10/2gooブログが終了しますのでアメーバブログに移転予定です引っ越しするのに自分では出来かねまして専門の方に頼んでおりますのでそれまで少しお休みさせて下さい5月は薫風自南来気持ちよい風に吹かれて美味しいものを食べたい麗しいお道具を拝見したいと願ってる毎日です写真は綱島のフクモトの御料理薫風自南来
いづくにか我が宿りせむ高島の勝野の原にこの日暮れなば和歌・歌人25高市黒人タケチノクロヒト『万葉集・巻一・58』今宵、私はどこに宿ることであろうか。高島の勝野の原でこの日が暮れてしまったならば。高島の勝野の原とは琵琶湖西岸の北部。高市黒人タケチノクロヒト生没年未詳持統、文武朝(686~707)に天皇の行幸に従駕し歌をよんでいる。柿本人麻呂とほぼ同時代。万葉集には短歌のみ18首みえる。歴史書に登場することなく、地方の下級官吏であったと思われる。旅の詩人とも称されている。いずれも旅の不安と孤愁が自然の景と融合してすぐれた叙景歌をうみだしている。それは単に旅の不安や孤愁にとどまらず、すでに人生の孤愁を感じさせる表現の傾域を充分に見せているといえるのですあろう。(和歌の解釈と鑑賞事典ヨリ)暑中見舞いの葉書がくるとお茶会...いづくにか我が宿りせむ
今日は木曜稽古時間割毎にお弟子様が見える朝のうちに森金さんが掃除灰型そして花を入れるこの時期に花がない水引花茗荷高砂芙蓉あとは矢筈薄ヤハズススキ糸薄イトススキしかないそんなところに森金さんが昼顔を取ってきたヒルガオは、ヒルガオ科のつる性植物。夏にアサガオに似た桃色の花を咲かせ、昼になっても花がしぼまないことからヒルガオこの名がある。薬用植物であり、民間では利尿薬として利用した。英語では、バインドウィード「巻き付く雑草」の意中国名(漢名)では、日本天剣ニホンテンケンといい、中国で旋花センカともよばれている。(旋花センカは生薬)花言葉は、「絆」「優しい愛情」「情事」「友達のよしみ」である。(ウイキペディアヨリ)ヒルガオはハマヒルガオコヒルガオセイヨウヒルガオもある森金さんにこれはチョウセンヒルガオだと嘘を教え...昼顔
今日は水曜稽古天気はスッキリしないが朝九時からお弟子様の登場茶室を掃除し灰型をつくり花を入れお稽古する風炉はふたつ出してあるので三蜜にならないように同じ時間には二名それと時間待ちしている人を入れて三名まで各自自分の点てたお茶を自分でのむお客様をもてなすこと今は出来ないが出来る事をしよう写真は清風竹林に満る京都の竹林は綺麗だろう行ってみたい京都自粛中は流石に空いていたようだが最近は観光客も戻ってどこも混んでいるようだ今年は出かけないことにした来年行けるだろうか清風満竹林
ももづたふ磐余イハレの池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ和歌・歌人・24大津皇子オオツノミコ『万葉集・巻三・416』大津皇子オオツノミコ死を被タマワりし時に磐余イハレの池の堤にして涙を流して作る一首。磐余イハレの地に鳴いている鴨を今日を限りに見て、自分は死んでいってしまうのだろうか。大津皇子オオツノミコは663~68624歳。天武天皇の第三皇子母は天智天皇の皇女の大田皇女オオタノヒメミコ。大伯皇女オオクノヒメミコの同母弟。母が若くして死に、その妹の鸕野讚良ウノノサラ(後の持統天皇)が天武天皇の皇后となり、その子草壁皇子が皇太子となった。天武天皇の崩御後まもない朱鳥元年十月皇太子草壁皇子への謀反の罪に問われ鸕野皇后より死を賜った。文武に秀で、人望も高かったという。悲運の皇子たちと言われた山背大兄皇子古人大兄皇子...ももづたふ
今日から始まった村雨庵お習字教室禹聖ウセイ会先生は村雨庵お弟子様の森金先生今日の参加者はワユコさんと私め計3名森金先生は会社のお習字教室で長年研鑽に勤めこの3月に辞められても、続き指導にもあたっているそこで書道の会に入っていたのだが退社後は独立社中に声をかけると七名が参加今月からお習字の稽古をすることになった今日は漢字半紙楷書漢字半紙行書かな半紙あと細字というのも稽古した半紙に漢字を書くのは久しぶりだが思った通りすぐ飽きる墨を磨るがなかなか濃くならずいざ書いてみるとあっというまに墨が無くなる墨を磨るのも面倒ゆえ墨汁に代えて何枚か書いたが思ったようにはかけない飽きたので次は仮名硯を小さいのに代えて筆も和筆、和墨それなのに二枚書いたらもう駄目休憩だ休憩甘いの食べてお茶を呑むちょこっと書いては休憩この繰り返しを何度か...大聖武・大和切
我が背子セコを大和に遣ヤると小夜サヨふけて暁露に我が立ち濡れし和歌・歌人23大伯皇女オオクノヒメミコ『万葉集・巻二・105』私の愛しい弟を大和へやるとて、夜更けて暁どきの露に、私はたたずみ濡れたのです。大伯皇女オオクノヒメミコ661~70141歳大来皇女オオクノヒメミコとも天武天皇の皇女。母は天智天皇の皇女の大田皇女。大津皇子の同母姉。673斎宮となる万葉第二期の代表的歌人写真はビスケットが入ってるオルゴール付F&Mミュージカルビスケット小夜サヨふけて
銀シロガネも金クガネも玉タマも何せむに優マサれる宝子にしかめやも和歌・歌人22山上憶良ヤマノウエオクラ『万葉集・巻五・803』山上憶良ヤマノウエオクラ斉明天皇六年660~天平五年73374歳で没701遣唐少録として渡唐山上憶良は晩年に筑前の国司となり中心となす歌はこの頃のもの大伴旅人オオトモノタビトも同じく太宰府に着任大伴旅人の邸宅で催された宴会の席上、詠まれた万葉集全20巻のうち巻5の梅の花を歌った32首の序文から元号(令和)がとられたことは有名だ写真は先日ネットで買ったもの額田王ヌカタノオオキミの漫画今日簡単に読んだが額田王のことうーんそうですかって感じでしっくりしないシロガネもクガネもタマも
石走るイワバシル垂水タルミの上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも和歌・歌人21志貴皇子シキノミコ『万葉集・巻八・1418』志貴皇子シキノミコ716没天智天皇の第七皇子。妻は多紀皇女タキノヒメミコ(天武天皇の皇女)没後追尊されて春日宮御宇天皇・田原天皇とも呼ばれた。万葉集には短歌のみ6首を残す。今日は祭日スポーツの日だがスポーツはしない苦手だどこにも出かけないずっとゴロゴロしてた写真の桃が届いた岡山産の桃だお礼のメールを送ると折り返しお電話頂きお互い大きな声でお喋りした声を聞くのが一番安心した石走る垂水の上の
天の川去年コゾの渡りで移ろへば川瀬を踏むに夜ぞとふけにける和歌・歌人20柿本人麻呂カキノモトノヒタマロ『万葉集・巻十・2018』天の川の渡り場が去年とは変わってしまったので、新しい渡り場を探すために川瀬を往き来していて、すっかり夜が更けてしまったことだ。柿本人麻呂カキノモトノヒタマロ生没年未詳経歴も詳しいことは分からないが、身分はさほど高くなく、持統天皇、文武天皇のころ、宮廷に出仕して、なかば職業的に儀礼歌の制作に当たった宮廷歌人であり、平城京遷都710前後に死んだものと考えられている。万葉集を代表する歌人柿本人麻呂カキノモトノヒタマロと言うと歌聖・柿本人麻呂平安末から歌会や歌合わせに人丸の画像を掛け和歌を献じ供養する人丸影供ヒトマルエイグを思い出すその生涯については謎。『水底の歌-柿本人麻呂論』『猿丸幻視...天の川去年の渡りで移ろへば
今日は茶の稽古村雨庵水曜稽古だ蜜を避けて時間割で予約点前すると茶もお菓子も自分点前のしたくや片づけは全部自分でするだいぶ慣れて来たようだ今日の主菓子は朝顔と麩饅頭干菓子はナデシコと青楓掛け物は歌仙絵色紙に歌と紀貫之キノツラユキの画萬延元年(1860)の箱書がある貫之の和歌は大はらやをしほの山の小松ばらはやこだかかれ千代の影見む紺色の染め紙金の霞にお目出度い松喰鶴マツクイヅルが飛び交っている松喰鶴マツクイヅルとは松の折枝を鶴がくわえた文様。奈良時代の花喰鳥文の様式が変化して,平安時代後期の器物に和様化文様として現れた。「まつばみづる」とも言う紀貫之キノツラユキ868?〜945平安前期の歌人。三十六歌仙の一人『古今和歌集』撰者の一人官位は低く,死んだときも従五位上・木工権頭(もくのごんのかみ)にすぎなかったが,...歌仙画・紀貫之
今日は紫兎先生のお茶のお稽古生徒は二名想望庵様とわたくしめあと今日はお休みのナガタン姫人数が少ないとゆっくりお喋りする時間がとれる掛け物は時代の歌仙画の色紙左名前和歌その下に女房歌仙の図左赤染衛門つねよりも又ぬれそひしたもとかな昔をかけておつる涙に女房は御垂髪オスベラカシ十二単ジュウニヒトエの姿でお顔は袖に埋められてかかれていない黒髪は乱れ曲線を描きぐるりと流れている女房三十六歌仙の歌合によると右は二條院讃岐ニジョウインサヌキ写真は通りすがりに撮った葡萄の房可愛らしい粒が並んでいるぬれそひしたもとかな
春過ぎて夏来キタるらし白たへの衣干したり天アメの香具山持統天皇和歌・歌人19『万葉集・巻一・28』天の香具山は畝傍山、耳成山と並ぶ大和三山の一つ。白妙シロタヘは楮コウゾの繊維で織った粗い白い布。初夏、村の娘たちが早乙女の資格を得るために、山に入って物忌みのお隠コモりをする。その娘達の物忌みの斎服。その白、山の緑、空の青。そしておそらくは娘達の頬は紅。初夏の透明で鮮やかな色の対比が目に浮かんでくる。百人一首歌番号2番、新古今和歌集巻三・夏歌は(衣干したり)が(衣干すてふ)に変わる間接的な表現に代えられたのは婉曲エンキョクな表現を好むという平安時代以降のうたの傾向らしい。持統天皇ジトウテンノウ生没年未詳702没天智天皇テンチテンノウの皇女諱イミナは鸕野讚良皇女ウノノサララヒメミコ。天武天皇の皇后。草壁皇子クサカ...白たへの衣干したり
熟田津ニキタツに舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出イでな和歌・歌人18額田王ヌカタノオキミ『万葉集・巻一・8』熟田津ニキタツにおいて船乗りをしようと月の出を待っていると、月も出たし潮もほどよく満ちてきた。今こそ漕ぎ出そうよ。661斉明天皇・中大兄皇子ナカノオオエノオウジが、唐・新羅連合軍と戦う百済を援護するために北九州へ向け出航し、その途中伊予国の熟田津ニキタツに停泊した時の歌であると考えられる。高らかに出航の時の到来を告げたもの。額田王ヌカタノオオキミ生没年不明初期万葉の代表的歌人万葉集の代表的女流歌人近江地方の豪族であったと思われる鏡王カガミノオオの娘で采女ウネメとして宮廷に出仕シュッシし、初め大海人皇子オオアマノミコ(のちの天武天皇)の妃となって、十市皇女トオチノヒメミコを生み、のちに中大兄皇...潮もかなひぬ今は漕ぎ出イでな
家にあれば笥ケに盛る飯を草枕旅にしあれば椎シイの葉に盛る和歌・歌人17有間皇子アリマノミコ『万葉集・巻二・141』家にいるときは当然笥ケに盛って供える飯であります。その飯を、今は旅の途中にあるから、椎の葉に盛って差し上げます。有間皇子アリマノミコは孝徳天皇の子曾我の赤兄の謀略にかかって反乱を企てた為に捕らえられ紀伊国の藤白坂で絞殺された若くして悲運に散った有間皇子この時代のことは正直よくわからないがわからないままに来てしまった気がするこれを機会にもう一度漫画「天上の虹」を読んでみようかな家にあれば笥ケに盛る飯を
秋山の木の下コノシタ隠カクり行く水の我こそ益マさめ思ほすよりは和歌・歌人16鏡王女カガミノオオキミ『万葉集・巻二・92』秋の山の木の茂りの下を隠れてひそかに流れる水。それではないが、私の方こそ思いは深くなっていることでしょう。あなた様が私をお思いくださるよりはね。鏡王女カガミノオオキミは舒明天皇ジョメイテンノウの子又は孫とも威奈イナの鏡公カガミノキミの子だとも。近江の鏡王カガミノオオキミの子だとも言われ。額田王ヌカタノオオキミの姉かとされるが、不明。初め天智天皇テンチテンノウの愛を受け、のち藤原鎌足の妻となる。683没今日はサカチカさんに袋物を習う生徒は森金さんと暮れちゃんと私の3名ソーシャルディスタンス一人ずつ二月堂と座布団とアイロン表布と裏布それとボンド糸針はいらない型紙を作り裏と表の芯の紙をつく...秋山の木の下コノシタ隠カクり行く水の
写真は大和古路と題のある画賛やまとはくにのまほろばたたなずくあをかきやまごもれるやまとしうるわしこの歌の作者は倭建命ヤマトタケルノミコト私のブログ6/29に取り上げたわりとスラスラ言える歌だ実際掛け軸もひらがな故よみやすいアップしたときは作者も完全に覚えていたのに軸を見ると誰だっけこの歌の作者すらりと出てこなかった結局はっきり覚えていなかった横を向いたらもうすっかり忘れてるのだから6月のことは覚えていないわたくしめはその程度の記憶力だでも懲りずに行くしがない絵の建物はどこかずっと不明だったが昨日お弟子様のソノ先生にここ何処か知ってるかと聞くと奈良県の重要伝統的建造物とかの町並みに似てると言うので調べてみたどうやら重要伝統的建造物群保存地区の今西家住宅のようだそれは戦国時代の構造様式を残す建造物でまたは「八棟造り...ごもれるやまとしうるわし
我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後和歌・歌人15天武天皇テンムテンノウ『万葉集・巻二・103』天武天皇第四十代の天皇舒明天皇ジョメイテンノウの子母は皇極天皇。天智天皇テンチテンノウの弟。天智天皇テンチテンノウの崩御671後天智の大友皇子と対立し、翌年壬申の乱が興る。これに勝利を得て、673飛鳥浄御原宮で即位した。わたしの住む浄御原キヨミハラの里に、今大雪が降っている。あなたのいらっしゃる大原の古びてしまった里に降るのは、まだずっと先のことでしょう題詞に天皇、藤原夫人に賜う御歌一首藤原夫人とは藤原鎌足の娘の五百重娘イオエノオトメのこと天武天皇との間に新田部皇子を生んでいる今日は水曜稽古お盆中ゆえ掛物は平安時代末の経切大原の古りにし里に
わたつみの豊旗雲トヨハタクモに入日さし今夜コヨヒの月夜ツクヨさやけかりこそ和歌・歌人14天智天皇テンチテンノウ『万葉集巻一・15』大海原の遥かに浮かぶ豊旗雲トヨハタクモに、今しも入り日がさして見事なことだ。ああ今夜の月はさやかであってほしいものだ。豊旗雲トヨハタクモとは旗がなびいているように空にかかる美しい雲昔の旗は横に長かった天智天皇テンチテンノウは第38代天皇舒明天皇ジョメイテンノウの子。母は皇極天皇。天武天皇の兄。名を葛城皇子カズラキノミコ、中大兄皇子ナカノオオエノミコと称す。孝徳天皇、斉明天皇の皇太子をつとめる。645藤原鎌足フジワラノカマタリとはかって蘇我氏の専横を除く。万葉集に四首。百人一首の冒頭平安王朝の太祖とする敬意のあらわれ百人一首歌番号1『後撰集』秋中・302秋の田の仮庵の庵の苫をあら...豊旗雲トヨハタクモに入日さし
我はもや安見児ヤスミコ得たり皆人ミナヒトの得かてにすといふ安見児ヤスミコ得たり和歌・歌人13藤原鎌足フジワラノカマタリ『万葉集巻二・95』鎌足が采女ウネメの安見児を下賜カシされ妻問い得た時の歌藤原鎌足フジワラノカマタリは614―669中臣御食子ナカトミノミケコの子中大兄皇子ナカノオオエノミコらと協力し蘇我入鹿を殺し大化改新を進めた孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇のもとで内臣ウチツオミを務め律令体制の基礎作りに加わった。内臣ウチツオミとは飛鳥から平安初めに置かれた役職天皇の最高顧問采女ウネメとは後宮の雑役に従事する者だが各国の少領以上よりの姉妹、子女の中から形容端正なものが選ばれ、本来、宮廷の神と天皇とに奉仕する為の者。臣下が妻問うことはできなかった。藤原鎌足の歌は万葉集を勉強していたのなら知っていたのだろうかこ...安見児ヤスミコ得たり
山川に鴛鴦オシ二つ居て偶タグヒよく偶タグへる妹を誰か率イにけむ和歌と歌人12野中川原史満ノナカノカワラノフヒトマロ『日本書紀・113』山間の川に鴛鴦オシドリが二羽遊んで仲が良いなあ妻と仲よく連れ添っていたのにその妻をいったい誰が連れ去ったのだろうか妻の造媛ミヤツコヒメがなくなり皇太子中大兄皇子ナカノオオエノミコの悲しみが深いのをみて二首の歌を詠んで奉った野中川原史満ノナカノカワラノフヒトマロ帰化人古事記は漫画で見たが日本書紀は何も読んでないからか聞いたこともない人物だ知らなかった明日はお盆の入り普段は近くのお坊様に棚経を頼んで有るが今年はコロナもあるし昨日お布施をお届けし仏壇を綺麗にした山川に鴛鴦オシ二つ居て
大和には群山ムラヤマあれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見クニミをすれば国原は煙ケブリ立ち立ち海原はかまめ立ち立ち美味し国そあきづ島大和の国は和歌と歌人11舒明天皇ジョメイテンノウ『万葉集巻一・二』天皇、香具山に登りて国見したまふ時の御製歌オオミウタ舒明天皇ジョメイテンノウは第34代の天皇第30代敏達ビダツ天皇の子の押坂彦人大兄皇子オシサカヒコヒトオオエノミコの子名は田村皇子タムラミコ推古天皇の没後蘇我蝦夷に擁立されて629即位都を飛鳥岡本宮アスカノオカモトノミヤに置く蘇我氏の力に押されて、政治上の功績をあげないまま641崩御とりよろふとはとりわけてよいさまであるの意とも、すべてのものが集まり整うの意とも、宮の近くに寄っているの意ともいう。写真は学校の裏通り毎年毎年切っても切っても生えてくる梶カジの...とりよろふ天の香具山
いなてる片岡山に飯イイに飢ウえて臥フせるその旅人あはれ親なしに汝生りけめやさす竹の君はや無き飯に飢て臥せるその旅人あはれ和歌と歌人10聖徳太子『日本書紀・104』聖徳太子は用明天皇の子。推古天皇元年593皇太子となり摂政として冠位十二階・十七条憲法の制定。国史の編纂。学術工芸の奨励。大陸文化の導入に努め、仏教に深く帰依して「三経義疏サンギョウギショ」の著述チョジュツ。法隆寺・四天王の建立。三経義疏サンギョウギショとは『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)。聖徳太子は推古天皇21年(613)12月1日片岡カタオカに出かけた。片岡とは現奈良県北葛城郡香芝町今泉付近その時飢えた旅人が道のほとりに倒れていた。太子は飲食物を与え、自分の衣服を着せてやって、この歌を詠んだ。近いような遠いよ...いなてる片岡山に
古町の星のたむけに向かいあう青畝今日は木曜稽古掛け物は阿波野青畝の上記の俳句コロナ禍でのわが社中の茶の稽古二箇所の風炉なので同じ時間に二名のみのお稽古お点前してお客も兼ねる自画自賛の茶の湯だ花鳥風月に和敬清寂もてなしの茶の湯はどこへやらしばらくは仕方ないだろうやれる事をやる勉強しつ楽しもうじゃないか稽古は各自時間割表に記入し重複を避けるべく予約しておく手指を洗いアルコール消毒と熱湯消毒点前が終わると先日買った紫外線消毒の機械の中に入れる理髪店や美容院の挟みや櫛など入れて消毒する機械らしい簡単で清潔そうだ色々入るので試しに入れてみた稽古につかった茶杓茶入と仕服銘々皿棗も入れた昨日と今日しか使用してないが良さそうだEタックにて一週間は抗菌され茶巾はハイターすべからく消毒した残るは心を清めるかだとすると茶杓の銘は「洗...星のたむけ
今日の掛け物は香川景樹カガワカゲキの詠草を掛けた夏瀧ナツタキ裁タち縫ヌはぬこや山姫ヤマヒメの白重シラカサね涼しく見ゆる瀧の色かな「裁つたり縫ったりしないというこれはまあ山の神の山姫の襲カサネの白重ねでしょうかどおりで涼しく見える瀧の色ですこと」と私の解釈香川景樹は古今和歌集の伊勢の和歌を下敷きに自分の歌を詠んだのだろう伊勢の和歌は「たち縫はぬきぬきし人もなきものをなに山ひめの布さらすらん」裁ったり縫ったりしない着物を着るのは仙人その仙人もいないのに山を守り治めるという山の神の山姫はどうしてあんな大きな布を晒しているのだろうと大きな瀧を眼前に伊勢は和歌を詠んだ仙人の衣は裁つことも、縫うこともしてない布を着る白姫とは山の神白重ねとは白と白のかさね瀧は布ヌノに見立てられていたたちぬわぬ…はじめは何のことかわからな...裁タち縫ヌはぬは仙人の衣
籠コもよみ籠コ持ちふくしもよみぶくし持ちこの岡に菜摘ナツます児コ家イエ聞キかな名告ナノらさねそらみつ大和の国はおしなべて我こそ居れしきなべて我こそいませ我こそば告らめ家をも名をも和歌と歌人9雄略天皇ユウリャクテンノウ『万葉集・巻一、二』素敵な籠を持って、とても良いふくし(菜を取るため掘り起こすヘラ)を持ってこの岡で春の若菜をお摘みになっているお嬢様あなたのお家あなたのお名前をおっしゃってこの大和の国はすべて私が支配し統治しているのだよその私がまず言うからね私の家をも名前も万葉集の巻頭の歌。春の野で若菜摘みをしているおとめに、雄略天皇ユウリャクテンノウが求婚したと伝える歌。春の初めに新しく萌え出たばかりの野草を摘むのは、古く神祭りのため。若菜を摘む乙女は春菜を神に供え一年の豊穣を予祝してもらう神女の資格に立つとい...万葉集巻頭歌籠コもよみ籠コ持ち
天飛むアマダム軽カルの嬢子オトメ甚イタ泣かば人知りぬべし波佐ハサの山の鳩の下泣きに泣く和歌と歌人8木梨軽太子キナシカルノタイシ『古事記・82』天飛むアマダムは軽カルの枕詞ダムはトブの音韻変化軽カルは奈良県橿原市大軽町のこと波佐の山は軽近くの山か軽のおとめよそんなにひどく泣いてしまったら、他人は我々のことを感づいてしまうではないか。あの波佐ハサの山の鳩は心密かに鳴き続けてる。お前もずっと忍び泣いているのだね木梨軽太子キナシカルノタイシとは允恭天皇インギョウテンノウの子。古事記には天皇の崩御後、皇位につくべきであったが、同母妹ドウイボマイの木梨軽大郎女キナシカルノオオイツラメに通じたので道後温泉に流されたとある。日本書紀では、天皇生前の事として、流されたのは妹の方で軽太子は皇位継承争いで弟の穴穂皇子アナホ...あまだむ軽のおとめ
秋の田の穂ホの上ヘに霧キらふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ磐姫皇后イワノヒメノオオキサキ『万葉集・巻二』秋の田の稲穂の上に一面に掛かっている朝霞よ。それがいつの間にかどこへともなく消えて行くではないか。同じように私があの方を恋慕う心は、いつ、どちらの方に行くのだろうか磐姫皇后イワノヒメノオオキサキとは古墳時代の皇妃葛城カツラギの曾都比古ソツヒコの子。仁徳天皇ニントクテンノウの后キサキ。嫉妬深い女性として、仁徳天皇ニントクテンノウが吉備黒日売キビノクロヒメや八田若郎女ヤタノワキイツラメに心をよせるのを激しくねたむ話が、歌謡物語として記紀にある。古墳時代の人物は漢字も難しいし名前を聞いたことがある人もいるがどのような人物かは詳しくはわからないでも磐姫皇后イワノヒメノオオキサキは名前も知らなかったが嫉妬深い性格の仁...我が恋やまむ
高き屋ヤに登りて見れば煙ケブリ立つ民のかまどはにぎはひにけり仁徳天皇ニントクテンノウ『新古今集・巻七』高殿タカドノに登って国情コクジョウを見ると、炊カシぎの煙が盛んに立ちのぼっているではないか。ああ民衆の生活はこんなにも豊かになってきたんだな。まことに喜ばしいことであるよ。仁徳天皇ニントクテンノウは第16代天皇応神天皇オウジンテンノウの子記紀に多くの歌謡を伴った伝承がある。農業を奨励し、池堤の改修を行い、朝鮮・宋へ使者を派遣するなど、仁政を行ったという。今日は森金さんとカサチカさんが午後からやって来たサカチカさんが茶花の苗木を買って森金さんが庭を掃除して植えてくれたコロナ禍で植木屋さんが来てくれず茂ったままの草木を綺麗にカットスッキリした苗は宗旦ムクゲ2鉢紫蘭野紺菊箱根菊白花岩桐草イワギリソウイワギリ...登りて見れば煙ケブリ立つ
難波津ナニワヅに咲くや木コの花冬ごもり今は春べと咲くや木の花王仁ワニ『古今集・序』この歌は仁徳天皇の御代ミヨの初めを祝った歌だと木の花とは梅の花また難波津の歌は手習いの歌として昔から用いられたという源氏物語の若紫では「まだ難波津をだに」枕草子の二十三段に「難波津もなにも、ふとおぼえむことを」とあるから王仁ワニとは百済クダラの学者で応神天皇オウジンの代に渡来したという古事記には和邇吉師ワニキシとあって、論語10巻千字文センジモン1巻を貢進コウシンしたとある。貢進コウシンとは貢ミツぎ物を奉タテマツること実在の人物か確証はないようだ百人一首には含まれてはいないが、全日本かるた協会が競技かるたの際の序歌に指定しており、大会の時に一首目に読まれる歌である。そうだ昨日は木曜稽古だったが午前中は謡の稽古に出かけキョロ...難波津ナニワヅに
花むくげはだか童ワラベのかざし哉芭蕉むくげは夏の季語かと思ったら秋の季語らしい今日は木曜稽古久々にみえたケンケンとWD.様の二人コシチャンが午後からやって来たが嬉しいことに高さ一㍍ほどの遠州ムクゲを買ってきてくれたその上そのムクゲを裏に植えてくれた有難いね買ってきて植えてくれる植木屋さんみたいこれ以上のことはない蚊に刺されるといけないので虫除けスプレーをシューしてたそれでも古志ちゃんの柔肌はいくつもいくつも刺されてご持参の虫刺されの薬を塗っていた三年前までは二種類のムクゲを植えてあった宗旦木槿と桃色の一重の木槿大きな木で風炉の間重宝したものだが何年か前に隣の工事の時抜かれてダメになってしまったまあいいかとも思ったが風炉の花の中心はムクゲだから無いとホントに不自由だったウイキペディアによるとムクゲ(木槿、学...はだか童ワラベ
今日からお茶のお稽古再会した新型コロナウイルスの感染予防でお濃茶の飲み回しは無し練るのは一人分我が社中では自分で点前したものを自分で飲むふきんは止めてペーパータオルにした菓子は干菓子も主菓子も銘々皿道具は熱湯消毒かアルコール消毒する出来ないものはUV除菌キャビネットというのを注文した紫外線でウイルスを殺す今週末に届くのでつかうのは来週からだが紫外線で消毒するまた皆がさわるお茶の缶や水道の蛇口などはウイルスや菌を寄せつけないというイータックスプレーで除菌するお弟子様のサカチカさんが調べてくれたいま出来ることはすべてやってみようと私はマスクを付けるかフェイスシールドをつけたりした久しぶりにお弟子様とのオシャベリ楽しかった今日の掛け物は總持寺管首渡辺宗玄の消息6/29付け總持寺管首第17世渡辺玄宗(本行玄宗圓鑑不昧禅...今日から茶の稽古が始まる
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10/2gooブログが終了しますのでアメーバブログに移転予定です引っ越しするのに自分では出来かねまして専門の方に頼んでおりますのでそれまで少しお休みさせて下さい5月は薫風自南来気持ちよい風に吹かれて美味しいものを食べたい麗しいお道具を拝見したいと願ってる毎日です写真は綱島のフクモトの御料理薫風自南来
今日は火曜日鶯谷で皆さんと待合せ東博特別展へ「蔦屋重三郎コンテンツビジネスの風雲児」吉原大門を入ると吉原大通の桜が出迎えるいい気分出口近くには耕書堂の店大川端から花火も見れるいい気分だ平成館2025年4月22日(火)~2025年6月15日(日)「一目千本」と「写楽」を前期21作品をたっぷり拝見他のは通りすぎるだけだったお昼はホテルオークラガーデンテラスで三時は松坂屋の二階のカフエケーキが凄くフルーツたくさんでも高いけど珈琲SETとお喋り楽しまた行きましょう東博へ東博へ行こう
名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと伊勢物語の9段『東下り』今日は茶会大磯の松月茶会へ薄茶席担当のお道具屋さんからご案内初めて参加す風情がある料亭での茶会雨の予報だったが曇晴れ上等濃茶席は胡銅花入に牡丹薄茶席は竹花入にもみじと木苺写真は今日の点心だ名にし負はば
今日は東美で和美の会へわりと空いていた感じ森金さんと待ち合せエフ先生と合流茶入茶杓を目的にとアッチコッチへうろちょろカタログにはあったが実物は売れてしまったのか姿が無かった江戸初期の茶杓は高い案外、茶入は安く買い時かもでも私は何も買えないけども楽しかった帰りはビールで乾杯しようかビアホールはシニア風な人々で溢れるばかり満員凄いエネルギーが充満してる感じみんな元気でいいね!東美和美の会
咲く花は八重か一重かおぼつかなおぼろ月夜の山蔭の道自画賛阪正臣筆4月8日火曜日はお釈迦様の誕生日その日は森金さんの水屋4月9日水曜日は大仏の日熊ショウさんちで七時式4月10日は村雨庵の稽古日明日はまた森金さんの水屋土曜日は和美の会日曜日はサカチカさんの水屋4月は何かとあわただしくこの後もずっと予定が詰まっている良いような悪いような突き進むしかないが出来なくなったら自然に止むはず咲く花は
たんぽぽや折々さます蝶の夢加賀千代女土曜日は茶事手伝い昨日の日曜日は倍様と文の会前回は1月なので久しぶり伊勢物語を音読お昼はいつものイタリアンいつもの前菜とワインそれにパスタ2種いつもでも支払い金額はだんだん増えてる新しいエアコンを買ったので午後から取付作業前のエアコンを外す我が家は古い家軒が出ている長押ナゲシの上の壁に穴をあけて一度軒ノキの上に出し軒ノキを下にと穴を開けパイプをとおして外に出す直角に曲げるので古いエアコンを外すときも据えるときもそれが大変電気屋さんはいつもの電気屋さんがお歳でお店を閉じてしまったので同じような方を紹介してもらったどうも私と同年代20キロのエアコン担いで脚立にのって一人で作業するのだが四苦八苦危うく落としそうになるので思わず下からエアコンを支えた順調にはいかない「どうぞ勉...タンポポや
今日はサカチカさんと銀座谷庄の茶会へ買うものは無いし見るだけだそれでも楽しいお互いどこかでお目にかかったようなと目が合い先日の柿伝の茶飯釜でご一緒だと気がついたまた護国寺で御目文字した竹とんぼさん達ともご縁ですね思いがけぬ場所での遭遇は嬉しいその後は歩いてぜん屋へ雨草履を買うつもりが低反発の草履を買ったそして歩いて「司」へ見るだけそれから歩いて京橋の「婆娑羅」で昼食ここは美味しいオープンキッチンでよくみえるそして歩いて東京駅大丸のイノダへ我慢できずケーキセット今日はよく歩いたらしく足裏に豆ができた有楽町、銀座から京橋、東京駅
花冷やはるかに燃ゆる花篝草城昨日は火曜日火曜日は南方録のお勉強今回は覚え書二十一飯台は机の如くして2人3人4人も台一つにて食する、これ禅林日用の作法なりしかるを紹鷗、宗易、大徳寺、南宗寺の衆を茶の時、折々飯台を出されしなり2畳3畳4畳別して四畳半によし茶立口の他に今一つ口ある座敷ならでは茶立口より出し入れは好まざることなり亭主まず台を座へかかえだし布巾にて清めさて食の椀に物相の飯を入れ蓋をし下に汁椀を重ねかくの如く客の数次第、引き盆に並べる出て台の上に上げ汁は汁次にて出す菜も鍋にても鉢にても出すその品次第の見合せなり酒は一、二返にてすむべし食椀の蓋にしたるものにて飲むなり客の食いよう別してきれいに喰うべし惣じて飯台の料理は殊更軽くすることなり汁一つ菜一つ、強いて二つ、茶うけのものなど出さざるもよしまた一様...花冷えや
今日はエイプリルフール4月の冷たい雨が降って懐炉を持っていないことに悔やんだ昨日はお茶碗研究会仁清乾山どの分野でもそうだがわかっているようでまだまだだと思い知らされる古清水は仁清以後~奥田頴川以前とか道具屋筋は明治でも古清水と言うと奥田頴川はトーハクに呉須赤絵の重要美術品色絵飛鳳文隅切膳がある陸方山とも号した建仁寺の南に開窯明の渡来人の子孫中国意匠の作品が多い特に呉須赤絵を得意京焼に磁器を導入,京焼黄金時代の因となった今日は読売カルチャーの南方録へ奥田頴川オクダエイセン
西行おしなべて花のさかりになりにけり山の端ごとにかかる白雲今日は川崎で食事会12名が賑やかにお喋りワイワイとお酒を飲んであっという間にお料理が並んだが誰もがムシャムシャ完食した身体も胃袋も元気帰りにお花見しながら帰ると言う人もみんな元気だねえ明日も元気で出かけようじゃないのおしなべて
今日はサカチカさんの茶事私は玉ちゃんと水屋担当今日の茶事は飯後の茶事菓子の茶事とも言う茶事は食事をお出しする朝茶正午夜咄の茶事が一般的だが飯後はその言葉どおり食事の合間にする茶なので3時間以内でするすると進めるでないとその後の食事にさわり不都合となる汲み出初炭香合をご覧に入れてその後吸い物八寸菓子椀中立となる後座の床は花となり続き薄茶でお開きだどんな茶でも一献あればそれは茶事になるとエス先生は仰ったお酒ばかりでは宴会と変わらない何事も程ほど写真は待合の床田中訥言筆「猫に蝶図」復興大和絵の祖といわれる江戸後期の画家中国では猫と蝶々の取合せは長寿を表す猫と蝶々の中国語maoとdieは70歳と80歳の発音が似てるそうなと亭主サカチカさんのお話しありサカチカサンノ飯後の茶事
桜狩り雨は降りきぬ同じくはぬるとも花の陰にかくらむ正二位季忠七十二歳画並書藤浪季忠フジナミスエタダ昨日はうちで茶事だった後期高齢者にしてはオーバーワーク亭主は身体と頭をフルに使うこと・1ヶ月前から手紙を書く・前日までに庭の点検(前日前には蹲や庭をする綺麗に掃除、枝をととのえる)炭を洗っておく・前日には茶事の道具箱から棚に並べる掛軸を掛ける(当日でも可)・当日2時間前に来て水撒き30分前にも水撒きする暑くなると15分前にも水撒きあとはいつものように炭、濃茶、薄茶の準備腰掛と待合の火入を出汲出を用意しておくお客様が挨拶に見えたら→汲出を出して「お腰掛けまでお出ましを」お客様が腰掛けに移られたら迎付け濡れ釜掛けて手掛かりを開ける挨拶→初炭手前炭斗下げたら後炭の用意炭道具はまだ乗せない後座の花を見積る香合をご...桜狩り
藤原良経春風の吹きにし日よりみ吉野の雪間の草ぞ色まさりゆく今日はほの暖かい春風が心地よい明日は自宅で社中の茶事だベテランの御弟子様たちは各自で茶事をひらくがコロナ禍前後に入門した若い御弟子様たちは安居の会という村雨庵の茶会を19回ひらいたがそれは虫養いムシヤシナイと菓子のあと中立濃茶後炭薄茶と続く小寄せの茶会懐石の部分を経験していない招待の手紙を出すところから始まりつくばいの掃除海の石を取り出し底をよく掃除回りの木々を整え庭の掃除わが家の濡れ縁を腰掛代わりにしているので外から窓を拭き網戸を拭きぬれ縁を拭いてもらうとっても助かる家の回りが清められて気持ちが良い炭を洗ったし明日の準備は良いかしらね亭主は暮れちゃんお客様は三名水屋は二名自分のおうちから道具を何回か運んだこの和歌は九条良経くじょうよしつね嘉応元~...春風の吹きにし日より
今日は広尾の茶会へ先月も伺ったが結構なお道具が出て勉強今日も尊円法親王の和漢朗詠集の3月3日「春来遍是桃花水不辨仙源何處尋」王維書き下し文は「春来っては遍ねくこれ桃花の水なれば仙源を弁(わきま)へず何れの処にか尋ねむ」王維十九歳陶淵明の影響を受け詠む「桃源の行」の一節尊円法親王は伏見天皇第6皇子。永仁6年8月1日(1298年9月7日)-延文元年/正平11年9月23日(1356年10月17日))は、青蓮院第十七世門跡。茶会は遊びのようで遊びでないかも濃茶のお菓子は富ヶ谷の岬屋金団薄茶のお菓子は伊織春来遍是桃花水
起きよ起きよ我が友にせん寝る胡蝶芭蕉今日はいつもの茶事水屋手伝いなー朝から春の明るい日射し何年か前は足が大変だったが元気になってよかったですねとご正客の言葉に膝が悪く辛い日々を思い出した喉もとすぎるとすぐ忘れる鈍感力起きよ起きよ
19日と20日は村雨庵の稽古日釣釜と透木釜どちらでも炭手前を出来るように稽古二碗物の茶通箱に続き薄茶教える方も習う方も能がよく働く茶通箱に利休好み薬籠蓋に仙翁好み桟蓋と玄々斎好み出会い桟蓋がある出会い桟蓋は持ってないので桟蓋の茶通箱で稽古茶通箱は焼物の茶入と棗を袋に入れた茶入を入れ薄器は棗と形の違うものを稽古では四滴の中から選んで使うはじめの濃茶を飲み茶名を伺うまではよいがそのあと正客はのんびりとしてるわけにはいかないよく言う茶巾袱紗で「今一種」塵打ち聞いたら出会いで返す二碗目の加減を問われて水が入ると「後の茶名」「前の茶入お仕服拝見」茶碗返しつ茶入に仕服を引く茶筅清めば拝見をする水指の蓋で拝見かけてそれを引くとき茶入仕服を返すというわけで気を抜く暇はない茶通箱
寄付は短冊森金さんが福田行雄先生より頂戴したもの待合は狩野派の桜に霞本席はお公家の桜の懐紙春永のひねもすをのたりとすごされてらっしゃるご様子楽しそうなお声が途切れない今日は4時半に起きたそろそろ眠たし昨日の茶事先生がそれでは春永ハルナガにお目にかかりませうと春分がすぎ日が長くなったらとのことだ是非とも森金さんの飯台茶事
今日は柿伝の茶飯釜の茶事初炭は管炭と枝炭は残し増やしたぎっちょと割りを丸くつぐサラサラと釜にお米を入れ炊ける間に香合の拝見あっという間にご飯は炊き上がり香ばしい良い香りが広がるまず一口の嬉しい時間だ今日は彼岸の入り生きてる生かされていることに感謝した一日写真は新宿のホームお茶らしい写真を撮れず茶飯釜の茶事
朝から雨だ今日は五島美術館美の友の茶会早めに行ったので44番三席目に入れた濃茶席は高野切の二の手水指はノンコウの桐紋薄作だそうだがこの茶会では何度も拝見する茶入は住吉茶碗は井戸九重茶杓は空中作釜はあられ釜五島の美の友には20代に入った昔のこの茶会は道具にたいして敬意をひょうし紋付きでと先輩にご指導あったが時代ともに色々変わる現在も全てが変更中振り落とされないようにしっかり五島美術館美の友茶会
今日は昔の友人と食事会お互いに誕生会を開いて60年今回は京橋の婆娑羅ランチ3,410円トマトすき焼が有名とか私は魚ゆっくり贈り物交換などは出来ないが美味予算内で友人の一人が肉が全てダメで場所を探すのも大変年に三回だから次からは金額はほどほどなら良い何でも値上がりこのご時世三千四千円ではなかなか難しいお昼のあとは銀座五丁目のトリコロールのケーキセット1,670円すごく良いのだがすごく混んでるそして外人が多い階段でならんで待つひたすら待つ次は山の誕生会六月予算が上がってどこになるかな楽しみ京橋~銀座
源氏物語・花散里橘の香をなつかしみほととぎす花散る里を訪ねてぞとふ土曜日は何かと用事が入って行けなかったが今日は朝日カルチャーの崩し字入門いつもより教室が広い与えられたレジメを読み下しあとから一文字ずつ分解説明をうけるのだそのときはなるほどと思うのだが「亭」の文字でテだとおもったら「帝」の文字のテだった橘タチバナの
橘曙覧タチバナアケミ(幕末の歌人)明日よりは夏の暑さもあらひこしなごみわたれり瀬々の川かぜ今日は東京美術倶楽部での日本陶磁協会の茶会濃茶は当代随一の数寄者・潮田洋一郎氏五名ずつの回しのみ薄茶が二席官休庵の宗屋宗匠と陶磁協会の席また特別観覧の部屋筋切が正面に掛かっていた筋切って何伝承筆者は藤原佐理だが研究で藤原行成の曽孫にあたる藤原定実(活躍期、1077~1119年)と言われている定実は『元永本古今和歌集』(東京国立博物館蔵)『巻子本古今和歌集序』(大倉集古館蔵)『西本願寺本三十六人家集』の「貫之集上」(西本願寺蔵)の筆者筋切ってなにもとは古今集を書いた二冊の粘葉装デッチョウソウ粘葉装は糊綴じなので糊をはずして紙の表裏をはがすと(相剥ぎアイヘギ)2枚になり表の銀泥で天地に界線(筋)があるのを筋切裏の篩...日本陶磁協会の茶会
昨日は水曜稽古だがブログも書けずねてしまった木曜稽古松波資之のほととぎすの和歌を掛ける湖遠郭公遊山から崎のまつとはなしにほととぎすききつるばかりうれしきはなし松波資之マツナミスケユキ1831*-1906幕末-明治時代の歌人。天保元年12月19日生まれ。安芸広島の商人岡田集介の次男。京都徳大寺家につかえ,のち北面の武士松波家の養子となる。香川景樹にまなび,景樹没後はその子の景恒をたすけて東塢塾を主宰。維新後は皇太后宮の内舎人ウドネリ,雑掌をつとめた。明治39年9月13日死去。77歳。通称は直三郎,大学大允。号は遊山,随所。歌集に「花仙堂家集」。(日本人名大辞典ヨリ)唐崎というと近江八景の「唐崎夜雨」を思い浮かべる唐崎は『万葉集』の「さざなみの志賀の辛崎幸あれど大宮人の船待ちかねつ」『蜻蛉日記』では都人が唐...唐崎夜雨
宵々の雨に音なし杜若蕪村今日はエフ先生の研究会雨が凄い音を立てて降ってる最近は早起きなので五時に起きて朝は六時に食事お昼までの時間が長いから10時のおやつ九時半に珈琲とミニ羊羮食べたおやつは八つ刻ヤツドキ午後の2時から4時に食べる間食午前中だとなんというのか朝のおやつは「モーニングティー」または「リトルランチ」、午後のおやつは「アフタヌーンティー」とオーストラリアでは呼ばれるとのこと、ネットで見た江戸時代、日本人の食事は朝と夜の1日2回だった。途中でお腹が空く。そこで中食(ちゅうじき)、あるいは間食(かんじき)、小昼(こびる)と呼ばれる間食をやつどきに取るようになった。それがおやつの起源。とネットで見た。さあ出かけないと宵々の雨に音なし
ラルースの言葉を愛すわたくしはあらゆる風に載りて種蒔く今日は日帰りで北上へ朝早く新幹線着いたらタクシーで詩歌文学館一回りしてタクシーで北上駅お昼を食べて新幹線四時には家に着いたが疲れた年だねあらゆる風に載りて
公達の手ならひの間や若楓涼菟リョウト岩田涼菟イワタリョウト1659年(万治2年)~1717年6月7日(享保2年4月28日))江戸前期から中期の俳人、神職。本姓は秦、名は正致。通称は権七郎。別号に団友、神風館等がある。伊勢の生まれ。初め伊勢神宮の下級神職となったが後に松尾芭蕉の晩年の門人となり俳諧を学ぶ。1694年(元禄7年)に各務支考らと親交を持ったことにより、「伊勢派」と呼ばれる平明で新しい作風の俳諧を生み出した。とのこと今日は東茶会暑くも寒くもなく空があおいもう会員ではなくさも行くことないと思ったが薄茶席の席主の方にお誘われた点心には久しぶりにお酒も付いたし茶会が終わると新橋のケーキセットを食べなかなか良かった手ならひの間
西行年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山若いときに越えた小夜の中山年老いた今又越えるとは思いも見なかったよ命があればこそだ文治2年(1186年)69歳の西行法師が東大寺再建の勧進のために奥州藤原氏のもとへ赴く途中で、若かりし頃、小夜の中山を通ったことに思いを馳せ詠んだ小夜の中山は旧東海道の日坂宿と金谷宿の間にある小夜の中山峠急峻な坂の続く街道の難所うっそうとした樹木に埋もれ、当時は山賊なども横行したため、大の大人でも峠越えは容易ではなかった大名物漢作唐物の安国寺肩衝はもと「有明肩衝」といいまた別名をこの和歌から名付けた「中山肩衝」今日は読売カルチャー写真は新しく見つけたイタリアンの店これを見てランチにグラスワイン頼んだ命なりけり小夜の中山
正岡子規あで人の住める御殿の塀長く椎の梢に鯉ひるがへる今日は世の中連休の最後私達はお茶事のお客様として出かけたほどほどの天気で風も少々感じるまさに薫風自南来殿閣生微涼緑が美しく気分がいい連客はほぼ社中であまりにも緊張感がない茶事ではそれも問題があるだろうが茶事は癒しだ許されよご亭主とのお喋りが楽しい懐石を頂き濃茶と薄茶初炭と後炭これ以上の幸いがあるかしら初風炉の清々しさに身が清められて改めて精進せねばと思った干菓子は吹流しのような五郎丸屋の「キリン」写真は姫沙羅かあで人の
藤原定家あやめ草ふくや皐月のながきひにしばしをやまぬ軒の玉水今日は端午の節句鯉幟コイノボリは『碧巌録』の第七則にある「三級浪高魚化龍」三級浪高うして魚龍と化す。中国の夏王朝を開いた禹(う)が黄河の治水をした時上流の竜門山を三段に切り落と三段の瀑布ができたこれを「禹門(竜門)三級」と称し、多くの魚が竜門山下に群集し竜門三級を登る登りきった魚は、竜となり天に昇るという。「登龍門」の故事があり江戸時代から、鯉幟を飾るようになったらしい戦国時代に「菖蒲」が「尚武(しょうぶ)」につながり端午の節句は男子の武運と成長を願う行事。今は子供の成長を願う祭日だそして今日は文の会だったらしいゴミ出しもなく何も用事がないゆっくり寝てようと朝ご飯、お昼ごはんのあとゴロゴロ寝ていたピンポンが鳴ったので宅急便かしらと出てみると画面...あやめ草ふくや皐月のながきひに
用事があり渋谷へスクランブル交差点みんなが写真を撮ってるのでつられてパチリ帰って夕ごはん食べたら眠くてねた目が覚めると八時半テレビ見てまた寝る渋谷スクランブル交差点
うすうすと窓に日のさす五月かな子規今日から五月初風炉の水曜稽古だ雨がシトシト寒い時たまザーザー降って寒いエビネを切って今日の花にした掛軸は一行薫風自南来灰型は昨日作っておいたので安心種火をいれて炭手前すると藤灰がないですと言われた出した記憶がある確かにどこかにおいた探したが見つからない藤灰がない時変わりに何が使えるかと一瞬考えた小麦粉片栗粉ならあるけどお線香の灰じゃあちょっとね確か火鉢の灰というのがどこかにあったはずあれでもよいかうろちょろしてそうそう風炉用の炭斗に代えようと思ったらその近くにあった淡交社のふじ灰の説明藤の樹皮を取り除き焼いて灰にしたもので化粧灰とも呼ばれます。風炉蒔灰の一種であり、風炉の灰器に入れ使用します。ふじ灰は雪景色を見立ててのものとされ、厳暑は多く、初夏と名残はかすかに蒔かれます...うすうすと窓に日のさす
藤原良経佐保姫の霞の袖の花の香も名残は尽きぬ春の暮かな【藤原良経】フジワラノヨシツネ[1169~1206]鎌倉初期の公卿・歌人・書家。九条兼実の子。摂政・従一位太政大臣となり、後京極殿と称される。歌を俊成に学び、定家の後援者でもあった。書では後京極流の祖。今日はお茶碗研究会薩摩焼のお勉強薩摩焼は、鹿児島県の陶磁器。竪野系、龍門司系、苗代川系、西餅田系、平佐系、種子島系など白薩摩は白もん黒薩摩は黒もんとも呼ばれた薩摩焼苗代川系(当初黒もん、現在は白もん)、龍門司系(黒もん中心)、竪野系(白もん中心)の3つの窯場があるとネットにあった名残は尽きぬ春の暮かな
公達に狐化たり宵の春蕪村もうすぐ風炉なのでその準備風炉釜は真形と筒釜風炉を二台眉ぶろと道安風炉それに奉書をひき底瓦を置いて灰を入れる五徳を置いて釜の高さ調整あとは灰形を作るのみだ四月もあと少し春宵価千金宵の春
曽根好忠山姫の染めてはさぼす衣かと見るまでにほふ岩つつじかな今日は茶事の水屋御弟子様のサカチカさんの茶事だまだ炉の季節だが風炉でのおもてなしにしたそうな風炉だと挨拶のあとすぐにお膳を出さないとならず忙しい汲み出しをお出しする頃ご飯に火をつけたお客様の席入挨拶が始まるガスコンロに掛けたご飯の蓋をそっとあけるとグツグツしてまだ水がたくさんある飯椀に一口盛るご飯に芯が残りまだちゃんと炊けてない状態汁椀は温めて青紅葉麩の種カラシをのせて準備完了蓋をして待っているがなかなかお話しが終わらない茶道口近くにより早めにお願いしますと手をぐるぐる回すでないとご飯が冷める味噌汁の種は暖めてあるので熱々の味噌汁を張るだけだようやく挨拶が済んだあとは集中集中常のように懐石を終えて初炭菓子で中立後座は濃茶後炭薄茶となってお開きスイ...岩つつじかな
藤原忠通うのはなのさかぬかきねはなけれどもなにながれたる玉川の里今日は昨日に続いて木曜稽古掛物は桜も藤も終わって卯の花の和歌の美麗な短冊和歌の意味は卯の花の咲いていない垣根はないが、やはり名高く聞こえたこの玉川の卯の花の里はいいものだ玉川は「美しく清らかな川」六玉川と言われている六つの玉川があるこの和歌もその一つ大阪摂津の玉川は→卯の花の名所。京都、井手の玉川は→山吹。志賀、野路の玉川は→萩。東京、調布の玉川は→川にさらす布。和歌山、高野の玉川は→旅人、氷。宮城、野田の玉川は→千鳥。この和歌を詠んだのは藤原忠通フジワラノタダミチ[1097~1164]平安後期の公卿忠実の長男別称、法性寺殿ホッショウジドノ摂政・関白父および弟頼長と対立し、保元の乱の原因となった書にすぐれ法性寺流の開祖漢詩集「法性寺関...卯の花の咲かぬ垣根
紀貫之人もなきやどに匂へる藤の花風にのみこそ乱るべらなれ今日は文の会いつものイタリアンで待合せおつまみにグラスワインパスタを二種類満足だ家に戻れば珈琲を飲んで一休みちっとお喋りのあとお持たせのロールケーキをカットし紅茶を沸かすあまおうが入っているが生クリームもカステラも甘くない甘くないにも程があるだろう淡白過ぎて勿体ないなんて食べてばかり伊勢物語を少しだけ音読声がかすれて出ない結局食べてばかりだった写真は都内の公園の藤棚友人の板子さんが撮ったきっと藤の花の香りもしたであろう藤の花の香りには、筋肉の緊張を和らげ疲れを癒し痛みを和らげ頭をスッキリさせる作用があるそうだ人もなき宿に匂へる藤の花
与謝野晶子春はただ盃にこそ注ぐべけれ智慧あり顔の木蓮の花昨日は木曜稽古椿はほぼ終了代わりに庭の野草が芽をだし始めた葉を広げ蕾を抱く芍薬その足元に小さな地エビネ紫蘭それにシャガ(射干)別名は胡蝶花あとフタリシズカ鳴子百合宝鐸草窓の外には黄エビネ見上げると木蓮も蕾がある木戸のもみじは葉柄を長々と伸ばし始めいま丁度花を咲かせてる一部はプロペラの種を持っているこのところは庭に降りるのが楽しみだ写真はイノさんが送ってくれた某有名庭園の藤見事智慧あり顔の木蓮の花
海棠の花のうつつや朧月其角今日は水曜稽古雨が降ったり止んだり暑かったり寒かったり春の気候は疲れるね稽古の花をまずは切り取りしばし流し水にしておくとよく水が上がる鳴子百合が可愛らしい炭手前は自在に手取釜もうひとつの炉は裏鏊釜ウラゴウガマの透木の扱い炭手前は初炭手前後炭手前に盆香合初炭所望後炭所望などそれに大炉吊り釜透木釜茶飯釜など色々炭手前は楽しい朧月
藤原定家春のおる花のにしきのたてぬきにみだれてあそぶ空のいとゆふいとゆふとは①春の晴れた日に、蜘蛛の子が糸に乗じて空を浮遊する現象。蜘蛛の糸が光を受けて流れ乱れるさまは、薄い絹織物にたとえられる。また、蜘蛛の糸が光の加減で見えたり見えなかったりするところから、あるかなきかのものにもたとえられる。遊糸(ゆうし)。《季・春》②春あるいは夏の晴れた日に、地面から立ちのぼる気。陽炎(かげろう)。③「いとゆうむすび(糸遊結)」の略。(コトバンクより)写真はうちの猫ミーちゃん写真を撮られるのが嫌い寝てるかと思ったら薄目あいてる空のいとゆふ
大伴四綱ヨツナ藤浪の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君大伴四綱オオトモノヨツナ奈良時代の官吏。天平(729-749)初年のころに大宰府防人司佑(さきもりのつかさのじょう)をつとめた。17年雅楽助(ががくのすけ)となり,正六位上をさずかった。「万葉集」に歌5首がおさめられている。名は四縄ともかく。今日は東京美術倶楽部の「和美の会」4月の今日13日と14日にひらかれる全国の有名茶道具商が集まっての展示即売会拝見するだけでとても勉強になるのだお道具屋さんがカタログを送ってくれたけど何も買わないのでいや買えないので手土産にお菓子を持っていった三階のお店の場所を確認し早足で行くがそのブースの椅子に年配の男性が座ってる確かに見たことある人だ「駄菓子ですが」と手渡したところが一軒店を間違えていた目指すは隣の店だっ...藤浪の