イエス、弟子たちの足を洗い給う(ヨハネ一三1~20)〔1〕イエスの生涯は実に愛の生涯であって、自分を敵に引き渡そうとした者までも、最後まで愛されたのである。ヨハネが一節にこの言葉を記したのも、彼が深くイエスの愛を知っていたためである。彼が、神は愛であると叫ぶに至ったのも、決して偶然ではなかったのである。イエスは決して自分の楽を求めず、神の民のために自らの死に至るまで僕となられたのである。我らは自分のた...
ネヘミヤの関心事 この人は、物事のあるべき状態と実際の状態の両方を真に認識していました。私たちは僕として、この二つを心の中で明確に理解しないかぎり、神の御旨に貢献することはできません。すなわち、物事の実際の状態とあるべき状態についてです。もし物事が神の御旨・御心とおりのものだったなら、状況はどうなっていたでしょう?もし物事が神の御旨を反映・表現するものだったなら、状況はどうなっていたでしょう?あな...
神との交わりの中で苦しむ人 しかし、このネヘミヤ記にはもう一つの面があります――それは神との苦難の交わりの中にある人です。エズラ記には、神の主権が記されています。ネヘミヤ記には、人による神との交わりが記されています。エズラ記では、神は直接、単独で行動しておられます。ネヘミヤ記では、人が神と共に行動しています。あるいは、神が人を通して行動しておられます。この二つは常に同行します――これを覚えておいてくだ...
神の主権的反応 さて、次の動きがあります。時が来て、神はご自分の証しを回復するために再び動き出されたので、神は主権をもってクロスの霊を奮い立たせられました。クロスは布告を発して、レムナントはエルサレムに戻りました。歴代誌第二の最後の二つの節は、ご存じのように、この事実を述べていますが、続くエズラ記の最初の節はこの言葉を正確に繰り返しています。「主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせられた」。そして...
祈りにおける苦悩 さて、城壁・働き・戦いという三つの主要な特徴に取りかかる前に、ネヘミヤ自身が体現しているある本質的要素から始めなければなりません。私たちは少し遡らなければなりません。なぜなら、これが始まったのは何年も前のことであり、七十年以上前のことだからです。それは預言者エレミヤの心の中で始まりました。エレミヤは砕けた心と、悲しみに満ちた霊の持ち主でした――その心は砕かれており、その霊は主の民の...
霊的衰退の時代における神の反応 ネヘミヤは旧約聖書最後の偉大な人物であり、彼の書は旧約聖書最後の歴史書です。旧約聖書の書物の年代配置を学んでいない人は、これらの事実を全く知らないかもしれません。ネヘミヤ記は、私たちの聖書では、旧約聖書の終わりのかなり前にあるので、それは年代的にかなり前の時代と関係していると多くの人は考えています。しかし実際には、それはマラキの預言と並行しています。ネヘミヤは預言者...
「そこで、私は使者たちを彼らに遣わして言った、『私は大きな働きをしているので、下って行くことはできません。私がそれをそのままにして、あなたたちの所へ下って行き、働きを止めてよいでしょうか?』」(ネヘミヤ六・三)。「私は夜中に起き、数人の者が私と共にいた。私の神が、エルサレムのために行うよう私の心に置かれたことを、私はだれにも告げなかった」(ネヘミヤ二・十二)。 この二つの節――「私は大きな工事をして...
主の証しの全き回復T. オースチン-スパークス目次第一章 最初の行動第二章 城壁の状態第三章 根本的な問題である礼拝第四章 復活の原則第五章 城壁は何を物語っているのか第六章 働きと働き人第七章 戦い第八章 特別な宝オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
とがめのない心。キリストの死と復活の中で自分はキリストと一体化されたことを理解し、また、自分はキリストにあって天上に座しており、万物を遥かに超えて高くされていることを理解する信仰。私たちが自由に使える全能の力と命を取得すること、また、彼にあって私たちのものとされた勝利。これらのものが揃っているなら、しいたげる者の憤りは、私たちに勝利を与えてくださる神に栄光を帰す以上の影響を及ぼせません。この戦い...
さらに次のことを述べなければなりません。これは初歩的であり本質的です。神の御前でとがめのない心を持たないかぎり、しいたげる者の憤りに対する勝利を経験するのは不可能です。自分の生活の中には神に対して正しくない点があると自覚しているならば、自分の上に加えられる敵の圧迫に勝利できると思うのは愚かなことです。身に覚えのある罪があるなら、あるいは、自分の生活の中に何らかの疑わしい道楽を保持しているなら、そ...
この憤りはいつやむのでしょう?いつしいたげる者はいなくなるのでしょう?私たちがこの死すべき体の中にあって、キリストに従い続けているかぎり、私たちはしいたげる者の憤りを感じるでしょう。実に、「私たちの主の再臨が近づくにつれて、この戦いはますます激しくなります」。しかし、私たちに対してそれがやむ幸いな時が来るでしょう。私たちはイエスにあって眠るか、あるいは、彼がご自身の民のために来臨されるとき取り去...
次のことを行うとき、私たちは言い尽くせない悲しみや苦難から救われます。まず、御言葉が告げているとおりに、神を受け入れなければなりません。次に、彼が私たちを置いてくださった所に立たなければなりません。彼は私たちをキリストの中に包み込んで、彼の力によって力づけてくださったのです。「主はまた、しいたげる者からの避け所、困難な時の避け所です」。私たちはこれらのことに対して十分ではありませんが、「神に感謝...
敵がいかなる使者、手先、経路を通してひどく圧迫したとしても、「あなたは上から与えられるのでなければ、私に対して何の権威もありません」(ヨハネ十九・十一)という御言葉を理解し、述べ、維持するといいでしょう。さいわいなことに、この御言葉はしいたげる者の力を私たちのためにどれほど粉砕してくれることでしょう。直ちに私たちは自分をしいたげる者たちを対処することを、すべてを征服する私たちのキリストの顧みに委...
敵の極度の圧迫を恐れないようにしましょう。この圧迫により、私たちは神に頼らざるをえなくなり、肉的なあらゆるものから全く分離されます。徹底的に分離されるなら、私たちは安全です。こうして、私たちを麻痺させる敵対勢力から守られます。次に、中途半端な手段や折衷案はありません。そうした手段や折衷案は、私たちに妥協的な立場を取らせるだけであり、私たちを依然としてしいたげる者の力の中に保つものです。私たちを滅...
「しいたげる者の憤り」はあらゆる種類の形を取ります。しいたげる者が私たちに臨むこれらの形のいくつかに立ち向かうならば、私たちはその憤りの猛攻撃に遥かによく耐えられるでしょう。 しいたげる者は私たちを痛めつけ、困惑させ、困らせ、怒らせます。そうです、可能なら、私たちを投獄します。私たちを拷問し、挑発し、悩ませて、限界点に至らせます。中傷し、抑圧し、混乱させ、悩ませます。縛り、傷つけ、中傷し、萎れさ...
「霊的な人」こそ、この戦いを最も切実に感じる人であり、「しいたげる者の憤り」を最もよく知っている人です。ますます前進して霊的実際の領域の中に入れば入るほど、この「憤り」はますます激しく、苛烈になります。 成功を収めるには、「しいたげる者」の性格を知ることが必要であるだけでなく、その力の大きさにも警戒した方がいいでしょう。これを過小評価してはいけません。他方、それを過大評価してもいけません。 往々...
勝利者誌 一九一一年 三巻 二月号 掲載。 「しいたげる者」とは誰のことでしょう?サタン自身にほかなりません。 この事実を知的に理解することが必要です。「敵」が明確にならなければ、私たちはせわしく「宙を打ち叩」いて、自分の時間を費やすことになるでしょう。 次の事実に直面しようではありませんか。「霊」である生ける神の子供たちとして、私たちの戦いは霊的なものなのです。また、私たちの大敵は悪魔なのです。 悪...
最後に、超自然的な効力が必要です。神は、道を導くだけでなく、成長させて成果を生じさせてくださいます。神はご自身にあってなされる最もつつましい務めにも効力を与えてくださいます。種は静かに横たわっているように見えるかもしれませんが、必ず芽を出して収穫をもたらすのです。 次の安息日の礼拝のために大工たちが修理していた空っぽの広間でスポルジョン氏が語った一文が、隣接する店の作業台の所にいた機械工の耳に届...
パウロとシラスですら、自分たちの超自然的な指導者の指示に刻々と従って進まなければならないことを、厳しく教わらなければなりませんでした。彼らが自分たちの計画を遂行するためにビテニヤ、ムシヤ、アジアを突き進んでいた時、聖霊によって突然止められたのです。「御霊は彼らにそうさせなかった」。彼らは自分たちの個人的な指導者である方よりも先走ってしまったのです。彼らは道を戻って神の御前に静まり、新しい命令を待...
私たちは超自然的な指示を持たなければなりません。神の計画を持っていても、自分自身の衝動に駆られて自分の働きに邁進するおそれがあります。それがサウロの過ちでした。神は敵を滅ぼすために彼をイスラエルの王として遣わされましたが、サウロは手綱を自分の手に握って、サムエルの指示を待たずに前に進み出て、その僭越さによって自分も自分の王国も滅ぼしてしまいました。 この過ちをヨシュアも犯す危険性がありました。神...
私たちは超自然的な計画を持たなければなりません。軍事作戦を遂行するとき、司令官は部下の将校らの賢明な協力に拠り頼みます。もし軍隊の一部門が指導者の計画を無視して攻撃に突入するなら、助けるどころか邪魔になるかもしれません。とても小さな部隊でも攻防の要所で用いられるなら、敵の側面を迂回して決戦の行方を変えることがしばしばあります。 キリストは仲介の御業の計画を持っておられます。彼が私たちを遣わされる...
「私たちは神の傑作であり、良い働きのために、キリスト・イエスの中で創造されました。神は、私たちがその良い働きの中を歩くようにと、あらかじめ定めてくださったのです。」(エペソ二・十) 使徒はここで、私たちの働きは「用意されていた」と告げています。というのは、これが「定めて」という言葉の正しい訳だからです。それは「私たちがそれらの中を歩くため」です。それらは私たちの働きではなく、神が聖霊とキリストの内...
また、この超自然的望みはクリスチャンの生活と働きにおける最高の励ましです。この真理ほど私たちを励まして、この絶望的な地上から召し出し、私たちの希望と志を来るべき王国に堅く据えさせるものはありません。この真理ほど私たちを聖別して、聖潔という白衣だけでなく、いっそう深い愛という婚礼衣装をも確保するよう私たちを促すものはありません。この婚礼衣装だけが、私たちを花婿に会うのにふさわしくすることができます...
結論として、主の来臨という超自然的望みは現在の真理です。なぜなら、第一に、それは現代の人間中心主義に対する真の解毒剤だからです。自己充足している人は、自分のバベルの塔を建てて、自分の未来の理想郷を野心と想像力で夢見ています。しかし、これらすべてに対して、神は天から笑って語られます、「しかし、私は私の王を、私の聖なる山シオンに立てた」と。人々には好き勝手な愚かな夢を見させておきましょう。来るべき諸...
千年王国時代の復活させられた聖徒たちは、物質界と人間生活の体系すべてに自由にいつでも出入りできるでしょう。人々を訪問したり、時には彼らとの戦いに従事することもできるでしょう。しかし、はるかに高い水準で生活することになるでしょう。アブラハムのもとに来た御使いたちや、復活後の四十日間の主ご自身のように、彼らはきっと人の食卓や地上の家族の団欒で座して食べ飲みし、単純な愛の交わりを持つことができるでしょ...
この地球が新たに整えられるとき、それは他のすべての世界に影響を及ぼすでしょう。キリストの贖いは天と地の万物を和解させるものである、という感覚があります。それが一体何を意味するのかを十分に予言することは、聖書に照らしてみても不可能です。しかし、千年期を超えて、代々の時代がさらに広大でさらに壮大なかたちで展開していくであろうことは確かです。その結果は最終的に、義のみが宿る新しい天と新しい地です。そし...
第三に、物質界は超自然的な変容を遂げます。人が変化させられるだけでなく、人の住まいも素晴らしい変容を遂げるのです。罪の痕跡、苦しみと死の記憶は消し去られます。墓場はなくなります。死という恐ろしい事実は遠い過去の記憶にすぎなくなり、墓場は死者を明け渡すだけでなく、分離と破壊の業をやめます。低次の被造物の野性的で野蛮な本能は服従させられます。獅子は雄牛のように温厚になり、狼は小羊と共に伏し、コブラや...
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イエス、弟子たちの足を洗い給う(ヨハネ一三1~20)〔1〕イエスの生涯は実に愛の生涯であって、自分を敵に引き渡そうとした者までも、最後まで愛されたのである。ヨハネが一節にこの言葉を記したのも、彼が深くイエスの愛を知っていたためである。彼が、神は愛であると叫ぶに至ったのも、決して偶然ではなかったのである。イエスは決して自分の楽を求めず、神の民のために自らの死に至るまで僕となられたのである。我らは自分のた...
イエス、過越の食事を備えることを願い給う(マタイ二六17~19、マルコ一四12、16、ルカ二二7~13)場所 エルサレムユダヤ人は過越の祭には小羊の肉を自分の家または他人の家で食べるのが普通だった。また、この祭の時にはユダヤ人のみならず、多くの異邦人もエルサレムに来るので、エルサレムでは部屋が大変不足したという。それで弟子たちは大変心配して、マタイ二六17のようにイエスに尋ねたのである。すると幸いなことに、イ...
ユダ祭司長らにイエスを渡すことを約束する(マタイ二六14~16、マルコ一四10、11、ルカ二二3以下)場所 エルサレムこの記事を見て実に嘆かわしいと思う。神が全世界の中から自分を選ばれたことを忘れて、ユダがこの大罪を犯すことになったのは決して偶然ではなく、彼は以前から金銭を愛し、常に金のことばかりを考えて、何とかして金を得ようと苦心していたに違いない。実際、貪欲は人を殺し、またキリストを殺すものである。マ...
祭司長ら、イエスを殺そうと計る(マタイ二六3~5、マルコ一四1~2、ルカ二二1~2)場所 エルサレムキリストが公衆に説教されたのは、マタイ二五章が最後であった。その後は弟子たちにだけ語られた。この出来事は非常に厳かなことであって、イエスの死の原因がここに明かに示されているのである。すなわち、祭司長らのねたみである。彼らは神に対して熱心であるはずなのに、かえってイエスを憎み、イエスを策略をもって殺そうとし...
〔41〕神はここを人間のために備えられたことを見るのである。〔42〕これは三十五節に対照したものである。ここの悪も無意識のそれである。彼は確かに主にお会いしたら種々の善行を行なったに相違ないが、小さい者には気づかなかったのである。彼らは別に神の民に対して悪いことを行なったのではなく、ただ神の民を顧みなかったことによって、この恐ろしい言葉を言われたのである。彼らは自分の眼前に悩んでいる者があったのに、こ...
羊とやぎの譬(マタイ二五31~46)場所 オリブ山 時 火曜日この審判については、種々の議論がある。ある人は終末の審判であるとするが、キリストの地上再臨の時に起るべき審判である。〔31〕「聖徒を……」この聖徒の中に我らも入ることが出来るのである。昔は主が飼葉おけの中に来られたが、再臨される時は、ユダ14にあるように、栄光の中におい出になるのである。また黙示一7にもこの出来事が記されている。〔32〕「万国の民を...
財産を預けられた僕たちの譬(マタイ二五14~30)場所 オリブ山 時 火曜日一~十三節は心中の待望を示したものであるが、ここは外部の活動を示したものである。とかく人は一方に偏するもので、ある人は外部の活動のみを重んじ、またある人は、内部の方を重んずるけれども、真実に一~十三節の油を持つ者が、この活動をなし得るのである。〔15〕「銀」我らの賜物を指しているのであって、主は我らの知恵に従って賜物を与えられる...
〔5〕「新郎おそかりければ……」私はすぐに来る、と言われてからすでに千八百年を経過したが、未だにキリストは来られない。「皆仮寝して眠れり」外部の抵抗力が強いために心が居眠りをする時代がある。我らも再臨を非常に慕う時があっても、だんだんと鈍っていることがある。しかも、これに気づかないことがある。ここに「仮寝して」とは英訳では居眠りをするとの意である。キリストは我らの状態を実によく知っておられるのである...
十人のおとめの譬(マタイ二五1~13)場所 オリブ山 時 火曜日この譬は、二四章の主人と僕の関係を説かれたものと深い関係にある。確かにキリストは一面において我らの主人であるが、また同時に我らの新郎である。しかしここでは信者を花嫁として説いたのではなくて花嫁の付添人として説いたものである。ユダヤでは花婿が来る前に花嫁の方から迎えに出るという習慣があった。また、花婿はたいてい夜来る習慣であった。夜とはま...
〔33〕我らは油断せずに自制して祈らねばならない。「憎むべし」とはそのことである。また自ら目覚めてうっかり油断せずにいるべきである。〔34〕キリストは遠く天に行き、すべての権を我ら信者に委ねられた。我らに全権を与えられたのであるから、我らの責任は重大である。神の国が拡張するもしないも、その責任はひとえに我らの双肩にあることを知らねばならぬ。けれども、主はまたその命令と共に力を与えられるのであるから、大...
イエス、エルサレムの滅亡を予言される(マルコ一三1~37、マタイ二四1~41、ルカ二一20~36)場所 オリブ山マルコに基づいて講義する。〔1〕「イエス聖殿(みや)より出でければ」これは実に厳かなことである。イエスの公開の説教はいよいよ終りを告げたのである。これまでは忍耐して教えられたが、今からは語られない。彼の言を受け入れなかったユダヤ人は審かれたのである。イエスのおられない神殿は何の価値もないものである...
〔44〕「イエス呼ばわり言いけるは」ここにキリストの熱心のあらわれていることを見よ。これはキリストが常になされたことではなかったが、この場合は実に非常の際であったからこのように叫んだのである。ヨハネ七37のように叫ばれたのである。「我を信ずる者は我を信ずるに非ず、我を遣わしし者を信ずるなり」これによってキリストと神とは一体であるということが分る。ここにまず「信ずる者は」と言われたのは理由のあることであ...
〔37〕「しるしを行(なし)たれども……彼を信ぜざりき」キリストは特にヨハネ十一章において死者を甦えらせ、自身が神より出でしことを証したが、かたくななユダヤ人はこれを信じなかった。これは人間としての大失敗であったのである。〔38〕「我らの告げし言を信ぜし者は誰ぞや」(イザヤ五三1)は、この世の不信仰を嘆いたものである。今日もなおイエスを信愛する者は極めて少数である。神の手がイエス・キリストによってあらわ...
ギリシャ人祭に来る(ヨハネ一二20~26)場所 エルサレムこれも同じ火曜日の出来事である。当時プロセライト(改宗者の意)といって異邦人もユダヤ教に改宗してユダヤ人の信仰に一致して、唯一の神であるエホバを礼拝することが出来たのである。「君よ我らイエスに見(まみ)えんことを願う」かのザアカイは、好奇心をもってイエスを見ようとして樹に上ったが、このギリシャ人がイエスの所に来たのは、イエスにとって非常に重大な...
キリスト貧しきやもめを誉め給う(マルコ一二41~44、ルカ二一1~4)この時までキリストはパリサイ人の偽善を責めて長い教えをなしていたので、しばらく神殿の入口の右手に座を占めて、人々がさい銭を投げ入れるのを見ておられたのだという人もある。ここで記憶すべきことは、我らが献金をする時にイエスがこれを見ておられるということである。多くの人々が人に見られようとして金を多く出す風潮があるのは実に悪弊である。外国で...
イエス、学者とパリサイ人を責められる(マタイ二三1~39)この一連の教えは、律法学者とパリサイ人を責めた言葉ではあるが、わたしたちもまたこれによって探られたいのである。一~一二節は、イエスが弟子に対して、律法学者とパリサイ人を模型として警告されたものである。〔2〕「学者とパリサイの人は、モーセの位に座す」モーセは、神と交わって人間にその守るべき道を示したが、学者とパリサイ人はこれをそのまま民に教えたの...
メシヤについてのキリストの問(マタイ二二41~46)メシヤのことについては、聖書をよく知っている人も十分にこれを理解することは出来なかったのである。またユダヤ人の習慣として非常に先祖に重きを置くためにダビデのすえのダビデに力を入れる。その為キリストをダビデよりも低くする。それでキリストは、聖書をよく知っていると自称するパリサイ人に対してこの問を発せられたのである。しかし彼らは自ら知っていると思う聖書の...
イエス、律法学者の問に答えられる(マタイ二二34~40、マルコ一二28~34)マルコによる福音書に基づいて学ぶことにする。この出来事の前に、サドカイ人は甦えりのことについてイエスに論破されていたので、甦えりを信じるパリサイ人が大いに得意になったであろう。とにかくこの時パリサイ人も一緒に集っていたので、その中の一人の律法学者は、イエスが実に不思議な言葉をもってサドカイ人を打ち敗かしたので、多年自分の研究して...
サドカイ人に対するキリストの答え(マタイ二二23~33、マルコ一二18~27、ルカ二〇27~40)サドカイ人は唯物論者であって、神は決して未来において人を罪することがない。もしあるとすれば神はこの世において罰すべきはずである、と言うことを主張する連中であって、イエスが甦えりのことを説いたので、どうにかしてこれを反駁して閉口させてやろうと言うので、この難問を発したのである。〔24〕これは申命記二五5から引証したも...
ヘロデ党に対するキリストの答え(マタイ二二15~22、マルコ一二13~17、ルカ二〇20~26)この時において、キリストは実に種々の方面から難問をもって試みられたもうたのである。しかし試みられれば試みられるほど神の栄えが顕われたのである。〔15〕「彼を言い誤まらせんとて相謀り……」これは聖霊の筆である。聖霊は人の言葉ではなくて、人の心を見分けられるお方である。人の心は偽わるものであるから、理屈をつける時は言葉だけ...
神聖な開始における栄光 さて、この三つのうちの一つ目である「神聖な開始における栄光」に取り組むことにします。二つの顕著な事例を挙げて、十分な指標とすることができると思います。主イエスの誕生と、次に教会の誕生です。聖書には、旧約聖書にも新約聖書にも、他にも多くの開始があります。聖徒の数だけ神聖な開始がある、と言えるかもしれません。それらはみな栄光を伴っていることがわかります。 ここではこの二つを紹介...
そしてまた、それは使徒行伝と共に始まる第二区分で使徒たち全員が抱いている支配的考えです。栄光の霊が使徒行伝の二章で登場します。栄光を受けた方の御霊が、栄光の中で来臨されます。教会は栄光で満たされました。教会は栄光の中にもたらされました。キリストが栄光を受けられたからです。そして、これが教会と宣べ伝えの基調、勝利の基調でした。人々が十字架につけたこの御方に、神は栄光をお与えになりました。使徒たちの...
「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」(詩篇八七・三)。「あなたたちはシオンの山に、生ける神の都に来ているのです」(ヘブル十二・二二)。「神に、教会の中で、またキリストイエスの中で、栄光がすべての世代に至るまで、永遠にわたってありますように」(エペソ三・二一)。 私たちは、これまでのメッセージの中で、シオンを巡り歩いて、この天的・霊的裔――キリストとその民――の面をいくつか考えてきま...
見て理解して知的に解決できない時、なにも感じず、まったくなんの感覚もない時、あるいはとても悪い感覚がする時――それは一つの領域の事であり、あなたがどうであるかにすぎません。キリストはそうではありません。そのような時、私たちは、「主よ、これは私の弱さであり、これが私の有様ですが、あなたはそうではありません。私は自分の信仰を自分自身から、これらの事柄から、あなたに移します」と言わなければなりません。キ...
キリスト教は魂の命の事柄ではない 次に、土台であるキリストについてのパウロの言葉のこの文脈の中で、彼は、その土台の上に多くのくずや、多くの混ぜ物をもって建造している人々がいる、と述べています。調べてみるなら、そのくずが何なのかを見い出すためにあまり遠くを見る必要はありません。「金、銀、宝石、木、草、刈り株」というこの様々な材料でパウロが何を言わんとしているのかに関して、列挙する必要はありません。彼...
ペテロの言葉は、あらゆる点(それがなんであれ、私たちに欠けているので彼にその欠け目をご自身でもって満たしていただく必要があるもの)を網羅しています、「わたしはシオンに、選ばれた尊い隅のかしら石を据える。彼を信じる者は辱められることがない」。自分自身を見てください、もし放っておかれたなら、どんな結末になるでしょう?間違いなく――私たちにはその結末がわかります――恥と失敗です。もし放っておかれるなら、結...
「信じるあなたたちには尊いものです」。キリストに言えることがすべてここに記されています。このようにヨハネの福音書をもう一度読んでみてください。自分はこれである、と彼が述べておられることがすべて記されています。「わたしは命のパンである」(ヨハネ六・三五)。「わたしは世の光である」(ヨハネ八・十二)。「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ十・十四)。「わたしはまことのぶどうの木である」(ヨハネ十五・一...
キリストの栄光を見るのです。なにものにもまして主イエスを現わしたいという熱い志を私たちの中に生み出してくださるよう、主に求めましょう。偉大な真理を説くこと、説教者や教師などになることではなく、主イエスを、彼ご自身から出ているものを、彼ご自身の臨在を、彼ご自身の尺度を、彼ご自身の性質を現わすことを求めましょう。宣べ伝えの機会が訪れるのは――そもそも私たちに宣べ伝える気があればの話ですが――私たちが話せ...
キリストの尊さは信仰を通して私たちのものになる 私たちは「尊さ」という言葉を取り上げて、これを土台として、神ご自身の性質とその神聖な聖なる要求をすべて満たすキリストは信仰を通して私たちのものとなる、と述べているのです。「信じるあなたたちには尊いものです」。この尊さとは、主イエスの麗しさと栄光の現れです。ああ、これはある種の主題に関する話である、と思わないでください。これは集会や、大会や、御言葉の学...
御父に対するキリストの尊さ さて、この尊さとは、第一に、御父にとっての尊さです。「見よ、わたし(つまり神の語りかけです)はシオンに、選ばれた尊い隅の石を据える」(一ペテロ二・六)。神に対するキリストの尊さを調べるなら、当然、次のような明確な結論に達するはずです。すなわち、神にとって尊いものとは、神ご自身の性質に応えるものであり、それなしでは神はことをなせないものであり、神にとって持たないわけにはい...
もしあなたや私が、より多くの光、より多くの啓示を持っている、と主張するなら――そのような主張をすることを神は断じてお許しになりません!――しかし、もしそう思っているなら、その証拠・真価は――人々は私たちの中に他の人々よりもキリストを多く見ているのか?ということです。なぜなら、神は決して御子を超えて進んだりはされませんし、理論や教えや教理やいわゆる啓示に向かって進んだりもされないからです。ただ、生ける御...
クリスチャンの目的は地上でキリストを示すことである 私の見るところ、このような問いに対する神の御言葉の答えはただ一つです。それはイエス・キリストを示すこと、表すことです。主イエスを見えるようにすること、表すこと、実際に地上におられるようにすることです。それは、すべての人が彼を見ることができるようになり、すべての人が彼を知ることができるようになるためです。あなたたちはこう言うかもしれません、「そんな...
「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」(詩篇八七・三)。「あなたたちはシオンの山に、生ける神の都に来ているのです」(ヘブル十二・二二)。「神に、教会の中で、またキリストイエスの中で、栄光がすべての世代に至るまで、永遠にわたってありますように」(エペソ三・二一)。「……愛する者の中で、神が私たちに無代価で授けてくださった、恵みの賛美となるためです」(エペソ一・六)。「……キリストの中で...
「私に与えられた神の恵みにしたがって、私は賢い建築家のように土台を据えました。そして他の人がその上に建てます。しかし、どのようにその上に建てるか、各自は注意しなさい。なぜなら、据えられている土台のほかに、だれも他の土台を据えることはできないからです。この土台は、イエス・キリストです。ところが、その土台の上に、人が金、銀、宝石、木、草、刈り株をもって建てるなら、それぞれの働きはあらわになります。なぜ...
勝利のうちに生き残るという私たちの確信を罪は弱める 私は、この確信を弱めるものを知っています。それを述べなければ、とても大事な点を見落とすことになります。生き残って、いずれあるいは最後には無事に切り抜ける、という私たちの確信を弱めるものは、自分自身の罪、自分自身の罪深さ、クリスチャンである自分自身の失敗に対する感覚もしくは自覚です。そうです、私たちはクリスチャンなのに罪を犯します。それを他の名で呼...
イザヤとエゼキエルの預言書を見ると、エルサレムは荒廃しています。エルサレムは荒れ果てています。ネヘミヤ記とエズラ記では、それはこの状況にあります。荒れ果て、荒廃し、その土地の人々は追放されています。これがエルサレムの有様であり、シオンの有様であり、イスラエルの有様です。エルサレムとシオンという言葉は、多くの場合、場所ではなく民に対して使われていることを、常に覚えておいてください。シオンの娘、エル...
キリストと正しい関係にあるものは勝利して生き残る さて、もう一言述べることにします。それは次のことです。すなわち、これらの土台は、もしくは、この土台――キリスト――と正しい関係にあるものは、勝利して生き残るのです。型・絵図であるエルサレムを見ると、それはとても良い例であり絵図です。ああ、この都にはなんという歴史があることでしょう。包囲され、攻撃され、蹂躙・破壊されてきましたが、それにもかかわらず、なん...
勝利の命の統合する力 次に、私たちは土台の統合する性質に、死に勝利する命の力によって統合する性質に進みました。ここでも私は追加の言葉を述べることにします。なぜなら、多くの啓示や多くの光・真理との不一致がこの方面で見られることがよくあるからです。私の時間の大半は、より多くの光を得た人々が他のクリスチャンたちに関して引き起こした混乱を解決することに費やされています。彼らは、からだに関する光、からだ・教...
キリストの堅固さ 第一章では、キリストは土台であり、堅固さの大きな要因であることを見ました。私たち全員にとって次のことは大いに明らかです。すなわち、もし私たちに真の霊的堅固さがないなら、もし私たちが堅固さと確信を持ち、霊的に頼りになる霊的にしっかりとした人々でないなら、もし私たちが一つ思いではなくて動揺している人々なら、私たちの土台、キリスト理解、キリストとの関係にはなにか大きな問題があるのです。...
「なぜなら、据えられている土台のほかに、だれも他の土台を据えることはできないからです。この土台は、イエス・キリストです。」(一コリント三・十一)「土台が壊されるなら、義人は何をなしえようか?」(詩篇十一・三) 私たちは、永遠から永遠へと私たちを導く神の壮大なみこころと御旨について、膨大な量の教えを受けてきました。また、神のそれらの御旨に関する領域の多くに通じており、少なくとも知ってはいます。しかし...