おお主よ、汝の愛の火の如く且つ喜ばしい御力が私の霊魂を天が下の凡ゆるものより離して汝に集注せしめ給う。忝じけなくも私如きものを愛してそのために死に給うたように私にも愛のために死ぬる心を深くさせ給え。全能にして、最も聖く、最も高く、最高善にして、全ての善、凡ゆる善の源なる神よ、汝のみただ一人善にて在し給う。全能にして、永遠なる、義にして、憐み深き神よ、哀れなる我々に汝を知り、常に汝の喜び給うところを...
これが関係の法則であり、これは罪人を救い主と、人の子を神の御子と関連付けます。この関係により、罪人から聖徒へのこの素晴らしい移行が神の奇跡によってなされます。(ヨハネ一・一二~一三、三・五、一ヨハネ五・一、他の御言葉を見よ。)人の魂の神との究極的関係は、ここで私たちが救いの信仰と称しているものであり、この法則に例外はありません。 これは関係の法則であるだけでなく、所有の法則でもあります。それによ...
勝利者誌 一九三二年 一三巻 四月号 掲載。一九三二年一月七日に、私たちのロンドン集会で、J.エリソン氏によって与えられた二つのメッセージの概要です。 二種類の信仰があります。両方とも聖書の中で、特に新約聖書の中で私たちに示されています。第一は、単純に、「救いの信仰」と呼べるでしょう。第二は、真理的に、「力ある信仰」――「神の信仰(faith of God)」――と呼べるでしょう。これは、私たちの主が弟子たちに持つこ...
しかし、カルバリは常に勝利の復活という結果になります。ペン-ルイス夫人がよく強調していたことを決して忘れないようにしましょう。それは賢明なことであり、真実です。「復活の命が私たちに分与されるのは、私たちがキリストとの死による合一に拠り頼む時だけです」。ローマ六章に見られるように、カルバリでキリストと経験的に一体化されるなら、その後、間違った判断や罪定めを被って、自分にとって真に大事な多くのものか...
典型的理解によると、私たちがキリストにあって就いている地位は極めて素晴らしいです。私たちは世の基が据えられる前から彼にあって選ばれていました(エペソ一・四)。世の基が据えられる前、私たちは影も形もありませんでしたが、神の予知と予定によって選ばれたのです(エペソ一・四、五、六、ローマ八・二八~二九も見よ)。何の目的のためでしょう?愛の中で、私たちが御前に聖く責められるところのない者になるため(中略...
勝利者誌 一九二九年 十巻 一月号 掲載。 黙示録一二章一一節に、「勝利者の証し」に関する、私たちにとって最も馴染み深い、尊い御言葉があります。私たちはしばしば、この偉大な御言葉の一部を、一緒に復唱してきました。「小羊の血と、彼らの証しの言葉」は、急速に迫りつつある恐るべき試練の時代にキリストを告白する受難者のために、「悪魔ともサタンとも呼ばれている龍、あの年を経た蛇」に対する輝かしい勝利を保証します...
一一節で聖パウロは、「自分は罪に対してまったく死んでいると見なしなさい」と述べています。自分は具合が悪いと見なしてはなりません、死んでいると見なしなさい。自分は自分の昔の使役者である罪から解かれたにすぎない、と見なしてはなりません。それから断ち切られた、と見なしなさい。しかし、ほとんどのクリスチャンは、自分は罪に対して具合が悪い、と見なしています。それで、彼らに対する罪の力は大いに弱められて軽減...
初期ケズイックのメッセージ死と復活によるキリストとの合一勝利者誌 一九二六年 七巻 七月号 掲載。編集者が宝のように大切にしている本の一つに、「力に至るキリスト者の小径」という一冊の合本があります。それは一八九一年にエバン・ホプキンス夫人から編集者に贈られたものであり、ケズイック運動に関連して出版された月刊誌の第二巻でした。後に、この雑誌の表題は「信仰生活」に変わりました――それは今では週刊誌になってい...
(f)最後に、私たちは永遠に十字架に向かい続けなければなりません、なぜなら、他のどこにも、悪魔――「この世の君」――を征服するための適切な武器は見つからないからです。十字架上で、贖い主は主権者たちや権力者たちを剥ぎ取り、彼らを公然とさらし者にして、ご自身において彼らに勝ち誇られました。私たちが十字架につけられた命を生きるときはじめて、私たちの戦いの武器は肉のものではなくなり、神を通してサタンの要塞を...
(d)私たちは決して十字架を見失ってはなりません。十字架はクリスチャンたちのための神の鋳型である以上、霊の中で絶えず十字架に戻り続けなければなりません。私たちは一つの型にしたがって形造られつつあります。性格にしたがって、神聖な陶器師は各々を別の形に形造っておられるわけではありません。私たちは「御子のかたちに同形化されるよう予め定められ」ているのです。これは、私たちは彼の死に同形化されつつあること...
(a)私たちは絶えず新たに清めてもらうために十字架に戻らなければなりません。清めの血をもはや必要としなくなる地点に達することは決してありえません。「洗われた者は、足以外に洗う必要はありません」。私たちのクリスチャンの歩みでどんなに注意していたとしても、この世との接触によって汚されてしまいます。確かに、クリスチャンは故意に罪を犯すことはありませんが、何らかのきっかけでつまずいて、衣にずっと土がつい...
勝利者誌 一九四二年 二三巻 四月号 掲載 人々は自分たちの富を誇り、戦士は自分の武器を、貴族は自分の血統や名を、科学者は自分の科学を、女性は自分の美しさを、そして、芸術家は自分の芸術を誇ります。それと同じように、使徒パウロはキリストの十字架を誇りました。「断じてあってはなりません」と聖なる情熱をもって彼は叫びました。「私が私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るようなことは」。彼は十字架を誇った...
打ち勝つには、小羊の血の立場の上に立ち、そこに避難して、岩の裂け目の中に隠れなければなりません。そこに安全と勝利があります。「そして彼らの証しの言葉のゆえに」――御言葉です!試練と試みを経た、キリストとその使徒たちの御言葉が、私に対して証しとなります。御言葉はあなたに対して証しとなっているでしょうか?あなたは御言葉を受け入れて、知識としては知っています。あなたはそれを試したでしょうか、吟味したでし...
この黙示録が私たちに与えているとても重要な示唆は、サタンに打ち勝つことは可能であるということです。「彼らは小羊の血によって彼に打ち勝った」。つまり、小羊の血という根拠に基づいて打ち勝ったのです。この書は小羊の血をいかに重んじていることか。小羊の血があなたの宣べ伝えの中でいかなる地位を占めていたとしても、覚えておいてください、小羊の血はイエス・キリストがその僕であるヨハネに与えられた黙示録において...
しかし、この個所が示しているように、彼の力は制限されていることに注意してください。空間的に制限されています――「地に落とされた」(九節)。ここが闘技場であり、この戦いがなされている場所です――また時も限られています――「自分の時が短いのを知って」。そして、時が短くなるにつれて、サタンの怒りは募っていきます。悪魔の力は六つの方法で制限されています。この制限により彼の攻撃は挫かれます。(1)六節と一四節に...
興味深いもう一つの御言葉は二コリント一一・二です。「私は神のねたみをもって、あなたたちをねたんでいます。なぜなら、あなたたちを清純な処女としてキリストにささげるために、一人の夫に婚約させたからです。ところが、私が恐れるのは、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたたちの思いが腐敗させられて、キリストに対する単純さと純粋さを失いはしないか、ということです」。一四節「しかし、驚くには及びません。...
その最初の言葉は、神の善良さへの疑いをほのめかすものでした。彼は今日も常にこれをしています。常に神の性格を中傷しています。常に自分の毒袋から目に見えない矢を射て、神の善良さについて再考させようとしています。彼は言います、「神は何と残酷なのか、何と厳しい主であることか!今しがた耳にしたのですが――『神は本当にそう言われたのですか?』。それが本当かどうか、私は理解しようとしているのですが、園の木から食...
ジョン・バニヤンは彼の書である聖戦の中で、「イエスの証し」を御子インマヌエルに述べさせています。人魂の都を御子インマヌエルに明け渡さざるをえないことを、悪魔ディアボロスが悟った時のことです。彼は自分の大使である嫌屈翁を遣わして、御子インマヌエルとの間に可能な限り有利な協定を結ぼうとしました。嫌屈翁は言いました、「御子インマヌエル様が、人魂の都の中にひっそりと住む場所を悪魔ディアボロスに与えてくだ...
勝利者誌 一九一一年 三巻 七月号 掲載 神がご自身の僕であるヨハネにお与えになった黙示録は奥義に満ちており、極めて深く、極めて貴い霊的教えで満ちています。この書に記されている命令や教えを読み、聞き、守る、すべての人の上に、主は特別な祝福を宣言しておられます。 昨今、私たちはみな、敵による抑圧をひしひしと感じていますが、このような時にあって、まず、敵の性格、悪意、働きについて知ることが極めて重要です。...
さて、この調和の問題についてですが、聖霊によって働いておられる神のエネルギーの主な目的は、私たちを力づけて一つにすることです。すでに述べたように、今や十字架がこれを実現します。十字架こそ、この本質的一つの基礎です。この十字架を通して、神の素晴らしい力づける命によって、一つが実現されます。神の命は内なる力づけの表われです。「御霊の実は愛です」。それはすべてを含みます。愛を得る時、あなたは愛の中に喜...
「彼がご自身の血で買い取られた神の教会」。最後のアダムの裂かれた脇腹から取り出されて、教会はすべての生けるものの母となりました。キリストに対してこのような関係にある教会――そこに十字架がやって来ます。この同じ原則に基づいて、私たちの家族関係も確立されなければなりません。調和を確保するために他の人々のために注ぎ出された命というこの原則に基づいてです。永遠の奥義を世界に現わすために、神の御子はご自身の...
さて、この豊かな、あるいはより豊かな啓示に関する顕著な点に注意することにしましょう。神の僕たちの側における、神との極めて豊かで壮大な交わりの結果に、注意することにしましょう。パウロがローマの獄中に一人静かに座していた時、彼は神との大いに実際的な交わりを持ちました。それにより、主は彼にますます多くのことを語れるようになりました――極めて注目すべきことに、牢獄の中から送られた諸々の手紙では、拍子抜けの...
新約聖書の書簡に見られる、いっそう豊かな啓示、いっそう発達した啓示を見ると、まさにこの点を極めて強く強調している領域に入り込んだことに気づきます。神の御言葉の中にある極めて高度な啓示を取り上げましょう。コロサイ人への手紙によると、万物は栄光を受けられたかしらであるキリストにあってまとまっています(コロサイ一・一五~二〇)。次にエペソ書を見ると、それは彼をかしらとするからだについて扱っています。こ...
愛の問題を取り上げましょう。愛は神聖な調和の基調です。聖霊が人生を所有するやいなや、彼はその人生を力づける原則となられます。そして、彼は直ちに力づけて霊的調和を生じさせられます。彼はそれを内側に生じさせて、私たちの性質の中にあるすべての破壊的な対立する要素を正されます。そして、内なる調和という幸いな静けさが生じます。これが「神との平和」です。しかし、内なる御霊のこの力づけは外側をも力づけます。そ...
勝利者誌 一九二六年 七巻 十月号 掲載。一九二五年十二月にエクルストン・ホールで与えられたメッセージの縮約版。講演者による校正はなされていません。「それは、私たちが一つであるように、彼らも一つとなるためです。」(ヨハネ一七・二二) 主の御言葉の負担は、この午後、十字架と永遠の一つ(one-ness)についてです。しかし、主ご自身がそれを私たちに開いてくださる時、それは多くのことを意味しており、今日の私たちに...
5.最後に、聖霊の御業は弱い僕を通して成就されます。「誰が小さい事の日をさげすんだのか?」。これがそれが始まる方法です。「なぜなら、神は強い者を困惑させるために、この世の弱い者を選ばれたからです。また神は、この世の生まれの卑しい者、蔑まれた者を選ばれました。有るものを無いものとするために、実に無きに等しい者を選ばれたのです。それはいかなる肉も御前に誇ることがないためです」。 この御言葉を読む時、...
聖霊の御業の効力 1.それはまず、障害物を征服することにおいて現れます。「おお、大いなる山よ、お前は何ものだ?」。信仰の道には困難という山がつきものです。神の臨在と力の最善の証拠は敵の働きです。しかし、聖霊が責任を負っておられるなら、信仰は最も高い山といえども恐れません。むしろ、信頼して静かに立って、「おお、大いなる山よ、お前は何ものだ?平地になれ」と言います。聖霊は信仰を与えるだけでなく、山々を...
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おお主よ、汝の愛の火の如く且つ喜ばしい御力が私の霊魂を天が下の凡ゆるものより離して汝に集注せしめ給う。忝じけなくも私如きものを愛してそのために死に給うたように私にも愛のために死ぬる心を深くさせ給え。全能にして、最も聖く、最も高く、最高善にして、全ての善、凡ゆる善の源なる神よ、汝のみただ一人善にて在し給う。全能にして、永遠なる、義にして、憐み深き神よ、哀れなる我々に汝を知り、常に汝の喜び給うところを...
我らの父よ、最も聖き我らの創造者、贖主、又慰主よ。天にいます。御使の中に又、聖徒の中にあって彼らに知識を得させる輝きを与え給う、そはおお主よ、汝は光にして汝を愛するように心を燃やし給う、主よ、汝は愛にて在し給う、彼らの中に宿り、祝福をもて彼らを満し給う、おお主よ、汝は最高の善にて在し永遠の善にして汝を離れては何処にも善はありません。御名を崇めさせ給え、我らが汝の恩恵の広さと汝の約束の長さと汝の威厳...
おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
イエス、ピラトの許に送られる(マタイ二七1、2)祭司や学者らは、宗教上の事項には権力があったが、生殺与奪の権は持たなかったのである。それ故にイエスを殺そうとするには、法律の下に託さねばならなかったのである。〔マルコ一五1〕「夜明けに及び、直ちに祭司の長、長老、学者たち、すべての議員と共にはかりて、イエスをしばり、ひきつれてピラトに渡せり」〔ヨハネ一八28〕ここで時刻を知ることが出来る。この夜、主はゲッ...
イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。〔62〕「……証拠は如何に」〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。この...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...