おお主よ、汝の愛の火の如く且つ喜ばしい御力が私の霊魂を天が下の凡ゆるものより離して汝に集注せしめ給う。忝じけなくも私如きものを愛してそのために死に給うたように私にも愛のために死ぬる心を深くさせ給え。全能にして、最も聖く、最も高く、最高善にして、全ての善、凡ゆる善の源なる神よ、汝のみただ一人善にて在し給う。全能にして、永遠なる、義にして、憐み深き神よ、哀れなる我々に汝を知り、常に汝の喜び給うところを...
御霊の特徴は、これはこれそれはそれと裁くこと、何がこの領域に属し何があの領域に属するのか裁くこと、そして、それらを隔てることです。ですから、もし暗闇が日や光に臨んだり、光が夜に臨んだりするなら、それはとても異常なことです。それは、まったく通常の成り行きではありません。要点がわかったでしょうか?あなた自身の家庭、あなた自身の一家の中に、これらの異なる王国や領域が生じる可能性があるのです。そのような...
さて、聖霊は常にこのような方法で分裂させる御方です。そうするのが聖霊の御業です。ある意味で――悪い意味ではありません、私の言葉をどう受け止めるのかに注意してください――ある意味で聖霊は分裂の原因です。彼が分裂させる方である領域があります。 自分の聖書を手に取って、初めに遡ることにしましょう。神の霊が混沌、暗闇、虚空の上を覆われました。聖霊によって、聖霊を通してなされた、最初のことは何だったでしょう?...
人間関係 ルカによる福音書のこの一二章では、それが一つの領域で働いています。次のような恐ろしい御言葉が記されています、「あなたたちは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのですか?あなたたちに言いますが、違います、むしろ、分裂です」。この言葉は昔の欽定訳では「剣」となっています。分裂!これは恐ろしく聞こえます。これには細心の注意が必要であり、私たちはとても注意深くなければなりません。しかし、彼...
裁き しかし、この「裁き」という言葉の意味を私たちは理解しなければなりません。多くの時、私たちはそれをその諸々の面の一つに、特に最終的な面に限定してしまいます。私たちは「裁きに渡すこと」について話しますが――それによって言わんとしているのは、刑罰に渡すことです――裁きの最終的効力のことです。しかし、裁きという言葉は聖書ではもっと包括的な言葉です。それはまず――火つまり裁きに関する火の観点から明確にわかり...
再び私たちの基本的な聖書の節に戻ることにします。 「私が来たのは、地上に火を投じるためです。それがすでに燃え上がっていれば!しかし、私にはバプテスマされるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、私はどれほど圧迫されることでしょう!あなたたちは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのですか?あなたたちに言いますが、違います、むしろ、分裂です。なぜなら今から後、一家に五人いたなら分裂...
もし御霊が不活発で、休止していて、何もせず、動いておられないなら、もし御霊が働いておられない印や兆しがあるなら、それは異常な状況です。それは、神の霊の観点から見て、何か間違っているもの、何か正しくないものがあることを意味します。もしすべてが正しかったなら、御霊は活発であられたでしょう。行動し、進んでおられたでしょう。動きがあったでしょう。 ご自身の立場を得ておられるとき、御霊は常に積極的です。で...
積極的な交わり 第三に、これは交わりの原則です。御霊の交わりは交わりの真髄です。しかし、また、それは積極的です。交わりは受動的なものではありません。決して受動的なものではありえません。なぜなら、地獄の全軍勢がこぞってそれに反対するからです。地獄が何よりも反対するのは、聖霊の交わり、神の民の交わりです。絶え間なく、あらゆる手段を尽くして、これらの悪の勢力はこの交わりを損なおうとします。なぜなら、この...
積極的な証し これは、次に、奉仕または証しの法則です。よく注目してください、「聖霊があなたたちの上に臨む時、あなたたちは力を受けます。そして、私の証し人となります……」。奉仕または証しの原則は積極的です。何と多くのクリスチャンが、証しをしないせいで、がんじがらめにされていることでしょう!彼らは証しをしません。彼らの光を輝かせません。まったく消極的です。人々はどう思い、どう言うだろう、他の人々からの反...
また、悪魔に従っているクリスチャンがいるのではないかと、私は恐れます。自分自身と悪魔を識別するのは常に容易とは限りませんが、ご存じのように、悪魔は常に私たち自身を通して私たちに語りかけています。もし私たちに何か間違っている点があるなら、彼はそれを私たちに知らせます。もし私たちを困らせるものが何かあるなら、彼は問題を増し加えて、強調します。彼自らが自分自身のために造った彼自身の立場をほんの少し彼に...
積極的な歩み さて、御霊のこの法則はクリスチャンの歩みの原則です。クリスチャンの歩みは聖い歩みであるべきです。聖い歩みをしなければなりません。これが御霊によって歩む意味の何たるかです。明確にこう述べられています、「御霊によって歩みなさい、そうすればあなたたちは、肉の欲を満たすことはありません」(ガラテヤ五・一六)。肉を満足させまいと、あなたはもがき、奮闘し、戦っているのでしょうか?それは消極的です...
御霊は真空を忌み嫌われる さて、ここで、この書――これを「まき散らされた火の書」と呼べるでしょう――の冒頭のこれらの御言葉は、小休止、未決状態、ある種の合間を示しています。十字架はそのすべての意義と共に、成就された事実です。贖いの御業は成就されています。将来のための基礎に関しては、すべてがなされました。また、その御旨に関しては、すべてが予示・予告されていました。こうあります、「あなたたちはエルサレムに...
私が来たのは、地上に火を投じるためです。それがすでに燃え上がっていれば!しかし、私にはバプテスマされるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、私はどれほど圧迫されることでしょう!(ルカ一二・四九、五〇)。 彼らと一緒に集まっている時、彼は彼らに命じて言われた、「エルサレムを離れないで、私から聞いていた父の約束を待っていなさい。なぜなら、ヨハネは水でバプテスマしましたが、あなたたちは間...
これから何と多くのことが生じたことでしょう!彼らは問題全体を洞察して、真の問題に到りました。それ以外の思いを捨て去りました。そして、彼らの苦しみの中から、何かが生じました。一二章の後に続く出来事をあなたは覚えておられるでしょう。前の章(一一・一九~三〇)でアンテオケが視野に入ってきました。そして今、アンテオケからパウロとバルナバが遣わされ、先へ先へと進みます。火が地の果てまでまき散らされます――教...
この物語について考える時、この物語にはない多くの、多くの思いが、私の心の中に押し寄せてきます。もし教会が、一緒に集まって、このような一つの中で、祈りの中でこの状況に集中する代わりに、次のように述べていたなら、結果はどれほど異なっていたことでしょう。「ああ、ステパノがあんなことを言ってさえいなければ!何某さんがもう少し用心深くしてくれてさえいれば……。……してさえいれば!」。他にも無数のことを非難しま...
さて、これがすべてどこから始まったのかを見ることにしましょう。一方の側にはヘロデがいます――邪悪な、邪悪なヘロデから始まりました。彼はエサウにまで遡る長い歴史に由来する残忍さをことごとく帯びています。この行為を喜んだユダヤ人たちは、イエスに従う者たちに敵対します。内にも外にも、牢獄、鎖、屈強な衛兵――四人組の衛兵――が控えています。これらは大きな勢力、大きな困難――敵対するすべてのもの――を示すものです。...
神はサタンを滅ぼすためにサタンの働きを用いられます。しかし、そのために用いられる道具は教会であり、聖徒たちです。彼らの魂の中でこの戦いがなされています。「今や天上の主権者たちや権力者たちに(中略)教会を通して神の多種多様な知恵を知らせ」(エペソ三・一〇)。目に見えない領域で何かが起きています。 神の御言葉の進展には代価が必要です。それには多くの苦難が含まれます――この杯が含まれます。しかし、これが...
これが、この箇所が示している物語です。神の奥義的な道により、教会は苦しみます。しかし、その苦しみは敵に由来します。神は教会という手段によって敵を引き出しておられます――敵を引き出して、おびき出しておられます。そして、敵の不義の杯が満ちる時、神は敵を回復不能なまでに打ち砕かれます。これがヘロデの件です。この結果を招いたのは教会です。これを成し遂げたのは、ヤコブとペテロと当時の教会です。しかし、これは...
しかし、しばしの間、それから少し転じて、別の面に移ることにします――すなわち、劇的とも言えるこの面、主の至高の王権の面です。これはみな三つの点に要約されます。「ヘロデは(中略)苦しめるために手を伸ばした(中略)主の御使いが彼を打った(中略)しかし、神の御言葉は成長して増殖した」(一二・一、二三、二四)。これは途方もないことではないでしょうか?この物語は、ヘロデが手を伸ばす場面から始まり、ヘロデが虫...
しかし、ヘロデの背後に回り込むことにしましょう。ヘロデは一人で行動しているわけではないからです。何かそれ以上のもの、何かさらに深いものがあります。この問いに対する、さらに深く、さらに現実的な答えは、この人の背後にあるサタンの領域の中に見いだされます。もう一度一一章一九節を見ることにしましょう。「そのため、ステパノのゆえに起こった艱難によって散らされた人たちは、ピニケ、クプロ、アンテオケにまでも旅...
「その頃ヘロデ王は、教会のうちの何人かを苦しめるために手を伸ばした(中略)それがユダヤ人を喜ばせるのを見た時……」(一、三節)。さて、その当時、ユダヤ人を喜ばせるこのようなことを、なぜヘロデは行う必要があったのでしょう?これは人の物語のように見えるかもしれませんし、とても単純なことに思われるかもしれませんが、私たちはこの大いに深遠なものが明らかになるさなかにあります。サタンは、ご存じのように、とて...
この章の使信を見ることにしましょう。「さて、その頃」。いつの頃でしょう?これについて指摘して、その時に言及するのは、意義深いことです。その答えはとても長いものです。が、二つの主な特徴があります。ヘロデ当人のうちに答えがあります。そして、ヘロデの背後に、ずっと深くに、その答えがあります――その答えとはサタンです。ヘロデのうちにあるこの答えについて考えることにしましょう。 「ヘロデ王」(一節)。聖書の...
聖書朗読:使徒一二章 私が来たのは、地上に火を投じるためです。それがすでに燃え上がっていれば!しかし、私にはバプテスマされるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、私はどれほど圧迫されることでしょう!(ルカ一二・四九、五〇)。 私たちの最初のメッセージでは、主に杯と、火をまき散らすその結果とに専念しました。その目的は、これら二つの間の関係を新たに考察することでした。この杯の意義が、神の...
教会の証しと務めが損なわれるのは、往々にして、次の二つの一方あるいは両方の結果であることに疑いはありません。すなわち、そのただ中にこの杯に矛盾するものがあるか、さもなければ、この杯を避けているのです――この杯に直面しないように、苦難に巻き込まれないようにしようとしているのです。私たちは素晴らしい時を過ごし、すべてをそのようにします。しかし、杯は――ないのです。この杯に矛盾することによって証しと奉仕が...
そして、それは私たちが彼と一つであることにかかっているだけでなく、私たちが彼にあって一つであることにもかかっています。僕の中に妨げがある間は、魂は救われません。魂の救いを求めている人々の間に分裂がある間は、魂は救われません。もし神の民を分裂させるための地位をサタンが許されているなら、働きは成長することも、拡張することも、拡大することもありません。キリスト自ら、この確立された法則を指摘しておられま...
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おお主よ、汝の愛の火の如く且つ喜ばしい御力が私の霊魂を天が下の凡ゆるものより離して汝に集注せしめ給う。忝じけなくも私如きものを愛してそのために死に給うたように私にも愛のために死ぬる心を深くさせ給え。全能にして、最も聖く、最も高く、最高善にして、全ての善、凡ゆる善の源なる神よ、汝のみただ一人善にて在し給う。全能にして、永遠なる、義にして、憐み深き神よ、哀れなる我々に汝を知り、常に汝の喜び給うところを...
我らの父よ、最も聖き我らの創造者、贖主、又慰主よ。天にいます。御使の中に又、聖徒の中にあって彼らに知識を得させる輝きを与え給う、そはおお主よ、汝は光にして汝を愛するように心を燃やし給う、主よ、汝は愛にて在し給う、彼らの中に宿り、祝福をもて彼らを満し給う、おお主よ、汝は最高の善にて在し永遠の善にして汝を離れては何処にも善はありません。御名を崇めさせ給え、我らが汝の恩恵の広さと汝の約束の長さと汝の威厳...
おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
イエス、ピラトの許に送られる(マタイ二七1、2)祭司や学者らは、宗教上の事項には権力があったが、生殺与奪の権は持たなかったのである。それ故にイエスを殺そうとするには、法律の下に託さねばならなかったのである。〔マルコ一五1〕「夜明けに及び、直ちに祭司の長、長老、学者たち、すべての議員と共にはかりて、イエスをしばり、ひきつれてピラトに渡せり」〔ヨハネ一八28〕ここで時刻を知ることが出来る。この夜、主はゲッ...
イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。〔62〕「……証拠は如何に」〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。この...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...