全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
多くのことを述べてきましたが、これからの数日間のための前置きの話を終えるにあたって、次のことを述べたいと思います。神のこの偉大な支配的御旨、すなわち、栄光に至るすべての子らを御子のかたちに同形化することが、ここにいる私たちに対する彼のすべての取り扱いの理由なのです。私たちが通る奇妙な経験、私たちの人生の一部を形成する深刻な試練、私たちに関する神の摂理と主権によることはみな、神の御目的に照らして説...
次の点は――これにつまずく人が大勢いるのですが、聖霊は、言わば、この原型を目的として来臨された、ということです。聖霊は栄光の主イエスを見ており、神の御心に適う成就された栄光の人を見ておられます。聖霊は、この原型を徹底的に、細部に至るまでご存じです。聖霊は来臨されました。もし私たちが真に上けら生まれた神の子供なら、彼は私たちの内におられます。そして今、聖霊が地上で行っておられるのは、この原型を内側に...
これについては、もっと詳しく説明しなければなりません。しかし、ヨルダン川以降の三年半は、すべての神の子供の人生にも対応しています。というのは、あらゆることで神に絶対的に信頼する生活がそこに見られるからです。その生活は神に受け入れられる生活であり、自発的なものですが、それにもかかわらず、大いに、大いに、現実的です。神に絶対的に拠り頼む生活です。そして、そのような生活により、彼は、神の御心に適う人が...
それが、主イエスの場合、ヨルダン川で起きたことでした。あの時、彼は罪なき意志を持っておられましたが、それでも、人の意志、人間の意志を持っておられました。その意志は、神の御意思から離れたものであり、それ自体は神の御意志とは分離されているものでした。その人の意志、人間的意志、彼が持っておられた天然の意志は、罪がなかったにもかかわらず、ヨルダン川で神の御意志のために脇にやられました。そして、その瞬間か...
これは、もう一つの要素をもたらします。それは、彼は神格を持つ神としてそこにおられ、神たる方の全豊満が肉体の形で彼に宿っている一方で、また、彼はエホバの御名を帯びつつその地位を占めておられる一方で、彼は人としてそこにおられるということも同様に真実である、ということです。彼は栄光の中にある人です。栄光を受けた人であり、多くの兄弟たちの長子です。神は人を栄光の中に連れて行き、主イエスのパースンにおいて...
実に、主イエスは、神の働きが目指している原型であり、実際です。この目標たる御方にそのあるべき地位に直ちについていただくことを、いま私たちは願っています。なぜなら、そうならないかぎり、私たちはなにか劣ったものに捕らわれてしまうからであり、この地上における私たちの人生の目標や原動力は不十分なものになってしまうからです。使徒自身の場合、これがいかにそうだったのか、あなたは理解しておられるでしょう。使徒...
聖書朗読:ピリピ三・一~二一。「なぜなら、神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです……」(ローマ八・二九)。「愛する者たちよ、今や、私たちは神の子供たちです。私たちがどのようになるかは、まだ明らかにされていません。彼が現れるなら、私たちは彼のようになることを知っています。なぜなら、私たちは彼...
天の支配「天が支配する」 ダニエル四・二六T. オースチン-スパークス目次第一章 御霊から生まれるもの第二章 天が支配する第三章 天からの務め第四章 天の普遍性第五章 主権第六章 霊性オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
さらに注目すべきことに、罪に対する完全な裁きという根拠に基づいて、礼拝が人の考えにしたがって構成されていた宿営の外に会見の天幕が張られた時、主は、人がその友と語るように、モーセと顔と顔を合わせて語られました。このように、交わり、交流、啓示は、たとえ宗教的なものだったとしても、人に属するあらゆるものからの完全な分離と深い関係にあります。新約聖書に移って、教会が実際に誕生する箇所を見ると、当時の宗教...
神の家と罪に対する裁き この物語からわかるように、このためにモーセは民に対してきわめて厳しい対応をせざるをえませんでした。裁きと破壊がそれに続きました。モーセは会見の天幕を宿営の外に移しました。これは明らかに、三二章に言及されているものではなく、一時的なものでした。また、彼が神の住まいの意味に関して霊的な理解力を持っていたことは、きわめて明白であるように思われます。つまり、神の家は罪・暗闇・偶像崇...
第二段階:天的啓示としての家 さて、神の家という偉大な真理のさらなる発展に移ることにします。今度の聖書の箇所は、出エジプト記の三二、三三、四〇章です。ここでおもに示されているのは、神の家に関係している人々の状態というよりは、むしろ、神のはなはだ特別な指示の下で、完全に神の御心にしたがって物事を構成する必要性です。少しの間、出エジプト記の十五章を振り返ることにすると、重要かつ興味深いことに、次のこと...
新生の時、私たちはすべてを胚芽の形で受けます。神の全き御旨は、事実、最初から現存しています。しかし、何年も後になってはじめて、その胚芽に含まれていたものに気づくことが多いのです。神の家のような啓示は、救いの真理とは別の異なる真理であると思っている人が大勢います。しかし、実は、これこそまさに神が最初から目指してこられたものであり、それゆえ成熟・完成に向かって進み続ける必要があるのです。 ヤコブはま...
私たちは、人と共に住むという神の偉大な永遠の御旨について考える際、エゼキエルの預言で「家の規定」と称されているものや、詩篇作者が「聖なることは、あなたの家にふさわしいのです。ああ、主よ、永遠に至るまで」と述べた時に言及したものについて、熟考してきました。私たちは、神の家がヤコブに示されるのを見ました。創世記二八章でそれが示された時から三五章で彼がベテルに戻る時までに、二十年の訓練の歳月がありまし...
人がこの地上でキリストに下した最後の判決は、「まことにこの人は義人であった」でした。「成功者」でも、「有能な人」でも、「賢い人」でもなく、「義人」であった、という判決を下したのです。私たちの最大の関心事は、他の人々が成功と称しているものではなく、神が永遠に確立することのできるものでなければなりません。御旨に真に役立つものでなければなりません――つまり、キリストの顕現でなければなりません。そして、そ...
人々は運動を組織し、共同体を造ります。神は人々を御旨のための道具として聖別されます。人々はどちらかと言うとなすべき働きについて考えます。神はご自身の子供たちの霊的状態を最も重視されます。 新約聖書を構成する二十七の書のうち、六冊は主に歴史であり、その中には多くの霊的教えが含まれています。残りの――二十一冊の書――はみな、信者らの霊的な生活や状況にあてられています。 神は、「働きや働き人が、わたしが要...
これをみな新約聖書にあてはめると、第一に、内なる汚れのせいでどのように宮が捨てられたのかがわかります。主イエスが真の宮としてその地位に就かれます。しかし、彼のパースンの意義を未だに認識していない人々のために、主イエスは数々の言動をされました。それらの言動は――記録に記載されていますが――神の家に関連しているものに関する御心を永遠にわたって啓示します。徹底的に聖ではないものをすべて激しく非難し、神の住...
ダニエル書(九章)、エズラ記(九章)、ネヘミヤ記(九章)の三つの告白の章ほど印象的な章は、聖書の中にほとんどありません。これらの章はみな、エルサレムの神の家と主の民の間の不幸な状況と関係しています。それらは、神の栄光とは全く調和していない状態のために引き起こされた、一つの大きな叫びとすすり泣きを示しています。エルサレムの神の家が廃墟と化しているときに、バビロンの栄華や栄光はダニエルにとって一体な...
神は決してご自身を人の「肉」に委ねられたことはありませんし、これからも決してそうされないでしょう。もしパウロが神の家を他のだれよりも完全に導入しようとするなら、彼は他のだれよりも多く「肉」について、そしてそれを除き去る必要性について述べるでしょう。神の家が再導入されるたびに、これに留意してください。幕屋に関して、なんと入念な注意が払われたことでしょう。幕屋に関わる人はみな、自分の肉を覆わなければ...
「家の規定」 「家の規定は次のとおりである。山の頂とその周り全体の全地域は最も聖である。見よ、これが家の規定である」(エゼキエル四三・十二)。 主の臨在にふさわしくなければならないというこの原則は、人との主の関わりに関する啓示全体にわたって一貫しています。聖さは独立した真理の一部門として教えられることがよくありますが、神の御言葉の中にある真理の偉大な面はみな、ある中心と関係しています。その中心とは...
聖書における神の家の偉大な啓示についての考察の冒頭で、私たちは次の事実を指摘しました。すなわち、神は世界を創造するとき、人と共に住むことを目的としておられたという事実です。この啓示の最後を見ると、これは「神の幕屋が人と共にある」という偉大な宣言がなされる時に実現することがわかります。最初の頃、神はエデンの園の中を歩いて、堕落前の人と会話されましたが、これにそれが伺えます。次に、状況は彼の臨在にふ...
5.ヤコブがしたこと 「そして、ヤコブは朝早く起きて、頭の下に置いていた石を取り、それを柱として立てて、その頂に油を注いだ。そして、彼はその場所の名をベテルと呼んだ。」 柱は聖書では常に証し人や証しを象徴します。参照、創世記三一・五二、ヨシュア四・七、イザヤ十九・十九~二〇。 油は聖霊の型です。ですから、ベテルは聖霊の油塗りの下で立てられた証しを象徴します。これは、ヨルダン川の彼方におられたときの...
4.ヤコブが述べたこと 「そして、ヤコブは眠りから覚めて言った、『まことにエホバがこの場所におられるのに、私は知らなかった。そして、彼は恐れて言った、『これはなんと畏れ多い所だろう!これはまさしく神の家である。これは天の門だ』。」 この言葉が示唆するところは大いに明らかです。 1.神の家は神がおられる所です。 2.神がおられる所では、神の御心にそぐわない者は、そこを恐ろしい場所だと感じて、恐怖に打...
3.ヤコブが聞いたこと 「わたしはエホバ、あなたの父アブラハムの神、イサクの神である。あなたが横になっているこの地を、わたしはあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのようになり、あなたは西に、東に、北に、南に広がり、あなたの中で、またあなたの子孫の中で、地のすべての家族は祝福される。見よ、わたしはあなたと共にいて、あなたがどこに行ってもあなたを守り、あなたをこの地に連れ戻す。わたしが...
さて、ここまでは導入の話でしたが、ここからは、ヤコブのビジョンが記録されている創世記二八章に萌芽的に示されている神の家とは何かを見ていくことにします。 ここでは諸々の要素を収集して、それらの詳細な検討は後の章に委ねることにします。1.ヤコブがいた場所 彼は離れた場所にいました。 この物語によると、彼はこの夢を旅の最初の夜に見たと考えられます。しかし、足の速いラクダで行かない限り、そんなことは不可...
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全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...