おお主よ、汝の愛の火の如く且つ喜ばしい御力が私の霊魂を天が下の凡ゆるものより離して汝に集注せしめ給う。忝じけなくも私如きものを愛してそのために死に給うたように私にも愛のために死ぬる心を深くさせ給え。全能にして、最も聖く、最も高く、最高善にして、全ての善、凡ゆる善の源なる神よ、汝のみただ一人善にて在し給う。全能にして、永遠なる、義にして、憐み深き神よ、哀れなる我々に汝を知り、常に汝の喜び給うところを...
しかし、オリブの木と容器をつないで、二本の金の管へと至る、この二本のオリブの枝は何でしょう? これは「全地の主の御前に立つ、二人の油塗られた者、二人の油の子」です。ああ!これは信じて団結して祈る務めです。これは地上の聖徒たちに与えられた最も高度な奉仕です。それは御座に着いておられるイエスご自身の祭司の奉仕に呼応するものです。 愛する人よ、もし彼にそうしてもらうなら、神は私たちにこの高度な聖なる奉...
油の源 この絵図の最も美しくて意義深い箇所――油の源――に移ることにします。これらの源は、人が考えた仕組みではありませんでした。奉仕する祭司たちが、毎日、大きな容器から油を運んで補充する必要はありませんでした。そうではなく、源は二本の生ける木でした。それらがみのらせた実が目に見えない手で絶えず圧搾されて、二本のオリブの枝と二本の金の管を通して、容器へと、そして、ともし火へと流れ込んでいたのです。それは...
燭台は発光体ではありませんでした。光を掲げるものにすぎませんでした。自分で光を造ることはできませんでした。磨かれたピカピカの表面で光を反射させることはできましたが、別の光源からの光が必要でした。それと同じように、私たち自身の中に光はありません。私たちにできるのは、光を受け入れてそれを掲げることだけです。私たち自身は世の光ではありませんが、「輝かせなければなりません。それは、人々が私たちの良いわざ...
勝利者誌 一九四七年 二八巻 一月号 掲載「『権力によらず、能力によらず、私の霊による』と万軍の主は言われる。」(ゼカリヤ四・六) この御言葉が示しているビジョンは、聖書の他のどの箇所と比較しても、その優美さと聖なる意味の深遠さという点で比類ないものであり、真の力の源を啓示することをその目的としています。ゼカリヤが眠りから覚めて、彼の能力がその意味を理解しようと活動し始めた時、彼は自分の前に金の燭台を...
策略を見破る 悪魔の策略に対する勝利は、それを見破ることによって得られます。見破るなら、信者は策略が進行する前にその目的を挫折させることができます。ガイ・ホークスは国会議事堂を爆破しようとしましたが、彼の策略、計略は見破られ、それによりその計画――「火薬計画」と一般に称されている計画――はすべて無に帰したのです。 策略と策略の目的の違いに注意してください。策略を見破ることは、その働きが完全に成し遂げら...
奉仕に関する策略 とても地位の高い栄誉を伴う奉仕、しかしより低い奉仕に就くよう誘惑する誘惑もあります。食卓に仕える人々に要求される資格に注意しなさい。食卓に仕える人々は評判の良い人々、聖霊に満ちている人々、知恵に満ちている人々でなければなりませんでした。さらにまた、これらの人々はこの仕事を管理するために任命されました。悪魔の策略は、優った善の代わりに劣った善を信者に行わせることです。善と悪のどちら...
「勝利者」誌 一九一二年 第四巻 二月号 掲載 悪魔の策略とは何でしょう?それは接近するための悪魔の戦略的方法かもしれません。また、悪魔の狡猾な方法や、真理と嘘が一緒になった悪魔の計略かもしれません。この計略は悪魔の諸々の目的を成就するために実施されているのです。キリストを誘惑する二番目の誘惑における策略は、神を信じる大きな信仰を示すようキリストに求め、こうしてキリストに自殺させることでした。「宮の上...
悪霊どもに対してキリストの権威を用いることに関する光 (4) 完
質問 霊的生活のどの段階でも、たとえば救われたばかりでも、人は暗闇の力に対するキリストの権威を取る権利がある、と私たちは認めてもよろしいでしょうか?ある人があなたに、「私にその権威があると、どうすればわかるのでしょう?」と尋ねたらどうしますか。エバン・ロバーツ 信仰によって権威を取り、それを用いなさい。それに疑念を抱いてはなりません。これは純粋に「信仰の」取引です。まず第一に、権威を求め、それを取り...
悪霊どもに対してキリストの権威を用いることに関する光 (3)
エバン・ロバーツ 「私の心の中に不法があるなら」権威を行使することはできません。ある人が自分の過ちを知っていてそれを覆い隠すなら、神はそのような人たちの権威を承認されません。しかし、「憑依」が無知によるものであり、その人の意志や願いに反するものである場合、神はその人がキリストの権威を用いるのを尊んでくださいます。質問 しかし、彼らが自分たちに関する真実を悟り、それでもそれに従わない場合、彼らには何か...
悪霊どもに対してキリストの権威を用いることに関する光 (2)
エバン・ロバーツ 聖霊を受けることの効力の一つは、御霊によってバプテスマされた人々は自分がパースン――聖霊――と接触するようになったことを意識するようになることです。次に、悪魔はこのパースンを真似することによって彼らを攻撃します。悪魔は神の臨在を真似することにより、また、奇跡的な導きの偽物により、彼らを真理から逸らします。すると、彼らは内側の霊の導きを消してしまい、外側の超自然的な物事に従うようになり...
悪霊どもに対してキリストの権威を用いることに関する光 (1)
エバン・ロバーツ そうです。無知のせいで悪鬼に取り憑かれてしまった人でも、キリストの権威を取り、それを暗闇の力に対して行使し、自分に服させることができます。質問 しかし、その人はまず自分が欺かれていることを知る必要があるのではないでしょうか?エバン・ロバーツ いいえ、その必要はありません。権威が及ぶのは自分が意識している範囲に限られます。しかし、自分が欺かれていることをその人が知っていると仮定しまし...
「勝利者」誌 一九一二年 第四巻 一月号 掲載 悪魔の白旗に注意しなさい!それは戦いを停止させるための休戦の旗なのです。悪魔はできることなら何らかの方法で入り込み、まさにカナン人がヨシュアにしたように、教会を自分に妥協させようとします。危険なのは戦いが終わる前に妥協して、戦いをやめることです。暗闇の力に対していかなる妥協、あわれみ、同情もあってはなりません。 悪霊どもは知性と交信することができますが、...
「勝利者」誌 一九一二年 第四巻 一月号 掲載「もしあなたたちがこれらのことを知っているなら それらを行うとき、あなたたちはさいわいです」 (ヨハネ一三・一七) あなたが読んだことを用いなさい。真理を用いなさい。真理をあなたの思いの中に刻み込みなさい。真理に基づいて行動しなさい。真理を祈りに変えなさい。人々が真理を得るよう配慮しなさい。真理をあなた自身の生活に適用しなさい。さらにどれだけ多くの光をあな...
私の全存在、そして私が団体の中で享受しているものはみなキリストのおかげである。神をどれほど賛美しても賛美しきれない。私が完全に享受している団体の中に、神は私を連れて来てくださった。どこに行っても、自分の民が分からないことは少しもないし、彼らを受け入れるのを躊躇することも少しもない。神が私を罪と地獄から救ってくださったこと、タバコ、不敬、安息日破り、罪深い他のことから救ってくださったことを、私は神...
あなたは今晩祈らないかもしれない。明日も祈らず、十年間祈らないかもしれない。突然の災難があなたを襲うことはないかもしれない。しかし、あなたはいつか祈ることになる。手遅れになってから祈るかもしれない。大部分の人は神やイエスに向かって祈るのではなく、パイク山、ロング山、アレゲーニー山脈、ブルーリッジ山脈、グリーン山、ホワイト山、カンバーランド山に向かって祈ることになるだろう。彼らは岩と山とに向かって...
しばらく前に、私はある女性に宣べ伝えた。その女性は夜中の九時半に神に対して「いいえ」と言い、十一時には死んで地獄に行ったのである。ああ、諸君、これらのことは現実である。この人々は裁きの日にそこに行くことになるのである。最後の一大祈祷会に行くことになるのである。この人々は憐れみをもてあそび、恵みをもてあそび、自分の魂の永遠の益をもてあそんでいるのである。 私が開いていた野外集会の一つに、邪魔をする...
私はあなたに言う。われわれの周りで人々が死んでいっているのである。われわれが開くどの野外集会でも、ある人にとってはそれが最後のチャンスである。そして、「いいえ」と言うなら地獄に行くのである。われわれが持つどの大会やリバイバルでも、人々は生死を分かつ線を越える。「はい」と言う人はみごとに救われ、「いいえ」という人に対して憐れみの扉は永遠に閉ざされる。どうかこの野外集会で神がわれわれを助けてください...
私はある教会員が死ぬのを見た。教会員の大勢がこの人のようになるだろう。この女性はその地で私が牧師を務めた二年間の間、私の会衆の会員だった。彼女は若い女性ではなく、八十歳だった。リバイバルに賛成ではなく、一度もわれわれを助けてくれなかった。八十年のあいだ、その教会の会員だった。今晩、あなたは教会員かもしれないし、福音の説教者かもしれないが、地獄で永遠に呪われることになるかもしれないのである。私は今...
私はこの御言葉が述べている階級を代表する別の人が死ぬのを見た。ある商人が死ぬのを見た。その商人は成功の道を駆けて来た人で、人の目から見る限り、この世で目的を遂げた人だった。しかし、彼には神も希望もなかった。彼は今晩人々が聞いているような話を聞いた。何度も何度も福音の知らせを聞いた。キリストのもとに来るよう招きを受けた。しかし、キリストを拒んだのである。彼が地獄に落ちた日のことを私は覚えている。最...
われわれの中のある者たちにとって、これらのことは大いなる現実である。私はこれらのことを完全に信じている。これらのことはわれわれに極めて深い印象を与える。われわれの中のある者たちにとって、人々が神に対して罪を犯すのは恐ろしいことに思われる。われわれの中のある者たちにとって、人々が罪に定められて自分の目の前で地獄に行くのはゾッとすることに思われる。われわれの中のある者は、誰かが自分の指からすり落ちて...
数年前、私はフーシア市に住んでいた。そこには、極めて傲慢な銀行家や実業家がいて、「私は祈りを信じない」と言っていた。彼らは決して祈らなかった。ある蒸し暑い午後の二時頃のことである。鈍感な人でない限り、約三分でサイクロンがその町を襲うかに思われた。この銀行家たちの何人かは通りにいて、舗道にひざまずき、「この町を救ってください」と神に祈り、叫んだのである。 ほんの数年前、神がボタンを押してサウスカロ...
これは一大集会であり、そこで人々は祈るだろう。今、祈り方を知っている人々は多くない。たいていの牧師は、「祈る会員」と分類できる人をごく僅かしか持っていない。近頃、われわれのいわゆる「宗教」団体には、活発な会員とそうでない会員、祈る会員とそうでない会員がいる。三、四百人の会衆の牧師の多くは、祈る会員を片手の指で数えることができる。また、断られるのを恐れて、人を公の祈りにあえて招くこともほとんどない...
このメッセージは「最後の祈りの集会」または「永遠の現実」と題して一九〇四年にオハイオ州シンシナティの God's Revivalist Office から発行された小冊子に収録された四つのメッセージの中の一つである。他の三つのメッセージはE.A.ファーガソンによる「地獄」と「迫り来る裁き」、チャールズ・F・ウェイゲルの「三つの地獄」である。聖書朗読: 「小羊が第六の封印を解いた時、私が見ていると、見よ、大地震が起こって、太...
区別する火 火が地に投じられます。この使徒行伝を読む進んでいくと、こうしたことがすべて起きるのを見ます。こうしたことが常に起きています。この火がそれをなしています。この火が探り出し、試し、区別し、追いやっています。この物語の結末として、二つの領域が分けられ、それらが何であって何に属しているのかが示されます。 この霊的区別の問題に関して、もちろん、もっとたくさん述べることもできます。異なる区分に属す...
さて、要点はこうです。これが私たちの務めや私たちの証しによる聖霊の効力である、とパウロは述べているのです。言い換えると、聖霊は決して物事をそのまま放置されないのです。聖霊の臨在は常に、何らかの転機や判決をもたらします。聖霊が臨在して語られるとき、私たちはその後、前と同じままではいられません。何かが起きました。私たちはますます頑なになるか、ますます柔軟になるかのいずれかです。ますます罪に定められる...
これが使徒行伝の中で起きていたことです。この書に目を通して、なされている区別を見てください。確かに、実際に区別がなされています。ああ、何とこれらのユダヤ主義者たちは労苦したことか!どれほど彼らは苦しんで、海と陸を渡ったことか!このような長旅をするには、かなり大きな代価が必要だったにちがいありません。彼らの活動は遠く広範に及びました。彼らは真剣な人々であるだけでなく、自分と自分の地位について彼らが...
クリスチャンの働き これの次の適用先は、クリスチャンの働きの問題全体です。パウロはこれについてコリント人への第一の手紙の三章で述べています。 「私に与えられた神の恵みにしたがって、私は賢い建築家のように土台を据えました。そして他の人がその上に建てます。しかし、どのようにその上に建てるのか、各自は注意しなさい。なぜなら、据えられている土台の他に、誰も他の土台を据えることはできないからです。この土台は...
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おお主よ、汝の愛の火の如く且つ喜ばしい御力が私の霊魂を天が下の凡ゆるものより離して汝に集注せしめ給う。忝じけなくも私如きものを愛してそのために死に給うたように私にも愛のために死ぬる心を深くさせ給え。全能にして、最も聖く、最も高く、最高善にして、全ての善、凡ゆる善の源なる神よ、汝のみただ一人善にて在し給う。全能にして、永遠なる、義にして、憐み深き神よ、哀れなる我々に汝を知り、常に汝の喜び給うところを...
我らの父よ、最も聖き我らの創造者、贖主、又慰主よ。天にいます。御使の中に又、聖徒の中にあって彼らに知識を得させる輝きを与え給う、そはおお主よ、汝は光にして汝を愛するように心を燃やし給う、主よ、汝は愛にて在し給う、彼らの中に宿り、祝福をもて彼らを満し給う、おお主よ、汝は最高の善にて在し永遠の善にして汝を離れては何処にも善はありません。御名を崇めさせ給え、我らが汝の恩恵の広さと汝の約束の長さと汝の威厳...
おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
イエス、ピラトの許に送られる(マタイ二七1、2)祭司や学者らは、宗教上の事項には権力があったが、生殺与奪の権は持たなかったのである。それ故にイエスを殺そうとするには、法律の下に託さねばならなかったのである。〔マルコ一五1〕「夜明けに及び、直ちに祭司の長、長老、学者たち、すべての議員と共にはかりて、イエスをしばり、ひきつれてピラトに渡せり」〔ヨハネ一八28〕ここで時刻を知ることが出来る。この夜、主はゲッ...
イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。〔62〕「……証拠は如何に」〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。この...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...