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  • 震災復興住宅「清澄長屋」

    もう数週間前のことだが、通称「清澄長屋」を見てきた。旧東京市営店舗向住宅、いわゆる「清澄長屋」は清澄通りを門前仲町方面に向かって一列に建ち並んでいる。昭和が残るレトロな一画。関東大震災の復興事業の一つとして昭和3年に東京市が建てた店舗住宅と資料に書いてある。深川界隈の有名な近代建築。今年築85年、私はこの長屋の存在を知った。とても嬉しい。清澄長屋は2階建で1階が店舗、2階が住居となっている。年月と共に住民らがそれぞれ屋上的小部屋を増築していて、全体に低層3階建てに見えるが、軒高はそれなりに統一されている。また改装などで概観のデザインも手を入れているようで、店舗の意匠が少しづつ異なっているのが面白い。自然についた時代色が時代を物語り『おしゃれバラック店舗長屋』とでも呼ぼうか。建物は清澄庭園の塀にくっ付き庭園内の鬱...震災復興住宅「清澄長屋」

  • かつて下田菊太郎という建築家がいた

    林青梧著「文明開化の光と闇建築科下田菊太郎伝」を読んでいる近代~現代、辰野金吾とその人脈らの建築作品を「光」と言うのなら藤森照信氏が別の本で紹介しているように自らを黒羊と呼んだという異端の建築家下田菊太郎は確かに闇なのか下田菊太郎慶応2年秋田県角館に生まれ新しき時代を迎え青雲の志下田菊太郎東京へ工部大学校で建築を学ぶが辰野金吾教授に疎まれ嫌われ故意かうっかりか辰野教授下田だけに卒業製作の指示をせず視察のためヨーロッパへと旅立ってしまうここまで排除され、下田は退学を決意単身アメリカへ渡りサンフランシスコの建築事務所でドラフトマンとして働きRC構造建築を学ぶライトの秘書だったローズ・キャンベルと結婚ライトとの関係にもひびが米西戦争を機に下田はローズを伴い日本に帰国辰野博士のと確執はさらに大きく深く赤坂離宮東京駅舎国...かつて下田菊太郎という建築家がいた

  • 城下町川越を巡る~五月、夏日、高校生の歌声は青葉ゆらす風に乗り~

    川越駅11時半元気に出発蔵造りの街の店舗がほとんど5時にのれんを仕舞うことに驚きつつゴールコース蓮馨寺~熊野神社・銭洗弁天~成田山川越別院~喜多院~日枝神社~浮島稲荷社~川越城富士見櫓跡~三芳野神社~川越城本丸御殿~札の辻~菓子屋横丁~時の鐘~蔵造りの街並み喜多院はさすがに大きく境内は広い開運団子とか厄除け団子を売っていた食べれば良かったと思っている浮島稲荷社と三芳野神社はおきつね様が護っていたが誰でも近寄ったら容赦はしない!とばかりに口を大きく開き、鋭く睨み付け威嚇している♪こわいながらも通おりゃんせ~通おりゃんせ~♪富士見櫓跡までは曲がり曲がり細い道を行く川越城には天守閣はなく三ヶ所に櫓があったそうで、富士見櫓跡と言われなければ見落としてしまいそうだそれでも、大きく根を張った樹木やこんもりと盛り上がった山の...城下町川越を巡る~五月、夏日、高校生の歌声は青葉ゆらす風に乗り~

  • 新歌舞伎座の瓦屋根の復活を希望

    一滴二滴雨粒が瓦屋根の上に黒い染みを付けていく大胆な構図で雨と瓦の美しい絵を描いたのは福田平八郎の『雨』新歌舞伎座デザイン発表時正面瓦屋根部分に屋上庭園を造ると知ったときなぜ瓦を主役にしないのだろうかなぜそんなことするのだろうか?と感じた工事のベールがはがされて建物全容が現れたとき正面上方にデッキブラシのような草が見えた先日歌舞伎座の五階に上がり日本庭園を歩いて見たが数分ほどで一周してしまう草木には樹木名がつき公園でもあるまいし庭園にする意味がわからない庭園を造らなければ日本の屋根と瓦の重なりの妙を眺めることが出来るのに日本に瓦屋根がどんどん減っている最中歌舞伎座よおまえもかこんなに残念がっているのは私だけかしら?これって本当に隈研吾氏の設計?でもちゃっちい感じがするのはやはり氏のデザインか…新歌舞伎座の瓦屋根の復活を希望

  • 方向感覚なき者、ましてや地図も持たないと

    芝公園駅から赤羽橋を通過しなつかしの町麻布十番へ十番大通りからそれて横道、坂道をこまごま歩いているうちいつも通り方向感覚を失ったはて?ここは?立ち止まり考えもせず細い横道があれば入り込み行き止まる坂が見えれば上ってまた下る愚か者よ暗闇坂から始まり元麻布、大黒坂、薬園坂蔦の絡まる安藤記念教会静かな寺どこからか聞こえる子供の声大使館、領事館の内からだいったい我はいまどこ?鳥居坂に行きたいのに!おおっ!これは!四の橋に出てしまった一応驚いてみるでも、もう安心どこにいるのかわかったから四の橋、古川、三の橋、二の橋、一の橋漸く再び十番に到着さて鳥居坂Iハウスで飲んだ一杯のビールが美味しかった迷い道に魅了され続けた祝祭日であった方向感覚なき者、ましてや地図も持たないと

  • 東葛西ワイン会 問題児の輝き

    日曜昼下り東葛西ワイン会メンバーつぎつぎ到着亭主新購入のワイン温度計を披露し、グラスにはさみ『ワイン的には適温です』などご満悦この日登場の白ワインはいままでにないような不思議色みなさんしっかり!これが本日の問題児のワインですと亭主嬉しげにグラスに注いで回ったロマネ・サンヴィヴァン・ルロワ、1995コローレ・ビービーグラーツ、2003東葛西ワイン会問題児の輝き

  • 勘三郎、團十郎の死に考える

    歌舞伎ファンにとって勘三郎、團十郎の死は驚き以上に悲しい。これは新歌舞伎座建設に絡んだ人身御供にちがいない。突拍子もない独り善がりな考えに辿り着いた。かの有名なトロイ戦争、ギリシアの総大将アガメムノンがタウリスの港で我が娘イピゲネイアを神に捧げて、ようやくトロイへ船出した。10年後、ギリシアはトロイを滅亡させ、武将らはそれぞれ帰郷するが…枝から枝へ物語りが繋がれていく。気の遠くなるような遠い過去の神話、伝承、悲劇。ぐぐっと胸えぐられるような迫力。松竹は吉田五十八の歌舞伎座を老朽化と言って簡単に壊した…。歌舞伎座取壊しの際、歌舞伎役者と建物を護り続けていた地霊・歌舞伎の神は怒ったのかも知れない。祈りも足りなかったのかも知れない。怒りの神は何人もの役者の命を犠牲に要求したのか。歌舞伎界の船出は、このような重たい犠牲...勘三郎、團十郎の死に考える

  • 大根入り納豆

    叔母とついつい思い出話に花が咲いた。むかし祖母のつくる定番おかずに納豆の中に大根を入れたものがあった。そういえば母も同じものを食卓に出していた。と、昔の食卓風景を一気に思い出した。大根を千切りにする。お塩を振って水分をしっかりとしぼる。それを納豆と混ぜて食べる。いたって素朴。納豆のネバネバが少しなくなり食べやすい。ただ大根のしぼりがゆるいと水っぽくて、ちょっと美味しさが損なわれる。祖母も母もいなくなり、こんな納豆の食べ方も忘れていた。冷蔵庫の奥に置き去り大根があったので、早速納豆に混ぜて食べた。ご飯を掻きこむような食べ方になるけれど、思い出入りで美味しい。大根入り納豆、受け継がれて、復活。大根入り納豆

  • 記憶よ語れ!「昭和のくらし博物館」見学

    築62年になる小泉家住宅は登録文化財「昭和のくらし博物館」と名を変え、建築当初からの姿をそのまま留めている。東急池上線久が原駅から徒歩8分の場所に建つ小泉家は鉤の手に曲がった細い私道の行き止まりにある。玄関、台所、階段、部屋など、すべてが小さく狭くて、いとおしくもあるが、当時の日本人サイズだったのだろう。同じように私もあまり不自由も感ぜず暮らしていた。特に子供時代など二階への狭くて急な階段でも、すごい勢いで上がり下がりしたし、階段の途中に座り本を読んだり、遊び場にしていたものだ。貧しくとも家族あり、茶の間あり、縁側あり、家庭菜園する庭あり、日当り良好であれば…。過ぎし日々、昭和の日々、庶民の暮らし、みんな懸命。深く感じるものが去来した。ノスタルジーかも知れないが…いや、案外そうでないかも知れない。小泉家見学は小...記憶よ語れ!「昭和のくらし博物館」見学

  • 洋館と棕櫚の木

    大正末から昭和初期頃に建てられた洋館の玄関周りには必ずといってもいいほどシュロの木があった。近代建築を専門にされている方から伺った。和風の家に門松があるように、当時モダンな家にはシュロを三本。それが格式なのか流行だったのかどうか。私はわからないが、興味のあるはなしだった。それ以来町歩きをすると、シュロを目で探している。塀越しの庭の端にヒョロヒョロと伸びている一本か二本のシュロを見つけることが出来ると、『あっつシュロ見っけ!』と心の中で小躍り。家を観察してみる。きっとこのお宅は建て直す以前は洋館であったに違いないと、想像を楽しんでいる。富里詩人に、話をしたら、こんな返事が返ってきた。『建築廃材や残土が捨てられた藪には、かなりの確立でシュロが生き残っている。まわりの埴生とはまったく異なった存在なのだ。昭和初期の家屋...洋館と棕櫚の木

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