道教寺院というのは、一歩足を踏み入れると、そこが単なる一室の信仰空間ではないと気づかされる。鹿港天后宮も中央に媽祖を祀る本殿がありながら、その周囲には多種多様な神々が、それぞれの小さなお堂に鎮座している。文昌帝君、関聖帝君、城隍爺──名前も役割も異なる神々が、それぞれのご利益と共に祀られていて、境内…
ムンバイの路地裏で見つけた「ソンブレロの男」──日傘のない国の光と影
インド・ムンバイの住宅密集地を歩く中で出会った、一人の男の姿。日傘も帽子も使わず強い陽射しを受けるこの国で、珍しくつば広帽をかぶった男の静かな佇まいが教えてくれた、インドの風土と文化の断片とは──。
ムンバイの路地裏で出会った子どもたち――カメラ越しに見えた、ある少年のまなざし
インド・ムンバイの観光地を離れ、路地裏へと足を踏み入れた筆者が出会ったのは、カメラに無邪気な笑顔を向ける子どもたちと、ひとりだけ訝しげな少年のまなざしだった。写真と旅、そして異文化の交差点で感じた静かな交流の記録。
整備された観光地だけでは見えてこない、ムンバイの素顔。小さな路地に足を踏み入れた先に広がっていたのは、日常の息づかいと静かな優しさに包まれた風景だった。旅人が偶然見つけた、記憶に残る“ムンバイの一部”とは──。
ピースサインが平和的でないとき: 異文化間のシグナルとムンバイの少女の笑顔
ムンバイの街角で出会った少女の裏ピース。その無邪気なジェスチャーが文化の違いを映し出す——。人類共通の「表情」と、国によって異なる「ボディサイン」をめぐる小さな旅のエピソード。
インドの混沌に整然を見た日─ムンバイのゴミ収集車は興味ゴミを集めている
インド・ムンバイで偶然目にしたゴミ収集車は、日本と違って地味な普通のトラックのよう。混沌とされる都市の中で感じた秩序と静けさはこのようなトラックが地道に支えている。
子どもの頃、僕の住んでいた町では、毎日のように豆腐屋が売り歩いていた。最後の一音が独特のラッパの音色を響かせながら、自転車の荷台に桶を乗せて、町を巡回する。野菜は八百屋で、お肉は肉屋で買うのが当たり前だったのに、豆腐だけはわざわざ買いに行く必要がなかったのは、なぜだったのだろうか。今ではスーパーマー…
13年ぶりにインドにやって来て大きく変わったと思うことに、写真が地元の人にとってとても身近なものになったということが挙げられる。13年前に来たときにはカメラ付きの携帯電話があったとはいえ、それほど一般的でなく、ましてや一眼レフを抱えて街を歩いているひとなぞほとんどいなかったように思う。それがどうだろ…
「海外旅行が好きだ」と話すと、多くの人は決まってこう言う。「じゃあ英語がペラペラなんですね!」でも、それは大きな誤解だ。確かに、旅に必要な英語は何とかこなせる。ホテルの予約も、レストランでの注文も、空港でのやり取りも問題はない。でも、それ以上のビジネスレベルの英語となると、僕の語彙力では到底及ばない…
しばらく進むと、路地は完全に住宅街へと変貌していた。道幅はさらに狭まり、両脇には住居がぎっしりと並ぶ。管理されているのか、それとも放置されているのか分からない電線が頭上で複雑に絡み合い、まるで蜘蛛の巣のように空を覆っている。その下には、軒先に吊るされた洗濯物がゆらゆらと揺れていた。ここは間違いなく…
ムンバイの大通りを一本外れると、そこはもう別世界だった。高級ホテルや華やかなショップが並ぶ表通りとは打って変わり、脇道は少しずつ雑然としていく。最初は商店がちらほらと並んでいるが、次第に住居ばかりが目につくようになる。そして、道は真っ直ぐではなくなり、いつの間にか迷路のような入り組んだ路地へと変わっ…
ムンバイの商店街を歩いていると、一軒のアイロンがけ専門の店が目に入った。古びた看板の下、年季の入ったアイロンが壁際に無造作に並べられている。その光景はどこか懐かしく、そして興味を引いた。インドは更紗発祥の地。昔から木綿の衣服を愛用する文化が根付いているせいか、街角ではアイロンかけ職人をよく見かける…
商店が軒を連ねるムンバイの商店街。その華やかな表の顔とは対照的に、裏側に回るとそこには生活の気配が色濃く漂っている。ここは商売の場であると同時に、多くの人々の住まいでもあるのだ。歩いていると、大人たちの忙しげな姿に混じって、子どもたちの姿もちらほらと見かける。学校帰りなのか、それとも家の手伝いを終え…
今なおインドの小売市場の約9割は、伝統的な零細店舗が占めているという。そこに含まれるのは、日本で見かけるようなコンビニエンスストアではない。むしろ「店舗」と呼ぶにはあまりにも素朴な、小さな露店や簡素な屋台がほとんどだ。写真の男が働いていたのも、まさにそんな店のひとつ。屋根も壁もなく、店舗というよりは…
足を踏み入れた商店街の一角に、ささやかな八百屋があった。粗末なテーブルの上にはタマネギやウリ、ニンジン、インゲンといった野菜が並び、その向こうには一組の親子が腰を下ろしている。この日は、お父さんと息子が店番を任されているのだろう。お父さんは携帯電話を耳に当て、誰かと静かに話している。忙しげな様子では…
ムンバイの商店街で出会った優しい微笑み──買い物に疲れたひととき
ムンバイの商店街を歩いていた。店が軒を連ね、行き交う人々がそれぞれの目的を持って買い物を楽しんでいる。特別な活気があるわけではないが、決して寂れた雰囲気でもない。平日の商店街は、どこか落ち着いた日常の空気が漂っていた。道のあちこちでは、買い物に疲れた人々が腰を下ろして休憩している。その姿は、まるでこ…
インド人は甘いものに目がなく、インドは世界最大の砂糖消費国だ
小さな商店が軒を連ねる通りを歩いていた。食堂や八百屋がひしめく商店街の中で、僕の足がふと止まったのは、スナック菓子を売る店の前だった。店頭のカウンターには、まるでカラフルな壁のように積み上げられたスナック菓子やビスケットの袋。目を引くその光景に、思わずじっと見入ってしまう。インドでは、街角のチャイ・…
インドでカレーは食卓に欠かせない存在だが、ナンを日常的に食べている人はほとんどいない
日本で「インドカレー」といえばナンを思い浮かべる人が多い。もちもちとした食感に、濃厚なカレーがよく絡む。日本のカレー専門店では、焼きたてのナンが提供されるのが定番だ。しかし、インドではナンは主流ではない。たしかにカレーは食卓に欠かせない存在だが、ナンを日常的に食べている人はほとんどいない。その理由は…
ムンバイの街角で見つけた、人々のエネルギー源──チャイという文化
ムンバイの陽射しは容赦ない。ひとたび外に出れば、じわりと汗が滲み、喉はすぐに渇いてしまう。そんな厳しい環境の中で、人々のエネルギー源となっているのが、街のあちこちで提供されている「チャイ」だ。特に問屋街のような場所では、荷を運ぶ人夫たちがひっきりなしにチャイ屋へと足を運ぶ。 彼らにとってチャイは、た…
ムンバイのハッジ・アリー廟と東京・上野の辨天堂──異世界へと続く道の変化
東京・上野の辨天堂を訪れるたびに思うことがある。それは、同じ目的地に向かうのでも、一本道の陸地を歩いていくのと、船に乗って水上を進むのとでは、感じる雰囲気がまったく異なるということだ。水の上を渡るという行為には、どこかしら特別な感覚が宿る。それはムンバイのハッジ・アリー廟にも言えることだった。この廟…
ムンバイの太陽は容赦がなかった。照りつける日差しがアスファルトを焼き、海風も熱を帯びている。僕の体は、まだ完全に夏になり切れていない日本の気候から、このインドの灼熱の世界へと放り込まれた。結果は明白だった——あっという間に夏バテである。だが、それは僕だけではなかった。この街に暮らす人々も、決してこの…
霊廟のすぐ横にあるモスクに設けられた小さな洗い場は祈りの前の静寂を守る場所のようにも思えた
ムンバイのアラビア海に浮かぶハッジ・アリー廟は、その名が示す通り、イスラム教の聖人を祀る霊廟だ。白亜の建物が海に浮かぶように佇み、長い参道を通ってようやく辿り着くことができる。その姿はまるで、現世と神聖な世界を隔てる門のように見えた。敷地の中央にある聖人ハッジ・アリーの棺の前には、多くの巡礼者がひし…
ハッジ・アリー廟へと続く一本道は、潮が満ちれば海に沈み、引けば姿を現し、まるで信仰へと誘う試練のようにも思えた
ムンバイの喧騒を離れ、アラビア海へと伸びる一本の細い道を歩いていく。目の前には白亜の建物とミナレットが輝く、ハッジ・アリー廟。ここはインドの観光名所としても知られ、敬虔なイスラム教徒が絶えず訪れる霊廟だ。ハッジ・アリーは、現在のウズベキスタンのブハラ出身の商人だった。裕福でありながらも敬虔なイスラム…
ムンバイの観光名所として知られ、世界遺産にも登録されている歴史的な建造物の博物館に冷房はなかった
ムンバイの太陽は、まるで神々の怒りが凝縮されたかのように容赦なく照りつける。強烈な湿気が肌にまとわりつき、影を探しながらの移動が当たり前になっていた。そんなとき、僕はふと目にした「チャトラパティ・シヴァージー・マハーラージ・ヴァストゥ・サングラハラヤ」という長ったらしい名の博物館に足を向けることにし…
エレファンタ島へは片道1時間かかるので、行きは世界遺産への期待で胸が高鳴るものの、帰り道はひたすら着くのを待つばかりだ
ムンバイのインド門からフェリーで向かうエレファンタ島への航海は、片道1時間ほどかかる。行きはこれから訪れる世界遺産への期待で胸が高鳴るものの、帰り道はひたすらムンバイの海岸線が近づくのを待つばかりだ。波が穏やかだったのは幸運だったが、船上では襲い来る睡魔と強烈な日差しが最大の敵となる。フェリーの単調…
エレファンタ石窟群は宗教施設というよりも観光地化したテーマパークのようだった
ムンバイの象徴的な建造物であるインド門からフェリーで約1時間、ムンバイ湾に浮かぶエレファンタ島には、世界遺産に登録された壮大な石窟群がある。本来はヒンドゥー教のシヴァ神を祀る神聖な寺院として築かれたものの、現在ではすっかり観光地化しており、ここで真剣に祈る人の姿はほとんど見られない。神聖な場であれば…
エレファンタ島の猿は驚くほど器用で、蓋を回して開けるのもお手のものだし、ボトルから直接飲むこともできる
別名「モンキーアイランド」と呼ばれるだけあって、ムンバイ市街地の東に浮かぶエレファンタ島には猿が多い。人を襲うことはないと思うのだけれど、食べ物に関しては油断できない。僕の前を歩いていた観光客は、手に持っていたペットボトルを猿に奪われてしまった。猿は素早くボトルを強奪すると、器用に蓋を回して開け、中…
警備員も写真撮影を咎めることなく、薄暗い中でスマホのカメラ設定をどうすれば綺麗に撮影できるかを親切に教えてくれるほどだった
ムンバイにある世界遺産、エレファンタ石窟群は、主にヒンドゥー教のシヴァ神を祀る石窟寺院の集合体だ。内部にはリンガやシヴァ神以外の神々の彫刻も点在しているものの、それらはもはや過去の遺物として扱われているように感じられる。訪れている人々の多くはインド人で、ほとんどがヒンドゥー教徒と思われるが、ここでお…
ムンバイ中心部を歩いているとイギリス統治時代の名残を色濃く感じたが、エレファンタ島には思いの外ポルトガルの影響が残っていた
長い階段を登り終え、ようやくエレファンタ石窟群にたどり着いた。世界遺産に登録されているこの石窟群は、グプタ朝の時代に建設が始まったとされ、その歴史は古い。しかし長らく忘れ去られており、16世紀になってポルトガル人によって再発見されたという。この石窟群が「エレファンタ」と呼ばれるのも、ポルトガル人がこ…
幻想的な光の中で、遊び回っていたシャイな女の子の全身もまた、透き通るような青に包まれていた
船着き場、すなわち海抜0メートル地点から世界遺産であるエレファンタ石窟群の入口までは、延々と登りの階段が続いていた。ここを訪れる観光客のほぼすべてが通るルートなのだろう。階段の途中には食堂が点在し、脇にはお土産物屋がびっしりと並んでいる。観光客フレンドリーな様相を呈しているものの、本来なら強烈な日差…
エレファンタ島は遺跡しかない無人島のように思っていたが、どうやら南部には集落があり、人が暮らしているらしい
船酔いすることもなく、約1時間の航海を終えて、フェリーはエレファンタ島に無事到着した。長い桟橋を渡りながら、世界遺産の石窟群へと向かっていく。ふと浜辺に目を向けると、いくつもの漁船が陸揚げされていた。この島は遺跡しかない無人島のように思っていたが、どうやら南部には集落があり、人が暮らしているらしい…
視線の先に、何か特別なものがあるわけではなく、ただ、波に揺られる時間がやや長く感じられるだけだ
ムンバイのインド門は、それ自体が観光名所であるだけでなく、船乗り場としての役割も果たしている。世界遺産に登録されているエレファンタ石窟群のあるエレファンタ島へ向かうフェリーも、ここから出発するのだ。乗り込んだフェリーはゆっくりと岸を離れ、インド門が次第に小さくなっていく。その瞬間までは、旅の高揚感に…
果物屋の店頭にあったさくらんぼの箱から、インドは広大で、多様な風土を持つ国だということを改めて思い知らされた
ムンバイで足を踏み入れた商店街に、小さな果物屋があった。正確に言うと、それを「お店」と呼んでよいのかどうか迷うほどのささやかな空間だ。タバコなどを売るキオスクなら、これくらいの大きさでも違和感はないが、果物屋となると少し意外に思える。店主は果物に囲まれながら、小さな椅子に腰を下ろしていた。並べられて…
そもそも綿花の栽培や、綿布・綿織物をつくる技術の起源はインダス文明にまで遡るのだ
商店街には仕立て屋も店を構えていた。男が店先に出したテーブルに、年季の入ったミシンを載せて、カタカタカタと縫製をしている。日本でも洋服の直しをしてくれる店があるが、ここムンバイでも同じようなニーズがあるのだろう。路上にミシンを持ち出して作業をする姿は、日本ではほとんど見かけないが、この街ではごく当た…
ズボンを売る屋台は出ていたものの、どこにも試着室のようなものは見当たらなかった
ムンバイの商店街に並ぶ店々には統一感がなかった。小腹を満たす軽食の屋台もあれば、野菜を売る八百屋や果物を並べる露店もある。その中で、ズボンを売る男たちの姿もあった。写真のヒゲモジャの男たちがそうだ。僕のカメラを見つけると、彼らは嬉々としてレンズの前に立ち、陽気な笑顔を見せてくれた。だが、ふと疑問が浮…
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道教寺院というのは、一歩足を踏み入れると、そこが単なる一室の信仰空間ではないと気づかされる。鹿港天后宮も中央に媽祖を祀る本殿がありながら、その周囲には多種多様な神々が、それぞれの小さなお堂に鎮座している。文昌帝君、関聖帝君、城隍爺──名前も役割も異なる神々が、それぞれのご利益と共に祀られていて、境内…
外を歩いているはずなのに、ふとした瞬間、屋内をさまよっているような気分になることがある。香港の湾仔で歩いていた路地も、まさにそんな場所だった。左右からせり出した色とりどりのテントが、空を覆っている。青や赤のビニール屋根が視界の上部を埋め尽くし、その下にはびっしりと並ぶ屋台。靴下、帽子、スマホのアクセ…
ムンバイを歩いていると、どこにも属さず、ただ道端に腰を下ろしている人びとをよく見かける。何かをしているわけでもない。ただそこにいて、通りを眺めたり、誰かと談笑したり、ときには黙って風に吹かれているだけ。日本ではあまり見かけない光景で、最初は何をしている人たちなのか分からず戸惑った。でも、そんな僕の思…
ハノイ旧市街を歩いていると、絶え間なくバイクの音が耳に届いてくる。クラクション、エンジンのうなり、時には叫び声。四方八方から押し寄せてくるバイクの波に、僕はしばし立ち尽くしてしまう。目の前を通り過ぎるのは、老若男女、二人乗り、三人乗り、買い物袋をいっぱいぶら下げた人、スマートフォンを片手に運転する人…
鹿港天后宮のような道教寺院を訪れるたびに、僕は少しだけ戸惑う。日本の寺に慣れ親しんだ身にとって、この空間はどこか異質で、けれどそれが不思議と心を惹きつけてやまないのだ。回廊には柱が並び、軒下には金色の飾りが揺れている。どこを見渡しても色彩が濃い。その中で人々は香を焚き、願いを込め、祈りを捧げている…
香港では、空がやけに狭く感じられる。高層ビルがぎっしりと並び立ち、視界のほとんどを覆ってしまうからだ。見上げても、わずかにのぞく青空があるだけで、それさえも四角く切り取られてしまっている。湾仔の露店が並ぶ通りを歩いていると、その感覚はいっそう強くなる。そんな通りの片隅で、ひとりの男性が店先の商品をじ…
ムンバイの街を歩いていると、突然、壁に向かって設えられた即席の鏡台と、ちょっと背の高い椅子が目に入った。青空の下、歩道にぽつんと構えられた床屋だ。ごく自然な様子で椅子に座っている男性と、真剣な眼差しで顔剃りをしている理容師。ふたりの間には、言葉にしない信頼のような空気が流れていた。こうした青空床屋の…
ハノイ旧市街の一角。通り沿いにずらりと並んだカラフルなおもちゃたちが、小さな玩具屋の前を賑やかに彩っていた。キャラクターのぬいぐるみ、ピカピカと光る剣、リアルに作られたミニカー。どれもが棚からこちらに手を伸ばしてくるようだった。その前に立っていたのは、小さな男の子。目を輝かせておもちゃを見つめる姿は…
鹿港の静かな通りの先に、威厳ある屋根の反りが姿を現した。媽祖を祀る鹿港天后宮だった。立派な装飾が施された屋根の下には、赤い幕が垂れ、香炉の煙がゆっくりと天へと立ちのぼっている。天后宮という名が示す通り、ここには海の守護神・媽祖が祀られている。かつて鹿港が港町として栄えていたころ、多くの船乗りたちがこ…
香港・湾仔の路地に小さな肉屋があった。間口は狭く、奥行きも深くない。店先にはローストされた鶏が無造作に吊るされている。冷蔵ケースなどは見当たらず、常温での陳列だ。生々しいが、どこか生活感があって、妙に惹きつけられる。店先では男が無言で作業を続けていた。大きな丸太のようなまな板の上で、手際よく鶏肉をさ…
ムンバイの道路脇にツートンカラーのクラシックなタクシーが停車していた。前席と後部座席のドアがどちらも大きく開け放たれて、歩道にまでせり出していた。その開き具合は、もはや歩行者の進路を遮っているようでもあったが、周囲の誰も気に留めていない様子だった。男の子はよけるでもなく、その隙間をすり抜けるように通…
旧市街の一角、封筒の束が山のように積まれた店先で、ひとりの男が小さなプラスチック椅子に腰を下ろしていた。彼が手にしているのはスマートフォンだが、その背後には、整然と束ねられた無数の茶封筒が静かに存在感を放っていた。日本ではすっかり電子化が進み、郵送という行為が年賀状くらいでしか思い浮かばなくなった今…
鹿港老街を歩いていると、ふと視界の端に色鮮やかな舞台が現れた。まるで絵本から飛び出したかのような極彩色の装飾が目を引く。龍や鳳凰、蓮の花などが勢いよく描かれたその舞台は、人形劇のための移動式ステージだった。「大自然掌中劇團」と書かれた看板が掲げられている。台湾の伝統芸能である布袋戲、つまり掌中劇の舞…
湾仔を歩いていたとき、ふと立ち止まった。目の前に現れたのは、赤々とした肉塊が無造作に吊るされた精肉店だった。まるで屋台のようなお店は小さいものの、店先にずらりと並んだ肉はまるでこの街の生命力そのものを象徴しているかのようだった。蛍光灯の赤い光が肉の色をいっそう濃く染め上げている。骨付きのまま吊るされ…
ムンバイの午後の陽射しは強く、空気の粒が光の中でじわじわと揺れているように見えた。そんな中、通りかかったバス停のベンチに座っていたひとりの女の子が、こちらを見てふっと微笑んだ。前髪がまっすぐに切り揃えられていて、その輪郭のくっきりとしたラインが、どこか昔の映画に出てくる少女のような印象を与える。左手…
ハノイの街を歩いていると、ふと立ち止まりたくなるような食堂に出くわす。銀色に鈍く光るステンレスのテーブル。プラスチックの椅子が無造作に並び、中央には箸が束になって立てられている。どのテーブルにも共通して置かれているのは、唐辛子入りの調味料の瓶、紙ナプキン、そして赤いプラスチック製の箸入れ。ベトナムで…
赤い提灯がゆらめき、線香の煙が天井へと昇ってゆく。鹿港天后宮の境内は、平日にもかかわらず参拝客でにぎわっていた。媽祖信仰の中心地として知られるこの廟は、鹿港の歴史そのものといっても過言ではない。鹿港はかつて、清朝時代に港町として隆盛を極めた。大陸からの船がこの地に寄港し、物資とともに文化も行き交った…
火龍果とは、ドラゴンフルーツのこと。果肉の白や赤に、黒いつぶつぶの種が無数にちりばめられた、どこか異世界の植物のような果物である。その派手な見た目に似合わず、味は意外と淡白だが、香港の市場では人気者だ。湾仔の街角に立ち並ぶ果物屋では、そんな火龍果が山のように積み上げられていた。赤紫色の果皮が照明を受…
ムンバイの通りを歩いていると、どこからともなく甘くて爽やかな香りが漂ってきた。香りの先を辿ると、そこには小さなジューススタンドがあった。派手な装飾もなく、看板には英語とマラーティー語が混じって並んでいる。だが、そんな飾り気のなさがかえって、街の空気とよく馴染んでいるように思えた。スタンドには何人もの…
ハノイ旧市街の路地を歩いていると、ひときわ目を引くのが行商人の姿だ。観光地の中心にありながら、そこには不思議と生活の匂いが残っている。行商人の多くは、手押しのワゴンや肩にかけた籠で、静かに街を巡っている。売っているものは華やかさよりも実用性が重視され、地元の人々の台所に直結するような品ばかりだ。この…
理由はわからないけれど野木神社の12座あった舞のうち、五行の舞だけが100年ほど前から行われていなかったところ、1999年に隣接する小山市の神社で行われているものを元に復元されて再び奉納されるようになったのだという。100年前に途絶えていたのだから、写真記録はおろか、動画を記録したものもほとんどないに違いない。そのような中、復活させるのは大変な作業だっただろう。
円形劇場とは古代ローマにおいて剣闘士競技などの見世物が行われた施設のこと。つまり剣闘士同士、あるいは剣闘士と猛獣などとの戦いが繰り広げられたところを指す。WIKIPEDIAによると東京オペラシティのサンクンガーデンはその円形劇場を模しているという。本来は血なまぐさい場所に、表情のない巨人が立っていては尋常ならざる雰囲気を感じてしまっても仕方がない。
東京オペラシティアートギャラリーに「寺田コレクション」を残している寺田小太郎という人物は、メディアに登場するような有名人ではないけれど、500年続く名家の人間で東京オペラシティ辺りの大地主だったという。メディアに登場しなくとも、由緒あるお金持ちって存在しているのだと思わされる話だ。
「町中華」という言葉を聞いて思い浮かべるイメージは分かったような、分からないような曖昧なものだったけれど、藤沢駅近くにある老舗中華料理店「味の古久家」を訪れたら、その曖昧模糊としたイメージが少しだけハッキリしたような気がした。
1929年に竣工した日本橋室町に建つ三井本館は、当時の社長の「関東大震災の二倍のものが来ても壊れないものを作るべし」との命で、当時の一般的な事務所ビルの約10倍のコストを掛けて建設されているという。コリント式のオーダーが乗る列柱が整然と並ぶファサードはまるでロンドンかニューヨークに建っているビルのようだ。
由来を考えると歴史のありそうな静岡市葵区は意外なことにその歴史は浅い。誕生したのは2005年4月1日だから、まだ20年も経過していないのだ。その名前の重さに歴史がある名称だと思っている人は多いだろう。これと同じように新しいくせに古株のような顔をしているものは、世の中に結構多い。
登呂遺跡は弥生時代の水田遺構が日本で初めて確認された遺跡で、弥生時代=水田稲作というイメージが定着する契機ともなった遺跡だ。だから教科書にも載っていて、僕も耳にしたことがあったのだ。8万平方メートルを超える水田跡が発掘された登呂遺跡は、今では公園として整備され、復元された水田と建物群が往時の様子を今に伝えている。でも建物の用途はどうやって判定しているのだろう。
久能山東照宮で拝観料を払って進むと、朱塗りの大きな門が現れる。この楼門には後水尾天皇の宸筆の扁額が掲げられており、由緒あるものだ。鎌倉の英勝寺と同じように久能山東照宮は徳川家と縁が深く、そのため天皇や上皇に扁額を依頼することができたのだろう。
公式サイトによると、久能山東照宮の登山に要する時間はたった20分程度。でも実際に歩くと長く感じる。登山道の作られている斜面は傾斜が急で、道はつづら折りになっていた。少し進むと踵を返して方向転換する。教科書に載せたくなるような見事なつづら折りだった。
天満宮はもともと、怨霊と化した菅原道真の魂を鎮めるための神社であったはずなのに、今ではそのイメージは薄い。現在では学問の神様として広く信仰されていて、受験シーズン前に合格祈願に訪れたことのある人も多いだろう。実際、菅原道真は優れた学者であったという。そのため「怨霊」というよりイメージが薄まるにつれ、「学問の神様」としての信仰が根付いただろう。
経ヶ峯公園には仙台藩祖・伊達政宗の霊廟である瑞鳳殿をはじめ、2代忠宗の感仙殿、3代綱宗の善応殿、9代周宗や11代斉義の墓がある。また、斉義の妻の墓や、5代吉村以降の藩主の夭折した子女の墓もある。経ヶ峯公園一帯は伊達家の重要な墓所なのだ。いくつもある霊廟の中でも、伊達政宗の瑞鳳殿は特別な存在で、他の霊廟とは異なり涅槃門と拝殿が設けられていて、別格の扱いなのだ。
広瀬川を渡ると住宅街が広がり、その先に伊達政宗の墓所である瑞鳳殿がある。瑞鳳殿は仙台市の中心部から少し離れており、1945年の仙台空襲で焼失したが、戦後に再建された。再建された建物は色鮮やかで、黒を基調とした美しい文様が特徴である。400年近くも保存されていたオリジナルだったら、これほど鮮やかではないだろう。
仙台にある「せんだいメディアテーク」は建築家・伊東豊雄の代表作で、フランスのル・モンド紙でも紹介されたほどの知名度を持つ。全面ガラス張りの開放的なデザインが特徴で、6枚の床と13本のチューブという独特の構造を持つ。この建物には仙台市民図書館やイベントスペース、ギャラリー、スタジオがあり、市民に開放的な空間を提供している。特に開放的な図書館で行う読書は心地よいだろう。普段なら読んでも理解できないものも、ここなら理解できるかもしれない。
仙台の輪王寺は戦国大名伊達氏と縁のある寺院だ。明治維新後に一時没落したものの、1910年代に復興され、池の中心に三重塔が映える禅庭園もその際に作られた。でも僕が惹かれたのは山門から本堂へ伸びる参道だった。新緑に覆われていた道を歩くと緑のトンネルの中を進んでいるような気分に浸れ、俗世から聖域へと足を踏み入れる感覚を与えてくれる。
日枝神社がこの地に遷座したのは1659年で、それ以前は松平忠房の邸宅であり、さらに遡ると星ヶ岡城という城郭があった。城郭の名残はほとんど残っていないが、地図を見るとその地形が城郭に適していることがわかる。日枝神社の北側には土塁と思しき遺構も残っているとはいえ、城郭だった名残はほとんど残っておらず、記録も乏しい。星ヶ岡城は謎に包まれた城郭なのだ。
都内にある国宝の建造物は少なく、東村山の正福寺地蔵堂と赤坂迎賓館の2つだけだ。そのひとつである赤坂迎賓館は1909年に建てられ、バッキンガム宮殿やヴェルサイユ宮殿を参考にした西洋風の建物である。日本風の意匠も混じっているが、外観は西洋式で統一されている。広々とした前庭の石畳はヨーロッパの旧市街を思わせ、日本にいることを忘れさせる。訪れても面白いと思う。
手賀ハリストス正教会は、茅葺屋根の古民家風外観ながらも、内部はイコンが掲げられた聖堂だ。1879年に建立され、関東でも有数の歴史を誇る聖堂を訪れれば、その外観と内部のギャップに訪れる人々は驚くに違いない。
東京にある庭園には高低差のあるところが多いのは、そのような地形が庭園造りに好まれたからとされる。高低差があると、眺望も良いし、滝も作りやすいなのだという。国分寺崖線沿いに作られた殿ヶ谷戸公園にもやはり庭園内にかなりの高低差があった。
買ってきた生竹の節を切り取って大勢で流しそうめんを楽しんだこともあるけれど、竹の種類についてよくわからない。自分の竹リテラシーの低さを思い知らされたのだった。
印刷工場は郊外に移転したものの、市谷工場の表玄関だった「時計台」がDNP本社ビルの脇に復元されていて、中には印刷工場の一部が再現されている。そこでは活版印刷の流れを体験できるようになっている。