ヴァリアントユニバーシティー学生による つれづれなる記事
歴史、文学などに関してのつれづれなる記事を書いていきたいです。
覚慶(義昭)をつれて、藤考の室町幕府と足利将軍家再興のための、まさに苦難の旅がこれから始まる。足利義輝を殺した後、いとこに当たる足利義栄を将軍に担ぎ上げようとしていた松永久秀と三好三人衆だったが、主導権争いから、松永、三好での争いとなる。大和の国で、三好勢と松永勢とで戦闘になったときに東大寺大仏殿が炎上する事件がおこる松永久秀が三好を攻撃するために大仏殿を焼き払ったと噂され、松永はますます悪名を高めた。戦闘中の事故とも、どさくさにまぎれて仏教に敵対的だったキリシタンが火をつけたという説もあったが、とにかく奈良の大仏は焼けて灰となってしまった。にほんブログ村にほんブログ村松永久秀大仏殿炎上
覚慶を監視している、松永の兵たちも、当初は「仮病ではないか?」と疑っていたが日に日にやせ衰えている様子を見て、本当に病気であると信じるようになった。そこで、覚慶が病気回復祝いとして、皆に酒をふるまったために、彼らは大喜びして酒をたらふく飲んだ。すっかり良い気分になった兵士たちは、夜になるとみ眠り込んでしまった。そのすきに、覚慶は脱出に成功した。松永、三好の兵を欺くために絶食していて足腰が立たなくなってしまっていたため、藤考が背負って逃げた。にほんブログ村奪還
松永、三好たちによって義輝の同母弟、藤考の異母弟である覚慶(足利義昭)は奈良で幽閉されてしまっていた。藤考と兄の三淵藤英達は、厳重な監視体制下にある覚慶を脱出するための作戦をたてる寺に出入りを許されていた医者を密かに味方につけて、連絡役として、覚慶に病気を演じさせたのだった。覚慶は松永、三好の兵達を油断させるために、絶食して自らの体を弱らせることまでした。にほんブログ村にほんブログ村覚慶(義昭)奪還作戦
細川幽斎、藤孝の物語、長いこと中断しておりましたが、また再開させていただきたく思っております。毎日は難しいかもしれませんが、定期的に彼の生涯を、調べながら書いてくつもりでおります。細川藤孝という人は、戦国の武将としてはそれほど認知度が高いわけではないでしょうか、彼の生涯を知るにつれて、とてつもなく魅力を感じ、ひかれていったのですが、自分は小説、映像化の脚本は書けないので、このようにブログでつづっていこうと思いました。今後は、三天下人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、盟友、明智光秀、宿敵松永久秀息子、細川忠興、嫁、明智たま(細川ガラシャ)などのことも書いていくつもりです。細川物語、再開の前に
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