大正9(1920)年にW・ウィルソンの設計により竣工、施工は数回前に紹介した大阪教会も担当した岡本工務店がほぼ同時期に担当した尖頭アーチ窓のゴシック様式にイギリス式煉瓦積みが特徴の教会となっています。95年の阪神・淡路大震災で被災し塔屋が倒壊するなど甚大な被害を受けましたが世界中の信徒らの浄財により元の姿を取り戻し今日へと至ります。 平成9(1997)年に国の登録有形文化財に登録され、平成21(2009)年...
佐々友房は熊本藩士の家に生まれ肥後勤王党に属した叔父佐々淳次郎に強く影響を受け水戸学に傾倒、また池辺吉十郎の門下となっています。西南戦争時は以前より西郷隆盛と気脈通じていた師匠の池辺が熊本隊を結成し武装蜂起すると友房も各地を転戦し最終的に中隊長となりますが、大口の戦いで重傷を負い官軍病院に担ぎ込まれます。その後、池辺たちが隊長ではなく一兵卒に過ぎないと庇ってくれたことで死罪を免れ投獄に留まります。...
明治10年に熊本商工会議所初代会頭や熊本商業高校のルーツである私塾素心吟社を創設した岡崎唯雄氏が営む岡崎酒類醸造場の酒蔵として建てられました。その後履物問屋を経て昭和29年に貸倉庫業の早川倉庫の所有となりトランクルームなどとして活用されてきましたが、熊本地震での被災を機にクラウドファンディングで母屋の一部がリノベーションされ文化発信の場としても活用されており、熊本市が新たな制定した熊本市歴史的風致形成...
肥後蕎麦の元祖と言われ藩主細川家の御用も務めていたという大石本店。営業していた頃に一度記事にしていますが、9代目だったご主人が体調を崩され2010年にお亡くなりになられたため廃業されましたが、昭和初期に建てられ空襲の被害も免れた京町家風の建物は熊本史歴史的風致形成建造物に指定されプレートも設置されていました。 隣が駐車場となったことで奥行きのある鰻の寝床のようになっていたことがよく分か...
慶長年間に加藤忠広正室崇法院(蒲生秀行の娘、家康の外孫)が江戸より釈誉上人を招き創建した浄土宗のお寺で、加藤家の後熊本に入った細川家の菩提寺のひとつになっています。井上大九郎正忠の墓加藤家二十将の一人にも数えられ、清正最古参の家臣のひとりと伝わります。元々は三木城主別所長治の家臣でしたが三木城落城後浪人となり各地を放浪中その秀吉の居城長浜城下の河原で寝そべっていたところ後に同じく共に清正に仕え角力で...
南北朝の時代に元より玄慶という楽人が来日しましたが時は南北朝の動乱の最中で音楽どころではない状況。玄慶を雇う者などなく失意の玄慶は帰国することを決めるも帰る途中、疲労からここ明石の八木の地にて持ってきていた楽器を埋め弁財天を祀り、またこの地に池を掘ったと言われます。池は玄慶の池と呼ばれ古くは玄慶という地名にもなっていたそうですが、現在周囲には次々住宅が建っている中、確かにこの場所だけは手が付けられ...
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大正9(1920)年にW・ウィルソンの設計により竣工、施工は数回前に紹介した大阪教会も担当した岡本工務店がほぼ同時期に担当した尖頭アーチ窓のゴシック様式にイギリス式煉瓦積みが特徴の教会となっています。95年の阪神・淡路大震災で被災し塔屋が倒壊するなど甚大な被害を受けましたが世界中の信徒らの浄財により元の姿を取り戻し今日へと至ります。 平成9(1997)年に国の登録有形文化財に登録され、平成21(2009)年...
安治川と木津川に挟まれた川口は元々幕府のお舟手関連の施設が建ち並ぶ地域でしたが勝海舟の進言により大坂舟手が廃止となり、その跡地に諸外国との条約締結により大坂も開市(のち開港)となったため外国人居留地が造営されることになります。 江戸時代最晩年の慶応3年には運上所(税関)が置かれ、明治時代初期に対岸の江之子島に初代府庁舎や市庁舎が設置されるなど国際貿易港に発展するかと思いきや、安治川河口か...
金光教玉水教会と同じ通りにある日本基督教団大阪教会は鉄骨とコンクリートと煉瓦を併せて用いて作られた建物で、設計はW・M・ヴォーリズと俗に言うヴォーリズ建築の教会になります。建物後方には塔屋も建ち大阪の街中に煉瓦造りのこの建物は今となってはかなりの異彩を放っている存在感抜群の建物です。国登録有形文化財ヴォーリズ設計の鉄骨・煉瓦・コンクリート混合造の教会堂で、背後に塔屋が建つ。ロマネスク...
江戸堀は近代的なビルから昭和の雑居ビル、そして国の登録有形文化財となっている様々な様式の建物が点在している地区です。和建築の金光教玉水教会もその中のひとつで国登録有形文化財に登録されています。木造平屋建、一部2階建とする裳階付きの大型の和風建物。入母屋造の大屋根平側に2つの千鳥破風をつけ賑やかに飾る。細部の意匠は全体的に伝統的な手法に則り構成される。堂々とした外観は風格がある。設計は池田...
菅澤眼科は明治27(1894)年に堺で開業し3年後に現在地へ移り、国登録有形文化財に登録されている現在の建物は昭和3(1928)年に竣し、戦後すぐに改修が加えられています。 大阪市中心部の土佐堀地区に所在する病院建築。南東隅を四分一円として玄関ポーチを設けた平面で、外壁はタイル貼でアール・デコを基調とし、柱形を密に並べて縦長窓を配する。最上階ではアーチ窓とし、柱型に柱頭飾を施す。昭和初期の...
昭和10年に現オーナーの祖父児玉竹次郎氏によって建てられ、ヴォーリズが設計した建物の多くを手掛けた岡本工務店が設計および施工を行っています。そのため外観はスパニッシュスタイルながら和の意匠も随所に取り入れた和洋折衷の建物になっています。国登録有形文化財間口7.9mの南北に長い敷地に北面道路から退いて建つ。鉄筋コンクリート造、地上3階地下1階建て塔屋付きで、外観はスパニッシュスタイルとする。光庭...
吉祥寺のある高御堂の領主であった尾張藩鷹匠頭吉田家の菩提寺であった真言宗のお寺で、承和元(834)年弘法大師空海によって創建されています。 本堂吉田家は数人が主水正を称したようでネットで調べると家政は家澄と同一人物になっていますが、名古屋市篷佐文庫の資料を読むと家政の嫡男が家澄とあり、戦国武将には珍しくないことですが業績が混同されている可能性もありそうです。吉田家は元々は織田家に仕え家政...
南北朝時代に南朝に味方し足利氏に敗れ越中国から尾張へ移ってきた木舟城主石黒重行が菩提寺としてから創建したお寺で、戦国時代衰微するも重行の末裔である石黒重成によって再興され石黒氏の居城だった如意城跡の一画にお寺はあります。 石黒重成の墓重行から8代後の当主で小牧・長久手の戦いでは家康方に付き道案内をしています。この戦いでは弟重敦は豊臣方の...
熱田神宮前に店を構える昭和10(1935)年創業の和菓子屋で、店名は天明年間頃に熱田神宮内にあったきよめ茶屋と茶店が由来だそう。建物は昭和30年に建てられたもので名古屋市登録地域建造物資産になっています。 屋号の一部にもなっているきよめ餅は熱田神宮の門前には名物の餅菓子がなかったため初代が作り出したというもの。今では季節限定本店限定などもあります。 ★当ブログのまとめサ...
清州藩主となる松平忠吉が母西郷局(宝台院)の菩提を弔うため天正17(1589)年に創建した浄土宗の寺院で、忠吉が清州藩主となり清州に移転、その跡を継いだ義直が名古屋城を築いたことで現在の中門前町へ、そして戦時中に現在地へ移転しています。先の大戦で失われるまで山門などは国宝に指定されるなどしていましたが現在はビルに入居する形で注意して見ていないと素通りしてしまいそうになります。 松...
熱田神宮に隣接する民家や小学校などが建ち並ぶ一画にある曹洞宗のお寺です。 船頭重吉の碑江戸から尾張へ戻る途中乗船していた督乗丸が遠州灘で遭難し17ヶ月間漂流の末カリフォルニア州沖で英国船に救出されシベリアに渡った小栗重吉が、同乗し漂流中に亡くなった仲間追悼のため建立した供養碑です。重吉は3年後にロシア船で択捉・国後・根室を経て松前に到着し江戸...
熱田神宮近くにある安政7(1860)年創業の老舗蒲鉾店で昭和34年に建てられた店舗・工場は名古屋市登録地域建造物資産になっていますが、外観だけパッと見た限りではそれほど古さを感じない建物でした。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければご覧ください!→ぶらり歴史旅一期...
前々から見たかった道徳公園内にあるクジラ池噴水。道徳公園がある場所一帯は江戸後期までは伊勢湾の干潟でそれを地元の豪商が干拓し始め新田となり、昭和初期の土地区画整理に合わせて公園も作られた際にこの地が昔は海だったことを記憶に留めるためこのクジラの噴水も作られたそうです。 国登録有形文化財及び名古屋市認定地域建造物資産に登録されており、私が訪れた数日前に登録有形文化財のプレートが設置され式典も執...
播磨町郷土資料館には大中遺跡のすぐ近くを走り昭和59年に廃線となった別府鉄道のディーゼル機関車と客車が保存されています。別府鉄道は国鉄土山駅と別府港駅を結ぶ土山線と別府港駅から旧国鉄高砂線野口駅とを結ぶ野口線の2路線を有していましたが、気動車が走っていた野口線に対し土山線は貨物主体だったこともあり営業最終日までディーゼル機関車に牽引される客貨混合車が走っていました。 DC302は倉敷市交通局(現在の水...
大中遺跡は弥生時代末から古墳時代始めにかけての集落遺跡で、昭和37(1962)年に古老から当時近くを走っていた別府鉄道が大正時代に開業前の敷設工事の際に大量の蛸壺などの土器が出土したという話を聞いた中学生3人が興味を持ち付近を掘ったところ弥生時代の土器が出土したことから本格的な発掘作業が始まり昭和42年に国の史跡指定を受けています。 ...
弘法大師空海が草庵を結んだことに始まり、一時荒廃するも康和5(1103)年に覚鑁上人が再興し以後播磨国53の末寺を持つ真言宗の中本山として栄えました。 本堂は御影堂として建てられたもので江戸中期に建てられたものとされます。 三界萬霊地蔵尊(播磨町指定文化財)半跏趺坐の珍しい形をした地蔵は寛保3(1743)年に東本庄村庄屋梅谷七右衛門清政が亡き妻の追善供養のために建立したものです。 ★当ブロ...
善福寺は曹洞宗のお寺で播磨町で最初の小学校となる大沢(澤)小学校は初めこのお寺の敷地内で開校しています。 お寺には秘仏として小野篁が隠岐に配流中に身の回りの世話をしてくれていた阿古という女性が歯痛に悩んでいたため、彼女のために彫ったあこなし地蔵が安置されています。明治に入り隠岐にも廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた際に難を逃れるため島外に持ち出され善福寺に安置されたのだとか。 ...
古くはこの地一帯が住吉大社の荘園だったこともあり祭神は底筒男命・中筒男命・上筒男命の住吉三神と神功皇后の息長帯姫命となっています。現在も行われている神社の秋祭りは江戸時代中期に前回魚介類供養塔の記事にした東本庄村庄屋梅谷七右衛門清政が再興に尽力していますが、播磨町の史跡を巡っているとあちらこちらに清政の名前が出てきます。 鳥居を潜り拝殿から本殿を見るとかなり珍しい造...
本荘中公会堂裏手にありかなり細いところを通る必要があるのでかなり分かりにくいですが3mを超える江戸中期の様式のある大きな宝篋印塔です。以前から東本荘村の庄屋で魚問屋も営んでいた梅谷七右衛門清政が取り扱った魚介類供養のために建立したものと推測されていましたが、阪神・淡路大震災で倒壊し内部に納められていた銅銘板が見つかり解読の結果推測されていた通り梅谷七右衛門清政が建立したものと確定しました。 ...
明応5(1496)年創建の曹洞宗のお寺で、後に徳川家家臣城景茂が中興開基となっています。 城景茂の墓織部 和泉守 城氏は一族の玉蟲氏ら共々鎌倉時代から続く越後の名族ですが景茂は上杉謙信と折り合いが悪く父貞茂ら一族と共に出奔、会津にいたところ武田信玄より誘われ仕えたとされます。武田家では足軽大将を務め長篠の戦いでは遠江国深沢城代となり徳川家を牽制する役割を担いますが、...
奈良時代に行基が創建したという伝承があるようですが、現在は臨済宗相国寺派のお寺です。 このお寺には古墳に埋葬されていた石棺を用いた石棺仏があります。石棺仏は奈良県でも存在が確認されていますが全国的に見てもほぼ播磨地方、それも加古川流域と姫路市周辺に集中しているかなり珍しい仏像で播磨地方でも明石などには一例もありません。その珍しい石棺仏の中でもこちらにあるのは不動...
的形城(構居)は全体像がはっきりしない山城で、城主は長尾(三木)重朝だと伝わる山城ではありますが築城年なども全く分かっていません。...
天文7(1538)年尾張上野城主下方貞清開基、義雲祖嚴開山の臨済宗妙心寺派の寺院。元は下方氏の居城上野城の北東にあった薬師如来を小豆坂七本槍としても知られる下方貞清が本尊として創建しました。ただ開基で大檀家であった下方氏は本能寺の変で貞清の息子たちが織田信忠に殉じ討死、それに失望した貞清も隠遁生活を送り寺も衰退しますが上野村の人々に支えられそれを乗り越え今日へと至ります。 ...
不老園より暖簾分けを受け昭和2(1927年)尾頭橋にて創業、当時この地には八幡園遊郭があり土産を買い求める客で賑わったそうです。現在の建物は戦禍で焼失した後、昭和30年に再建されたもので名古屋市登録地域建造物資産を経て現在は名古屋市認定地域建造物資産となっています。昭和2年に佐屋街道沿いの当地にて門前町大須不老園別家として最中などを販売する和菓子屋を創業。昭和30年戦火で失った店舗を新築し、当時の店構えで現在...
マコロン製菓は名古屋など中部圏で生まれ育った人には馴染みがある人多いであろうマコロンの製造元で、事務所棟と木造バラス構造の工場からなっています。名古屋市登録地域建造物資産となっているこちらの建物で特筆すべきは屋根神様が掲げられていること。建物は昭和8年頃に建てられたそうですか立派な屋根神様も当初から設置されていたそうです。 名古屋を中心に岐阜などにも見られる屋根神様ですが近年は守ってこれれた...
美濃街道に面した場所に建つ3代続く手焼き煎餅のお店で、成り行き登録地域建造物資産となっている建物は明治15年に建てられたものを昭和30年頃に現当主の祖父が購入したのだそう。こちらは一見すると長屋のように見えますがよく見ると建物の間には僅かな隙間があり、写真中央の建物がおかきやの建物になります。 撮影しに行ったのが暑さを避けた早い時間帯で、まだ営業時間前だったのが残念です。 ...
ブラジル領事館などがあるビジネス街の一画にある古民家で大正時代以前に建てられたとされますが詳細は不明。現在は近くで営む蕎麦処の離れとして夜営業されています。 隣が駐車場になったため建物の全体像がよく分かりますが、京都の鰻の寝床のように奥行きがかなりあります。名古屋市登録地域建造物資産 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当...
周辺にはマンションやオフィスビルなどが立ち並ぶ名古屋中心部の一角にある100年余りの歴史がある染物屋さんで、建物は戦後すぐの昭和21年に建てられたものだそうで名古屋市登録地域建造物資産に登録されています。 ★当ブログのまとめサイトなどへの無断転載・使用は一切固く禁止しております。にほんブログ村 当ブログを補完するFacebookページを始めました。よろしければ...