おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
「イエスについては知っている。パウロについてもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ?」 (1)
勝利者誌 一九一〇年 二巻 十月号 掲載。ランドリンドッド大会でのメッセージ。講演者による校正はなされていません。 大会で最も楽しいのは、互いに交わす会話です。私がこの午後交わした会話は、私が自分の知性であなたたちに話そうとしていたテーマをすっかり吹き飛ばしてしまったので、私の心を満たしている思いをいくつかあなたたちに伝えずにはいられません。 愛する兄弟が私に話してくれた章を開いてほしいと思います。常...
要点は、クリスチャンの経験には三つの段階がある、ということです。再生されていない人――魂と体である人――という第一の段階があります。この人は霊的能力を持っていますが、その霊は神の霊を植え付けられたことがありません。次に、第二段階が来ます。この段階では、あなたにはまた体と魂がありますが、今や神の霊があなたの霊の中でシェキナのように輝いています。これが再生されている人です。しかしこの段階では、重たい垂れ...
さて、再生の意味はこうです。人が再生される時、暗い霊は聖霊の来臨によって明るく照らされ、その人の内にその人のものではなくイエス・キリストのものである命が生まれるのです。これをキリストはご自分の死と復活によって成就してくださいました。キリストの命は複合的な命であり、人性に偉大なあるものが加えられたものです。それは、世界が造られる前に彼が御父と共に持っておられた神性です。人が再生されると直ちに、聖霊...
「そしてどうかあなたたちの全嗣業を」。欽定訳で「全」と訳されているこの言葉は、確かな嗣業全体を意味します。つまり、使徒はあなたの性質を地所と見なしており、イエス・キリストによって買い取られた地所全体、嗣業全体、あなたの性質が有するすべてのものを、イエス・キリストが相続することを願っているのです。次に、彼はこの嗣業をすべて列挙していきます。それは三つの部分から成ります。地所と同じように、地面があり...
また、彼は「平和の神」です――「平和の神ご自身!」。つまり、彼はあなたをご自身や宇宙との調和の中にもたらすことを願っておられます。宇宙には様々な中心があることがわかります。神という中心があり、悪霊という中心があります。もし悪と調和しているなら、あなたは神と調和していません。もし神と調和しているなら、あなたは宇宙と調和しており、至る所にいる聖者たちと調和しており、摂理の偉大な活動と調和しています。あ...
勝利者誌 一九一一年 三巻 十二月号 掲載。ランドリンドッド大会でのメッセージ。 あなたたちに一つの節を読む以上のことを少しして、その中のギリシャ語を強調したいと思います。その節は一テサロニケ五・二三です。人々が祈りの中でこの節をいつも間違って引用することに、私はしばしば注目してきました。それが正しく引用されるのを聞くのは、きわめて、きわめて稀です。「平和の神ご自身が、あなたたちを完全に聖別して、あな...
さて、締めくくるにあたって、先日、大西洋を渡っていた時に示されたことを示すことにします。それは素晴らしい日でした。海は理想的で、空はセルリアンブルーでした。私たちは大洋の中心に向かって進んでおり、私は見事なカモメを見ていました。その大きさは羽の先から先まで五フィートでした。私が特に注目したのは、カモメには移動方法が三つあることでした。カモメをずっと見ていると、それは砂の上を歩いて、その足跡をそこ...
さて、心して聞いてください、最初のアダム――人は生来このアダムから生じます――は生きた魂であるアダムですが、再生により、新生により、私たちは、命を与える霊とされた最後のアダムであるイエス・キリストと接触を持つようになります――まるで彼は私たちの霊をご自身の素晴らしい性質で浸透してくださったかのようです。それは私たちが、自分自身の活動からなる宗教生活から出て、彼の息吹き込みから、彼ご自身の神聖な存在の衝...
さて、こうした比喩が真実だとすると、この御言葉の意味がよくわかるようになります。創世記一章で、神が「アダムの中に命の息を息吹き込まれると、彼は生きた魂となった」ことを、もちろんあなたは覚えているでしょう。アダムは神を知っていたことは、きわめて明白です。彼は生きた魂であり、パラダイスの園で神と会いました。そして、夕方の穏やかなそよ風がその地に吹く頃、アダムとエバは神と共に歩み、園の中で神と交わりを...
さて再び、最初が天然のもの、サイキカルなもので、次が霊のものである、という言葉があてはまる別の領域について考えてください。これは自然に言えます。子供だった時、私たちは一種の官能的な愛で自然を愛していました――陽光の感触、丘々の美しさ、夜中に示される天の栄光を愛していました。それは一種の子供の驚異であり、肉体器官の驚異であるかもしれません。その後、命が成長するにつれて、私たちは自然を知的観点から見る...
自分自身の性質の中には三つの大きな水準があることを、もちろん、私たちは自覚しています。私たちの肉体という物質の水準があり、私たちの個性、私たちの自我というサイキカル(psychical)な、もしくは魂の水準があり、神の霊に似ている*霊の水準があります。まさに昔の幕屋や宮が三つの部分――外庭、聖所、シェキナが輝いていた至聖所――から成っていたのと同じです。同じように、あなたの性質はこの同じ原則に基づいて構築され...
勝利者誌 一九一一年 三巻 九月号 掲載。ランドリンドッド大会でのメッセージ。 一コリント十五章四二~四五を通しで読みましょう、「死者の復活もそのようです。朽ちるものでまかれ、朽ちないものに復活させられます(中略)天然の体でまかれ、霊の体に復活させられます」。「天然の体」という句はギリシャ語では「サイキカルな体(psychical body)」となっており、サイキカル(psychical)という言葉はプシュケ(psuche)、魂...
ああ、「良くなろう」とする内なる戦い!みなさん、私自身それを通りました。しかし、唯一の道は、霊にしたがって、神の御霊と共に歩くことです。一度その水準に達するなら、決して滑り落ちることはない、とは言いません。しかし、それに届いていない時は常にそれがわかる、と私は断言します。そして、あなたは立ち返ります――「彼は私の魂を回復してくださいます」。 さて、ローマ七章で、パウロは自分のエゴと戦っていることが...
あなたは自分の魂の水準に基づいて生きているのでしょうか――どうやってこのことやあのことを行うのかを考えつつ、キリストの真似をしようとしているのでしょうか?それとも、キリストの真似をする水準より高く昇って、霊の中にある生活に入ったでしょうか?その生活では、あなたはキリストを吸収して(ヨハネ六・五七)、キリストがあなたを通してご自身を生かし出されます。あなたの家に何か不慮の困難が生じたとしましょう。あ...
勝利者誌 一九二九年 十巻 十月号 掲載。一九二八年の「勝利者」集会でのメッセージに関する覚え書き。 今日の大きな必要は、教会とクリスチャンは「御霊にある」生活というより高度な水準に経験的に立ち返らなければならないということです。これはとても注意深く教わるべき事柄だと思います。実際、私は自分の後半生を、この一般的主題を絶えず繰り返すことに費やしています。 「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に...
兵士の槍 聖霊が特別に繰り返し強調して記録しておられる二つ目の肉体的事実について(ヨハネ十九・三四)。「兵士の一人が」――心臓の近くを斜めに突いて――「彼の脇を槍で突き刺すと、直ちに血と水が流れ出た」(ヨハネ十九・三四)――ただ重力の力によって、血の塊とおびただしい水状の液体が流れ出たのである。それらは明らかに別のものであり、少し離れた所にいたヨハネにもはっきりと見えるほどだった。私たちの主がゲッセマネ...
ゲッセマネの苦しみの原因 では、何が突然イエスを竜巻のように襲って、額から血を流させるほどの恐るべき動悸を生じさせたのか?(1)それはやましい良心のせいではなかった。というのは、この時、「私は父のもとに行く。私はもはや、あなたたちと多くを語るまい。この世の支配者が来るからである。彼は私の中になにも持っていない」(ヨハネ十四・三〇)と言われたからである。宇宙で最も罪科を犯した目の探るまなざしでも、小...
成就された肖像画 私たちは今、四千年間このように予示されていた実際の事実に到達する。聖霊はきわめて注意深く、私たちの主の苦難における特定の肉体的事実を強調して、キリストの苦しみの源(と私には思われる)を示された。聖霊は私たちの注意を特にその血に引いておられる。「彼の汗が」――これが一つ目の肉体的事実である――「血の大きな滴のようになって、地にしたたり落ちた」(ルカ二二・四四)。「のように」とは、それら...
キリストの身代わりの苦難 さて、福音全体にとって次のことが決定的に重要である。「旧約聖書がかつて自らを凌駕して到達した、この最も深くて最も高遠な中心的発言」の中にメシヤは、律法授与者、教師、征服者、王としてではなく、至高の、孤独な、恐るべき永遠の受難者として現れる。彼の悲しみのような悲しみに並ぶものはなく、その内容に似ているものはなにもない。「とても高く上げられた」――神に対するイザヤ独特の表現であ...
イザヤによるキリストの肖像 しかし、神は私たちを疑問の中に決して取り残されなかった。この肖像は十五の節から成っており、三節ずつから成る五つの区分に分かれている。この五つの区分のどれも、聖霊は直接的にキリストに当てはめておられる。第一区分(イザヤ五二・十三~十五)についてパウロは、無知な諸国民に遣わされた僕のメッセージのことを、異邦人に伝えられたキリストに関する良い知らせであるとしている。第二区分(...
「勝利者」誌 一九一四年 第六巻 十二月号 掲載。D.M.パントンによる、キリストの勝利の贖いに関するこの素晴らしい一連の記事はパンフレットの形で得ることができます。イザヤ五三章に関する以下のメッセージを、私たちの読者に心からお勧めします。それが心と思いの中に完全に吸収されるまで、何度も何度も読んで祈ってください。身代わりの福音からの昨今の背教の時代に、これらの小冊子が何百万人もの人々に届けられるよう...
7.――小羊の血だけが死の御使いから一家を守ることができた。上方のかもいに塗られた血――血による以外なに者も天に上ることはできないからである――と、右の門柱に塗られた血と左の門柱に塗られた血――血による以外だれも救いに入ることはできないからである――と、敷居の鉢の中の血――救われた戸口はみな、このように十字架の四つの点で証印を押されるからである。*十字架につけられた方が、救われた一人一人の人と滅ぼす御使いと...
5.――小羊は特定の日に、集団の全会衆によって屠られなければならなかった。「彼らは第一の月の十四日に過越のいけにえを屠った」(二歴代三五・一)――食べたのではない。「イスラエルの全会衆は、二晩の間にそれを屠らなければならない」(出エジプト十二・六)。磔殺は十四日だった。なぜなら、「それは過越の準備の日だった」(ヨハネ十九・十四)からである。二晩の間とは第六時から第九時までのことである、とヨセフスは述...
3.――小羊は屠り場の中に四日間つないだままにされなければならなかった。「あなたたちはその同じ月の十四日まで、それを保っておかなければならない」(出エジプト十二・六)。十日から十四日までユダは買われた小羊を見張り続けた。それをいけにえとするためである。「彼らは銀三十枚を量って彼に与えた。そしてその時から、彼は彼を彼らに渡す機会をうかがった」。毎日(これには安息日も含まれたと思われる)昼はエルサレム...
「勝利者」誌 一九一四年 第六巻 十・十一月号 掲載。 カルバリで、詳細な点に至るまで、無数の小羊のいけにえは終局に達する。 1.――過越の小羊は第一の月の十日に取られなければならなかった。「その(第一の)月の十日に、各自は小羊一頭を取らなければならない」(出エジプト十二・三)。その月にイエスは十字架につけられた。またヨハネは彼がエルサレムに入られた日を私たちに告げる。「イエスは過越の六日前にベタニヤに...
小羊は誰か 小羊は誰かが、予型により啓示されている。おそらく、聖書全体のなにものにもまして、その成就において、詳細に、驚くほど啓示されている。というのは、過越の小羊はキリストであると、明確に聖霊は述べておられるからである――「私たちの過越であるキリストが、いけにえとしてささげられたからです」(一コリント五・七)。十字架につけられたときの私たちの主についてそう述べられている(ヨハネ十九・三六)。聖霊が...
それゆえ、あらゆるいけにえの起源の背後で、神はカルバリを計画しておられたのである。最初から彼は、すべての血を咎を覆うものとして(レビ十七・十~十二)ご自身のために用意しておられたのである。それは、咎なき魂がすべての咎ある魂の上に注がれて、身代わりと覆いになるためである。身代わりのゆえに覆いとなるためである。というのは、「その不法を赦された者、またその罪を覆われた者は幸い」(ローマ四・七)だからで...
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おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...