屈を知ることを好み、見なければ信じないような者は栄えを見ないのである。トマスは他の弟子たちが確かに主を見たという時にも、なお承知しなかった。トマスは多分見なければまた触らなければ信じない、との大気...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (9)

    ルカ二四36~43〔36〕この日は実に多事であって、三つ重って甦えりの知らせがあった。〔37〕彼らは信ずべきであるのに、不信仰の故に疑っていたのである。弟子たちの疑いと主の御言葉とは、ちょうど舟で嵐に会った時のようである。〔38〕主は不信を嘆かれる。「何ぞ心に疑い起るや」この疑いとは「理屈を言う」ことである。〔39〕主は「我なるを知れ」と仰せられた。不信仰は主御自身を認める代りに、主以外のものを見るのである。...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (8)

    キリスト、十人の弟子に現われる(ヨハネ二〇19~23)場所 エルサレム(トマスのいない時)〔19〕「一週の始めの日」日曜日である。一四章に主は弟子たちに「憂うるなかれ」と、また一六章には「恐るるなかれ」とくれぐれも教えられたが、弟子たちはやはり恐れていた。しかも戸を閉じてふるえていたのである。人間の大胆の真相はこんなものである。このように恐れていた時に、主は御自身を現わされた。この時戸が閉じてあって入る...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (7)

    〔28~29〕彼らはこの聖書講義を聞いて、何とも言えない光を受けたように見える。「主はゆき過ぎんとするさま」をなし給うたが、彼らは主を引き止めた。これは熱心に止めたという語であるという。もし他のことを思っていたら講義を聴くにしても身が入らず、早く終ることを願うものである。しかし彼らは「日も暮れかかっていますから、一緒にお泊り下さい」と熱心に引きとめた。彼らの心中はただ淋しかったのである。ちょうど夕暮に...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (6)

    イエス、二人の弟子に現われる(ルカ二四13~35)場所 エマオ〔13~14〕一人の名はクレオパであって、他の一人は不明である。多分この人々はエマオに住んでいたらしい。過越の祭が終ったので、エルサレムから帰るその途中であったろう。二人共語り合い、また論じ合っていた。その時イエスが近づかれたのである。〔15〕彼らが論じていたのは一七節で明かである。彼らは議論したのではなくて、主をしのんで過去の恵みを語り、また十...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (5)

    番兵の報告(マタイ二八11~15)これもひとつの甦えりの使者である。死んだように恐れた番兵も、甦えりの報告をしたのである。しかしこれは死んだ報告である。彼らはこれを自分のものとして信じていなかったから、この報告に何の命もなかった。だから祭司、学者らが金をもって欺く時、たちまちその方に組してしまった。ああ、甦えりの場所にいながらも、主の甦えりを否定するものがある。ここに悲しいことは、祭司、長老が異邦人の...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (4)

    マグダラのマリヤに現われる(マルコ一六9~11)場所 不明聖い人々あるいは偉い人々でなく、以前に七つの悪鬼につかれていた者――罪人――に主は真先きにあらわれ給うた。甦えりの主にお目にかかるのは、身分の如何によらないことを知る。彼女の砕けた心に対して主は第一に現れ給うたのである。我らも自らの罪を深く覚え、罪多いところに増し加わる恵みに感じて主を見上げる時、甦えりの主は現われ給うのである。〔10〕他の婦人たち...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (3)

    キリストの甦えり(マタイ二八2~4)〔2〕「誰が……」という女たちの願いのこたえが前にあった。人間がどんな大石を持ってきても、神の力はこれを全く取り除けてその上に座し給うのである。ああ、信ずることである。〔3〕神から来た者は実に輝いて、「雪の如く白く」純潔である。変貌の主もそうであった。栄えときよさは天国の特色である。〔4〕死んだキリストは甦えり、生きて番をしていた兵卒は死んだ者のようになった。天使のみ...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (2)

    〔3〕これは墓に来る途中の言葉であろう。彼らの愛のしるしである香料を主のなきがらに塗ろうと思ったが、墓前には大石が置かれてある。これが大きな妨げであった。今日も信者ならば主の愛を知り、自らも真に主を愛するけれど、悲しいことには主と自分との間に大きな石がある。石とは何か。これを霊的に味わえば場合によって色々あるが、第一は内なる罪、石の心である。これは主との交わりを絶つものである。また何かの性癖、何か...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (1)

    婦人たち墓に行く(マルコ一六1~4)場所 エルサレム〔1〕婦人たちのことは続いて記されている。彼らは十字架にも墓にも最後まで主につき従っていたのである。安息日は律法に従って休んだが、安息日が過ぎるのを待って、この三人の婦人は香料を携えて行ったのである。実にこの心は美しいではないか。彼らは富者ではなかったであろうが、「イエスに塗らんとて」持って行ったのである。マリヤのナルドの香油と同様である。理屈を言...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (27)

    イエスの墓に番兵置かれる(マタイ二七62~66)〔62~63〕彼らの心の中に何とも言えぬ恐れがあったのである。これが罪人の特色である。悪人は将来を思って心配し、聖霊は望みに輝いて喜ぶのである。〔65〕ピラトはどんどん彼らのなすままにさせた。神はサタンが思う通りにすることを摂理の中に許し給うのである。彼らの七重八重の囲いをも主は後に破って、彼の栄えをあらわされたのである。今もそのようになることを記憶したい。神...

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