祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
キリストの生涯 イエス・キリストは全聖書の中心である。旧約を見ても使徒行伝や手紙を見ても、その生涯は最大の関係を有している。キリスト伝の七区分(一)準備の三○年。(二)不明の時代。(三)人望の時代。(四)反抗の時代。(五)苦難の週間。(六)十字架の日。(七)復活後の四○日。オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
キリスト時代の政治上の区画 パレスチナはキリストの時代、政治的には五つに区画されていた。すなわちガリラヤ、サマリヤ、ユダヤ、ペレヤ、バシャンがそれである。(一)紀元前三七年からキリスト降誕時代、すなわち紀元前四年まではローマの属領としてヘロデ大王の王国であった。(二)ヘロデの死後領地を三分し、その子アケラオはユダヤ、サマリヤ(マタイ二22)ヘロデ・アンテパスはガリラヤとペレヤを(マタイ一四1、ルカ三6...
パレスチナの地 パレスチナはアジアに属し、その広さはわずか一二、五○○平方マイルに過ぎない狭く小さな国である。その海岸はツロよりガザに至るまでおよそ一八〇マイルの長さであって、ヨルダン河はヘルモン山より死海に至るまで一六二マイルである。 パレスチナの地勢は五つの平行線より成立する。(一)北方で幅二、三マイルより、南方ガザに至ると殆ど幅二〇マイルの平原がある。(二)この地を越えれば九〇メートルから一五...
〔四〕福音書の書かれ方(一)マタイによる福音書は秩序的である。本書は年代順ではないが、すこぶる論理的に記されている。例えば思想単位にまとめて全般を示すために、イエスの教訓、比喩、奇蹟等に分類して記されている。(二)マルコによる福音書は絵画的である。(三)ルカによる福音書は物語的な書かれ方である。(四)ヨハネによる福音書は俗話的である。会話体にしてもまるで老人の談話のようである。〔五〕福音書の主題(...
〔二〕福音書の記された時と場所(一)マタイによる福音書はおよそ紀元五〇年頃パレスチナにおいて。(二)マルコによる福音書はおよそ紀元六五年頃ローマにおいて(この書はペテロの指図の下に記されたと言われる)。(三)ルカによる福音書はおよそ紀元六三年頃ローマにおいて。(四)ヨハネによる福音書はおよそ紀元九〇年頃エペソにおいて。〔三〕福音書は誰のために記されたか(一)マタイによる福音書 ユダヤ人のため理由 ...
四福音書 イエス・キリストの伝記とその事実を知ろうと欲するならば、わたしたちはまずキリストに関する知識の得られる書物を精しく調べねばならない。ここに権威ある書がある。すなわち四福音書である。〔一〕記者(イ)第一福音書の著者はマタイである。彼がキリストの弟子となる前の職業及び彼が主の召しを受けたことについては(マタイ九9)を見よ。彼の別名についてはマルコ二14を見よ。当時収税人の状態については(マタイ...
キリスト伝講義笹尾鉄三郎目次諸言序論御降誕前準備の三○年不明時代人望を得た時代反抗の時代苦難の週間十字架の日復活後の四十日オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
(一)全世界のうちで聖書ほどわたしたちが熱心に研究すべき書物はない。軽卒な読者といえども聖書から受ける利益は少なくない。また無学な人といえども神の救いを求める者は聖書の中から生命を発見しており、あたかも山中に埋没している宝石を坑夫が掘り出すのに似ている。だからわたしたちもつとめて聖書中の宝を求めなければならない。聖書を研究する人は確かに豊かな報いを得ることが出来る。とすればただ読み過ごすだけでなく...
「神と小羊の御座」第五章 小羊の七つの目と七つの角 (12) 完
私たちにとって最悪の時は、往々にして、神にとって最善の時であり、私たちがよい時を過ごしていると思っている時、神は必ずしもそのような良い時を過ごしておられるわけではありません。彼の力は弱さの中で完成されます。これを、弱さが神の力に変わることを意味する、と解釈しないでください。これは次のことを意味します。すなわち、弱さが現存するということ、また、依然として弱さがある一方で、主の力が完全に働いていると...
「神と小羊の御座」第五章 小羊の七つの目と七つの角 (11)
完全な力 この別の面があります。それは全き力です。全きビジョンが不可欠ですが、七つの目があるだけでなく七つの角もあります。また、大きな山がある一方で、「『権勢によらず、能力によらず、わたしの霊による』と、万軍の主は言われます」という御言葉があります。ビジョンを与えるこの同じ御霊には、それを実現する力もあります。隅のかしら石であるこの同じキリストは、頂石でもあられます。そして彼は、それを完成させるた...
「神と小羊の御座」第五章 小羊の七つの目と七つの角 (10)
黙示録では、これが勝利者たちの真の力です。実際のところ、勝利者の明確な特徴とは何でしょう?教会は全般的にビジョンを失いました。神の全き御旨に専念するのをやめてしまって、主のための多くの事柄、多くの善事に専念しています。主は言われます、「それらのものは――ものとして――あるべき所にあるなら問題ありません」と。その人々は言うでしょう、「まあ、こういう状況ですから、より良いものを目指しても無駄です。より良...
今、あなたはおそらく御霊の充満を求めているか、あるいはすでに求めておられることでしょう。それはたんなる抽象的な曖昧なものではないことを覚えておいてください。御霊の充満は、第一に、神の御旨についての知識と、霊的知性と、霊的ビジョンと関係しています。次に、もちろん、神が求めておられるものを見る時、ビジョンと啓示を持つ時、あなたは山に出会います。神の民に関する神の全き御旨、教会と密接な関係にある神の完...
その時、私たちに何が言えるでしょう?こう言えるだけです、「主よ、あなたが私にしてこられたことに照らして見ると、唯一論理的なことは、私がローマ六章を受け入れることです。私はこのような者であり、このような有様であり、このような状態ですから、私に対するあなたの取り扱いに照らして見るとき、私はあなたが私を終わらされたという事実に逆らえるでしょうか?」。これは新しい状況ではありません。キリストが死なれた時...
主はまず私たちを導いて、ローマ六章を見るようにしてくださいました。ローマ六章を見るとき、何かが起きますし、現に起きています。見ることはれっきとした行為なのです。ローマ六章を説教し、ローマ六章について講義し、ローマ六章を聖書の一節として知り尽くせたとしても、ローマ六章を見ていないおそれがあります。ローマ六章が自分に啓示されることは、ものすごいことなのです。キリストが死なれた時、私たちも死にました。...
さて、個人であれ、また地方的・普遍的教会であれ、私たちが霊的に成長して霊的に成熟するには、常に命が第一です。命と光がなければなりません、つまり、一般的な意味においてではなく、神の御旨に関するビジョンがなければなりません。啓示、霊的ビジョン、神の御旨を見ること――これは何と途方もないことでしょう!――に対する、主の民の間におけるこの必要性は、どんなに強調しても強調しきれません。ビジョンは不思議な働きを...
さて、私たちが聖霊によってビジョンを持つことが、「家」に対する神の御旨(これは神の至高かつ包括的な御旨です――「私たちはその家なのです」)に関してとても重要な点です。「ビジョンがない所では、民は滅びる」(箴言二九・十八)。「わたしの民は、知識に欠けるゆえに滅びる(滅ぼされる、改定訳)」(ホセア四・六)。主はこう言われました。 ああ、もし御旨を一目でも見るなら、私たちは力に関して主に求める根拠を得る...
完全なビジョン すでに述べたように、七つの目は完全なビジョンを物語ります。そこから主は建造を開始されます。建造はそれをもって始まります。霊的ビジョンによるのでなければ、霊的増し加わりや建造はなく、神の全き御旨への前進もない、というのが一つの法則です。霊的ビジョンが不可欠です。通常、人々は霊的力を第一に置きます。主は力を第一にはされません。ビジョンを第一にされます。 主は弟子たちに力を与える前に、ご...
私たちは神の隅のかしら石である主イエスから始めなければなりません。この御方にあって、神の完全なビジョンが示されます。簡単な言葉で述べると、主イエスは神の御旨の始めなのです。神の完全なビジョンはこの御方の中に見いだされます。この隅の石の七つの目は、主イエスは神の始まりであることを、そして、彼における神の始まりは、完全な啓示、完全な知性、完全な霊的ビジョンであることを、まさに物語ります。次に、主イエ...
神の建物 第一に、神が関心を寄せておられる建物、つまり神の家のための、礎石もしくは隅のかしら石について記されています。この石について、それには七つの目があると述べられています。私たちは他の聖書の御言葉から、この七つの目は二つの特別な点で満ち満ちた聖霊を表すことを知っています。満ち満ちた御霊の中で神によってあるべき所に運び込まれる、隅のかしら石なる方が示されており、この石は霊的視力と霊的力に満ちてい...
「そして、私と話していた御使いが戻って来て、私を起こしたので、私は眠りから覚まされた人のようであった。彼は私に言った、『あなたは何を見ているのですか?』。私は言った、『私が見ていると、見よ、すべて金でできた一つの燭台があって、その頂に鉢があり、その上に七つのともし火があります』」(ゼカリヤ四・一~二)。「私は、私に語りかけたその声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台を見た」(黙示録...
按手は、からだは一つであるという偉大な輝かしい事実に対する私たちの証しです。この一つは十字架の成果です。バプテスマとバプテスマの水は、カルバリ、死、葬り、復活の型です。それに続くものは何でしょう?常に、必ず、教会がその次に来ます。ですから、死、葬り、復活、崩壊と腐敗の中にある全旧創造に対する主イエスの勝利に対する証しの後に、新創造が現れます。キリストのからだである教会が現れます。それはあの旧創造...
もしあなたや私が、キリストのからだの団体的法則のすべての表現形態に従う以外のことをするなら、私たちは神の御旨に逆らって働いて、小羊の血を無に帰すことになります。それを無効にすることになります。これにあなたを支配させてください、これをあなたの心に実際に問うてみてください。「何らかのかたちで私は、団体生活・キリストのからだという真理・現実を認識していないのではないでしょうか?自分が自分の法律になって...
教会における合一 小羊はカルバリが象徴するところをすべて意味します。彼がご自身をいけにえとしてささげて死なれたことが意味するところをすべて意味します。そうです、ほふられて血を流された小羊に見られるものはみな、次の目的のためです。すなわち、花嫁、小羊の妻、キリストの団体的存在のためです。それはキリストが孤独な存在ではなく、団体的存在を持つためです。この絵図はアダムにも当てはまります。「人が一人でいる...
神はこれを目指しておられます――多くの救われた人を、何らかの外面的方法で互いにつないで一つの鎖のようにすることを、目指しておられるわけではありません。クリスチャンたちを外面的に一緒に結び合わせるものがたくさんあります。いわゆる「交わり」があります!外面的なものにすぎず、外面的なものや場所や教えと関係しているにすぎないすべての「交わり」を、主があわれんでくださいますように。クリスチャンたちを集めて、...
教会における小羊の性質 しかし今、教会のかしらである方、花婿に言えることが、その肢体たち・その花嫁・その妻にも言えなければなりません。教会は小羊のあの力強い勝利にあずからなければなりません。そして、あの勝利は特に団体生活と関係しています――これを覚えておいてください!花嫁、小羊の妻、天のエルサレム、最後に神の栄光を持つことになる、これらすべての神聖な特質によって特徴づけられている都の存在は、力強い勝...
神はご自身の法則や原則にとても忠実です。アダムを造ったように他の別の存在を造って、その別の存在をアダムに手渡して、「これがあなたのための連れ合いです!」と言うことも、神にとってはいとも容易なことだったでしょう。しかし、そうではありませんでした。神聖な真理の提示によると、妻であるエバはアダムの一部でなければなりませんでした。アダムから取られて、人としてまさに彼の命と実体を共有しなければならなかった...
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祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...