全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
おそらく、遅かれ早かれ、破局や乾きの過程が始まり、深い死の経験に入ることになるでしょう。これは、すべてが神からであって天然の人からのものはなにもないという基盤の上に、すべてが構成されるために必要なことです。死と復活を通して、一方の領域から他方の領域に移らなければなりません。これは常にそうでしたし、天の領域の定まった法則です。もしこのような形で私たちにもたらされるなら、新しい世界、新しいビジョン、...
「なぜなら、わたしの家が荒れ果てているからである」 しかし、直ちにこう言わねばなりません。これは「教会」や「チャペル」の空席とはかけ離れた関係にあります。これは、「教会への出席」や不出席、国民の宗教生活全般の衰退といった現在の諸問題を、直接対処しようとするものではありません。この二つの問題は関連しているかもしれませんし、おそらく関連している思いますが、私たちはそのような枝葉末節から始めたりしません...
もしこれらの預言者たちに状況の説明を求め、状況を神の権益と御力にかなう水準に引き上げるために私たちが意識すべきビジョンは何かと尋ねるなら、彼らはいくつかのことに言及するでしょうが、間違いなくすぐさま的確に「わたしの家である、と主は言われる。」と強調して述べるでしょう。彼らは次に私たちを聖書に導くでしょう。そして、彼らが私たちを創世記から順に導いていって、ご自身の家に対する神の第二の関心事を示すと...
穴の開いた袋に金を入れること こう述べることをお許しください。神は御心に適っていないものを支援することはできません。御心に適うものを得ることがこれまで以上に必要になりつつある時代にあって、良いものですら――それが最善のものの敵である時は――彼はますます祝福できなくなりつつあります。かつて用いたものでも、ご自身の究極的御旨や御思いに至らない時は、用いることができなくなりつつあります。 もしヘブル人の預言...
直ちに先に進んでこれらの要素に注目することにします。しかし、読者に警告した方がいいでしょう。私たちはたんなる聖書研究や聖書解釈をしようとしているのでありません。そうではなく、これは私たちの知性や観念全体に途方もない課題を突き付けるものなのです。私たちの多くは、子供の頃から長年にわたって、神の家のことを、宗教的礼拝が公に行われている特別な建物だと考えてきました。教会堂、チャペル、伝道館だと考えてき...
神の御言葉の思慮深い読者なら、二つの偉大な事柄に感銘を受けずにはいられません。その二つは聖書の最初から最後まで一貫しています。一つは、神がこの世界に関して介入してこられたこと、そして、その行程と歴史に持続的かつ倦まずに割り込んでこられたことです。もう一つは、この世界から神を追い出し、排除しようとする試みの絶え間ない連鎖です。この後者のような試みが、創世記に記録されている創造の前に起きたようです。...
ベテルの神T. オースチン-スパークス目次第一章 ベテルの神第二章 家の規定第三章 天的啓示オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
これ以上述べる必要があるでしょうか?これらのメッセージは何を訴えているのでしょう?それが私たちの到達点です。それはあなたにとって慰めを意味する、と私は信じています。私たちは、得られるかぎりの慰めを欲していますが、その代価についても承知しています。最近、人々は私に何度こう言ったことでしょう、「あなたはいつ引退されますか?何某さんは引退しましたし、何々さんは引退しようとしています」――そうです、福音の...
この特別な宝の内在的価値 ですから、主がここで持っておられる価値あるものは、はっきりと分かるように、比較的少数の人々の中にあります。それは「小さい事の日」です。それは比較的小さな群れです。この群れについて主は「わたしの特別な宝」と言われます。その価値は内在的です。そこに主はご自分の心が望んでいるものを見いだされます。そして、それは私たちを遥かに偉大なものに導くものである、と私は信じています。旧約聖...
しかし、聞いてください――「彼らは特別な宝となる」。主に対して特別な宝となれるなら、確かに収支は合います――いいえ、それ以上です。主と共に進み続けるには、手に入れたいと思っている多くのもの、きわめて合法的で正当な多くのもの、なんの問題もない多くのものを、主に対して絶対的であるがゆえに、手放さなければなりません。そして、その苦しみや代価に他の人々を巻き込むとき、とても苦い杯の水を飲むことになります。エ...
大きな代価 しかし、それには大きな代価が伴っていました。皆にその覚悟があったわけではありませんでした。その覚悟があって、中に住む人を決める方法を受け入れていたにもかかわらず、そうするよう召されなかった人々が大勢いました。逆に、神の主権的支配の下で、そうするよう召されていることに気づいた人々もいました。くじが彼らの進路を決めました。神は主権的に、彼らのために事が運ぶよう取り計らわれました。そして、そ...
自発的なささげ物 さて、この十分の一は自発的なささげ物でした。十人に一人が自発的にささげました。彼らは自発的にこのくじ引きに従いました。「くじを引いたら彼らに選択肢はなかったのであり、好むと好まざるとにかかわらず受け入れなければならなかったのである」とあなたは反論するかもしれません。しかし、重要なのは、彼らが進んでその方法に従ったということです。それは、主への心からの自発的なささげ物でした。強制や...
民の十分の一をささげること この特別なささげ物は、物を十分の一ささげることではなかったことがわかります。物を十分の一ささげることは済んでいましたが、ここでは民の十分の一がささげられました。民全体の十分の一、戻って来て城壁を再建するこの働きに従事した人々の十分の一がささげられたのであり、この十分の一は主への特別な自発的ささげ物となったのです。さしあたって、この十分の一に注目することにしましょう。なぜ...
「民の支配者たちはエルサレムに住んだ。その他の民はくじを引いて、十人に一人、聖なる都エルサレムに連れて来て住まわせ、十人のうち九人を他の町々にとどまらせた。民は、進んで自分をささげてエルサレムに住むすべての人を祝福した。さて、以下は、エルサレムに住んだこの州のかしらたちである。しかし、ユダの町々では、イスラエル、祭司たちとレビ人、また宮のしもべたち、ソロモンのしもべたちの子たちはみな、自分の町々の...
目を覚まして賢く祈る必要性 これは戦いです。その性質や形態については少し触れましたが、全体の状況が救われたのは、大部分、細心の注意を払っていたおかげであることがわかります。サンバラテやトビヤをはじめとする他の人々は、内部で起きていることをすべて知らせる秘密の情報提供者を持っていましたが、ネヘミヤも情報源を持っていました。彼は、敵の陣営で何が起きているのかを非常によく把握していました。そして、彼の綿...
脅し 次に、脅しです。ここに一人の人がいます。その人の家にネヘミヤは行きました。ネヘミヤは、妥協しない精神の持ち主でしたが、とても友好的な人だったように思われます。彼は、ある日、友好的にこの人に会いに行きました。この人は友人のふりをして、彼のことをとても心配しているかのように言いました、「私たちは宮の中に行き、その戸を閉じた方がいいでしょう。彼らが来てあなたを殺そうとしているからです」。しかし、ネ...
捏造 次に、捏造です。「報告によると、あなたが城壁を築いているのは、自分が王となるためであり、エルサレムには王がいることを宣言するためである、とのことです。また、あなたは預言者たちを任命して自分のことを説かせているとのことです」(ネヘミヤ六・六、七)。敵がこの路線を試すとき、時として非常に不愉快な気分になります。恐ろしい暗示です。「あなたは自分のために名を上げようとしており、自分のために地位を得よ...
激怒 今や、城壁は出来上がりつつあります。状況は終点に至ろうとしており、完成目前です。そこで今、敵は大いに怒ります。あのような嘲りには大きな意味があったのです。実は、敵は心底動揺していたのです。この激怒は、ここには考慮すべきなにかがあることをサタンが認識していることを意味します。外面的にどのような態度を取っていたとしても、内側深くでは、ここには自分の王国を根底から揺るがすことになるものがあることに...
軽蔑と嘲り 次に、彼らは主の民を軽蔑しました。「この弱々しいユダヤ人は何をしているのか?一匹のきつねが上っても、彼らの石の城壁を崩してしまうだろう」(ネヘミヤ四・二、三)。彼らは軽蔑し蔑んで、「結局のところこれにはなんの意味もない、注目する価値もない――あまり真に受けてはならない!――」と考えようとしました。主の民の中には、この類のことに耐えられない人々もいます。彼らはその下でボロボロになります。あな...
反対の形態 少しの間、この反対のいくつかの形態について見ることにしましょう。これまで述べてきたように、この特別な目的が示されるとき、特別な種類の敵意と戦いが引き起こされます。それは、神の御旨を破るために、取りうるいかなる形も取ります。このネヘミヤ記には、これらの敵の側からの絶え間ない反対が見られます。彼らは、ある時は一つの戦術を試しますが、その後、それがうまくいかずに敗北すると、別の角度に転じてそ...
ネヘミヤがエルサレムに来た時もそうでした。この人々は、「イスラエルの子らの益を求める人が来たことで、大いに嘆いた」(ネヘミヤ二・十)。あなたにはこれを理解できないでしょう。あなたはこう言うかもしれません、「この人々が主を少しでも知っていて、主を認識しているなら、主に関する彼らの話になんらかの意味があるとするなら、彼らは、『あなたが神の民のためにすることはなんでも協力します』と言うでしょう」。しか...
肉的な人々 さて、新約聖書の手紙は、まさにこれで満ちていることがわかります。今まで述べてきたような、人々の救いに対する敵意や、クリスチャンであることに関する一般的な戦いが見られるだけではありません。神のいっそう豊かな御旨が示される所ではどこでも、特殊な攻撃も見られるのです。パウロがなにものにもまして示しているのは、神の完全な究極的御旨です。彼を通して私たちは、主イエスに関する永遠のみこころと御旨に...
主との生き生きとした関係がない もう一方の点から進んで、こう述べることもできたでしょう。「さて、ここにある人々と、名前が挙げられている指導者たちがいます。彼らは神と天にとって大いに重要なこのことに敵対しています。これが彼らの立場であり、姿勢であり、精神です。これはどうしてでしょう?」。その答えは本質的に、彼らは主との真の関係を持っていないということです。彼らがどんな告白をし、どんな語句を使い、どん...
迷信的な人々 まず第一に、彼らは迷信深い人々です。ある出来事を見て、その出来事には超自然的な性格を帯びた背景があるという結論を下します。彼らは主を知らず、このことが主からのものであることを知りません。それには超自然的背景があり、オカルト的なものである、という結論に至ります。超自然的な領域の秘密を知り、その奥義の中に導かれさえすれば、この問題を解決できる、と考えて進みます。彼らが主のことでアッシリア...
敵 この書を見ると、誓いを立ててこの特定の目的の敵となった多くの人々について述べられていることに気づきます。そこで、彼らが反対した方法や形を見る前に、この人々について見ることにしましょう。サンバラテとトビヤとガシムがいます。この人々は誰でしょう?何者でしょう?ここで何をしているのでしょう?どうやってここに来たのでしょう?これらの問いに答えていくと、霊的反対勢力に関する核心に大いに迫ることができます...
さて、戦いに移ることにします。主の全き証し、もしくは、完全・完璧な主の証しに関する戦いです。再度、直ちに言わせてください、これは特別な戦いなのです。救われていない人々の救いに関する戦いがあります。それには、主を知らない人々を主にもたらそうとしているすべての人々が関わっています。これは現実の戦いであり、これに関して現実に戦いがなされていることを、私たちはとてもよく知っています。クリスチャンであるこ...
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全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...