chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 「血による宥め」(二)-1

    「勝利者」誌 一九一四年 第六巻 八・九月号 掲載。 カルバリは神の御業である――というのは御子が、永遠の御霊を通して、ご自身を御父にささげられたからである――それゆえ、それを超えるものはなにもない。罪深い世に関するかぎり、神の愛はすべてを成し遂げている。その御業は十分なものなので、包括的・決定的である。第二のカルバリはありえない。もしキリストが私のいけにえでないなら、私が自分自身のいけにえにならなければ...

  • 「血による宥め」(一)-6

    神の上に降りかかった悲劇 この卓越した啓示は今やその圧倒的な絶頂に達する。悲劇が神の上に降りかかったのである。羊や雄牛の血の中には魂がある(黙示録十六・三)。ではなぜそれは贖いのための価値が全くなかったのか(ヘブル十・四)?その中に人の魂がなかったからである。贖いのためのいけにえは、罪を犯した者と同じ性質を帯びていなければならない。一人の人が人々のために死ななければならない。動物ではだめだし、御使...

  • 「血による宥め」(一)-5

    アベルのいけにえ しかし、神は喜ばれたのだろうか?私たちは今、いけにえについての神の最初の啓示に到達する。「信仰によってアベルは」自分の小羊を「ささげました」(へブル十一・四)。そして、「信仰は聞くことにより、聞くことは神の御言葉による」(ローマ十・十七)ので、神はアベルにそうするよう告げられたにちがいない。さもなければ、動物を生きたままささげてはならないことを、どうしてアベルは知ることができただ...

  • 「血による宥め」(一)-4

    血による宥め 普遍的な慣習――それはすべての時代を遡るものであり、すべての諸国民中に広まったものである――は、このようにいけにえの血を流すことである。すでに見たように、人はこれを本能的に知っている。これはまた神の定めでもあるのだろうか?ピタゴラスやプラトンのような太古の著者たちは、あまりにも奇妙な慣行について文句を述べている――それは理性にとってとても忌まわしいものであり、自然宗教の命じるところとまった...

  • 「血による宥め」(一)-3

    神は人身御供を拒絶された さて、神はこれらの人身御供をどう思っておられるのだろう?「彼らはトペテの高き所を築いて、自分の息子と娘を火で焼いた。これは私が命じたこともなく、私の心に浮かんだこともなかった」(エレミヤ七・三一)。エホバがイサクをいけにえとすることを拒絶して、雄羊を身代わりとされたことは、彼は人身御供をまったく拒絶されることを一度限り永遠に啓示する。人身御供を神が拒絶される理由は明確であ...

  • 「血による宥め」(一)-2

    宥めを目的とした身代わり では、この恐るべき虐殺に関して、人は心の中でどう思っていたのだろう?あるエジプトの碑文が、それに優しく大いに答えてくれる。いけにえにされようとしている一頭の雄牛に、一人の人の姿が描かれた印が押された。この印には、両手を後ろに縛られて、剣の切っ先を喉に突きつけられている人の絵が描かれていた。その雄牛は滅びの運命にある人のために死んだのである……それは宥めを目的とした身代わりだ...

  • 「血による宥め」(一)-1

    「勝利者」誌 一九一四年 第六巻 七月号 掲載。 身代わりのいけにえの必要性を、世の人々は太古から直感的に悟っていた。以下は、あらゆる文明の中で最も古いアッカド文明からの楔形文字で記された文章である。「人のための身代わりの小羊。その小羊を、ささげる人は自分の命のためにささげる。小羊の頭を彼は自分の頭のために与え、小羊の背中を自分の背中のために与え、小羊の胸を自分の胸のために与える」云々。 身代わりの思...

  • 「血による宥め」 目次

    血による宥めD. M. パントン目次血による宥め(一)血による宥め(二)血による宥め(三)血による宥め(四)オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • いかにして預言は成就されるのか……

    勝利者誌 一九一四年 六巻 十・十一月号 掲載。「真夜中の叫び」からの引用(p26~27)。「賢い者は悟るでしょう……」(ダニエル十二・十)。 「事実の収集と検証が、それらを説明する諸原理の発見に先立たなければならない」と言われています。そして、諸々の事実を注意深く学ぶことにより、いと高き方がそれに基づいて常に働いておられるように思われる一つの原則を私たちは垣間見ます――つまり、将来起きる出来事の予測は、繁栄...

  • 私たちの避け所であるキリスト

    勝利者誌 一九一一年 三巻 六月号 掲載。「真夜中の叫び」から。「避け所に逃れてきた私たち……」(へブル六・十八)。 神は恵み深くハバククに命じられました、「ビジョンを書き、板の上にはっきり記し、走りながらでもそれを読めるようにせよ」(ハバクク二・二)。これを十分に理解するには、故意ではなく血を流してしまった人々のためにモーセの経綸下で定められた取り決めに戻らなければなりません。故意に流された血に対して...

  • 逃れるのにふさわしいと認められること (3)

    この点について明確に啓示している予型が全く決定的である。というのは、麦は人の子が蒔かれた種、蒔いておられる種だからである(マタイ十三・三八)そして、倉に納めることは(予型によると)最初の実(キリスト)、次に初穂、次に収穫、最後に「畑の隅々」という順番でなされ、したがって、成熟の度合いにしたがって刈り取られるからである(レビ二三・十、十七、二二)。熟していない穀物は、遅かれ早かれ、艱難の厳しい熱で...

  • 逃れるのにふさわしいと認められること (2)

    表向きまた明確に携挙の条件を扱っている節はみな*――したがってこの問題にとって決定的に重要である――は、個人的に目を覚ましていることと、それにふさわしくあることが必要であるとしている。用意のできている処女たちだけが中に入る(マタイ二五・十)、用意のできている家主だけが強盗に遭わない(マタイ二五・四四)。用意のできている弟子だけが取られる(ルカ十七・三四)――「ですから、あなたたちも用意していなさい」。*...

  • 逃れるのにふさわしいと認められること

    「勝利者」誌 一九一四年 第六巻 十・十一月号 掲載。 携挙はみな原則上一つであり、究極的にはすべての信者を含む(二コリント五・十)。それゆえ、聖書は携挙を複数形で述べていない。にもかかわらず、携挙の複数性は証明可能な事実である。なぜなら、携挙がすでに複数回起きているからである(私たちの主の携挙や、おそらくマタイ二七・五二の聖徒たちのように)。また、教会とは別に、再度起きるだろう(たとえば、反キリスト...

  • 神の辛抱強さ (5)

    聖書の二、三の節を要約しましょう。 エゼキエル十二・二六。「また、主の御言葉が私に臨んで言った(中略)イスラエルの家は言う、『彼が見ているビジョンは多くの日の後のことであり、彼が預言しているのは遠い時のことである』。それゆえ、彼らに言え、主なる神はこう言われる、私の言葉はもはや遅れることはなく、私が語った言葉は成し遂げられると、主なる神は言われる」。ここに神の保証が記されており、これに基づいて、...

  • 神の辛抱強さ (4)

    イスラエルに対する神の約束は成就されることになります。イスラエルは苦しんでいますが、保たれています。神の御手がイスラエルの上にあります。彼は、ご自身の選民に関して始めたことを成就されます。神の辛抱強さはかの日に報われます。その日、「あなたにあって、地の諸国民は祝福される」という御言葉が文字通り実現します。 新約聖書の中の弟子たちを見てください。彼らはまさにカルバリ前夜に至るまで主を失望させました...

  • 神の辛抱強さ (3)

    私たちのエホバ・イエスは始めたことを成就されます。なんという力がこの事実から私たちに臨むことでしょう!なんという力が宣教士に臨むことでしょう。自分が大いに期待をかけてきた人生が、なんらかの悪魔的攻撃の来襲に対して立つことに失敗するのを見る時、彼は上を見上げて、「主よ、あなたは始めたことを成就されると信じます」と言います。あらゆる困難、死んだ状態、無関心に直面する時、なんという力が家庭で私たちに臨...

  • 神の辛抱強さ (2)

    彼は始めたことを成就されます。これが、私たちが見つめるよう使徒が描いた絵のように私には思われます。そして、この節はある事実を示しています。その事実は、私が思うに、私たちのこの集会の目的に小さからぬ影響を及ぼすものであり、私たちの信仰と奉仕に関して将来に大きな影響を及ぼすものです。 それは神の辛抱強さというこの事実です。私は、どちらかというと戦いの個人的な面から目を離して、神の方を見たいのです。そ...

  • 神の辛抱強さ (1)

    勝利者誌 一九一〇年 二巻 八月号 掲載。マトロック大会でのメッセージ。講演者による校正はされていません。「あなたたちの中で良いわざを始められた方が、イエス・キリストの日までに、それを成就(欄外)してくださることを確信しています。」――ピリピ一・六。 この御言葉は、勝利の生活の神聖な面を垣間見せてくれます。印象的な奮い立たせる言葉を用いる偉大な能力をパウロがどれほど持っていたのかは、ご存じでしょう。彼の...

  • 「キリストの血による保護を取ること」についての光 (3)

    「その血」は「肉」を防がない しかし、なぜ「血」への訴えは常に効果的とはかぎらないのでしょう?次の理由のためです。カルバリで流された「キリストの血」を聖霊は「肉」を「防ぐ」ために適用されることは決してないのです。肉は罪に定められてカルバリで十字架につけられました。その「血」が守ってくれるのは、旧創造はキリストと共に十字架につけられたという立場に信者が立っている時だけです。これにより「肉」――その上で...

  • 「キリストの血による保護を取ること」についての光 (2)

    「その血(the Blood)」の意味 ここで、どうやって?という疑問が生じます。一ヨハネ四・一~四は、ある人を通して話している「霊」を試す方法について示しています。多くの人は、すべてのものやすべての人を「その血の下」に置けば十分に保護してもらえる、と思っています。しかし、そうではありません。「血」という言葉は、この言葉を使用する背景に在る何らかの霊的事実を信じる信仰を表明するものでないなら、他の言葉とな...

  • 「キリストの血による保護を取ること」についての光 (1)

    勝利者誌 一九二九年 十巻 十月号 掲載。 今年の「スワンウィック」集会で、「血の保護を取る」とは何を意味するのですか?という質問がありました。小冊子「霊的危機」からのこの抜粋は、この句が示すキリストの成就された御業という事実を明確かつ知的に把握せずに、この表現の使用に信頼することの危険性を示しています。この主題についてのさらなる光は「十字架と血」という小冊子の中に与えられています(本の一覧を見よ)。...

  • 「このしるしにより打ち勝て」 (6)

    たとえ私たちが不信仰であっても、主イエスはご自身を偽ることはできません。私たちが不信仰になる時もあります。ぼんやりと見える大きな恵みを自分は信じられない、と感じてしまうのです。「それはあまりにも高望みしすぎです」と心の中で思ってしまいます。「神は天からパンを与えてくださる、なんて望みすぎです。神は海を干上がらせ、巨大な川を通り抜ける道を造って下さる、なんて大それたことを期待する権利はだれにもあり...

  • 「このしるしにより打ち勝て」 (5)

    「私たちが彼を否んだり否定したりするなら、彼は私たちを否まれる」。ペテロは彼を否みました。彼は言いました――「私はその人を知りません」と。私たちが自己の命――彼の敵であり私たちの敵です――に対して維持するよう主が望んでおられる姿勢は次のようなものです、「次にイエスは弟子たちに言われた、私について来たいなら、自分自身を否み、自分の十字架を取って私に従いなさい」。私たちは次の両者の間にあります。自分自身を...

  • 「このしるしにより打ち勝て」 (4)

    もし「忍耐強く耐えるなら、彼の王職にもあずかるようになる」。これは、さらなる麗しさと有用さを示しています。「耐える」と訳されている言葉は、へブル十二・一、二で、私たちの主に関して使われている言葉と同じです、「彼はご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架に耐えられました」。時として私たちは戦いの中に投げ込まれて、罪の厳然たる要塞を強襲する一団を率いるようにされます。しかし、それ以...

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、オリバーさんをフォローしませんか?

ハンドル名
オリバーさん
ブログタイトル
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 新着ブログ
フォロー
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 新着ブログ

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用