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  • 「イエスについては知っている。パウロについてもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ?」 (1)

    勝利者誌 一九一〇年 二巻 十月号 掲載。ランドリンドッド大会でのメッセージ。講演者による校正はなされていません。 大会で最も楽しいのは、互いに交わす会話です。私がこの午後交わした会話は、私が自分の知性であなたたちに話そうとしていたテーマをすっかり吹き飛ばしてしまったので、私の心を満たしている思いをいくつかあなたたちに伝えずにはいられません。 愛する兄弟が私に話してくれた章を開いてほしいと思います。常...

  • カルバリで裂かれた垂れ幕 (5)

    要点は、クリスチャンの経験には三つの段階がある、ということです。再生されていない人――魂と体である人――という第一の段階があります。この人は霊的能力を持っていますが、その霊は神の霊を植え付けられたことがありません。次に、第二段階が来ます。この段階では、あなたにはまた体と魂がありますが、今や神の霊があなたの霊の中でシェキナのように輝いています。これが再生されている人です。しかしこの段階では、重たい垂れ...

  • カルバリで裂かれた垂れ幕 (4)

    さて、再生の意味はこうです。人が再生される時、暗い霊は聖霊の来臨によって明るく照らされ、その人の内にその人のものではなくイエス・キリストのものである命が生まれるのです。これをキリストはご自分の死と復活によって成就してくださいました。キリストの命は複合的な命であり、人性に偉大なあるものが加えられたものです。それは、世界が造られる前に彼が御父と共に持っておられた神性です。人が再生されると直ちに、聖霊...

  • カルバリで裂かれた垂れ幕 (3)

    「そしてどうかあなたたちの全嗣業を」。欽定訳で「全」と訳されているこの言葉は、確かな嗣業全体を意味します。つまり、使徒はあなたの性質を地所と見なしており、イエス・キリストによって買い取られた地所全体、嗣業全体、あなたの性質が有するすべてのものを、イエス・キリストが相続することを願っているのです。次に、彼はこの嗣業をすべて列挙していきます。それは三つの部分から成ります。地所と同じように、地面があり...

  • カルバリで裂かれた垂れ幕 (2)

    また、彼は「平和の神」です――「平和の神ご自身!」。つまり、彼はあなたをご自身や宇宙との調和の中にもたらすことを願っておられます。宇宙には様々な中心があることがわかります。神という中心があり、悪霊という中心があります。もし悪と調和しているなら、あなたは神と調和していません。もし神と調和しているなら、あなたは宇宙と調和しており、至る所にいる聖者たちと調和しており、摂理の偉大な活動と調和しています。あ...

  • カルバリで裂かれた垂れ幕 (1)

    勝利者誌 一九一一年 三巻 十二月号 掲載。ランドリンドッド大会でのメッセージ。 あなたたちに一つの節を読む以上のことを少しして、その中のギリシャ語を強調したいと思います。その節は一テサロニケ五・二三です。人々が祈りの中でこの節をいつも間違って引用することに、私はしばしば注目してきました。それが正しく引用されるのを聞くのは、きわめて、きわめて稀です。「平和の神ご自身が、あなたたちを完全に聖別して、あな...

  • 命を与える霊である第二のアダム (7)

    さて、締めくくるにあたって、先日、大西洋を渡っていた時に示されたことを示すことにします。それは素晴らしい日でした。海は理想的で、空はセルリアンブルーでした。私たちは大洋の中心に向かって進んでおり、私は見事なカモメを見ていました。その大きさは羽の先から先まで五フィートでした。私が特に注目したのは、カモメには移動方法が三つあることでした。カモメをずっと見ていると、それは砂の上を歩いて、その足跡をそこ...

  • 命を与える霊である第二のアダム (6)

    さて、心して聞いてください、最初のアダム――人は生来このアダムから生じます――は生きた魂であるアダムですが、再生により、新生により、私たちは、命を与える霊とされた最後のアダムであるイエス・キリストと接触を持つようになります――まるで彼は私たちの霊をご自身の素晴らしい性質で浸透してくださったかのようです。それは私たちが、自分自身の活動からなる宗教生活から出て、彼の息吹き込みから、彼ご自身の神聖な存在の衝...

  • 命を与える霊である第二のアダム (5)

    さて、こうした比喩が真実だとすると、この御言葉の意味がよくわかるようになります。創世記一章で、神が「アダムの中に命の息を息吹き込まれると、彼は生きた魂となった」ことを、もちろんあなたは覚えているでしょう。アダムは神を知っていたことは、きわめて明白です。彼は生きた魂であり、パラダイスの園で神と会いました。そして、夕方の穏やかなそよ風がその地に吹く頃、アダムとエバは神と共に歩み、園の中で神と交わりを...

  • 命を与える霊である第二のアダム (4)

    さて再び、最初が天然のもの、サイキカルなもので、次が霊のものである、という言葉があてはまる別の領域について考えてください。これは自然に言えます。子供だった時、私たちは一種の官能的な愛で自然を愛していました――陽光の感触、丘々の美しさ、夜中に示される天の栄光を愛していました。それは一種の子供の驚異であり、肉体器官の驚異であるかもしれません。その後、命が成長するにつれて、私たちは自然を知的観点から見る...

  • 命を与える霊である第二のアダム (3)

    自分自身の性質の中には三つの大きな水準があることを、もちろん、私たちは自覚しています。私たちの肉体という物質の水準があり、私たちの個性、私たちの自我というサイキカル(psychical)な、もしくは魂の水準があり、神の霊に似ている*霊の水準があります。まさに昔の幕屋や宮が三つの部分――外庭、聖所、シェキナが輝いていた至聖所――から成っていたのと同じです。同じように、あなたの性質はこの同じ原則に基づいて構築され...

  • 命を与える霊である第二のアダム (2)

    勝利者誌 一九一一年 三巻 九月号 掲載。ランドリンドッド大会でのメッセージ。 一コリント十五章四二~四五を通しで読みましょう、「死者の復活もそのようです。朽ちるものでまかれ、朽ちないものに復活させられます(中略)天然の体でまかれ、霊の体に復活させられます」。「天然の体」という句はギリシャ語では「サイキカルな体(psychical body)」となっており、サイキカル(psychical)という言葉はプシュケ(psuche)、魂...

  • 魂か霊か? (3)

    ああ、「良くなろう」とする内なる戦い!みなさん、私自身それを通りました。しかし、唯一の道は、霊にしたがって、神の御霊と共に歩くことです。一度その水準に達するなら、決して滑り落ちることはない、とは言いません。しかし、それに届いていない時は常にそれがわかる、と私は断言します。そして、あなたは立ち返ります――「彼は私の魂を回復してくださいます」。 さて、ローマ七章で、パウロは自分のエゴと戦っていることが...

  • 魂か霊か? (2)

    あなたは自分の魂の水準に基づいて生きているのでしょうか――どうやってこのことやあのことを行うのかを考えつつ、キリストの真似をしようとしているのでしょうか?それとも、キリストの真似をする水準より高く昇って、霊の中にある生活に入ったでしょうか?その生活では、あなたはキリストを吸収して(ヨハネ六・五七)、キリストがあなたを通してご自身を生かし出されます。あなたの家に何か不慮の困難が生じたとしましょう。あ...

  • 魂か霊か? (1)

    勝利者誌 一九二九年 十巻 十月号 掲載。一九二八年の「勝利者」集会でのメッセージに関する覚え書き。 今日の大きな必要は、教会とクリスチャンは「御霊にある」生活というより高度な水準に経験的に立ち返らなければならないということです。これはとても注意深く教わるべき事柄だと思います。実際、私は自分の後半生を、この一般的主題を絶えず繰り返すことに費やしています。 「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に...

  • 「血による宥め」(四)-6

    兵士の槍 聖霊が特別に繰り返し強調して記録しておられる二つ目の肉体的事実について(ヨハネ十九・三四)。「兵士の一人が」――心臓の近くを斜めに突いて――「彼の脇を槍で突き刺すと、直ちに血と水が流れ出た」(ヨハネ十九・三四)――ただ重力の力によって、血の塊とおびただしい水状の液体が流れ出たのである。それらは明らかに別のものであり、少し離れた所にいたヨハネにもはっきりと見えるほどだった。私たちの主がゲッセマネ...

  • 「血による宥め」(四)-5

    ゲッセマネの苦しみの原因 では、何が突然イエスを竜巻のように襲って、額から血を流させるほどの恐るべき動悸を生じさせたのか?(1)それはやましい良心のせいではなかった。というのは、この時、「私は父のもとに行く。私はもはや、あなたたちと多くを語るまい。この世の支配者が来るからである。彼は私の中になにも持っていない」(ヨハネ十四・三〇)と言われたからである。宇宙で最も罪科を犯した目の探るまなざしでも、小...

  • 「血による宥め」(四)-4

    成就された肖像画 私たちは今、四千年間このように予示されていた実際の事実に到達する。聖霊はきわめて注意深く、私たちの主の苦難における特定の肉体的事実を強調して、キリストの苦しみの源(と私には思われる)を示された。聖霊は私たちの注意を特にその血に引いておられる。「彼の汗が」――これが一つ目の肉体的事実である――「血の大きな滴のようになって、地にしたたり落ちた」(ルカ二二・四四)。「のように」とは、それら...

  • 「血による宥め」(四)-3

    キリストの身代わりの苦難 さて、福音全体にとって次のことが決定的に重要である。「旧約聖書がかつて自らを凌駕して到達した、この最も深くて最も高遠な中心的発言」の中にメシヤは、律法授与者、教師、征服者、王としてではなく、至高の、孤独な、恐るべき永遠の受難者として現れる。彼の悲しみのような悲しみに並ぶものはなく、その内容に似ているものはなにもない。「とても高く上げられた」――神に対するイザヤ独特の表現であ...

  • 「血による宥め」(四)-2

    イザヤによるキリストの肖像 しかし、神は私たちを疑問の中に決して取り残されなかった。この肖像は十五の節から成っており、三節ずつから成る五つの区分に分かれている。この五つの区分のどれも、聖霊は直接的にキリストに当てはめておられる。第一区分(イザヤ五二・十三~十五)についてパウロは、無知な諸国民に遣わされた僕のメッセージのことを、異邦人に伝えられたキリストに関する良い知らせであるとしている。第二区分(...

  • 「血による宥め」(四)-1

    「勝利者」誌 一九一四年 第六巻 十二月号 掲載。D.M.パントンによる、キリストの勝利の贖いに関するこの素晴らしい一連の記事はパンフレットの形で得ることができます。イザヤ五三章に関する以下のメッセージを、私たちの読者に心からお勧めします。それが心と思いの中に完全に吸収されるまで、何度も何度も読んで祈ってください。身代わりの福音からの昨今の背教の時代に、これらの小冊子が何百万人もの人々に届けられるよう...

  • 「血による宥め」(三)-4

    7.――小羊の血だけが死の御使いから一家を守ることができた。上方のかもいに塗られた血――血による以外なに者も天に上ることはできないからである――と、右の門柱に塗られた血と左の門柱に塗られた血――血による以外だれも救いに入ることはできないからである――と、敷居の鉢の中の血――救われた戸口はみな、このように十字架の四つの点で証印を押されるからである。*十字架につけられた方が、救われた一人一人の人と滅ぼす御使いと...

  • 「血による宥め」(三)-3

    5.――小羊は特定の日に、集団の全会衆によって屠られなければならなかった。「彼らは第一の月の十四日に過越のいけにえを屠った」(二歴代三五・一)――食べたのではない。「イスラエルの全会衆は、二晩の間にそれを屠らなければならない」(出エジプト十二・六)。磔殺は十四日だった。なぜなら、「それは過越の準備の日だった」(ヨハネ十九・十四)からである。二晩の間とは第六時から第九時までのことである、とヨセフスは述...

  • 「血による宥め」(三)-2

    3.――小羊は屠り場の中に四日間つないだままにされなければならなかった。「あなたたちはその同じ月の十四日まで、それを保っておかなければならない」(出エジプト十二・六)。十日から十四日までユダは買われた小羊を見張り続けた。それをいけにえとするためである。「彼らは銀三十枚を量って彼に与えた。そしてその時から、彼は彼を彼らに渡す機会をうかがった」。毎日(これには安息日も含まれたと思われる)昼はエルサレム...

  • 「血による宥め」(三)-1

    「勝利者」誌 一九一四年 第六巻 十・十一月号 掲載。 カルバリで、詳細な点に至るまで、無数の小羊のいけにえは終局に達する。 1.――過越の小羊は第一の月の十日に取られなければならなかった。「その(第一の)月の十日に、各自は小羊一頭を取らなければならない」(出エジプト十二・三)。その月にイエスは十字架につけられた。またヨハネは彼がエルサレムに入られた日を私たちに告げる。「イエスは過越の六日前にベタニヤに...

  • 「血による宥め」(二)-3

    小羊は誰か 小羊は誰かが、予型により啓示されている。おそらく、聖書全体のなにものにもまして、その成就において、詳細に、驚くほど啓示されている。というのは、過越の小羊はキリストであると、明確に聖霊は述べておられるからである――「私たちの過越であるキリストが、いけにえとしてささげられたからです」(一コリント五・七)。十字架につけられたときの私たちの主についてそう述べられている(ヨハネ十九・三六)。聖霊が...

  • 「血による宥め」(二)-2

    それゆえ、あらゆるいけにえの起源の背後で、神はカルバリを計画しておられたのである。最初から彼は、すべての血を咎を覆うものとして(レビ十七・十~十二)ご自身のために用意しておられたのである。それは、咎なき魂がすべての咎ある魂の上に注がれて、身代わりと覆いになるためである。身代わりのゆえに覆いとなるためである。というのは、「その不法を赦された者、またその罪を覆われた者は幸い」(ローマ四・七)だからで...

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