ストーカーに苦しみながらも明るく前向きな女の子のお話です。一緒に考え悩み笑っていただければ幸いです。
褒めると気を好くして図に乗るタイプなので お叱りのレスはご遠慮願います。 社交辞令・お世辞・甘言は大好物です。 甘やかして太らせてからお召し上がり下さい。
一日勉強机に向かう女子学生と、終日仕事机に向かうしかやることがない『僕』。だから本当に一日中2人は一緒だった。結果試験に受かれば良い女子学生と特に期限なく出来高払いの『僕』は、起床も就寝も休憩も食事も互いに自由なので。わざわざずらす必要も意味みない。一心同体。買い物も散歩も行動は全て2人で。しかし、暫くすると胸焼けする様な甘い生活は満帆ではなくなった。こう書くと、すぐ倦怠期による浮気かと下種な諸兄はほくそ笑むだろう。どちらかが飽きて不貞行為を働いたとか。少なくとも互いが互いを好きな気持ちは変わっていない。ただ、隙を付け狙う邪魔というか、油断に付け込む難事というか、女子学生に問題が発生したのだ。それは、『僕』が部屋を出た僅かな時間や、『僕』がトイレに入った寸暇に、女子学生が怖い思いをさせられたのだ。『僕』が朝のゴ...■鉄の匂い262■
『僕』には意外な才能が眠っていた。まるで擦(なぞ)る様に立体を二次元に写し取れるのだ。出来ない人間には巧く伝わらないと思うが、出来る『僕』からすると言葉通りの技だ。尤も、写し取る技術と、それを説明する能力は正比例する訳ではない。『僕』の絵が金を払うに相応しいという評価を得たのだから、それが事実だ。とにかく、女子学生への依頼は倍増した。納品が飛躍的に早まったから。次から次へと口コミで舞い込む依頼の希望を的確に引き出し『僕』に伝えることができる女子学生と、下書きもせず描き散らかしても顧客を満足させる絵を提供できる『僕』。溜まっていた注文は瞬く間に捌けて、収入も鰻登り。『僕』は不思議でならなかった。『僕』が適当に描く絵が何故求められるのか。その時の気分で流しているだけなのに。女ス学生は注文を取るだけになったので時間に...■鉄の匂い261■
女子学生は、何かの資格を取る為に勉強していた。当時にいろいろ聞いたのだが、学校や塾や予備校に通うのではなく、自宅で励む通信制ということしか記憶にない。だから自宅に居ることが多く、『僕』の動向を見聞きしていたのだった。それにしても詳し過ぎる。『僕』はある想像をもって女子学生と接していた。悍ましい裏と表をもって。さておき、生活の拠点を定めた『僕』は、翌日から近隣の探検に出掛けた。競艇場から黒人のパチモン倉庫、女子学生が2階に住む殺された男のアパートを経て『僕』の新居までは、偶然なのか直線で結べた。いや、偶然ではない。拉致されかけた場所から少しでも離れたい狼狽が拠点を最短の移動で遠のかせたのだ。同時に、木を隠すなら森の中で、まっすぐ逃げながらもその距離は短かかった。あるいて往復できない範囲ではない。競艇場から逃げた時...■鉄の匂い260■
今切ったばかりの千切りキャベツの上に作り置きのハンバーグを半分にして載せ、4個食べようとしていたらしいプチトマトを2個づつに。部屋の中は、本棚と机とファンシーケースがひとつづつの、女子学生の城としては殺風景だった。本棚には難しい本が並び、漫画やファッション雑誌は一冊もない。ファンシーケースは、スチールパイプの骨組みに厚手のビニールを被せた衣裳箪笥だ。使い込まれたケースは、角は擦り切れ正面は陽に焼けて黄ばんでいた。年頃の娘の必需品である姿見は無く、化粧品も並んではいない。しかし掃除は行き届いており清潔な部屋だった。同じ間取りでもこうも違うのかとついジロジロ見入ってしまい窘められる。女子学生は終始ご機嫌だった。自分の身の上から将来の夢まで、実に楽しそうに語り続けた。ドライブも快諾し、誘われたことを喜んだ。帰り際には...■鉄の匂い259■
もっと早く気付けば良かった。そのチャンスはいくらでもあったのに。気付いていれば『僕』の未来の選択肢はもう少しあったかも今となってはもう、手紙の内容を知る術はない。手紙は封も切らず処分してしまったし、書いた本人も内容を語ることはできないから。『僕』は、女子学生をドライブに誘った。引っ越しを手伝ってくれたお礼に。運転の練習のお手伝いを頼みに。『僕』は運転が下手だった。アパートへの路地も何回も切り替えしをしなければ通れなかったし、右左折の度にウインカーを出すのに間誤付いた。『僕』は運転の経験が殆どなかった。浚渫船で働いていた時に、河川敷で屋根を切り捨てたワンボックスで遊んだくらいだ。そもそも免許を取得していない。今ある免許は、黒人から買った身分にオマケで付いてきた代物だ。つまり殺された男が試験に受かり交付された免許証...■鉄の匂い258■
変な学生だ。馴れ馴れしいを通り越して、危機管理能力が皆無だ。女子学生は、『僕』が買った個人情報の所有者と面識があったのだろうか。でなければ、引っ越しの一件は説明が付かない。が、交友があったのは『僕』自身だった。『僕』が個人情報の所有者の住居に入ってすぐの頃に、粗大ゴミを出したり引っ込めたりしている『僕』を、女子学生は2階から見ていたのだった。それだけなら一方通行の目撃だ。ゴミ置き場に一度は出したものの持ってってもらえないのではと思い直し、一度持ち帰った金属パイプの健康器具。裏庭で、パイプカッターを使い燃えないゴミサイズに刻んでいるのを、これまた2階のベランダから見下ろしていたらしい。その後しばらくして、2階への外階段に投げ捨てられた自転車をどかそうとしている女子学生に出くわした。その自転車は、何度か階段に打ち捨...■鉄の匂い257■
怪しい黒人に世話された他人の顏を被った生活が始まったのは、紅葉が色付く頃だった。肌寒くなった街で生活必需品を買い揃る。新居はそれまでの居住地から徒歩で10分程の3階建てマンションの2階の端。園子が暮らしていたマンションに似た外観で、内覧の時に上下両隣の住人の面(つら)は確認済み。ベランダに出ると、遠くにそれまでの職場のビルが望めた。知ってる人に遭う危険を考えれば、もっと遠くに越すべきなのは解っている。しかし、この街に潜もうと思った初心と園子が囚われていた部屋が近いのとが、『僕』をこの街に拘らせた。知ってる人と言っても、もともと人付き合いのなかった人間な訳で、『僕』が入れ替わってからは殆ど顔を合わせてはいない訳で、気にし過ぎるのは挙動の不審に繋がるかも。という訳で、雑多で騒がしいが寂れて活気がないこの街に落ち着く...■鉄の匂い256■
永久に若く健康に過ごせるなら、人魚の一匹如き犠牲にしても構わない。面白可笑しく楽に暮らせるなら、労働者が幾ら喘ごうが気にはならない。自分が儲かりさえすれば、他人がどれだけ貧乏くじをを引こうが何処吹く風。自分の利益の為ならば他人の不幸は蜜の味。利己的な話に思えるが、命を長らえる為に他者を犠牲にするのは当たり前の話だ。干ばつに見舞われれば弱い個体を見殺す。自分の子孫以外は母親諸共群れから追放。仏教でいう業。生きとし生ける物は全て、食物連鎖のひとつ下の段に生きる物を殺めなければ生きてはいけない。少しでも長く生きたい。死ぬまで健康でいたい。丈夫な子孫を残したい。繁殖期の雄共が若く健康な雌を奪い合い結果強い雄の子孫だけが保存される。『僕』は牧ちゃんのお姉さんを犯したかった。でも牧ちゃんのお姉さんに『僕』の子を産ませたかっ...■鉄の匂い255■
『僕』は異性を金として見ている人間を軽蔑する。『僕』は人を物として見てその命を奪ってきたのに。『僕』は産業革命以降の資本主義を経済体制として認めない。『僕』は商品として提供できる程の労働力も持ち合わせていないのに。結局『僕』はこの世の全てが気に入らないのだ。他人が構築してきたシステムに馴染めないのだ。愛だの情だのの単語の存在自体にイラつくのだ。社会が標準とする価値観に見合う能力を持っていないから。一人前と認めて貰うに足る努力をしてこなかったから。『僕』のこの後ろ向きな憤りは、怪しい新興宗教に嵌る高学歴低伝達能力者の思考に似ている。幸か不幸か、『僕』には訝しい団体から声が掛かる程の学歴がない。何処にも引っ掛からず吹き溜まったマイナスのエネルギー負のオーラ。今日の『僕』は自分に厳しい。ある程度の余白を残しながらも。...■鉄の匂い254■
泥棒にも三分の理、とはよく言ったものだ。どんなに人の道を外れても、犯罪者は身勝手な酌量の余地を主張する。社会が悪い。政治が悪い。もし、自分が悪いとするならば、こんな自分に育てた親が悪い。そして『僕』は、『僕』の付き纏い行為が金が介在する性商売の一環ではないことを挙げ、自身の犯罪に自ら酌量を付した。『僕』は逢瀬を金で買ったりはしない。支払われた対価としての笑顔には騙されない。読み出し専用光ディスクを大量に買うのはキャバクラでシャンパンタワーを建てるのと一緒だ。食事に連れ出せないし恋愛対象になり得ないのに金を注ぎこんでいる分、愚かで不毛で気持ち悪いが。だから『僕』のストーカー行為は、アイドルとの疑似恋愛に溺れる社会不適合者とは違う。セックスはさせないのに握手をしただけで繋ぎ留められてしまう恋愛童貞猿と一緒にはされた...■鉄の匂い253■
ストーカーとは。辞書には「つきまといをする人」とある。stalkという動詞がその語源で、他者に忍び寄り危害を加えることを指している。erという接尾語を付くとその行為をする人を指す。だからニュースなどで聞くストーカー行為というのは「付き纏いをする人の行為」ということになる。無神経な重複なのか知った上での強調なのか、日本固有の独特の経緯で定着した島国的な発想による表現だ。危害をどう定義するかでも、ストーカーの範囲は変わってくる。双方が快楽として享受しているなら、それはしたいされたいが一致した変態プレイの一環だ。二者の組み合わせは合致しているので、提訴されたり被害届が出されたりする心配のない娯楽行為だ。しかし、同じ趣味を持っていても互いが好みのタイプでなければ成立はしない。したい人とされたい人であっても、したい人はさ...■鉄の匂い252■
信頼により得られる利益を少しでも多く長く享受し、裏切られる寸前で損切りをする。そんな下らない処世術が身に付いていた。そんな詰まらない価値観が染み付いていた。そうだと思ってはいても、他人から指摘されると話は別だ。言われたくはなかったし言われて心に響く程に素直でもなかった。ここで反省して改めていれば、或いは更生という未来もあったのかもしれない。でも反省はしなかった。それが事実で現実。かもしれない未来を妄想するのは過去を懐かしむより尚空しい。『僕』は反省しなかった。『僕』は更生できなかった。『僕』は未来をひとつ潰してしまった。小さなプライドに拘って大局を見逃してしまった。傍から見ればバカな選択に猪突な『僕』は妄進してしまった。だが当人からすれば当然の結果。窮地は其処ら中にありしかし好転の時宜(じぎ)は少なく見過ごしや...■鉄の匂い251■
『僕』が歩を詰めるとその分だけ牧ちゃんのお姉さんは後退りした。「これだけ言っても響かないのか。そんなにアタシを犯したいのか。久しぶりの再会の感動よりも性欲か」『僕』を掌で牽制し距離を保つ牧ちゃんのお姉さん。「いつか制裁が下るよオマエと同類の輩から。その前に今日アタシが言ったことを思い出せ。オマエの周りはろくでなしばかりじゃなかった筈だ。絶対良い人も居た筈だ。その人に申し訳ないと思わないのか」牧ちゃんのお姉さんはもう全力疾走だった。走り去るお姉さんの背中を見送り、『僕』はまだ追い付けば犯せるかもと算段していた。当時の『僕』には、お姉さんの言葉は全く刺さらなかったが今。監禁され、もしかしたら殺されるかも知れないこの環境にあって、初めてお姉さんの言葉が胸に深々と刺さった。いつか『僕』は『僕』の同類から制裁を受ける。か...■鉄の匂い250■
「あの時は、アタシもまだ子供だったから、可哀そうに思いながらもオマエを助けてやることはできなかった。今なら、大人になったアタシなら、あの時苦しんでたオマエくらいなら救ってやれるのに。オマエは自分を大切にしない処か、他人の気遣いにまで無頓着に育ち、アタシが手を差し伸べても届かないくらいに堕ちてしまった」歩道の真ん中に立ちはだかり、通行人を避けさせる牧ちゃんのお姉さん。「残念だ。とても残念だ。アタシは再会をとても楽しみしていたのに。虐げられてもオマエならきっと術を見い出して、多少の迂回はあっても真っ当な道に立ち戻っていると信じていたのに。なのにオマエはどうだ」『僕』には霊感も超能力もないが、その時の牧ちゃんのお姉さんからはオーラが見えた。「アタシの期待を裏切り、アタシがこんなにオマエを想って話してる最中にも、なんと...■鉄の匂い249■
繁華街でわざと半グレに絡まれて、カツアゲをやり返す。ワイシャツの裾が出て革靴も片っぽ脱げた様な無防備の給与所得者の胸ポケット破る勢いで財布を奪う。園子に集(たか)っていたチンピラみたいな連中に難癖を付け路地裏に引き込まれた体を装い暗がりで逆に恐喝。財布の中身は、会社員よりも女子高生の方が多かった。性的サービスを仄めかすJKは雑居ビルの非常階段で素っ裸にして制服を階下に放り投げてやった。バタフライで凄む愚連隊気取りのガキンチョには、モリブデンバナジウムの柳葉包丁を太腿に刺してやった。ションベンの匂いがする浮浪者がコインロッカーの返金口を漁っている。豊齢線にファンデが溜まった女が電柱に凭れだらしなく指を3本立てる。油塗れでギトギトのアスファルトの上を子猫サイズのドブネズミが走る。汚い物不潔な人汚らわしい奴哀れな女。...■鉄の匂い248■
ここから暫く、また記憶が曖昧になる。曖昧というか、どの記憶がどの日のものか、区別がつかないのだ。毎日が同じようなことの繰り返しだったり、唐突に非現実的な出来事に見舞われたり。奇異な経緯で得た日常は実感が伴わない。日々のルーティンが分からなかった。何をしても目立つ気がして、だけど何もしない社会人は目立った。定職に就きたいが、殺された誰かの身分で表の職に就くのは不安だ。かといって裏の仕事は、有賀さんやナンバーに見つかるのが恐い。黒人は、皆に『僕』を追うなと通達したが、皆がそれに従うかどうかは分からないし、皆の範囲も分からない。競艇場で『僕』を拉致しようとした3人組も、偶然『僕』を見つけただけで普段は別の仕事に就いているのかいないのか。賞金稼ぎの様に追われてる者を捜しだして拿捕して突き出すのがメインなのかサブなのか。...■鉄の匂い247■
ただ食って寝て起きて糞するだけの毎日。死ぬのが恐いから生きているだけの生活。なにも積み重ねず無為に過ぎていく人生。鳥肌が立った。これは『僕』の毎日だ。まさに『僕』の生活だ。違わず『僕』の人生だ。見えているのになにも視界に入らない。目の前が真っ暗と言うのは決してオーバーな表現ではなかった。『僕』が成りすませる人物なのだから。『僕』に似てるのは当たり前なのだが。それでも改めて突き付けられるとなかなかに受け容れ難く服しかねた。わざわざ確認しに行っといて今更なのだがやはり知りたくはなかった。『僕』に似た人物は大した額ではない金の為に殺される様な人だった。それは『僕』も何れ殺され身分を売却されてしまうかもということだった。そうやってこの身分は『僕』に巡って来たのかも知れない。そうやってこの身分は誰かに巡って行くのかも知れ...■鉄の匂い246■
昼間はなるべく静かにしてるか、出勤から退社までの時間は外出する様にした。働いている気配がないのに生活が成り立っている。潜伏していた犯罪者が通報から逮捕される図が見えてくる。夜もできるだけ静かにして、就寝から起床までの時間は寝る様に心掛けた。社会不適合者によくある夜型人間という印象を払拭する。気味悪がられた異常者が苦情から逮捕される図が見えてくる。節度を以て迷惑を掛け適度に常識を踏まえて近隣に協力した。即ち。時々テレビのボリュームを間違えて夜中に素っ頓狂な音量を出す。これまでも恐らくだらしない管理で近隣に我慢を強いてきただろうから。部屋の中は好みで綺麗に清掃したが、家の周りは敢えてゴミを散らす。これまでがゴミ屋敷だったのに急に片付くのは不自然だから。細心の注意を払い、街に馴染み住人に溶け込む。その不自由さはある意...■鉄の匂い245■
『僕』がなんとなく返事代わりに挙げた手が額に掛かり敬礼に見えたのだろう。警察法70条に基づき警察官は敬礼に対して返礼が義務付けられているから。とにかく警察官の訪問が初めてでないことは分かった。警察官は必要以上に親しげで、妙に優しかった。これまでにも近隣とトラブルを起こしては通報されていたのだろうか。これからも起こすだろうトラブルに拍車を掛けまいとの配慮だろうか。一番接触したくないししてはいけない業種の人間に目を付けられていた。しかし得るものも多かった。『僕』は既に5キロほど太っていたのだが、警察官は10キロ痩せたと判断した。身分証の元持ち主は『僕』より15キロ太っている。つまり『僕』の容姿は、身分証の元持ち主が10キロ痩せたくらいに見えなくないくらいになったのだ。振る舞いも、ゴミや近隣の反応から相当に研究して演...■鉄の匂い244■
もう引っ越す気でいたので、周りの住人には一切の気を使ってはこなかった。下手に挨拶して印象を残すのは良案ではないし、別人ではと気取られるのも不味いから。だから出来る限り接触は断った。しかし効果はなかった。それどころか返って耳目を集めてしまう結果に。そりゃそうだ。それまでぐーたら散らかし放題で異臭に無頓着だった奴が、突然朝から晩まで何なら翌朝まで掃除片付けを始めたのだ。大量のゴミをきちんと分別し、家具や家電を収集日に合わせて出す。目立たない筈がない。本人を知らない『僕』が真似る気もなく穏便に過ごすことだけに心を砕いたのは失敗だった。近隣の住人は本人を少なくとも『僕』よりは知っていて穏便に過ごす人間ではないことも分かっている。良い方向への修正なら文句あるまいという雑さが反感を買ってしまったのだ。有る日、近隣住人の通報...■鉄の匂い243■
何かしらの情報がありそうなゴミは全て吟味したが、この写真の他にこの子の意思が残留するものは何もなかった。『僕』はこの黄ばんだ写真をふたつに折って財布に仕舞った。全てのゴミを出し終えて空っぽになった部屋は、18㎡の1Kだった。ここからいよいよ、ゴミに圧されてへこんだ壁や廃液で腐った床板の交換や貼り替えだ。壁も畳も全部剥がして捨てて、新しい壁紙を貼って新調した畳を入れる。壁はともかく畳は元のがないとサイズが分からないらしく、再購入には難儀した。この頃に一度、黒人が突然ふらりと訪ねてきた。あまり丁寧に原状復帰をすると、これまでの住人がズボラだったので怪しまれるとのアドバイス。壁紙の貼り替えは止めて、敷金からの相殺にしてもらうことにした。他にもシンクやバスタブの水垢や、換気扇の油汚れもそのままにした。他人の皮脂や汚れを...■鉄の匂い242■
小学校の校門の前に立つランドセルを背負った新一年生を撮った写真。写っているのは、その一年生1人だけだった。何故、隣に誰も居ないのか。片親なのか。両親揃っていても片方しか出席出来なかったのか。片親であっても誰かにシャッターを頼めば、並んでの記念撮影はできた筈。違う。そういう次元の問題ではない。桜の花びら舞い散る中、口を真一文字に結んだ新入生は、たった一人で構図を満たしていた。新入生は笑っていなかった。まっすぐにレンズを見据え、固く心を閉ざしていた。写真1枚からそこまで判るものかとお思いだろう。しかし『僕』には判るのだ。同じ経験をした者同士にしか判らない空気が見えるのだ。その表情を体験した者達だけが共鳴する波長を感じるのだ。この写真を撮った者が親ならば、親はこの子を愛していない。親ならば、この入学式という記念日に撮...■鉄の匂い241■
土嚢の様に堆(うずたか)く積まれた黒いゴミ袋の山。どうみても尋常な光景ではない。やっと出したゴミだが一旦部屋に持ち帰ることにした。今後、数週間に分けて出そう。段ボール類は特に心配する程のこともなかった。清掃員は慣れた手付きで平ボディのトラックの荷台に放り込んでいく。腐った畳などの粗大ゴミや錆びた家電には有料シールを貼って出してくださいと書かれたシールを貼られて置いていかれてしまった。有料シールなるものの入手方法が分からないので、畳も布団も健康器具も、鋸や鉈やパイプカッターで一口大に切り刻んで順に出した。畳は、面が井草なだけで中はウレタンだったのでカッターで刻めた。布団は、中綿から得体の知れない卵の殻が出てきて鳥肌が止まらなかった。テレビで宣伝してると試してみたくなるがすぐ飽きて物干しになってしまう健康器具。解体...■鉄の匂い240■
黒人に指示された通りに、まず職場に退職伺いをショートメールで送った。成りすまされる男が処分されてから既に3か月が経過しており、その間無断欠勤だったので話は逆に早かった。慣れた定型文での事後処理の指示がすぐに返信され、辞める理由の詮索や掛けられた迷惑への愚痴などはなかった。職場のロッカーに残された私物は、あと3か月は預かるのでそれまでに新居の住所をメールすれば送ってくれて、メールしなければ欠勤から計半年経過して時点で廃棄処分されること。有給休暇は無断欠勤で消化、後は全て当日申請休暇扱いでプラマイゼロ。貸与制服や食券の未使用分にも細々と書いてあったが、真面(まとも)な会社から給料を貰った経験がない『僕』には理解ができなかった。とにかく未収も未払いも相殺されて貸し借りなしらしいことは解った。次に不動産屋に連絡して賃貸...■鉄の匂い239■
ただし、条件があった。金銭もあるが、それとは別に。言われた時は意味が判らなかったが、説明を受ければ尤もだと思うその条件は。体重を15キロ増やすこと。理由は、成りすまされる人間が『僕』より15キロ太っているから。挨拶交わす程度であってもいきなり15キロ減量してれば近隣の耳目を集めるから。勿論、成りすましたら即日引っ越して休職中の仕事も郵送で退職する。何を言っても笑ってるだけだった黒人は、爬虫類みたいな目で『僕』を観察していた。太ると即答しなければこの話は流れてしまうだろう。この話が流れれば『僕』は単に黒人の稼業を知ってしまっただけの危険な存在。秘密の漏洩を防ぐには、追われてる『僕』を追手に差し出すのが一番だ。あらゆる退路を断たれた上で提示された選択肢。『僕』は即答した。太ると。黒人は白い歯を剥き出し声を出さずに笑...■鉄の匂い238■
それまでの間の抜けた笑顔が、幾らまで吹っかけられるかを値踏みする鋭い眼差しに。黒人は、『僕』が追われていることは勿論、この街に潜伏を希望していること、それなりに金を持っていることも見抜いていた。匿ってくれたのはビジネスになると踏んでのことだった。一度は別れたが、また戻ってくることまでも見透かされていた。恐るべき洞察力。その卓見で『僕』に売りつけようとした品は、身分だった。健康保険証と履歴書、そして謄本。履歴書には知らない男の顏写真が貼ってあった。追手の目を晦ませ社会に紛れる為には、『僕』のままでは駄目だ。アパートを借りるにも仕事に就くにも、身分を明かさねばならないし明かせばそれは狼煙になる。身元を明かせない『僕』に必要なのは『僕』ではない他人の身分。この三点セットはだから魅力だ。健康保険証はそのまま成りすませる...■鉄の匂い237■
黒人が好きそうな酒を買って、匿ってくれたお礼に行く。それっぽい酒は黒人にあまり刺さらず、『僕』が飲むのに買った普通のビールの方に歓喜した。ビールも置いて帰ろうとすると、白い掌をひらひらさせて部屋に招くのでちょっとお呼ばれする。お持たせでの酒宴。散らかされた段ボール箱を詰み上げて座るスペースを確保、丈夫そうな箱をひとつ真ん中に置いてテーブルにする。温いビールをそのまま飲むのかと思いきや、冷蔵庫から出した氷を鍋に移し、ビールを浸すと白い両掌で独楽の様に高速回転させ始めた。すると不思議なことに常温だった缶ビールは水滴滴る飲み頃のビールになった。よく考えたら、この時点では『僕』は未だ宿無しで、持って帰ってもビールを冷やす手段が無かった。プルトップに小指を引っ掛けくるりと缶を廻して器用に開ける黒人。開けたビールは口を離さ...■鉄の匂い236■
夜が更けるまで、ブランドコピー倉庫に世話になった。居留守を使った以上、人の出があっては不味い。もともと用がなかったのかそれとも『僕』に気遣ってくれたのか、黒人は夜まで外出を控えてくれた。電気ケトルで湯を沸かし、カップ麺も食べさせてくれた。血塗れの服も処分してくれて代わりの服もくれた。電気は隣の廃墟から曳かれているのでこの家のメーターは回らない。居宅を隠匿するには必須の細工。くれた代わりの服は胸に大きく歪んだLVのロゴ。肌触りの悪さから想像するに普通の衣類よりも原価は低そうだった。だから惜しげもなく着替えさせてくれたんだろうが。他に捜す場所がないので、追手は何度も戻って来た。しかし中まで捜索できるのは空き家と廃屋のみ。メーターが回っている家はピンポン押すが、訊き込みが出来るのは応対に出てくれた家だけ。警察権がなく...■鉄の匂い235■
何処をどう逃げたのか。気が付くと『僕』はボロアパート群の敷地に入り込んでいた。築50年は経っているであろう木造板葺きセメント瓦の平屋アパート。窓枠は木製でガラスは5枚に1枚の割合で罅が入っていた。撓(たわ)んでその用を成さない雨樋。板壁は腐り異臭を放ち、割れて落ちた瓦が足元で苔生している。全てが錆び、全てが腐っていた。湿った土で人が歩いた形跡がない路地を抜け、住んでいる気配がなく潜めそうな個室を探す。この界隈でこの短時間では身を隠す場所は限られる。いつまでも外をうろつくのは危険だ。置き捨てられた粗大ゴミを乗り越え、アパート群の更に奥へ。『僕』の気配に気付いた住人のひとりが、建て付けの悪いデコラ張の扉を開けて顔を出した。住人は、肌着に短パンの黒人だった。膝に手を付き肩で息をする『僕』に、一旦中に引っ込んだがコップ...■鉄の匂い234■
部屋を借りるとか、ホテルに泊まるとか、そういう発想はなかった。名前を書いたらナンバーにバレるんじゃないか不安だったから。着替えや身の回り品は常に全部持ち歩き、コインシャワーとコインランドリーで入浴洗濯を済ませ、なるだけ名前を書く機会を避け極力顏を覚えられる危険から逃げた。社会との接触を断つ。それで上手いこと、ギャンブルジャンキーに紛れてナンバーの目を晦ませていると思っていた。しかしナンバーは捜していた。しかも的確に逃亡者の心情を把握して、競馬競輪競艇に纏わる土地に絞って。ある日Tシャツに背広を羽織った凡そファッションとは無縁の男2人に両腕を掴まれた。左の男がポケットから顔写真が印刷された紙の束を出して捲りながら『僕』と照合。右の男が周りに愛想を振り撒きながら「君、ナンバーツーだよね?だよね?」と小さい声で確認し...■鉄の匂い233■
話が逸れた上に愚痴っぽくなってしまった。それだけ『僕』が神経過敏に、いや、僻みっぽくなっていたという表れなのだろう。潜むも逃げるもまずは状況を知らねばと思い、駅から競艇場行のバスに乗り込んだ。地味な色合いのファッションに身を包んだおっさん達が、これから始まる他人の勝負に全てを賭ける自分に酔って武者震いしている車内。気合を入れて集中力を高めようと焦点が合わない目で祝詞を上げていたり、験を担いでおかしなルーティンに夢中になっていたり。以前に勝った時の行為をなぞっても勝ったのは選手だし、加護や利益を得ようと奏上したっておっさんは神職じゃねーし。博徒(ばくと)を気取る商店街の親父に、ギャンブル依存症の日雇い人工(にんく)。見えない力に絡めとられ翻弄されながらも、わずかばかりの経験と気力で引き寄せられると信じている運に縋...■鉄の匂い232■
園子の遺体は、埋めずにソファに寝かせたまま、廃屋を出た。中腹まで下ると陽だまりに花が咲いていたので詰んで供えた。何故、埋葬しなかったのか。空腹でその体力がなかったからではない。これまでに殺してきた者と同じ扱いにはしたくなかったから。身寄りのない園子は遺体が発見されなかったらそれまでだ。せめて行旅死亡人取扱法に基づく取り扱いをしてもらいたい。赤の他人と合葬の無縁塚であっても、納骨所に安置させたかった。遺体の発見を期待しての敢えて選んだ放置だった。麓への道を歩きながら、ハンカチに包まれた金を勘定した。万札の豆玖(ずく)をさらに輪ゴムで纏めた100万の束が3つとくしゃくしゃの札が数十枚。ナンバーに没収されたと思っていた『僕』の金だ。この金さえあれば園子を殺すことはなかった。園子もそれは解っていた筈。なのに最後まで園子...■鉄の匂い230■
前科があると就職は難しい。でもそれは職にもよる。古物商や金融業などの警察とツーカーの業種でなければ、テレビで放映された事件でもない限り黙っていれば分からない。前科は既決犯罪者台帳という犯歴カードには記されるが、履歴書に前科を書かなくても詐称にはならないし、就職先が確認しても警察は教えはしないから。経歴詐称が解雇理由になる場合もあるが、詐称を確認する手立てはないから心配もない。だからといって何処でも雇ってくれる訳ではない。服役した期間の職歴は空白になるので前科の想像も容易だからだ。結局前科者はそれなりの職にしか就けない。協力雇用主制度なんてのもあるにはあるが、前科者をバイト以下の条件で扱き使おうってのが殆どだし。この悪循環は、前科者は更生しないという性悪説の上に成り立っている。刑期を設けたり釈放したりするのは更生...■鉄の匂い231■
横になったままの何回目かの夜。外から何かの吐息が聞こえた。何かが雑草を掻き分けて家の周りを歩き回っている。枯れ枝を踏む音からその何かは人間だと分かった。アンモニア臭が漂ってくる。どうやら浮浪者が雨露凌げる軒下を捜して迷い込んできたらしい。30分ほど徘徊した後、家の中の『僕』の気配を察し、そのまま山を下っていった。朝になって、様子を伺いに雨戸を開けようとして畳の縁に躓いた。『僕』は数ミリの段差に足を取られるほど動きが鈍っていた。腹が空いた。空腹を感じていた位の時はそのまま餓死できると思っていたが、いざ本当に危なくなってくると本能は生きる術を探り当てる。食べ物なんて何も残っていないと思っていたが、迫られて覚醒した嗅覚が食べられる物の匂いを嗅ぎつけた。その匂いは園子の鞄から漂っていた。ジッパーを開けるのももどかしく中...■鉄の匂い229■
死んだ園子を日が暮れるまで見ていた。暗くなって見えなくなって、朝からずっと見ていたまんまだったことに気付いた。その日はそのままソファの下に寝た。翌朝、日が昇ってもソファの下に寝たままでいた。もう起き上がるのも億劫だった。園子を失い支えがなくなったのが一番の要因だが、なにより腹が減っていた。食べるものを買う金がない。園子を殺したらここから移動しようと思っていたが、その気力もなくなった。寝返りすらも面倒になり目を瞑った。このまま餓死するならそれもいいと思った。これまでに殺めてきた人たちの顏を思い浮かべる。何人かは、服装しか思い出せない。何人かは、服装すら思い出せない。皆、もっと生きたかっただろう。まさか自分が死ぬとは思わなかっただろう。生きていたってどうせ碌な人生ではなかった癖に、殺されると分かると途端に惜しくなる...■鉄の匂い228■
湯船の縁に脚を取られて湯船に倒れ込む園子。「みっつめは、みっつめは、これが一番の望みで、これだけは叶えて欲しかった。神さまに、叶えて欲しかったみっつめの私のお願いは…」園子の目は潤んでいたが口元には笑みが浮かんでいた。「私の最後の時に、貴方に、言葉で、伝えたいことが…」雨水が溜まった湯船の水面に顏が迫る。「ありが…とう」言い残して園子は力を抜いた。ぷくぷくと鼻から泡を出して沈んでいく。落ち葉や虫の死骸が浮かぶ濁った水に、目を見開いた園子が沈んでいった。一度、苦しがって水から顔を出そうと藻掻いたが、その手は『僕』の頬を撫でて水面に落ちた。最後に苺ほどの泡を口から洩らして、園子は目を開いたまま絶命した。気が付いたら夜が明けていた。『僕』は一晩中、園子を沈めていたのだった。腕が強張って伸びたままになり、肘も手首も曲が...■鉄の匂い227■
いや。それは嘘だった。『僕』は最初から園子を玩具として手に入れようとしていた。使い込み過ぎて壊れたミッシャーという玩具の代わりに。途中、自分の都合で園子を人として見た期間もあったが、人として見た期間があるということ自体が、園子を人としてではなく手に入れたという証左だ。。沢から汲んだ水と残り少ない洗剤で、それでも丁寧に洗った洗濯ものを、きちんと角を合わせて畳む園子。その後ろから首を絞めようと息を潜め近付く『僕』園子は振り向かず、洗濯ものを畳み続けながら言った。「邪魔ですか?」一瞬、誰が喋ったのか分からなかった。この重要な一言を家事を続けながら言えるとは思えなかったから。「私は邪魔だから殺しますか?」もう疑う余地はない。声の主は園子だ。「いいですよ殺しても」園子が振り返った。「私は、貴方に拾われて幸せな生活を知りま...■鉄の匂い226■
「みっつめは、みっつめは、これが一番の望みで、これだけは叶えて欲しかった。>■鉄の匂い227■
どんなにしらばくれてもどす黒い殺意は隠せない。男の劣情に敏感な園子は『僕』の卑しい計画に勘付いた。こうなったら作業は急いだ方がいい。逃げられでもしたら面倒だから。しかし園子は『僕』の傍を離れなかった。空腹でふらふらしながらも、洗濯や掃除などの家事を続けた。部屋が汚いとか服が汚れているとかなんて、食べる物がない生活ではどうでもいいことなのに。努めて園子は日常の継続を頑張った。そうすることで『僕』が園子を便利に思い、殺すのを先送るとでも思ったのだろうか。あるいは変わらぬ生活の継続で『僕』を油断させ、逃げる機会を伺っているのだろうか。腹持ちがよく火を使わずに食べられて値段の安い食材を選んで貯め込んではいたが、それもとうとう尽きてしまった。2度ほど、山を下りてコンビニで万引きをした。もう何人も殺してきて、今なお一緒に逃...■鉄の匂い225■
節約に節約を重ねたが一月ほど経つと遂に金は底をついた。もうパンを買う金もない。沢の水を飲んで空腹を紛らわしたが、それも限界が近い。働くか盗むかしないと生き長らえることはもう出来ない。働くには園子を此処に置いて行かなければならない。まさかこの電気も無い廃屋で内職って訳にはいかないから。かと言って身元を明かせず住所も不定な『僕』にまともな仕事などある訳がない。不法の日雇いなら潜り込めるかもしれないが、敵が警察だけではない『僕』が選べる候補ではない。ナンバーか有賀さんか、その手の者に『僕』が拉致されれば園子は此処で餓死してしまう。『僕』は園子が邪魔になってきた。連れて逃げるにもこの廃屋に潜むにも、女で子供で体力のない園子は足手まといだ。追い出すか放置するかすれば追手に見つかるかもしれないし、見つかれば『僕』の情報を漏...■鉄の匂い224■
朝の買い物を園子ひとりに行かせる。夕方の風呂も帰りのコンビニも。昼間も昼寝をしてる振りや散歩に出かけた振りをして園子を廃屋にひとりにする。その間、後を付けたり様子を伺ったりして動向を確認する。しかし計画は初日の朝から頓挫した。園子はひとりでの買い物を異常に拒んだからだ。買い物が出来ないことで食事が抜きになっても口をへの字にして耐えた。銭湯もひとりでは行かず、沢で絞った手ぬぐいで肌を拭いて我慢した。園子はひとりになりたがらなかった。『僕』が園子から離れようとすると同じ距離だけ近づいて離れまいと頑張った。不安とストレスから『僕』は園子を乱暴に扱ったが、園子は一切抵抗をしなかった。前戯なくいきなりの挿入にも園子は受け容れようと努力した。一時は物としてではなく人として愛そうと思った『僕』だが、それも余裕がある時の戯言で...■鉄の匂い223■
焼いただけのパンとゴムみたいなハム、掻き回した卵に萎びたレタスを食ってから24時間が過ぎていた。腹が減ったので、山を下りコンビニで握り飯やサンドウィッチ、缶ジュースに缶コーヒーを買い込んだ。戻ると、園子が棕櫚の葉で掃き掃除を、沢で濯いだタオルで雑巾がけをして食事が出来る環境を整えていた。黙って廃屋を空けた『僕』を、園子は噛みつかんばかりの勢いで出迎えた。電気が点かないダイニングテーブルで、園子と握り飯を食べサンドウィッチを食べジュースを飲んでコーヒーを飲む。この事があってから園子は『僕』から目を離さなくなった。この山には、一月ほど潜伏したと思う。夜は真っ暗になってしまうので、日が昇るまでは何も出来ない。不用意に火を灯せば、麓から気付かれてしまうかもしれないので。朝日が灌木を縫って真横から照らす道を下り、近くのコ...■鉄の匂い222■
座ったままで碌に寝れなかった疲労と、追手への警戒と宛の無い行軍による心労。園子の正直な身体が空腹に悲鳴をあげた。もういい加減に何かしら口に糊しないと前進は叶わない。店員が1人しか居ないファミレスに入った。これから上がる外気に備えてなのか、店内は掻いた汗が毛穴を収縮させる程に寒かった。モーニングを2人分頼み、付いてくるドリンクバーで温かいミルクを汲んで園子に飲ませる。園子は一言も喋らなかった。話し掛けても頷くか首を横に振るだけ。青ざめた唇に温(ぬく)まったマグカップを当てて暖を取っていた。パンとハムと卵に葉っぱが付いただけの簡素なモーニング。1時間ほど休み回復した処で、日が昇った田舎道を進む。フル稼働のクーラーに引いた汗がまたぞろ噴き出す。こんな田舎の畦道に不似合いどころか目立つヒールの園子。避けたい人目を惹きつ...■鉄の匂い221■
ロータリーの正面から斜めに登っていく先に、テの字の電気が切れたラブホテルのネオンサインが見えた。脱走が発覚していれば、ホテルはすぐに手配される。万が一の密告を考え諦めた。ナンバーがどれくらいの規模で『僕』を追うのかは分からないが、マンションでは同業者の連携が密だったしヤクザや警察とも繋がっていることを考えれば、安易に宿泊するのは危険だ。駅に戻り電車を乗り継ぎ、線路が単線になり駅が無人改札になっても先を急いだ。人気(ひとけ)の無い暗い駅をいくつか過ぎると、電車は進行方向が真っ暗な終点に着いた。泥酔して足元が覚束ないサラリーマンがひとり、ヘッドスライディングで降りる。乗り過ごしたのは明らかだ。アルコールに浸された脳みそをフル回転させて現状を把握しようとゾンビの様に歩き回っている。駅周辺見渡す限り、だらしなくへたり込...■鉄の匂い220■
既に予言されていた惨事が現実に起こり、当然の報いで追い込まれた『僕』に天からの奇跡が。屠られようとしていた食用動物が牧畜家の気紛れでペットになるくらいの霊異だ。まず、ミッシャーが生きていたことに驚いた。生きて、暮らせる程に回復していたことに驚いた。チャイナの下ではあったが仕事をしていたことに驚いた。ミッシャーは、身体を壊し性的サービスを供給できなくなったのでチャイナに売った女だ。身体を壊す程の性的サービスを強要したのは『僕』だし、チャイナに売ったのも『僕』だ。非情なチャイナはミッシャーを奴隷として扱っただろう。別れる時はボロボロだったミッシャーが元気でいる姿は想像もしていなかった。しかし現実に、ミッシャーは肌の色艶も良く目にも力があり監視という重責をも担っている。しかも恨みこそすれ恩返しする謂れのない『僕』を助...■鉄の匂い219■
気が付くと『僕』はカップ麺の前に正座していた。カップ麺はメーカー推奨の待ち時間を大幅に超過し、蓋を持ち上げる勢いで伸びていた。侍税理士は、税務の観察眼でここが近々ガサ入れを食らうことを予想していた。立場上言えないその貴重な情報を閉鎖と濁して『僕』に教えてくれていた。なのに『僕』は、真意を汲み取れず聞き流してしまった。閉鎖された場合の転職先にしか考えが及ばなかった。なぜ閉鎖の憂き目に遭うのかその原因を推察していれば。どうしてガサ入れ情報を閉鎖と濁したのか探求していれば。今のこの苦境はなかった。何時までもこの生活が続く筈はないのに、自分の将来を真剣に考えなかった『僕』は、窮地に追い込まれてから不十分な準備に気付き泡食った。何時解雇されてもそれまでを楽しめば良いと思っていた『僕』が流される先は応報な結末だった。向上す...■鉄の匂い218■
ナンバーが来るのは今週末だという連絡が『僕』を監視するチャイナの手下のボスであるチャイナに届いた。部屋の清掃や行政への対応などの面倒が一切片付いてからの来訪だ。自分に被害が及ばない高みからの降臨。高収入が見込めなくなったこの脱法滞在者住宅は、暫くは普通のマンションとして賃貸。曰く付き物件としての悪評が風化した頃を見計らって売却。また似たような物件を購入して似たような悪行を再開するのだ。その過程で絶対に欠かせない、違法賃貸住宅だったという事実を抹消する重大作業。決して表には出ないがマンションを安く買い叩かれない為の印象操作に不可欠な穢多の仕事。関わった人員ごと抹殺したい黒歴史だ。この後始末に扱き使えるだけ使われて『僕』は処分されるのだ。賃貸マンションとして稼業してしまえば後は手間暇掛からない。その後始末も、明後日...■鉄の匂い216■
ハモン・デ・イベリコ・ベジョータというのが美味しいらしい。ドングリだけを食べさせたイベリコ半島の黒豚でつくられた生ハムで、牛肉と見紛う程に濃赤色の肉に繊細なサシが特徴。じゃあ牛肉でいいじゃんってツッコミはなしで。濃い赤というのが猪を想起させる。配合飼料ではなく自然界の餌を食わせることで本来の野生の滋味を引き出すのだろうか。普通にスーパーで売ってる生ハムでさえあんなに美味しいんだから、5年も乾燥熟成させた生ハムが美味しくない訳がないよな。フォン・エッセン・プラチナ・クラブ・サンドイッチってのも中々らしい。英国バークシャー州にある英最高峰の高級ホテル、フォン・エッセン・ホテルズで販売されているサンドウィッチ。先に紹介したイベリコハムが挟まれているサンドイッチだ。牛肉に見紛うハムが挟んであるのに和牛の肉も参戦。これで...■鉄の匂い217■
警察や近隣の目を気にしながらの撤退。しかも逮捕や逃走で人手は足りない。飯食う暇や休む間も惜しんで動き回った。その間、ナンバーは一度も顔を出さなかった。又貸しの又貸しで、知らない間に不法就労者の巣窟にされていましたという体のナンバー。『僕』と接点を持つ訳には行かない。だから連絡が無いのは当たり前なのだが、別に不穏な噂も流れてきた。今回の逮捕劇は、家賃を払えず退去を強いられた外国人の密告に因るものらしい。強制退去者のその後の監視は宿管理者の仕事のひとつで、宿の管理は『僕』の仕事。とすれば責任の帰着は『僕』。つまりこの一件での損害は全て『僕』に請求される。耳を疑った。が、同時に納得もした。『僕』は、集金業務としては破格の手間賃を貰ってきた。それは、何かあった時に首謀者として矢面に立ち、損害が出た時には収益を補償しなけ...■鉄の匂い215■
取り決めておいた緊急時の手筈に追われる『僕』に、園子の安否を確認する暇(いとま)はなかった。損害を最小限に食い止める為には、園子を優先する訳にはいかないからだ。まだ薄暗い中、繁華街から少し外れた古いマンションは、静寂に包まれた騒動で混乱していた。建物の周りや共用廊下や近隣のビルの屋上には沢山の警察関係者が配備され、各個室のベランダや抜け道には不法就労外人や家出未成年が犇めいている。しかし対外的には、大声を出す者も足音を立てる者も居ない静かで穏やかな朝。20分程すると包囲が完成したらしく、各階の各個室のインターホンが時を揃えて鳴らされた。3階より上は、素直に開錠し令状を確認することなく捜索を受け入れた。2階だけが開錠を拒み、合鍵とケーブルカッターで抉じ開けられて踏み込まれる。7階に居る『僕』にも聞こえる2階の怒号...■鉄の匂い214■
しかし世の中は思う様にはいかないもので、願うとそれは遠のき、終焉を告げる鐘が乱打される。片目を瞑って夢を見る様なこの生活が、長く続くはずがなかった。弱い者からの搾取で成り立っていた贅沢な暮らし。虐げられた者は逃走するし、逃げ果せた者は復讐する。警察からも反社会勢力からも、目を付けられたら一溜まりもない脆弱な違法賃貸商売。どちらにもそれなりの謝礼はしていたが、密告されれば動かざるを得ないのが警察。朝の6時。見張りから、外に1時間ほど動かない人間が居るとの報告が入る。万が一に備えて、このマンションの要所にはこのマンションを見張れそうな場所を見張る見張りを配置している。その中の1人が、角の先に停まった車の中の人影が、この明け方に出入りはするのものの車は動かずそのままなのを確認した。飛び起きて屋上に走る。途中、ナンバー...■鉄の匂い213■
そう考えるとやっぱり自首はできないという結論に辿り着く。これまでの犯罪を全て懺悔すれば少年院は免れない。その間の園子の面倒は誰が見るのか。園子は以前の生活に戻るだろう。他に生活の術を知らないから。『僕』以外の男を頼り、『僕』ではない男に抱かれるだろう。『僕』の命令に従順だった様に、その男にも帰順するだろう。その男をこの世の全てとして身も心も捧げ尽くすだろう。結果、『僕』は園子を失うだろう。これまで犯してきた犯罪を考えれば致し方ないことであり、被害者からすれば許せない甘い我儘。それでも『僕』は園子を失いたくなかった。他の男に渡したくなかった。他の男はきっと園子を手荒く扱うに違いない。恭順な園子を商売道具にして弄ぶに違いない。なら今『僕』が自白しても更に園子という被害者を増やすだけだ。これまでのことはどうやったって...■鉄の匂い212■
橋元くんのお母さんは、どんなに時間に追われていても走ってくる我が子を笑顔で待ち受け抱きしめた。前にも書いたが、橋元くんの家は決して裕福ではない。生活水準は最下層で貧乏は極め付けだ。だから橋元くんは親も子も清潔ではなく、特に親は油塗れで仕事をしているので不潔そのものだった。清潔でない橋元くんを不潔な母親が抱きしめる。継ぎ接ぎだらけで黒光りした袖のセーターを着た橋元くんと、油染みだらけのエプロンを着けた母親が抱きあうのだ。決して愉快な光景ではない。憐れで惨めで悲惨で不快だ。好き好んで見る様な場面ではない。でも『僕』は、この情景を見れるチャンスを一回たりとも逃したくなかった。毎回のお馴染みの景色なのに、『僕』は、全てを余さず網膜に焼き付けたかった。園子のことまで書き進めてきて、『僕』は今思い出した。『僕』は、あの一齣...■鉄の匂い211■
だが、園子の気持ちは杳として知れなかった。園子は、いつも『僕』を見ていた。『僕』が望むことをしようと、いつも『僕』を注視していた。疲れ果てた『僕』を優しく抱き寄せてくれて、お腹が空いた『僕』に温かい食事を用意してくれて、服はTシャツまできちんとアイロン掛けがされていて、掃除も常に行き届いていた。園子は『僕』に喜ばれることを喜んだ。浚渫作業所の親方が言っていた言葉を思い出す。「他人に喜ばれることをしたがると言うのは、喜ぶ他人の為にしてるんじゃない。悦ばせたい自分の為にしてるだけなのさ」当時は解ったつもりで聴いていたが、今改めて回想すると不安が募る。園子は『僕』を喜ばせることに喜びを感じていると思っていたが、それは園子の自己満足であって、『僕』はその爪牙に過ぎないのか。園子が『僕』を喜ばせたがるのは、救い出して貰っ...■鉄の匂い210■
朝。10時に7階から順に下がって2階までの家賃を集金し、12時丁度に3階に来るナンバーに明細を報告して金を渡す。なにか問題があれば解決するまで尽力するが、基本1時にはもう自由になる毎日だった。園子に起こされ、園子の用意する朝ご飯を食べ、園子の見送りで仕事に出る。1時に終われば園子の昼ご飯を食べに戻り、その後は買い物があれば園子を連れて商店街に行き、なければ街に出て園子と遊んで晩御飯を食べる。トラブルがあれば帰りは何時になるか分からない『僕』を、園子は家の中で出来る限りの家事を済ませ、買い物には行かず、ただひたすら『僕』の帰りを玄関で待つ。家賃を払えないのに集金時だけ隠れて住み続けようとする奴や、又貸しの又貸しで誰が賃借人なのか分からなくする族もいて、面倒は決して少なくなかった。住人同士の暴力沙汰や強姦事件は深夜...■鉄の匂い209■
着てきた服は園子の趣味ではなくまた似合ってもいなかった。モヤシがバッタ屋から調達してきた時代遅れの安い生地の服。今まで気付かなかったが原宿では流石に目立って浮いていた。とりあえずスェットの上下を買って着替えさせ、園子の世代の女の子が出入りする店を見つけて入る。ヤサではバッタもんの韓国服、美人局では安売り量販店のコスプレ服、施設では寄付されたボロを着ていた園子は、自分で自分の服を選ぶのは初めてだった。店員にあれこれ勧められて試着室を往復する。最初は恥ずかしがって宛がわれるが儘を試着していたが、すぐに店員と仲良くなって一緒に選びはじめ、その笑顔は渋谷のゲーセンで見た園子とは別人だった。なかなか欲しい服が決まらない園子にどれが欲しいのか尋ねると、買ってもらえると思っていなかった園子は飛び上がって喜んだ。店を出ても、大...■鉄の匂い208■
命令には絶対逆らわない園子とのコミュニケーションを築く為に、『僕』は極力選択肢のある質問調で話しかけることにした。選ばせれば園子は意思を発するし、冗談には普通に呼応して笑った。翌日、集金業務を済ませて午後1時。園子を連れて原宿に出る。園子が望んだクレープ屋に並び、これでもかと絞られたホイップクリームにシロップ浸けの果物を巻き込んだクレープを買う。『僕』は、付き合ってソーセージと目玉焼きを巻き込んだクレープを買った。甘い物は嫌いではないが、並んでる間にホイップクリームの匂いにやられて胸やけしてしまったので。人がごった返す店の前から離れ、神社の境内でクレープを食べる。これまで余り感情を表に出さなかった園子の瞳が輝く。一口食べるごとに小さく身震いする園子に、クレープを食べるのがそんなに嬉しいのか尋ねると、これまでの沈...■鉄の匂い207■
カレシ役のチンピラの言うが儘に美人局の一翼を担い、タイミングによっては見知らぬ男と性行為に及ばなければならない辛い役回りをさせられていた園子。ヤサに戻ればカレシ役の性の捌け口として好き放題に射精され、家政婦の様に炊事洗濯をさせられる毎日。詐欺行為で得られた金はカレシ役とモヤシで折半。園子は現金を持たされていなかった。なのに逃げない園子。以上のことから『僕』は思った。園子が飼い慣らせる女だと。もともとは違法木賃宿の集客が目的だったのが、園子の容姿仕草に目を奪われ目的は園子の強奪に。園子を『僕』の物にするには前の持ち主の承諾が要る。半グレの分際で美人局を噛ます前の持ち主たるモヤシとカレシ役が、金の卵を産み続ける園子を手放す訳がない。『僕』だったら、園子に客を取らせたりしないし『僕』以外の男の相手をさせたりはしない。...■鉄の匂い206■
部屋に戻る。裸を隠すでもなく園子がベッドに座っていた。下着を着けさせ、身の回りの物を掻き集め鞄に詰めさせる。予想していた通り、園子は動じなかった。大人しく『僕』に従い、手際よく遁逃の準備に応じた。玄関の扉をそっと開け、近隣の入居者の動向を伺う。上がって来る時にも確認したが、変わらず静まり返って生活の気配のない廊下と階段。下調べした時にも、住人と遭遇することは一度もなかった。下の階もその下の一階も、殆どの個室の電気メーターは止まっていてドアノブにも埃が積もっていた。どの窓も、煤けたガラス越しに見えるのは黄ばんで風化した紙のカーテン。このマンションは3階に園子が住んでいる以外は略(ほぼ)空室だった。心置くことはない。チンピラ宅前に、部屋に散乱していた古新聞や古雑誌を積み上げ、台所の小窓からサラダ油やオリーブオイル、...■鉄の匂い205■
深夜の山手線は酔客でごった返していた。酒と香水と整髪料の匂いで咽(むせ)かえる車内。浮かれた若者がアベックに絡んでいる。床に胡坐を掻いて座る不潔な身なりの女子高生。だらしなく口を開けた会社員風の男がミニスカートの女の脚を食い入るように見つめている。池袋で降りて、埼京線に乗り換えた。暗い荒川を渡った最初の駅で降り、寂れた商店街を歩く。駅前はビルが立ち並ぶが、ロータリーを出れば街灯すら完備されていない田舎町だ。やたらとクリーニング屋と散髪屋が多いのは、競艇が近いからだろう。ギャンブルで身を滅ぼした犯罪者が掘の中で身に付ける技術が洗濯と散髪だと、前に親方が言っていた。きちんと閉め切らないシャッターの隙間から明かりが漏れるだらしない店並みを過ぎると、目的地であるチンピラの宿(やさ)が見えた。雑草茂る砂利敷きの駐車場越し...■鉄の匂い204■
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