chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
簾満月のバスの助手席 https://blog.goo.ne.jp/sudare-m

バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

修ちゃん
フォロー
住所
東区
出身
愛知県
ブログ村参加

2010/04/02

arrow_drop_down
  • 大師駅とゴロゴロ大師 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    住宅地に遮られる度に、複雑な道を何度も曲がりながら迂回して、祇園用水を越える。この近くの用水越えにも橋台の一部が残されているらしかったが、残念ながら見付けることが出来ず、関地区までやって来た。ここからは北東方向に向けた真っ直ぐな道路が延びていて、どうやらこれが廃線跡らしい。二本松の次駅、関駅は開業から2年後に幡多駅と改称された。その駅が大師駅に再改称されるのは、大正4(1915)年の事だ。虚無蔵大師(ゴロゴロ大師)への信仰から、参拝客が急増したための改称である。近年地元の方々により、駅が有ったと思われる跡地近くに、真新しい駅名標が建てられている。この「ゴロゴロ大師堂」は、岡山市の東部に連なる操山山系の烏坂山(とっさかやま)にある。操山は、市民等が気軽にハイキングを楽しめる山として知られていて、その東部に聳える笠...大師駅とゴロゴロ大師(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 橋桁の遺構 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    県道219号線の藤原交差点を横切ると、左側は病院の敷地で、白い大きな建物が建っている。線路跡はどうやらその敷地の中を貫いていたらしい。その病院の玄関前には用水路の中に石組みの構造物の跡らしきものが、建物の基礎に埋まりながらも僅かに見える。これは祇園用水を渡る橋を支えた橋台の跡らしい。顔をのぞかせてはいるが、うっかりしていれば見過ごしてしまいそうなほど小さな遺構だ。この橋は、桁橋(ガーター)と言って、橋の中では最も単純簡単で、一般的なものと言う。川の両側に橋脚を造り、車輌の重量を支えられる鉄板を渡す、或は強度をより増すためには鉄板を箱形に組んでそれを渡す構造だ。前者をプレート・ガーダー橋、後者をボックス・ガーダー橋と言う。川幅の狭い橋ならこれで充分らしく、開業に際し潤沢な資金が有った訳でも無く、多くは単純構造のこ...橋桁の遺構(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 旧藤原駅 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    百間川の堤防を200m程遡り右折して、原尾島橋を渡り迂回する。左岸に渡り、先程の線路が途切れた辺りまで堤防を戻ってみるが、その先の線路跡は住宅地に取り込まれ判然とはしない。地図で確認すると宅地の中に、建物の建っていない細長い形状の空き地が、この先の藤原交差点に向けて延びているのが解る。恐らくこれが廃線跡であろうが、住宅地の中には入り込むことは出来ない。やむなく橋からそのまま延びる、余り広くはない市道に迂回する。この道は旧国道の延長線上に有り、近くの国道250号線の混雑を避ける車が流れて来るので、普段から車がやたら多い。充分に広さが無い道だけに、相も変わらず行き違いに苦労するほど込み合っている。そんな歩道も無い道では、屡々歩を止め、車をやり過ごさねば成らず、危ないことこの上ない。しばらく行くと右手にタクシー会社の...旧藤原駅(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 百間川の遺跡 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    今日、百間川の河川敷内では見かけ無いが、昔から一帯には田畑が広がっていて、その歴史は弥生時代まで遡り、当時から当地では稲作が行われていたらしい。流域一帯は、埋蔵文化財包蔵地に認定されていて、百間川遺跡と総称される遺跡群では、過去には大規模な発掘調査も行われ、水田跡からは稲株跡も見つかっている。その昔、岡山の城が築城されるにあたり、近くを流れる旭川を、城を巻くように蛇行させた。その為それ以後は、城下で度度洪水の被害を受けるようになった。江戸時代に入りその治水対策として、熊沢蕃山の「川除の法」を基に、藩主の池田光政の命により、津田永忠が放水路を築造する事になった。それが、旭川が増水した時に放流する為の川の掘削である。その川幅が凡百間有った事から、川は「百間川」と名付けられた。旭川に大荒手(越流堤)を設け、増水時はこ...百間川の遺跡(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 百間川 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    原尾島競馬場が三播に移転した翌年、駅は一旦廃止された。暫くすると、この跡地には、県営住宅が建てられる事に成り、昭和31(1956)年には、原尾島駅が復活している。その県営住宅は近頃近代的なビルに建て替えられ、昔と変わらない場所に立っている。原尾島駅が有ったと思われる辺りから、更に東に進むと百間川の堤防に行き当たり、廃線跡と思われる道路もそこで途切れている。堤防に登り、河原を見渡しても、そこに鉄橋を架けた痕跡を認めることは出来ない。実は鉄道はここに架橋するのではなく、堤防の切り通し・陸閘(りつこう)で、そこから河川敷を横切って渡っていたのだ。元々百間川は、非常時の放水路で、通常は川の水量は殆ど無く、堤防も低く、多くの道路も同様であった。当時はそんな河川敷には、畑なども多かったという。従って雨が降り水量が増えれば、...百間川(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 原尾島競馬場 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    県道402号を越えると、線路跡は、現在市道に転用されているらしく、痕跡をどこにも見いだすことは出来ない。緩く曲がる道筋が、僅かに線路のカーブを思わす程度だ。付近には原尾島駅が有ったらしいが、その跡地は住宅地になっている。そこには当時の駅の遺構らしい石積みが、民家塀の基礎に転用されて少しだけ残されている。かつてこの右手付近には、原尾島競馬場が有った。岡山県下では、最初の競馬場が西大寺の吉井川右岸、現在向州公園の有る辺りにつくられた。元々県畜産共進会の余興として競馬が不定期で開催されていたもので、コースも短かったために廃止され、移転が決まった。その移転先がここで、昭和8(1933)年原尾島競馬場として開場した。『原尾島駅ではあるが、地元の人はこの駅を競馬場前と言っていた。だが駅舎は無かった。当時競馬開催日には、大変...原尾島競馬場(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 原尾島の世界初 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    廃線跡と交差する原尾島3丁目の交差点から、県道402号線を西方に400m程行くと、国道250号線原尾島の変則的な交差点に出る。実は、この交差点は、「日本初・世界初」のある物が実用化された記念すべき場所でもある。それは、今では町中の道路や駅のホーム、建物の床面等で当たり前のように目にするものだ。時は1960年台の半ば頃、岡山市のある実業家がある日とある交差点で、白い杖を持った目の不自由な人が道路を横断しようとする姿に遭遇した。通りには車が激しく行き交い、中々渡れない様子を見て以来、視覚障害者が安全に、単独歩行が可能な世の中の実現が何とか出来ないものか、と考えるようになったのだそうだ。それから2年の歳月と多額の私財を投入し、苦心の末考案したものが、日本でも世界でも初めてこの交差点に敷設された。しかし、当初は理解が乏...原尾島の世界初(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 県道・原尾島-番町線 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    駅跡を出て、店舗や住宅、事務所等が混在する、猥雑な町並を抜ける。線路跡の道は国富地区から原尾島地区に到り、県道402号「原尾島・番町線」を横断する。この道は、国道2号線(現250号線)の原尾島交差点と、国道53号線の番町交差点の間、2.3㎞を結ぶ全線片側2車線の都市計画道路である。県道を辿ると中区役所が有り、大型パチンコ店や飲食店、ショッピングモール、自動車販売店、銀行の支店、警察署などが立ち並ぶ広々として賑やかな町並を目にすることが出来る。そんな通りを一歩中に入ると、表の喧噪とは別世界で、戸建ての住宅に混じり、比較的大規模なマンションや共同住宅等が犇めき、市中心部に至近のベッドタウン的な様相を見せている。この県道は、戦後の市街地復興策の一環で、高度経済成長期に爆発的に増え続ける自動車に対応する為の道造りと位置...県道・原尾島-番町線(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 森下駅 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    およそ800m南下し、国道250号線に接する県道を横切ると旧山陽道に行き当たる。ここで線路跡は大きくU字カーブし旧道上を北上する。暫く行くと右手にバスの車庫が見えてくるが、ここが「森下」駅の跡地である。ここは先行開業した長岡から、更に延伸した当時の終着駅だ。当初の計画では、このまま旧山陽道に沿って南下し、市内の門田屋敷に向かい市内電車や、翌年開通が予定されていた三蟠軽便鉄道(桜橋~三蟠)などとの接続を目指していた。用地の買収や資金繰りなどの問題も多く、現行ルートの後楽園終点に落ち着いたようだ。この不自然な大きなU字カーブが、その延伸計画の挫折を物語っている。ところでこの旧山陽道だが、岡山を開府した宇喜多直家時代より以前には、今の中心市街地を大きく外れた北の方を通り抜けていた。直家はそれを南下させ、城の近くを通す...森下駅(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 廃線跡を歩く (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    廃止になった西大寺鉄道の廃線跡を、歩いて辿ってみる。ここ「夢二郷土美術館・本館」と「カフェ」が建ち並ぶ前の道は、何か曰く有りそうに僅かに緩い曲線を描いている。実はこれが昭和37(1962)年廃止となった鉄道の「後楽園」駅であったことを窺い知る唯一の手掛かりである。道に沿って奥に進むと駅跡は来客用の駐車場に成っている。更にその先を見れば民家や事務所の建物が行く手を塞いでいる。いきなりの迂回である。この辺り市中心部の廃線跡は殆どが民有地として転売されているらしく、線路の痕跡は殆ど残されてはいない。それどころか線路跡を特定するのさえ難しいと聞いていたが、全くその通りだ。大方の見当を付け、先ほどの駐車場の裏側と思える辺りにやって来た。ここには数少ない痕跡が僅かに残されていると言うから捜してみる。やっと見つけたものは民家...廃線跡を歩く(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 後楽園駅 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    観音と長岡駅間で営業を始めた「西大寺軌道」が、「西大寺鉄道」と社名を変えたその翌年、路線は森下駅から延伸され、後楽園の正門前に10番目の駅が出来た。開業からは4年後の大正4(1915)年の事だ。これにより11.4㎞の非電化全線単線、軌道幅3フィートの軽便鉄道が全通した。後楽園駅が開業する少し前の明治45(1912)年に、岡山市内では岡山電気軌道の内山下線が岡山駅前から内山下分岐(現・城下辺り)までの間で開通していた。西大寺鉄道の当時の駅は、旭川に架かる鶴見橋を渡った直ぐの河畔に有った。当初はここから更に延伸し、岡山市内を走るこれらの路面電車との接続も目指していたようだ。市内への乗り入れも目論んだが、それには旭川に架橋が必要である。その頃の鶴見橋は粗末な仮橋のような木橋で、鉄道を通すだけの強度は持ち合わせてはなく...後楽園駅(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 夢二郷土美術館 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    日本三名園の一つ「岡山後楽園」の北側、旭川の支流・東派川に架かる蓬莱橋を渡ると正面に、玄関前に柳の木が植えられた、何やらメルヘンチックな建物が見えてくる。三角屋根の上には風見鶏が立ち、赤い煉瓦造りと白のなまこ壁で装われた和洋折衷の建物で、入り口には蒲鉾型のドームが被せられ、なんとも言えない魅力的な風情を醸し出している。ここは岡山県出身の画家・竹久夢二の生誕百年を記念して開館した、「夢二郷土美術館本館」である。館内には、夢二の描いた絵や版画、スケッチ、掛け軸や屏風などを始めデザインした本の表紙などが展示されている。すぐ隣には、展示室やカフェ、ミュージアムショップを併設したおしゃれな外観の「artcafe夢二」も建っている。夢二は明治17(1884)年に、邑久郡本荘村(現瀬戸内市)で生まれ、本名を茂次郎と言い当地で...夢二郷土美術館(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 西大寺鉄道の廃止 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    山陽鉄道(現山陽本線)と接続する、長岡と西大寺間を先行開通させたのは、言うまでも無く観音院を参拝する観光客の輸送目的である。この間には競合するバス路線もなく、鉄道は旅客の輸送量も多く経営は安定していた。特に毎年二月に開催される「はだか祭」は書き入れ時で、所有車両を総動員し夜通しピストン輸送でお客を捌いたことで、年間収入の大半をこの運賃で稼ぎ出したと言う。古い写真(岡山今昔写真集2012年10月樹林社)を見ると、小さな蒸気機関車に何両もの客車を連結し走る姿が残されている。デッキにまで人が溢れ、車室に入り切れなかった一部の乗客の姿が屋根の上にまで見える。当時の路線には、トンネルが無かったのでこのような事も出来たらしい。当初には、金岡~沖田~花畑に到る当時の上道郡一円を循環する路線計画も有ったようだが、これは後に免許...西大寺鉄道の廃止(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、修ちゃんさんをフォローしませんか?

ハンドル名
修ちゃんさん
ブログタイトル
簾満月のバスの助手席
フォロー
簾満月のバスの助手席

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用